GINAと共に

第52回 自分の娘を売るということ(2010年10月)

寝転んだ母親(23)の上で裸のまま卑わいなポーズを取らされ、無邪気に笑顔を浮かべる2歳の少女の姿。左手でデジタルカメラを操る母親の右手は我が子の小さな足を広げ、画像の端にわずかに映る母親の口元は表情を示さず、一文字に結ばれたままだった。

 これは2010年10月5日の日経新聞夕刊に掲載された、「児童ポルノを断つ」という特集記事に掲載された一部です。

 母親が自分の娘を売り飛ばすという話は、タイでエイズ問題を語るときには避けては通れない話題です。以前、このサイトで紹介した映画『闇の子供たち』では、冒頭で、幼い娘を斡旋する女衒(ピンプ)が、タイ北部の貧困な家庭を訪れて、娘が売られていくシーンがありました。これは映画ですが、タイではこのような話は(最近は以前に比べると少なくなりましたが)珍しくはありません。

 タイの文化、というか風習は、日本人を含む外国からは理解しにくいことがいろいろとあります。子供のことで言えば、小学校に行かずに農作業などの仕事を強いられている子供が少なくないこと、真夜中に街中を裸足で駆けずり回り外国人に花を売っている幼い子供がいること、腕や足のない子供が歩道に座って金銭を乞うていること、などが相当するでしょう。

 これらは、倫理的に小さくない問題がありますが、それを見たひとりの外国人が「これはおかしい」と思ったところでどうにもできませんし、理不尽だとは思いながらも「郷に入っては郷に従え」という言葉を思い出し、異国の地で非現実的な正義感を振りかざすことを諦めます。

 しかし、いくら、よその国にはよその国なりの価値観や考え方があると言われ、「郷に入っては・・・」の意味を考えたとしても、「自分の娘を売り飛ばす」という行為については、なかなか受け入れることができないのが大半の人の感覚ではないでしょうか。

 実際、私もかつてはそう感じていました。「自分の命を差し出してでも子供を守るのが大人の使命ではないのか・・・」、おそらく日本人の大半はそのように思うのではないでしょうか。けれども、タイの一部の地域がいかに貧困にあえいでいるかを知るようになり、私のこの考えは少しずつ変わっていきました。タイでは、母親に売られた娘が春を鬻いで稼いだお金で両親を養い、成人し娘が生まれるとその娘も・・・、と「娘の商品化」が世代を超えて引き継がれていくことすら珍しくありません。本当の貧困のなかに身をおけば、「自分の命を差し出してでも子供を守る・・・」などというのはキレイごとにすぎないのです。少し考えれば、親が命を絶てばそのうち子供も飢え死にするのが自明であることが分かります。

 けれども、<もしも親がそれほど貧困でないなら>話はまったく変わってきます。そして、大変残念なことに、こういったことが最近のタイではあるのです。

 例えば、北タイのある県のある地域は、土壌が貧弱な赤土に覆われており、農作物がろくに育たず、住民は大変貧しい生活を強いられているのですが、ときどき"場違いな"豪邸が建っています。この地域を横断する広い道を車で進めば、ポツリ、ポツリ、とこのような豪邸を目にします。この地域をよく知る者が言うには、そのような豪邸に住む者のほとんどは娘を売ったお金で贅沢をしている、とのことです。なかには、(男ではなく)女の子が生まれたことで将来は安泰、と考える者すらいるそうです。

 もうひとつ、例をあげましょう。これは、タイのあるエイズ施設で働いていたボランティアから聞いた話です。そのボランティアはその施設でHIV陽性のある女性のケアを数年にわたりおこなってきました。何かと"問題"のある女性だったそうですが、ここ1年くらいは社会に適応できるようになり、体調もよくなってきたため、その施設には居住ではなく通所というかたちにして、普段は一人娘とふたりで住むようになったそうです。

 ところがその矢先、そのHIV陽性の女性は、大切なはずの一人娘を女衒に売ってしまったというのです。しかも3千バーツ(約9千円)で、です。値段の問題ではありませんが、自分の娘を3千バーツで売り飛ばした、という事実がそのボランティアを大きく落胆させました。このHIV陽性の女性が貧しかったのは事実ですが、これまでもそのエイズ施設を含めて周囲からケアしてもらっていたのですから、娘を売る前に頼るべきところがあったはずです。

 <もしも親がそれほど貧困でないなら>という仮定を厳密に定義するのはむつかしいとは思います。しかし、娘を売るなどというのは、貧困が極まり、もう誰にもどこにも頼れない、といった段階にならなければ考えてはいけないことであるはずです。

 冒頭で紹介した23歳の母親は日本人です。デジタルカメラを所有しているくらいですから、その日に食べる物がないほどには生活には困っていないはずです。私は、自分の娘を売るという行為が現代の日本で起こっている、などとは考えてみたことがありませんでした。それだけにこの新聞記事を見たときには愕然としました。

