GINAと共に
第121回(2016年7月) 時期尚早のLGBT対策
LGBTを取り巻く日本での対応が変化してきています。行政の動きとしては、東京都渋谷区と世田谷区で、2015年11月から、同性カップルに結婚に相当する関係を認める制度がスタートしました。また、欧米諸国の企業がLGBTの従業員を大切にしていることが広く知られるようになり、日本の企業もLGBT対策をおこなうところが増えてきています。
日本経済新聞(2016年6月22日、オンライン版)によれば、6月21日、日本IBM、パナソニック、ソニー、電通、第一生命保険など30の企業・団体が「LGBTが働きやすい職場をつくるための基準」を公表したそうです。
改めて述べるまでもなく、LGBTの人たちは、社会生活のなかでストレートの人たちが思いも寄らぬ苦労をし、イヤな思いをしています。ですから、行政や企業が対策を立てることはもちろん歓迎すべきことです。
しかし、です。対策を立て実行するには、それなりの「土壌」がなければなりません。今回はこのことを述べたいのですが、話を分かりやすくするために、少し脱線して最近世界中で大きく報道されたある事件の話をしたいと思います。
2016年6月12日未明、米国フロリダ州オーランドで、ゲイ御用達のクラブで男が銃を乱射し、少なくとも50人が死亡、53人が負傷した事件で、警察が犯人と特定した20代の男性がゲイであった可能性が高いと報道されました。
地元紙によれば、この容疑者は事件を起こす前にこのクラブをたびたび訪れており、同性愛者向けのデートアプリを使って、クラブの常連と連絡を取り合っていたそうです。また、別の地元紙は、「何度か一緒にゲイバーに行き、デートにも誘われた。彼はゲイだったと思う」と証言している容疑者の同級生の話を紹介しています。
一方で、容疑者の父親は、容疑者が同性愛者を嫌う発言をしていたと証言しているそうです。「数カ月前、マイアミを訪れた際に同性愛の男性カップルが子どもたちや家族の前でキスをするのを目撃し、ショックを受けたようだった」と語っている、と報じられています。
ここで私はこの容疑者がLGBTであったかどうかを論じるつもりはありません。言いたいことは、マスコミの報道にあるように、LGBTがアンビバレントな感情を持っていることはよくある、ということです。分かりやすく言えば、ゲイが嫌いなゲイも少なくない、ということです。
我々医療者はLGBTの診察をおこなうとき「性自認」と「性志向(性指向)」という言葉をよく使います。「性自認」とは自分のセクシャリティが男性なのか女性なのか、「性志向」とはセックスの対象となるのが男性なのか女性なのか、ということです。まず、ここを理解しなければ患者さんの立場に立つことができません。例えば、これまで男性として生きてきた人が実はトランスジェンダーであったことに気づき、女装をする、あるいは性転換手術を受けたとしましょう。一般にはこの人の性の対象は男性と考えられると思いますが、そうではなくこれまで通り対象が女性であるということもありうるのです。
また、そもそも性自認、性志向のどちらかが、あるいは両方とも自分でもよく分かっていないという人も少なくありません。それだけではありません。いったん固定した性自認や性志向も時とともに変化することがあるのです。例えば、私が経験した症例で言えば、ストレートの女性→レズビアン→バイセクシャル→ストレートの女性と元に戻った例や、バイセクシャル(戸籍は男性)→ゲイ→トランスジェンダーと変化していった例もあります。まだあります。パンセクシャル、ポリセクシャル、Xジェンダー、アセクシャル、ノンセクシャル、ヘテロフレキシブル(ストレートだが時と場合によってはかわることもある)など、LGBTのくくりには入らない人たちもいるのです。
つまり、性には多様性があり、しかも時間と共に変化することもあるもので、当事者がアンビバレントな気持ち(ゲイは嫌いだがセックスの対象はゲイなど)を持っていることも珍しくないのです。ストレートの人間が、あるいはLGBTの人たちでさえ、LGBTの気持ちが理解できないことだって多々あるわけです。実際、LGBTどうしが仲が悪いということもよくあります。LGBTが一致団結してストレート優遇の社会に立ち向かう、などといった単純な図式はどこにもないのです。
話を企業のLGBT対策に戻します。LGBTはこれまで社会的不利益を受けていたから、それを改善させたいという気持ちが企業や個人に芽生えるのは大切なことです。多くの人間には、生まれ持って「差別は許せない」という気持ちがあります。医療者の多くはそうですし、私自身もそういう気持ちが強くあります。
しかし、当事者たちの気持ちをよく考えずに先走るようなことがあってはなりません。「当社はLGBTに対する差別があってはならないと考えている。LGBTが働きやすい企業を目指す」と言ったからといって、直ちに従業員のLGBTが企業にカムアウトはできません。実際、私が入手した情報によれば、LGBTに優しい方針を打ち出したある企業では、様々な福利厚生を発表したのにもかかわらず総務部に申請したLGBTは皆無だそうです。その企業の大きさから考えて少なくとも数百人程度はLGBTの人がいると予想されますし、私にこの情報を教えてくれたのもその企業で働くゲイの人です。
最近報道された興味深い事件を紹介します。性同一性障害(最近「障害」ではないという意見があり「性別違和」と呼ぶ動きもあります)の愛知県の40代の会社員が、職場で性のカムアウトを強制され、精神的苦痛を負ったとして、勤務先の「愛知ヤクルト工場」を提訴しました。
この従業員は男性から女性に名前を変更しましたが、職場では男性名を使いたいと求めていました。しかし企業側は、この要求を認めず、社内で使う名札などを女性名に変更し、さらに朝礼の場で、「性同一性障害で現在治療中です」と無理やり公表させられたそうです。このような企業の対応が人権侵害であることは明白であり、これが現実にそれなりの規模の企業で起こったことを考えると、他の大手企業がいくら「当社はLGBTに優しい企業です」と言ったところで、簡単には信じられません。
もうひとつ、問題点を指摘したいと思います。先に述べた「LGBTが働きやすい職場をつくるための基準」について報じた日経新聞では触れられていませんでしたが、おそらくLGBT対策に企業が取り組みだしたのは、LGBTが働きやすい職場づくりを目指す任意団体「work with Pride」(以下「wwP」)が、企業のLGBT施策を評価、優秀企業を表彰する事業を始めることを発表したからだと思われます。
wwPは、企業の取り組みを①行動宣言、②当事者コミュニティ、③啓発活動、④人事制度・プログラム、⑤社会貢献・渉外活動の取り組みの5つの点から評価し、各企業・団体を、ゴールド企業、シルバー企業、ブロンズ企業と「認定」するそうです。
このような試みをすればどのようなことが起こるでしょう。当然各企業はゴールド企業を目指すことになります。果たしてその「意図」は何でしょう。純粋にLGBTの人たちのことだけを考えてのゴールド取得でしょうか。企業のイメージアップにつながるから、という"下心"はないと言い切れるでしょうか。
企業が、そしてその企業で働くひとりひとりがLGBTの人たちを大切に考えるようになるのは素晴らしいことです。しかし、ゴールド取得目標が先走ったり、ひとりひとりが性の多様性について理解が乏しかったりすれば、LGBTの人たちが幸せになるどころか、その逆の結果になることもあり得ます。
企業も、企業で働く従業員の人たちも、ここはあせらずに、まずは性の多様性についてきちんと勉強していくことが先決だと私は考えています。
日本経済新聞(2016年6月22日、オンライン版)によれば、6月21日、日本IBM、パナソニック、ソニー、電通、第一生命保険など30の企業・団体が「LGBTが働きやすい職場をつくるための基準」を公表したそうです。
改めて述べるまでもなく、LGBTの人たちは、社会生活のなかでストレートの人たちが思いも寄らぬ苦労をし、イヤな思いをしています。ですから、行政や企業が対策を立てることはもちろん歓迎すべきことです。
しかし、です。対策を立て実行するには、それなりの「土壌」がなければなりません。今回はこのことを述べたいのですが、話を分かりやすくするために、少し脱線して最近世界中で大きく報道されたある事件の話をしたいと思います。
2016年6月12日未明、米国フロリダ州オーランドで、ゲイ御用達のクラブで男が銃を乱射し、少なくとも50人が死亡、53人が負傷した事件で、警察が犯人と特定した20代の男性がゲイであった可能性が高いと報道されました。
地元紙によれば、この容疑者は事件を起こす前にこのクラブをたびたび訪れており、同性愛者向けのデートアプリを使って、クラブの常連と連絡を取り合っていたそうです。また、別の地元紙は、「何度か一緒にゲイバーに行き、デートにも誘われた。彼はゲイだったと思う」と証言している容疑者の同級生の話を紹介しています。
一方で、容疑者の父親は、容疑者が同性愛者を嫌う発言をしていたと証言しているそうです。「数カ月前、マイアミを訪れた際に同性愛の男性カップルが子どもたちや家族の前でキスをするのを目撃し、ショックを受けたようだった」と語っている、と報じられています。
ここで私はこの容疑者がLGBTであったかどうかを論じるつもりはありません。言いたいことは、マスコミの報道にあるように、LGBTがアンビバレントな感情を持っていることはよくある、ということです。分かりやすく言えば、ゲイが嫌いなゲイも少なくない、ということです。
我々医療者はLGBTの診察をおこなうとき「性自認」と「性志向(性指向)」という言葉をよく使います。「性自認」とは自分のセクシャリティが男性なのか女性なのか、「性志向」とはセックスの対象となるのが男性なのか女性なのか、ということです。まず、ここを理解しなければ患者さんの立場に立つことができません。例えば、これまで男性として生きてきた人が実はトランスジェンダーであったことに気づき、女装をする、あるいは性転換手術を受けたとしましょう。一般にはこの人の性の対象は男性と考えられると思いますが、そうではなくこれまで通り対象が女性であるということもありうるのです。
また、そもそも性自認、性志向のどちらかが、あるいは両方とも自分でもよく分かっていないという人も少なくありません。それだけではありません。いったん固定した性自認や性志向も時とともに変化することがあるのです。例えば、私が経験した症例で言えば、ストレートの女性→レズビアン→バイセクシャル→ストレートの女性と元に戻った例や、バイセクシャル(戸籍は男性)→ゲイ→トランスジェンダーと変化していった例もあります。まだあります。パンセクシャル、ポリセクシャル、Xジェンダー、アセクシャル、ノンセクシャル、ヘテロフレキシブル(ストレートだが時と場合によってはかわることもある)など、LGBTのくくりには入らない人たちもいるのです。
つまり、性には多様性があり、しかも時間と共に変化することもあるもので、当事者がアンビバレントな気持ち(ゲイは嫌いだがセックスの対象はゲイなど)を持っていることも珍しくないのです。ストレートの人間が、あるいはLGBTの人たちでさえ、LGBTの気持ちが理解できないことだって多々あるわけです。実際、LGBTどうしが仲が悪いということもよくあります。LGBTが一致団結してストレート優遇の社会に立ち向かう、などといった単純な図式はどこにもないのです。
話を企業のLGBT対策に戻します。LGBTはこれまで社会的不利益を受けていたから、それを改善させたいという気持ちが企業や個人に芽生えるのは大切なことです。多くの人間には、生まれ持って「差別は許せない」という気持ちがあります。医療者の多くはそうですし、私自身もそういう気持ちが強くあります。
しかし、当事者たちの気持ちをよく考えずに先走るようなことがあってはなりません。「当社はLGBTに対する差別があってはならないと考えている。LGBTが働きやすい企業を目指す」と言ったからといって、直ちに従業員のLGBTが企業にカムアウトはできません。実際、私が入手した情報によれば、LGBTに優しい方針を打ち出したある企業では、様々な福利厚生を発表したのにもかかわらず総務部に申請したLGBTは皆無だそうです。その企業の大きさから考えて少なくとも数百人程度はLGBTの人がいると予想されますし、私にこの情報を教えてくれたのもその企業で働くゲイの人です。
最近報道された興味深い事件を紹介します。性同一性障害(最近「障害」ではないという意見があり「性別違和」と呼ぶ動きもあります)の愛知県の40代の会社員が、職場で性のカムアウトを強制され、精神的苦痛を負ったとして、勤務先の「愛知ヤクルト工場」を提訴しました。