 たしかに、日本でも「虐待」というものは珍しくありません。最近では身体的虐待だけでなくネグレクト(子供に食事を与えないなど)によって子供の成長障害やひどい場合は死亡したという事件もありますし、また、性的虐待に関しては、表に出てこないだけで、世間で思われているよりもずっと多いということが医師をしているとよく分かります。

 しかしながら、他国に比べ大人から子供への性的虐待が多いことは認識していても、自分の娘を売り飛ばす親がこの日本にいる、ということが私には信じられなかったのです。

 この日本人の母親は娘の裸を他人に見せただけで<売り飛ばす>とまでは言えないのでは?、という意見もあるかもしれませんが、この記事の後半には、次のような文章もあります。

わいせつな画像を自ら撮影して売ったり、愛好者の男に引き合わせて淫行(いんこう)までさせたり。一連の捜査は1都2府8県に及び、愛好者の男3人と誘い役の女に加え、20~30代の実の母親9人と姉1人を摘発するに至った。被害者の中には、わずか1歳の子もいた。

 それほど切羽詰った状況でもないのに、自分勝手な欲望のために自分の娘を売り飛ばすタイ人と、この新聞記事で報道されている自分の娘を"商品"とした日本人の、どこに違いがあるのでしょうか。私に言わせれば<同じ穴のムジナ>です。 

 さて、ここからが問題です。自分の娘を"商品"とする親とその"商品"を買う輩は誰からみても非難の対象となります。しかし、単なる「非難」だけでは再発を防げません。今回取り上げているタイの話も日本の話も、単なる売春の話ではありません。売春自体にも問題はありますが、対象が子供であることが一番の問題なのです。

 以前もこのサイトで述べたことがありますが、幼児愛(pedophilia)は絶対に許されるものではありません。幼児愛者(pedophiliac)に対しては、衝動を抑えられないなら社会から"隔離"されるしかないと私は考えています。

 "商品"の取引は、需要と供給があるから成立します。まずは「需要」を徹底的に社会から抹消すべきでしょう。要するに、幼児愛に対する罪を可能な限り重くするのです。

 「供給」側に対してはどうすべきでしょうか。必ずしも適切な方法ではないかもしれませんが、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらう」、という方法がいいのではないかと私は考えています。

 つまり、「自分の子供を売る以外に、子供も自分たちも死から逃れる方法はなかった。子供が大人に弄ばれたとしてもご飯は食べさせてもらえるだろう。しかしこのままでは子供が飢え死にするのも時間の問題だ・・・」、と考えるしかなかった人が、(少なくなったとはいえ)まだタイを含む諸外国には存在し、さらにもっと言えば、かつての日本にもそのような事情があったということを多くの人に理解してもらう必要があるのではないか、と私は感じています。

参考:GINAと共に第27回 「幼児買春と臓器移植」 (2008年9月)

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第51回 HIV感染を隠した性交渉はどれだけの罪に問われるべきか(2010年9月)

 2009年4月某日、ドイツの人気女性ユニット「ノー・エンジェルス」(No Angels)のメンバーのひとりであるナジャ・ベナイサ(Nadja Benaissa)が、フランクフルトの自宅アパートで逮捕されました。その数日後には彼女のソロコンサートが開催される予定でしたが、逮捕後10日間拘留されることとなり、コンサートは急きょ中止となりました。

 1年5ヵ月後の2010年8月26日、ドイツ西部にあるダルムシュタット(Darmstadt)の裁判所で、ナジャ・ベナイサは有罪判決を言い渡されました。有罪となった理由は、「自らがHIV陽性であることを隠して性交渉をおこない、当時交際していた現在34歳の男性にHIVを感染させた」、というものです。ナジャ・ベナイサは法廷で、「心から反省し、後悔している」と証言したそうです。判決は、2年の禁固刑ですが、2年間の執行猶予が付けられました。

 さて、このサイトでは、過去に何度か「HIV陽性であることを隠して性交渉をおこなった事例」を紹介していますが(下記GINAニュース参照)、有名人が当事者となり、逮捕され有罪判決がでた、というのは(私の知る限り)世界で初めてではないかと思われます。(もっとも、この事件をニュースで知るまでは、ナジャ・ベナイサという名前もノー・エンジェルスというグループ名も私は聞いたことがありませんでしたが・・・)

 ノー・エンジェルスは、2000年にドイツのテレビ番組で人気となり、これまでに多くのヒット曲を生み出しているそうです。ナジャ・ベナイサ以外にも、何人かはソロで活動しているそうですから、「国民的人気の女性ユニット」と言えるでしょう。

 報道によりますと、ナジャ・ベナイサの人生は苦難に満ちていたようです。14歳でドラッグに溺れ、17歳で妊娠が発覚します。そして、妊娠時の検査でHIV陽性が判明したそうです。