この従業員は男性から女性に名前を変更しましたが、職場では男性名を使いたいと求めていました。しかし企業側は、この要求を認めず、社内で使う名札などを女性名に変更し、さらに朝礼の場で、「性同一性障害で現在治療中です」と無理やり公表させられたそうです。このような企業の対応が人権侵害であることは明白であり、これが現実にそれなりの規模の企業で起こったことを考えると、他の大手企業がいくら「当社はLGBTに優しい企業です」と言ったところで、簡単には信じられません。
もうひとつ、問題点を指摘したいと思います。先に述べた「LGBTが働きやすい職場をつくるための基準」について報じた日経新聞では触れられていませんでしたが、おそらくLGBT対策に企業が取り組みだしたのは、LGBTが働きやすい職場づくりを目指す任意団体「work with Pride」(以下「wwP」)が、企業のLGBT施策を評価、優秀企業を表彰する事業を始めることを発表したからだと思われます。
wwPは、企業の取り組みを①行動宣言、②当事者コミュニティ、③啓発活動、④人事制度・プログラム、⑤社会貢献・渉外活動の取り組みの5つの点から評価し、各企業・団体を、ゴールド企業、シルバー企業、ブロンズ企業と「認定」するそうです。
このような試みをすればどのようなことが起こるでしょう。当然各企業はゴールド企業を目指すことになります。果たしてその「意図」は何でしょう。純粋にLGBTの人たちのことだけを考えてのゴールド取得でしょうか。企業のイメージアップにつながるから、という"下心"はないと言い切れるでしょうか。
企業が、そしてその企業で働くひとりひとりがLGBTの人たちを大切に考えるようになるのは素晴らしいことです。しかし、ゴールド取得目標が先走ったり、ひとりひとりが性の多様性について理解が乏しかったりすれば、LGBTの人たちが幸せになるどころか、その逆の結果になることもあり得ます。
企業も、企業で働く従業員の人たちも、ここはあせらずに、まずは性の多様性についてきちんと勉強していくことが先決だと私は考えています。
第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~
「豊かな青春、惨めな老後」
これは、私がGINAの関連でタイに頻繁に渡航していた2000年代半ばに、日本人の長期滞在者から繰り返し聞いた言葉です。この言葉の作者は不明ですが、今はなき伝説の安宿「楽宮ホテル」のトイレに書かれていた落書きがオリジナルではないか、という話を何度か聞いたことがあります。
バンコクの安宿に"沈没"し、日常生活に戻れなくなってしまった人々が、言わば自分たちを自嘲するときによく引き合いに出すのがこの言葉です。初めからバンコクにやって来る人もいれば、バックパッカーとして世界各地を旅行して、最終的に最も居心地の良いバンコクにハマってしまった人もいます。
楽宮ホテルはバンコクのヤワラーと呼ばれる中華街にあり、このホテルに滞在していた日本人の若者の生活を描いた小説『バンコク楽宮ホテル』は今でも読み継がれていると聞きます。楽宮ホテルは、1970年代から80年代にかけてお金のない日本人が集まってくるホテルとして有名だったのです。次第に日本人の長期滞在者が増え、空き部屋がなくなるようになり、あふれた日本人が次に利用しだしたのが同じくヤワラー地区にあった「ジュライホテル」と言われています。そして楽宮ホテルは閉館することになります。
ジュライホテルは1980年代後半あたりから日本人に注目されるようになり、90年代に入ってからは宿泊者のほとんどが日本人だったそうです。しかし、売買春と違法薬物があまりにも氾濫したこともあり、1995年に閉館することになります。
私がタイに頻繁に渡航していた頃、売買春の実態を知りたくて、タイに長期滞在している日本人何人かに話を聞いたことがあります。当時30~50代の彼らは、興味深いことにほとんど全員がジュライホテルに泊まったことがあると言います。ジュライホテルを知らない日本人などいなかったと言うのです。それだけではありません。ジュライホテルを住処にしていた伝説のセックスワーカー「ポン」(ポームと呼ぶ人もいました)の話が必ず出てくるのです。そして、実際にポンと関係を持ったと証言した日本人男性もいました。
ポン(ポンさん?ポン氏? ここでは他界されていることもあり「ポン」とします)の死因はエイズです。そのためポンからHIVに感染した日本人男性も大勢いることが予想されますが、私が聞き取りをした範囲では実際にポンから感染した日本人男性はひとりもいませんでした。
ジュライホテルが閉館した後、このような日本人の定宿となったのはやはり同じくヤワラー地区にある「台北ホテル(台北旅社)」です。台北ホテルには私も一度宿泊したことがあります。ジュライホテルをよく知る者に聞くと、「ジュライホテルと雰囲気はよく似ている。何人もの売春婦が住んでいるのも同じ」だそうです。台北ホテルを私に紹介してくれた日本人は「医者のあんたが泊まるようなとこじゃないよ」と言っていましたが、意外にも(?)私はこのホテルが気に入りました。もっとも、お金のない私は窓のある部屋でホットシャワーがあればそれで満足できるのですが。
ちなみに、私は宿泊代をいつも節約しますが、窓だけはどうしても譲れません。日本ではいくら安い宿に泊まっても窓がないということはあり得ませんが、アジア諸国では香港やシンガポールでさえもよくあります。窓のない部屋で寝なければならないというあの圧迫感は私には耐えられません。こんな私は贅沢なのでしょうか。ネット上でホテルを探すときの検索条件に「窓あり」というのを入れてほしいのですが、なぜかこのような設定はありません。他の人は窓にこだわらないのでしょうか。
私が泊まった台北ホテルの部屋は冷房の有無は覚えていませんが、たしか1泊250バーツ(約750円)だったと記憶しています。幸運だったのは、おそらくその部屋に以前長期滞在していた宿泊者が自分で電気式の湯が出る装置をシャワーに付けていてくれていたことです。250バーツの部屋でホットシャワーが装備されていることは普通はありません(注1)。
話を戻します。台北ホテルの1階に置かれている椅子に座り、今にも故障しそうなボロボロのエレベータの前で日本人と思わしき男性を見かけると声をかけていたのですが、このような方法だと怪しまれるのか、ほとんどの人が「しゃべりかけないでくれ・・・」という感じで去って行きました。やはり、こういうインタビューは人から人を紹介してもらうのが最適です。
さて、随分前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいことは、タイで惨めな老後を過ごし、帰国せずにタイで他界する日本人が増えていること。さらに死亡しても日本に残っている遺族が渡タイせず、「一切関わりたくない」といって遺骨の引き取りも拒否することが増えているという事実です。数年前からこのような話をちらほらと聞くようになり、タイ総領事館によれば統計上も増えてきているそうです。
私はこのような話を聞く度に冒頭で紹介した「豊かな青春、惨めな老後」という言葉を思い出します。私が2000年代半ばにインタビューした人たちは大丈夫なのだろうか・・・、と思わずにはいられないのです。
ところで、自虐的に「豊かな青春、惨めな老後」などとうそぶく人にはどのような人が多いのでしょうか。先に述べた『バンコク楽宮ホテル』という小説、実は私はあまり好きになれませんでした。それに、タイ人と恋愛をしている日本人男性の話は微笑ましく思えるのですが、買春を繰り返しているタイプの日本人にはやはり抵抗を持ってしまいます。では、彼ら全員が日本では働けないようなどうしようもない人たちなのかというと、そういうわけではありません。
意外なことに、私が取材した範囲で言えば高学歴者も少なくないのです。元大手企業の社員や元教師という人もいました。学歴でいえば中卒高卒よりもむしろ大卒が多いのです。なかには、この人これではまともな社会生活はむつかしいかも・・・、と思える人もいましたが、これだけ人が良すぎると日本の社会のギスギスした雰囲気には馴染めないだろうな・・、と感じる人もいました。
しかし、買春や違法薬物に耽溺する好意を持てない人たちにも、高学歴で人当たりのいい人たちにも共通する、私が「否定的」に感じたことがひとつあります。それは、「友達をつくろうとしない」ということです。友達をつくるのが苦手だからタイで引きこもっているのかもしれませんが、彼らの社交性というか閉鎖性には疑問を抱きました。なかには日本人どうし、毎日同じ食堂でダラダラと何時間もだべっている中高年男性のグループもいましたが、まず間違いなく外国人と交流を持とうとしません。タイ人と話すのも、ホテルや食堂の従業員を除けば、売春婦とドラッグの売人くらいなのです。
西洋人はこの点で異なります。たしかにドイツ人が集まるバー、スウェーデン人が集まるバーなどはそれらの国出身の者が集まりますが、彼らは他国の西洋人とも話します。私はGINAの取材にかこつけて、彼らとも随分話をしましたが、日本人の私にもオープンに接してくれます。一方、安宿に長期滞在している日本人は日本人としか話をせず、しかも、日本人どうしでも交流が非常に狭い範囲なのです。西洋人どうしが仲良く話している光景が珍しくないのに対し、日本人は西洋人はもちろん、中国人や韓国人ともほとんど話をしません。
最近、私が懸念していたこのことが内閣府の調査で明らかとなりました。日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの高齢者の国際比較がおこなわれ、「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」についての設問で、「いない」と答えた割合は、日本が25.9%と最多です。そして、近所の人と「病気のときに助け合う」割合は、最も高いドイツが31.9%だったのに対し、日本は最下位でわずか5.9%しかありません(注2)。
この統計が正しいとすると、日本人は、もともと日本人どうしでさえも、親しい友人が少なく、病気のときに助け合うことをしないようです。「近所の人」が外国人になればますますその傾向が強くなるに違いありません。
ということは、これからもタイで孤独死していく日本人高齢者が増えていくのではないでしょうか。買春を繰り返すような人はそのうちHIVに感染しエイズを発症し死に至るでしょう。そして、日本の遺族に「一切関わりたくない」と言われる・・・。まさに「惨めな老後」です。
************
注1:ちなみに「台北ホテル」も2015年5月31日をもって閉館となりました。楽宮ホテル→ジュライホテル→台北ホテルと続いてきた「日本人御用達のドラッグと買春にまみれた伝説の安宿」もこれら三代で消滅したとみる向きが多いようです。では、こういった安宿を拠点に沈没していた人たちはどこへ行ったのでしょうか。私が知る限りでは、カンボジアがそのような地区になりつつあるようです。
注2:内閣府のこの調査は下記URLで閲覧することができます。本文で述べた「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」は図1-3-6に、近所の人と「病気のときに助け合う」は図1-3-5に載っています。
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/gaiyou/pdf/1s3s.pdf
これは、私がGINAの関連でタイに頻繁に渡航していた2000年代半ばに、日本人の長期滞在者から繰り返し聞いた言葉です。この言葉の作者は不明ですが、今はなき伝説の安宿「楽宮ホテル」のトイレに書かれていた落書きがオリジナルではないか、という話を何度か聞いたことがあります。
バンコクの安宿に"沈没"し、日常生活に戻れなくなってしまった人々が、言わば自分たちを自嘲するときによく引き合いに出すのがこの言葉です。初めからバンコクにやって来る人もいれば、バックパッカーとして世界各地を旅行して、最終的に最も居心地の良いバンコクにハマってしまった人もいます。
楽宮ホテルはバンコクのヤワラーと呼ばれる中華街にあり、このホテルに滞在していた日本人の若者の生活を描いた小説『バンコク楽宮ホテル』は今でも読み継がれていると聞きます。楽宮ホテルは、1970年代から80年代にかけてお金のない日本人が集まってくるホテルとして有名だったのです。次第に日本人の長期滞在者が増え、空き部屋がなくなるようになり、あふれた日本人が次に利用しだしたのが同じくヤワラー地区にあった「ジュライホテル」と言われています。そして楽宮ホテルは閉館することになります。