 ナジャ・ベナイサは現在28歳と報道されていますから、ノー・エンジェルスが結成された2000年には18歳ということになります。またたくまに国民的人気スターになってしまった彼女は、HIV陽性であることをカムアウトできなかったのでしょう。

 ナジャ・ベナイサを取材したマスコミは、彼女は自らを"cowardly act"と話している、と伝えています。"cowardly act"とは、つまり、「本当はいつかカムアウトすべきということは分かっていたのだけれど、勇気のなさがそれを妨げていた」、ということであろうと思われます。

 ノー・エンジェルスが人気絶頂の2004年、ナジャ・ベナイサは当時28歳の男性と恋に落ちます。報道では、"talent agent"とされていますから芸能関係の仕事についている人でしょうか。そして、その男性にも自らがHIVに感染していることを告げることができず、危険な性交渉(unprotected sex)をおこない、そして、HIVを感染させてしまいます。

 一般に、性交渉でHIVを感染させたことを証明するのは簡単ではありません。なぜなら、原告(この場合は当時28歳の男性)が「自分が性交渉をもったのは被告(ナジャ・ベナイサ)だけです」と言ったところで、それを証明することが困難だからです。

 しかし今回は、HIVのウイルス株が原告のものと被告のものが同じものであり、なおかつ、この株はドイツでは比較的珍しいものであることがわかり、さらに様々な状況証拠からナジャ・ベナイサがこの男性に感染させたことは間違いないと判断されたようです。("株"という表現は少しむつかしいかもしれません。一言でHIVと言っても、遺伝子型に微妙な違いがあり、その遺伝子の違いで分けたグループを"株"と呼ぶ、と考えればいいかと思います)

 ナジャ・ベナイサからHIVに感染したこの男性は、彼女がHIVに感染していることを直接本人から聞いたのではなく、彼女のおばさん(aunt)から聞いたと報じられています。

 また、ナジャ・ベナイサは、これまでにHIVを感染させたこの男性以外にも2人の男性と性交渉を持っているそうなのですが、その2人はいずれも陰性、つまりHIVに感染していなかったそうです。

 ナジャ・ベナイサに対する判決は、「禁固刑2年、執行猶予2年」というものです。もう少し細かく言うと、合計300時間の地域社会への奉仕活動、及び定期的なカウンセリングが義務付けられています。この判決を重いとみなすべきか、軽いとみなすべきかについては意見の別れるところです。

 欧米の報道をみていると、世論はこの判決を軽いとみなしているような印象を受けます。実際、BBCニュースは判決にかかわった裁判官の意見を報道しており、その裁判官は、「軽い判決と言えるかもしれないが、被告は強い自責の念を感じている」、とコメントしています。また、ナジャ・ベナイサの弁護士も、この判決に対して「満足している」との意志表示をしています。

 一方で、エイズ予防をおこなっているいくつかの団体は、今回の判決を重いと考えています。例えば、「Deutsche AIDS-Hilfe」という社会団体は、「感染者のみに罪を負わせる判決である」と今回の判決を非難しています。この団体が言いたいのは、「HIVが性交渉で感染したのは、感染させた方にも責任はあるけれど、感染させられた方にもある程度の責任はあるはず。感染させた方と感染させられた方の共同責任と考えるべき」、ということです。

 この問題は非常にむつかしく、HIV感染を隠して性交渉をした場合、感染させられた方にも責任がでてくるとすれば、性交渉の度に相手を必要以上に疑わなければならないことになってしまいます。その逆に、感染させた方の罪を重くすればするほど、HIV陽性であること自体が罪であるかのような印象を世間に与えることになり、ますますカムアウトできない社会となってしまうことが考えられます。HIV陽性者がHIV陽性であることを隠すことにより、結果としてはかえってHIVを社会に蔓延させてしまうことになるかもしれません。

 今回の事件で、私がナジャ・ベナイサに同情したくなることが1つあります。それは、彼女は、医者から、「他人にうつす可能性はほとんどない(practically zero)」、と言われていたということです。報道からは彼女の血液検査の値を知ることはできませんが、おそらく医師がこのように伝えたのは、彼女の免疫力が充分に保たれており、ウイルス量も少なく、容易に感染させるような状態ではなかったからでしょう。

 ナジャ・ベナイサとしては医師からそのように言われているのだから、多少は安心していたに違いありません。彼女は、当時の交際相手を心から愛しており(直接本人に聞いたわけではありませんが・・・)、HIV陽性であることをカムアウトしたとき自分だけでなくノー・エンジェルスに壊滅的な打撃を与えかねないという状況のなかで、医師から、「感染させる可能性はほとんどない」と言われていれば、素敵なムードから性交渉にごく自然に流れるその雰囲気の中で(私が見たわけではありませんが・・・)、「ちょっと待って! あなたに言わなければならないことがあるの!」、とそのロマンティックな空気を止めることができるでしょうか。

 日本では、「HIVを他人に感染させて傷害罪」という事件が立件されたという話を聞いたことがありませんが、イギリスやオーストラリアでは、この手のニュースがときどき報道されています。