ジュライホテルは1980年代後半あたりから日本人に注目されるようになり、90年代に入ってからは宿泊者のほとんどが日本人だったそうです。しかし、売買春と違法薬物があまりにも氾濫したこともあり、1995年に閉館することになります。
私がタイに頻繁に渡航していた頃、売買春の実態を知りたくて、タイに長期滞在している日本人何人かに話を聞いたことがあります。当時30~50代の彼らは、興味深いことにほとんど全員がジュライホテルに泊まったことがあると言います。ジュライホテルを知らない日本人などいなかったと言うのです。それだけではありません。ジュライホテルを住処にしていた伝説のセックスワーカー「ポン」(ポームと呼ぶ人もいました)の話が必ず出てくるのです。そして、実際にポンと関係を持ったと証言した日本人男性もいました。
ポン(ポンさん?ポン氏? ここでは他界されていることもあり「ポン」とします)の死因はエイズです。そのためポンからHIVに感染した日本人男性も大勢いることが予想されますが、私が聞き取りをした範囲では実際にポンから感染した日本人男性はひとりもいませんでした。
ジュライホテルが閉館した後、このような日本人の定宿となったのはやはり同じくヤワラー地区にある「台北ホテル(台北旅社)」です。台北ホテルには私も一度宿泊したことがあります。ジュライホテルをよく知る者に聞くと、「ジュライホテルと雰囲気はよく似ている。何人もの売春婦が住んでいるのも同じ」だそうです。台北ホテルを私に紹介してくれた日本人は「医者のあんたが泊まるようなとこじゃないよ」と言っていましたが、意外にも(?)私はこのホテルが気に入りました。もっとも、お金のない私は窓のある部屋でホットシャワーがあればそれで満足できるのですが。
ちなみに、私は宿泊代をいつも節約しますが、窓だけはどうしても譲れません。日本ではいくら安い宿に泊まっても窓がないということはあり得ませんが、アジア諸国では香港やシンガポールでさえもよくあります。窓のない部屋で寝なければならないというあの圧迫感は私には耐えられません。こんな私は贅沢なのでしょうか。ネット上でホテルを探すときの検索条件に「窓あり」というのを入れてほしいのですが、なぜかこのような設定はありません。他の人は窓にこだわらないのでしょうか。
私が泊まった台北ホテルの部屋は冷房の有無は覚えていませんが、たしか1泊250バーツ(約750円)だったと記憶しています。幸運だったのは、おそらくその部屋に以前長期滞在していた宿泊者が自分で電気式の湯が出る装置をシャワーに付けていてくれていたことです。250バーツの部屋でホットシャワーが装備されていることは普通はありません(注1)。
話を戻します。台北ホテルの1階に置かれている椅子に座り、今にも故障しそうなボロボロのエレベータの前で日本人と思わしき男性を見かけると声をかけていたのですが、このような方法だと怪しまれるのか、ほとんどの人が「しゃべりかけないでくれ・・・」という感じで去って行きました。やはり、こういうインタビューは人から人を紹介してもらうのが最適です。
さて、随分前置きが長くなりましたが、今回取り上げたいことは、タイで惨めな老後を過ごし、帰国せずにタイで他界する日本人が増えていること。さらに死亡しても日本に残っている遺族が渡タイせず、「一切関わりたくない」といって遺骨の引き取りも拒否することが増えているという事実です。数年前からこのような話をちらほらと聞くようになり、タイ総領事館によれば統計上も増えてきているそうです。
私はこのような話を聞く度に冒頭で紹介した「豊かな青春、惨めな老後」という言葉を思い出します。私が2000年代半ばにインタビューした人たちは大丈夫なのだろうか・・・、と思わずにはいられないのです。
ところで、自虐的に「豊かな青春、惨めな老後」などとうそぶく人にはどのような人が多いのでしょうか。先に述べた『バンコク楽宮ホテル』という小説、実は私はあまり好きになれませんでした。それに、タイ人と恋愛をしている日本人男性の話は微笑ましく思えるのですが、買春を繰り返しているタイプの日本人にはやはり抵抗を持ってしまいます。では、彼ら全員が日本では働けないようなどうしようもない人たちなのかというと、そういうわけではありません。
意外なことに、私が取材した範囲で言えば高学歴者も少なくないのです。元大手企業の社員や元教師という人もいました。学歴でいえば中卒高卒よりもむしろ大卒が多いのです。なかには、この人これではまともな社会生活はむつかしいかも・・・、と思える人もいましたが、これだけ人が良すぎると日本の社会のギスギスした雰囲気には馴染めないだろうな・・、と感じる人もいました。
しかし、買春や違法薬物に耽溺する好意を持てない人たちにも、高学歴で人当たりのいい人たちにも共通する、私が「否定的」に感じたことがひとつあります。それは、「友達をつくろうとしない」ということです。友達をつくるのが苦手だからタイで引きこもっているのかもしれませんが、彼らの社交性というか閉鎖性には疑問を抱きました。なかには日本人どうし、毎日同じ食堂でダラダラと何時間もだべっている中高年男性のグループもいましたが、まず間違いなく外国人と交流を持とうとしません。タイ人と話すのも、ホテルや食堂の従業員を除けば、売春婦とドラッグの売人くらいなのです。
西洋人はこの点で異なります。たしかにドイツ人が集まるバー、スウェーデン人が集まるバーなどはそれらの国出身の者が集まりますが、彼らは他国の西洋人とも話します。私はGINAの取材にかこつけて、彼らとも随分話をしましたが、日本人の私にもオープンに接してくれます。一方、安宿に長期滞在している日本人は日本人としか話をせず、しかも、日本人どうしでも交流が非常に狭い範囲なのです。西洋人どうしが仲良く話している光景が珍しくないのに対し、日本人は西洋人はもちろん、中国人や韓国人ともほとんど話をしません。
最近、私が懸念していたこのことが内閣府の調査で明らかとなりました。日本、アメリカ、ドイツ、スウェーデンの高齢者の国際比較がおこなわれ、「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」についての設問で、「いない」と答えた割合は、日本が25.9%と最多です。そして、近所の人と「病気のときに助け合う」割合は、最も高いドイツが31.9%だったのに対し、日本は最下位でわずか5.9%しかありません(注2)。
この統計が正しいとすると、日本人は、もともと日本人どうしでさえも、親しい友人が少なく、病気のときに助け合うことをしないようです。「近所の人」が外国人になればますますその傾向が強くなるに違いありません。
ということは、これからもタイで孤独死していく日本人高齢者が増えていくのではないでしょうか。買春を繰り返すような人はそのうちHIVに感染しエイズを発症し死に至るでしょう。そして、日本の遺族に「一切関わりたくない」と言われる・・・。まさに「惨めな老後」です。
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注1:ちなみに「台北ホテル」も2015年5月31日をもって閉館となりました。楽宮ホテル→ジュライホテル→台北ホテルと続いてきた「日本人御用達のドラッグと買春にまみれた伝説の安宿」もこれら三代で消滅したとみる向きが多いようです。では、こういった安宿を拠点に沈没していた人たちはどこへ行ったのでしょうか。私が知る限りでは、カンボジアがそのような地区になりつつあるようです。
注2:内閣府のこの調査は下記URLで閲覧することができます。本文で述べた「困ったときに家族以外で助け合える親しい友人」は図1-3-6に、近所の人と「病気のときに助け合う」は図1-3-5に載っています。
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/gaiyou/pdf/1s3s.pdf
第119回(2016年5月) PEP、PrEPは日本で普及するか
ここ半年の間に、PEPやPrEPに対する関心が高まっているようで私の元にも多くの問い合わせがきます。おそらくこの最大の理由は、この「GINAと共に」の2015年11月号「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」でこれらのことを紹介したからだと思いますがそれだけではありません。なぜなら、私が院長をつとめる(医)太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)の英語サイトから問い合わせてくる外国人も増えているからです。(ほとんどの外国人は日本語で「GINAと共に」を読むことはできません)
話を進める前にPEPとPrEPについてごく簡単に振り返っておきましょう。PEP(Post-Exposure Prophylaxis)は日本語では「曝露後予防」と呼ばれています。HIVが体内に入ってから72時間に薬を飲めば感染が成立しなくなるという治療法で、原則1ヶ月の内服を続けます。PrEP(Pre-Exposure Prophylaxis)は「曝露前予防」と呼ばれる予防法で、パートナーがHIV陽性者である場合におこなわれます。こちらは期限なしで毎日抗HIV薬を内服します。PrEPについての問い合わせは9割以上が外国人から、PEPは日本人からが7割くらいです。興味深いのは、日本人のPEPの問い合わせの3割程度が外国に居住している日本人ということです。
では、GINAや谷口医院に「PEP、PrEPを検討したい」と相談を寄せた人のなかでどれくらいの人が実際にこれら治療を開始したかというと、大半の人は結局おこなっていません(注1)。この最大の理由は「高すぎる費用」です。今回のコラムでその打開策となるかもしれない方法を紹介したいと思いますが、その前にPEP、PrEPで問い合わせをする人たちの特徴をみていきましょう。
一番多いのは「日本国内で危険な性交渉を持ってしまった」というケースです。たいていは「HIV感染の可能性があるからPEPを始めたい」と最初は言われるのですが、費用を聞いて諦める人がほとんどです。1ヶ月間内服を続ける必要があり、合計でおよそ25~30万円もかかります。レイプあるいはそれに近いケースでは、特に不安が強く、可能性があるならPEPを実施すべきと思われるケースも少なくないのですが、この費用を捻出できる人というのはそう多くありません。
レイプの被害者のことを考えると「レイプ被害者のためのPEP基金」というものがあればいいのですが、実際には困難でしょう。どこからをレイプとすべきかという問題があり、同意のもとの性交渉なのに、後からHIV感染が気になって「あれはレイプだった。だから基金のお金でPEPを受けさせてほしい」という人が必ず出てくるからです。警察に届け出てレイプと認定されたケースだけを対象にすればいいではないか、という意見があるかもしれませんが、認定の基準がありませんし、そもそもPEPは少しでも早く始めなければなりません。誰かの「認定」など待っている余裕はありません。
ただ、レイプ被害者をサポートするための社会的な活動は必要です。大阪には「性暴力救援センター・大阪(SACHICO)」という組織があり被害者の支えになっています。しかしこういった組織を知らない人も多いですし、知っていてもなかなか相談できないものです。また、最近は警察の「ウーマンライン」も充実していて、GINAに相談してきた人にこういったサービスの利用を勧めることも多いのですが、利用に躊躇する人も少なくありません。
また、これはあまり指摘されないことですが、男性のレイプ被害者に対する支援も必要でありながら、実際にはほぼおこなわれていません。男性のレイプ被害者には3つのケースがあります。1つは男性同性愛者で、いわゆるハッテンバに行き望まない性交渉を無理矢理おこなわれた、というもの。2つめは、ストレートの男性がサウナなどに行き、そのサウナがハッテンバであることを知らず、その場にいた男性に襲われるというケース。3つめが頻度は少ないですが、通常のマッサージのつもりで入った店で、マッサージ師が外国人(ほとんどアジア人)で言葉があまり通じず、望んでいないのに性サービスを受けさせられた(ゲイ、ストレート共に)、というものです。