 有名人が有罪判決を受けたこの事件をきっかけに、日本人の我々も、「HIV感染を隠して性交渉をおこなえばどれだけの罪が問われるべきか」を考え、さらに「なぜこの社会ではHIV感染を隠さなければならないのか」ということに思いを巡らせてほしいと思います。

注:この事件は世界中の各メディアで報道されましたが(なぜか日本では報道をほとんど見かけませんでしたが・・・)、下記のBBCニュース(タイトルは、「Suspended sentence for German HIV singer Nadja Benaissa」が一番分かりやすいと思います。ナジャ・ベナイサが登場する報道のビデオを閲覧することもできます。

http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-11097298

参考:GINAニュース
2007年6月25日「HIV陽性であることを告知せずに逮捕」
2006年10月29日「オーストラリア男性が女性観光客にHIVを感染」
2006年6月23日「恋人にHIVをうつした女性が禁固刑に」
2006年10月16日「オーストラリアのゲイ、5人にHIVを故意に感染」

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第50回 HIVが女性に感染しやすい2つの理由(2010年8月)

 日本のHIV陽性者は、性別でみると圧倒的に男性に多いのが特徴です。

 1985~2008年の累積報告数(凝固因子製剤による感染例を除く)は、HIV感染者(判明時にまだエイズを発症していないHIV陽性者)が10,552人(男8,590人、女1,962人)、エイズ患者(判明時にすでにエイズを発症していたHIV陽性者)は4,899人(男4,307人、女592人)となります。これらを合わせると、HIV陽性者全体で15,451人、男性が12,897人、女性が2,554人となりますから、感染者の83%が男性ということになります。

 日本のHIV感染の特徴のひとつは、性交渉を介した感染が圧倒的に多く、静脈注射(針の使いまわし)や母子感染は他国に比べると少ないということです。要するに、HIVは日本では「性感染症のひとつ」として捉えられることが多いのです。

 HIV感染の8割以上が男性、という数字だけをみると、一見HIVは男性に感染しやすいのでは、と錯覚してしまいます。しかし、ことはそう単純ではありません。男性の感染者が圧倒的に多いのは、同性間の性交渉での感染が多いからであって、女性が感染しにくい、というわけでは決してありません。

 今回お話したいのは、「HIVは数字だけをみていると圧倒的に男性の病気のように思われるけれども、実は女性の方が感染しやすいんですよ」、ということです。(便宜上、ここから「男性」は、ストレートの男性(異性愛者)に限り、男性と性交渉をもつ男性は含まないこととします)

女性の方が感染しやすい理由は主に2つあります。

 1つは、男性と女性を解剖学的に比べた場合、圧倒的に女性器の方が感染の危険に晒されやすい、という理由です。これは少し想像してみれば簡単に理解できると思います。男性の場合、HIV感染が成立するのは、病原体(HIV)が尿道に入り、そこから何らかの機序を経て体内に侵入したときです。尿道口の面積は、腟の面積に比べて圧倒的に小さいですし、たとえHIVが尿道に侵入したとしても、性交後速やかに排尿をおこなえば、HIVが尿と一緒に排出され感染が成立しない可能性もあり得ます。

 一方、女性の場合は、HIVが含まれた精液が腟内に入ってきても尿と一緒に外部にでていく、ということはありません。尿道に感染するわけではないからです。(しかし理論的にはHIVが女性の尿道から侵入し感染が成立するということはあり得ます。ちなみに、女性の患者さんで淋菌が子宮頸部に感染せずに尿道にだけ感染している場合がときどきあります)

 性交後直ちに腟内を洗浄する、という方法をとればいくぶん感染のリスクを下げられるかもしれませんが、そのときには子宮頸部から子宮の奥の方にHIVを含んだ精液が侵入している可能性がありますから、こうなれば洗浄は役に立ちません。また膣内のヒダは、(男性の尿道と比べると)表面積はかなり大きくなるでしょうし、尿道に比べると膣壁には微小な傷が観察されることがよくあります。これらを考えると、性交後に腟内を洗浄して感染症を防ぐ、などといったことは「やらないよりはまし」といった程度です。

 解剖学的に女性の方が感染の危険に晒されやすいのは、何もHIVに限ったことではありません。実際、性感染症のほとんどは女性の方がかかりやすいのです。さらに、私の医師としての経験で言えば、男性の場合、例えばクラミジアなどであれば、いったん感染しても自然に治癒することがまあまああります。これは、尿道内で病原体が増殖してもある程度の免疫力が備わっていれば、増殖にストップをかけ排尿時に病原体を排出するからではないかと思われます。ですから、ある男性がある女性からクラミジアをうつされ、それを自身が気付かないまま別の女性にうつし、その後男性自身は自然治癒していた、などということが実際にあるのです。(臨床上、そうとしか考えられないような事例がときどきあります)