最近は日本滞在中の外国人からの問い合わせが増えています。日本に来てハメを外してしまい、出会ったばかりの日本人女性とアバンチュールをもってしまった・・・というケースです。しかし、先に述べたように日本の薬の高さは想定外であるようで「1か月で30万円近く」というと全員が躊躇します。ただし、「帰国までの5日間のみ処方してほしい。あとは帰国後かかりつけ医に相談する」というケースが今後出てくるのではないか、と私はみています。
今のところ、私のところに問い合わせをしてくる外国人の全員が西欧の男性です。女性はこれまで皆無であり、これは、西欧人の女性が日本に来て日本人男性と性交渉の機会を持つことがその逆のパターンに比べて少ないからだと予想されます。またアジア人からの問い合わせは男女とも少数です。この理由は、アジアでは西洋ほどPEPが一般に知られていないことと、いくら円安とはいえ薬代は日本の方が遙かに高いことが原因ではないかと思われます。(ですから、予定を変更してすぐに帰国しPEPを始めているアジア人はいるかもしれません)
私が相談を受けるケースで、実際にPEPを開始することになるのは2つのパターンがあります。1つは医療従事者の針刺し事故です。針刺し事故の場合「労災」の適応になりますから費用はゼロで済みます。しかし副作用のリスクを抱えることになり、この点で躊躇する人は少なくありません。また、針刺しをした患者がHIVでない可能性が高いと判断した場合は必ずしも実施に至りません。実際にPEPを開始するのは、針刺しした患者がHIV陽性であることが判っている場合が大半です。
もうひとつ、実際にPEPを開始するのは、外国に住んでいる日本人です。海外からの問い合わせは圧倒的にタイからが多く、この理由はGINAがタイの支援をしていることだけではなく、それだけタイで性交渉をもつ日本人の男女が多いからでしょう。タイでは、全例ではありませんが、私に相談してきた人たちの多くがPEPを始めています。この理由はいくつかあり、タイの方が日本よりもHIV陽性者が多いこともありますが、やはり最大の理由は「費用が安い」ということです。病院にもよるようですが、外国人はまず利用しない地元のタイ人が訪れる病院であれば日本円で2~3万円で1ヶ月分の薬を処方してもらえるようです。
ここ数年、「医療ツーリズム」が流行しており、タイも力を入れています。全室個室で料理は複数から選べお酒のサービスまであるホテル並みの待遇が人気の理由で、欧米人やアラブ人がよく利用しています。日本人の場合は、保険を使って日本国内で治療を受けることを選択しますからあまりタイでこのような贅沢な医療サービスを利用する人は多くありませんが、保険の効かない分野、具体的には性転換手術や美容外科ではタイに渡航する日本人は大勢います。
今後安いPEPを求めてタイの病院、それは医療ツーリズムの代名詞のような豪華な病院ではなく、タイ人しか行かないような地域の病院を訪れる人が増えるかもしれません。LCCを利用して渡航し、1ヶ月分の薬をもらって一泊もせずにすぐに帰国すれば、飛行機代、薬代を入れて10万円でお釣りがくることもあるでしょう。日本で治療を受けたときの3分の1の費用で済むというわけです。
タイにはそれだけ安い抗HIV薬があるなら、それを日本の医療機関が輸入して日本の患者に処方すればいいではないか、という意見をときどき聞きます。結論を言えばこれは規則上できません。厚労省の通達に、医療機関が薬を輸入できるのは「国内に代替品が流通していない場合」とあるからです。つまり、国内に抗HIV薬がある以上は安い海外製品を取り扱うことはできないのです。
先に述べたようにPrEPについての問い合わせはほとんどが外国人からです。日本でPrEPをおこなうと年間150万円くらいと伝えると、全員が「そんな余裕はない」と言います。では彼(女)らは結局どうしているかというと、母国に帰国したときに大量に処方してもらうか、母国の病院から日本に送ってもらっているようです。海外では高くないのか、と疑問に思いますが、私の知る範囲では、特にアメリカではPrEPも保険適用になり非常に安い価格で購入できているようです。日本人はこの保険を利用できませんが、先に述べたタイの病院を使うという方法は考えてもいいかもしれません。私の知る限り、これを実践している人は現時点ではひとりもいませんが、今後タイに渡航しPrEP用に大量に抗HIV薬を購入する日本人が増えてくるかもしれません。
もちろん一番いいのは、日本でもPEPやPrEPを保険診療でおこなえるようにすることなのですが、これに反対意見が出るのは明らかです。日本では予防医療を保険適用にするという発想がありませんし、最近は次々と高価な薬(がんの免疫チェックポイント阻害薬やC型肝炎の薬)が登場したおかげで医療費が底をつき「国が滅びる」とまで言われています。このような情勢のなか、PEP、PrEPを保険で、というのはなかなか賛同が得られません。やはり「タイの地元病院への医療ツーリズム」が現実化するのでしょうか・・・。
参考:GINAと共に
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第81回(2013年3月)「レイプに関する3つの問題」
注1(2016年10月16日付記):
これを書いた時点(2016年5月)には、たしかに「大半の人」は実施に至らなかったのですが、その後数か月で実施する人が大きく増えてきています。これはPEPに対する安全性及び有効性が社会に広く知れ渡るようになったことが最大の原因でしょう。しかし大切なのは、「PEPに頼るのではなく、危険な行為を避けること」であることは言うまでもありません。
話を進める前にPEPとPrEPについてごく簡単に振り返っておきましょう。PEP(Post-Exposure Prophylaxis)は日本語では「曝露後予防」と呼ばれています。HIVが体内に入ってから72時間に薬を飲めば感染が成立しなくなるという治療法で、原則1ヶ月の内服を続けます。PrEP(Pre-Exposure Prophylaxis)は「曝露前予防」と呼ばれる予防法で、パートナーがHIV陽性者である場合におこなわれます。こちらは期限なしで毎日抗HIV薬を内服します。PrEPについての問い合わせは9割以上が外国人から、PEPは日本人からが7割くらいです。興味深いのは、日本人のPEPの問い合わせの3割程度が外国に居住している日本人ということです。