 さて、HIV感染が女性に不利なもうひとつの理由は社会的な観点から説明されます。2010年7月にウイーンで第18回国際エイズ会議が開かれたのですが、その会議でオウマ・オバマ氏(米国大統領のバラク・オバマ氏の異母姉)が、スピーチで、「エイズの危険に最も晒されているのは、アフリカの貧困層の女性である」と述べています。オバマ氏は次のようにコメントしています。(7月20日のAFP通信が報道しています)

 「何よりも、まずは女性たちが"NO"と言えるようにならなければならない・・・」

 アフリカのほとんどの社会では、女性の社会的立場が男性よりも大変低く、多くの女性は性行動に対して男性に支配されていると言われています。「性行動に対して男性に支配されている」とは、ややこしい言い方ですが、分かりやすく言うと、「自分の夫が望めば性交渉を拒否することはできない。たとえ、夫に複数の愛人がいたとしても。さらに、コンドームの使用をお願いすることもできない・・・」、という感じになります。

 実際、アフリカではコンドームを使用しない(したがらない)男性が少なくないらしく、そのため女性が自分自身で腟内に塗れるクリームやジェルの開発が進んでいます。このクリームやジェルは、ウイルスを死滅させ、粘膜への侵入を防ぐ効果があり、HIV感染予防の有用なツールとされているのです。

 そうか、アフリカは(日本と違って)女性の地位が低いんだな・・・

 そう感じる人もいるでしょうが、この点に関しては日本でもそれほどアフリカと違いがあるわけではありません。たしかに、日本の女性は、以前に比べると随分と社会的地位が向上し、職場や地域社会では男性と同等の地位が与えられていることも少なくないでしょう。

 しかしながら、家庭内では、もっと言えば<性行為>という観点で考えれば、女性の方が圧倒的に不利なのです。「いくらいっても主人がコンドームをしてくれなくて・・・」と言って定期的に性感染症の検査を受けにくる女性の患者さん(主婦)を診察することがしばしばあります。彼女らは、「主人には愛人が複数いる」、「ダンナの趣味は風俗通い」、などと言います。私が「ご主人の行動を改めてもらおうと思わないのですか」と尋ねると、「何度も言いましたが主人のクセは治らないのです・・・」、という答えが返ってくるのです。(「そんなダンナだったらさっさと別れればいいのに・・・」と感じる人もいるでしょうが、彼女らにはそれなりの事情があってなかなかむつかしいようです)

 また、実際に自分の夫や交際相手から繰り返し性感染症をうつされている患者さん(10代から50代まで!)も珍しくありません。なかには、自分の夫、もしくは長期間交際している男性からHIVをうつされたというケースもあります。

 タイではHIVの新規感染の最多理由が「自分の夫からの感染」です。2位が男性同性愛、3位がセックスワーク(売買春、風俗)と続きます。これを受けて、最近のエイズ啓蒙活動では「家庭内でもコンドームを」と言われることが増えてきています。ちなみに、タイでは概して言えば女性の地位がそれほど低いわけではありません。ホワイトカラーだけでみれば女性の方がむしろ地位が高いようにすら感じます。ただし、(特に貧困地域の)家庭内では夫からの暴力を受けていたり、日本と同様に性行為を拒めなかったりという問題はあります。

 私はフェミニストではありませんが、日本の女性の立場を<性行為>という観点で考えれば、男性よりも遥かに脆弱、と感じざるを得ません。レイプの被害者はほとんどが女性ですし、既婚者で言えば圧倒的に「夫から性感染症をうつされた妻」が多く、その逆に「妻がしょっちゅう浮気をするもんで、僕が定期的に性感染症の検査をしなければならないんですよ」、と言っている男性はあまりいません。(皆無ではありませんが)

 HIVを含む性感染症を性差で考えたとき、解剖学的にも社会的にも女性が不利であることを、各自が考え直すべきではないでしょうか。

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第49回 ドラッグ天国に舞い戻ったタイ(その2) (2010年7月)

 GINAと共に第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」で、いったん覚醒剤が入手しにくいクリーンな国になったタイが、再び<ドラッグ天国>になりつつある、ということを述べました。

 現地から伝わってくる情報によりますと、この傾向は2009年に増悪し、さらに今年(2010年)に入り覚醒剤の入手がいっそう簡単になり、新たに始める若者が急増しているそうです。

 いったい、どの程度の若者が薬物に手を染め出しているのか・・・。そのようなことを考えていたところ、偶然にもタイの覚醒剤に関する学術的なデータが発表されました。

 タイのチュラロンコン大学(Chulalongkorn University)の心理学部、タンヤラック研究所(Thanyarak Institute)、米国エール大学(Yale University)神経生物学部の共同調査により、タイでは特に若者の間で覚醒剤が乱用されていることが明らかとなりました。2010年7月15日のBangkok PostとThe Nation(共にタイの英字新聞)が報道しています。(下記注参照)

 報道によりますと、タイ全域で2009年に覚醒剤で摘発されたのはおよそ12万人で、今年は既に10万人を越えているそうです。2008年、2009年、2010年と加速度的に覚醒剤が流通しているというのは、私の元に現地から届く情報と一致しています。

 特筆すべきは、新たに覚醒剤を始めた者の65%が10代、もしくは大学などに通う若い世代ということです。また、覚醒剤を新たに始めた3人に1人は15歳から19歳だそうです。(言い換えると、新たに覚醒剤に手をだした3分の1が15~19歳、3分の1が20歳以上の学生、残りの3分の1が学生以外ということになります)

 ここで、タイの覚醒剤はどのようなタイプのものが流行しているかについて述べておきます。

 タイでは、以前からそれほど純度の高くないメタンフェタミンの錠剤が主流です。これをタイ語で「ヤー・バー」と言います。ヤーは「薬」、バーは「バカ」という意味です。つまり「ヤー・バー」とは「バカの薬」という意味で、なかなか上手いネーミングです。

 この「ヤー・バー」という言い方は、特定の人たちが使うスラングというよりも広く一般に知れ渡っている市民権を得た言葉です。少なくとも日本人が覚醒剤のことを「エス」とか「スピード」とか言うよりも広く使われています。実際、今回取り上げているBangkok Postの新聞記事のタイトルは、「Researchers puzzle over high rate of 'yaba' abuse」(「ヤー・バー」の乱用で研究者らが当惑)となっています。

 ヤー・バーがそれほど純度が高くなくマイルドな(?)覚醒剤であるのに対し、ここ数年間若い世代に、特に少しお金に余裕のある若い世代に人気があるのが、メタンフェタミンの透明の結晶で、俗に「アイス」と呼ばれているものです。「アイス」は見た感じが透明で氷のようであることと、溶かしたものを静脈注射すると、あたかも氷が体内に溶け込んだかのような冷たい感覚が全身を駆け巡ることから、ピッタリのネーミングであり、日本人も含めて世界中のジャンキーからこのように呼ばれています。(GINAと共に第5回「アイスの恐怖」も参照ください)

 ただし、タイ人はアイスのことを「アイ」と言います。(少なくとも私にはそのように聞こえます) これは、タイ語独特の末子音を発音しない言語学的な理由からです。タイ人と少し話せば分かりますが、彼(女)らは、ハウス(家)のことを「ハウ」、ポリス(警察)のことを「ポリ」と言いますが、「アイ」もこれらと同様の理由です。

 話を戻しましょう。ヤー・バーが比較的安価で流通しているのに対し、純度の高いアイスはそれなりの値段がついているため、一部の金持ちにしか出回っていないと言われています。今回の共同調査では、報道記事の文脈からヤー・バーのみについて調べられているような印象を受けますが、流通量はヤー・バー>>アイスであることが予想されますからある程度は正確なのではないかと思われます。

 「タイは覚醒剤に関して世界で最も深刻な状況にある・・・」

 Bangkok Postは、ある学者のこのようなコメントを紹介しています。実際、2010年には既に10万人が摘発されていることを考えると、これは間違ってはいないでしょう。

 私自身の実感としては、タイよりも日本の方が少なくとも覚醒剤に関しては深刻度が高いように感じているのですが(そもそも、覚醒剤(ヒロポン)が歴史上一時的にでも合法だったのは日本だけなのです!)、データはタイの方がより深刻であることを物語っています。

 国立精神神経センター精神保健研究所が実施している「薬物使用に関する全国調査」(2007年)によりますと、日本人の覚醒剤の生涯経験率はわずか0.44%となっています。日本人の人口が1億2千万人として、0.44%は約53万人となります。一方、タイ人は2009年だけで13万人、今年はすでに10万人突破というのですから、(生涯経験率と年間摘発者を単純に比較するのは無理がありますが)タイ人の方が覚醒剤に汚染されている割合は高いということになるでしょう。(参考までに、タイの人口は約6千万人で日本のおよそ半分です)

 GINAと共に第25回でも述べたように、実際には「日本に帰ると覚醒剤に手を出してしまいそうだから(日本よりも入手しにくい)タイに滞在している」という元ジャンキーもいますし、私の医師としての実感でも、日本の覚醒剤依存症の患者は決して少なくありません。ちなみに、2007年に発表されたオーストラリア国民薬物委員会(Australian National Council on Drugs)のデータでは、オーストラリア人の1割は覚醒剤を経験したことがあるそうです。これらを踏まえると、国立精神神経センターの日本人を対象とした調査は、果たして実態を反映しているのか・・・、と正直に言えば、私はこの調査の信憑性を疑っています。

 話を戻しましょう。日本の実情はともかく、現在タイが覚醒剤に関して相当深刻な状況にきているのは間違いなさそうです。「日本に帰ると・・・」と言ってタイに滞在していた日本人の元ジャンキーも、もしかするとタイは危険と考えて第3国に移動しているかもしれません。(あるいは再びジャンキーに舞い戻ってしまったのでしょうか・・・)

 それから、私がタイの薬物に関して「マズイな・・・」と思うことがもうひとつあります。それは、隣国であるラオスやミャンマーでの薬物入手が簡単になっているということです。特にラオスではそれが顕著で、首都のビエンチャンやいくつかの地方都市ではごく簡単にそれも相当安価で入手できるそうなのです。そして、ラオスからタイに持ち込むこともそれほどむつかしくないと聞きます。

 このサイトで何度も取り上げているように、タクシン政権は薬物に関しては「疑わしき者は殺せ」というポリシーをとっていました。このため、一説によると、冤罪で警察に射殺された人が数千人に上るとも言われています。タクシン政権の頃は、素人が違法薬物を隣国から持ち帰るなどということは事実上不可能だったわけです。それが、今では普通の若者がおこなっているそうなのです。

 覚醒剤は本当に恐ろしいものです。最初は遊びでアブリ(吸入)だけのつもり、しかし耐性ができアブリでは効果が半減し静脈注射へ、針が入手しにくいため使いまわし、そして・・・。私はこのような経路でHIVに感染したタイ人をこれまで何人もみてきました。

 覚醒剤の犠牲者をこれ以上だしてはいけません・・・。


注:上記調査の報道は下記を参照ください。
Bangkok Post 2010年7月15日「Researchers puzzle over high rate of 'yaba' abuse」
The Nation 2010年7月15日「Methplagued Thailand assists study on addiction, genetics」

参考:
GINAと共に第25回(2008年7月)「ドラッグ天国に舞い戻ったタイ」
GINAと共に第5回(2006年11月)「アイスの恐怖」
GINAと共に第13回(2007年7月)「恐怖のCM」
GINAニュース2007年2月6日「オーストラリア、10人に1人が"アイス"を経験」

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第48回 エリート達が支援活動を選ぶ時代(2010年6月)

 NPO法人なんてものつくって、いったいどんなメリットがあるの?

 これは、2005年頃、私がGINA設立に向けて活動をしていたとき、周囲から何度も言われた言葉です。「メリットは困っている人を支援すること」、と私は答えていたのですが、これがなかなか伝わりませんでした。

 「自分の生活も安定してないのに他人の世話だなんて・・・」、とストレートな表現で注意をしてくれる人もいて、こういう人はそれだけ私のことを親身になって考えてくれていたと思うのですが、それでも私にしてみると、「なんで分かってくれないの・・・」と、もどかしい気持ちになることがしばしばありました。

 私にしてみれば、自分の生活が安定してから他人を支援する、などといった考えは、まるで、宝くじに当たったら寄附をする、と言っているようなものです。「自分よりもはるかに困っている人がいることを知ってしまった。そんな人たちと接することで自分に何ができるかを考えた結果、支援団体をつくることにした」、と言っても、「どんなメリットが・・・」などという人には伝わらないのです。

 一方、外国人(というか西洋人)には伝わりました。タイのエイズ関連の活動で知り合った外国人たちは、「それはいいアイデアだ。ぜひがんばってほしい」、のようなアドバイスをくれたのです。彼(女)らは、私と同じように支援活動ではるばるタイに来ていたわけですから当然と言えば当然なのですが、それだけではありません。自分たちも決して裕福ではないのにはるばるアジアまでやってきてボランティアに従事する欧州人というのは、小さな頃から「困っている人がいれば支援をおこなうのは人間として当然のこと」というキリスト教的な価値観を持っているのです。(念のために言っておくと、私はキリスト教徒ではありませんし、キリスト教がすばらしいと言っているわけでもありません。ただ、結果としてキリスト教徒たちのなかに他人に奉仕することを当然と考えている人が多い、という事実を指摘しているだけです)

 さて、西洋人が社会貢献を重要視していることを象徴するような新聞記事を最近見かけたので紹介したいと思います。Voice of America News.comの2010年5月26日に掲載された記事によりますと(詳細は下記参照)、ハーバード大学の学生が就職先として公益事業を選択するケースが少なくないそうなのです。

 この新聞記事によりますと、就職において他大学の学生よりも有利な立場にある名門ハーバード大学の学生たちは、高い報酬が期待できる一流企業に就職することが多い一方で、その有利な立場を利用するのではなく、公益事業に関する仕事を選択する人たちも大勢いるそうなのです。

 記事によりますと、「多くの学生たちが、孤児院やマイクロファイナンス(注2)、そして現地でエイズ患者のケアなどをしたいと考えている」、とハーバード大学の就職課のスタッフがコメントしています。そして、同大学には、こういった奉仕活動に関する分野に進みたいという学生を支援する仕組みがあるそうです。

 さすがはアメリカ、日本とは違うなぁ・・・、とこの記事を読んで少し感動したのですが、最近は日本国内でも奉仕や貢献に興味をもつ人が増えているように感じます。

 2010年6月21日の日経新聞(夕刊)に、「NPO職員の平均年収202万円」という記事が掲載されました。記事のタイトルだけをみると、NPOの職員なら年収はそんなもんだろう、と感じるだけですが、この記事をよく読むと、「NPO法人を就職先として選ぶ学生が出始めている」、と述べられていて、実際にNPO法人に就職を決めた学生のコメントも紹介されています。

 私はこの記事で初めて知ったのですが、「NPO就職・転職フェア」というものも開催されているそうです。そのフェアの主催者によれば、「学生からNPOに就職するにはどうしたらいいかと聞かれだしたのはここ数年のこと」、だそうです。ということは、学生のなかで就職先にNPO法人を選択肢の1つとして考える時代が日本にも到来した、ということになるのかもしれません。

 もっとも、学生がNPOを就職先の1つに検討するのは、不景気で一流企業への就職が困難になっているという社会状況も要因のひとつでしょう。けれども、それだけではなさそうです。

 この記事で取り上げられているあるNPO法人のスタッフは、「<大企業で必ずやりたいことができるわけではない><社内でしか通用しないキャリアは逆にリスク>と考える学生が増えた」、とコメントしています。また、第一生命経済研究所がNPOで働く20~30代の男女を対象とした調査によりますと、91%ものNPOスタッフが「仕事の内容が面白い」と答えています。これに対し、一般企業の正社員で「仕事の内容が面白い」と答えたのは60%にとどまっています。

 支援活動に興味があるのは学生ばかりではありません。ここ数年間、スポーツ界でもチャリティをおこなう選手は確実に増えています。有名なところでは、元サッカー選手の中田英寿氏が設立した慈善団体「TAKE ACTION FOUNDATION」や、日本ハムのダルビッシュ投手の「ダルビッシュ有 水基金」があります。ダルビッシュ投手は、公式戦で一勝するたびに10万円を日本水フォーラムに寄付しているそうです。また、イチロー選手が二軍時代から慈善活動に熱心で、神戸の養護施設や出身地の愛知県などに多額の寄付をしているという話は有名です。

 自らNPO法人を設立したスポーツ選手といえば、元マラソン選手でバルセロナ五輪銀メダリストの有森裕子氏も有名です。有森氏は自身のNPO活動(過酷なマラソンを走ることで寄付を募っています)の他に、国連人口基金(UNFPA)の親善大使を2002年から続けています。これまでにカンボジア、インド、パキスタン、ケニア、タンザニアなど数多くの途上国を訪問し、UNFPAの活動状況を視察し、イベントなどでその状況を伝えています。

 大学ではどうでしょうか。関西学院大学(私の母校です)は2008年4月に人間福祉学部のなかに「社会起業学科」という学科を開設し話題を呼びました。在校生と卒業生以外には馴染みがないと思いますが、関西学院大学のモットーは「Mastery for Service(奉仕のための練達)」です。社会起業学科のウェブサイトには、「社会起業学科は新しい学科ですが<社会貢献のための現実に即した学び>を目指した、関西学院大学の伝統のど真ん中にある学科」と書かれています。

 東京では、2010年4月、「社会起業大学」なるものも登場しました。授業は平日の夜間や土日におこなわれるそうです。現在学んでいる学生が第1期生ということになりますが、少し詳しくみてみると、学生総数が27名、男性:女性は7:3となっています。年齢別では、20代45%、30代22%、40代2%、50代11%です。職業別では、会社員が49%。学生が19%。自営業8%、会社役員8%、主婦・主夫8%となっていて、割合で言えば自営業と会社役員が多いのが興味深いと言えます。

 京セラ創業者の稲盛和夫氏が代表をつとめる「盛和塾」は、主に経営者で構成される経営塾ですが塾内では「利他」という言葉がよく飛び交うそうです。稲盛氏は、「世のため人のために尽くすことこそ人間としての最高の行為である」という哲学をお持ちですから、その稲盛氏に集まるメンバーから「利他」という言葉がでるのは当然なのでしょう。

 このようにみてみると、ハーバード大学の学生やキリスト教徒の西洋人だけでなく、最近の日本人も捨てたものではありません。

 私がGINA設立を考えているとき「どんなメリットが・・・」と聞いてきた人たちの考えも変わっていることを期待したいと思います。

注1:この記事のタイトルは、「Harvard Grads Choose Public Service Over Big Bucks」で、下記のURLで全文を読めます。
http://www1.voanews.com/english/news/education/Harvard-Grads-Choose-Public-Service-Over-Big-Bucks-94944109.html

注2:マイクロファイナンスという言葉はかなり有名になりましたが、簡単に紹介しておくと、「貧困者向けの小口金融」のことで、バングラデシュのムハマド・ユヌス氏が、貧困層を対象に、低金利の無担保融資を農村部で行ったのが発端です。ムハマド・ユヌス氏は、貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献をおこなったとして2006年にノーベル平和賞を受賞しています。

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