では、GINAや谷口医院に「PEP、PrEPを検討したい」と相談を寄せた人のなかでどれくらいの人が実際にこれら治療を開始したかというと、大半の人は結局おこなっていません(注1)。この最大の理由は「高すぎる費用」です。今回のコラムでその打開策となるかもしれない方法を紹介したいと思いますが、その前にPEP、PrEPで問い合わせをする人たちの特徴をみていきましょう。
一番多いのは「日本国内で危険な性交渉を持ってしまった」というケースです。たいていは「HIV感染の可能性があるからPEPを始めたい」と最初は言われるのですが、費用を聞いて諦める人がほとんどです。1ヶ月間内服を続ける必要があり、合計でおよそ25~30万円もかかります。レイプあるいはそれに近いケースでは、特に不安が強く、可能性があるならPEPを実施すべきと思われるケースも少なくないのですが、この費用を捻出できる人というのはそう多くありません。
レイプの被害者のことを考えると「レイプ被害者のためのPEP基金」というものがあればいいのですが、実際には困難でしょう。どこからをレイプとすべきかという問題があり、同意のもとの性交渉なのに、後からHIV感染が気になって「あれはレイプだった。だから基金のお金でPEPを受けさせてほしい」という人が必ず出てくるからです。警察に届け出てレイプと認定されたケースだけを対象にすればいいではないか、という意見があるかもしれませんが、認定の基準がありませんし、そもそもPEPは少しでも早く始めなければなりません。誰かの「認定」など待っている余裕はありません。
ただ、レイプ被害者をサポートするための社会的な活動は必要です。大阪には「性暴力救援センター・大阪(SACHICO)」という組織があり被害者の支えになっています。しかしこういった組織を知らない人も多いですし、知っていてもなかなか相談できないものです。また、最近は警察の「ウーマンライン」も充実していて、GINAに相談してきた人にこういったサービスの利用を勧めることも多いのですが、利用に躊躇する人も少なくありません。
また、これはあまり指摘されないことですが、男性のレイプ被害者に対する支援も必要でありながら、実際にはほぼおこなわれていません。男性のレイプ被害者には3つのケースがあります。1つは男性同性愛者で、いわゆるハッテンバに行き望まない性交渉を無理矢理おこなわれた、というもの。2つめは、ストレートの男性がサウナなどに行き、そのサウナがハッテンバであることを知らず、その場にいた男性に襲われるというケース。3つめが頻度は少ないですが、通常のマッサージのつもりで入った店で、マッサージ師が外国人(ほとんどアジア人)で言葉があまり通じず、望んでいないのに性サービスを受けさせられた(ゲイ、ストレート共に)、というものです。
最近は日本滞在中の外国人からの問い合わせが増えています。日本に来てハメを外してしまい、出会ったばかりの日本人女性とアバンチュールをもってしまった・・・というケースです。しかし、先に述べたように日本の薬の高さは想定外であるようで「1か月で30万円近く」というと全員が躊躇します。ただし、「帰国までの5日間のみ処方してほしい。あとは帰国後かかりつけ医に相談する」というケースが今後出てくるのではないか、と私はみています。
今のところ、私のところに問い合わせをしてくる外国人の全員が西欧の男性です。女性はこれまで皆無であり、これは、西欧人の女性が日本に来て日本人男性と性交渉の機会を持つことがその逆のパターンに比べて少ないからだと予想されます。またアジア人からの問い合わせは男女とも少数です。この理由は、アジアでは西洋ほどPEPが一般に知られていないことと、いくら円安とはいえ薬代は日本の方が遙かに高いことが原因ではないかと思われます。(ですから、予定を変更してすぐに帰国しPEPを始めているアジア人はいるかもしれません)
私が相談を受けるケースで、実際にPEPを開始することになるのは2つのパターンがあります。1つは医療従事者の針刺し事故です。針刺し事故の場合「労災」の適応になりますから費用はゼロで済みます。しかし副作用のリスクを抱えることになり、この点で躊躇する人は少なくありません。また、針刺しをした患者がHIVでない可能性が高いと判断した場合は必ずしも実施に至りません。実際にPEPを開始するのは、針刺しした患者がHIV陽性であることが判っている場合が大半です。
もうひとつ、実際にPEPを開始するのは、外国に住んでいる日本人です。海外からの問い合わせは圧倒的にタイからが多く、この理由はGINAがタイの支援をしていることだけではなく、それだけタイで性交渉をもつ日本人の男女が多いからでしょう。タイでは、全例ではありませんが、私に相談してきた人たちの多くがPEPを始めています。この理由はいくつかあり、タイの方が日本よりもHIV陽性者が多いこともありますが、やはり最大の理由は「費用が安い」ということです。病院にもよるようですが、外国人はまず利用しない地元のタイ人が訪れる病院であれば日本円で2~3万円で1ヶ月分の薬を処方してもらえるようです。
ここ数年、「医療ツーリズム」が流行しており、タイも力を入れています。全室個室で料理は複数から選べお酒のサービスまであるホテル並みの待遇が人気の理由で、欧米人やアラブ人がよく利用しています。日本人の場合は、保険を使って日本国内で治療を受けることを選択しますからあまりタイでこのような贅沢な医療サービスを利用する人は多くありませんが、保険の効かない分野、具体的には性転換手術や美容外科ではタイに渡航する日本人は大勢います。
今後安いPEPを求めてタイの病院、それは医療ツーリズムの代名詞のような豪華な病院ではなく、タイ人しか行かないような地域の病院を訪れる人が増えるかもしれません。LCCを利用して渡航し、1ヶ月分の薬をもらって一泊もせずにすぐに帰国すれば、飛行機代、薬代を入れて10万円でお釣りがくることもあるでしょう。日本で治療を受けたときの3分の1の費用で済むというわけです。
タイにはそれだけ安い抗HIV薬があるなら、それを日本の医療機関が輸入して日本の患者に処方すればいいではないか、という意見をときどき聞きます。結論を言えばこれは規則上できません。厚労省の通達に、医療機関が薬を輸入できるのは「国内に代替品が流通していない場合」とあるからです。つまり、国内に抗HIV薬がある以上は安い海外製品を取り扱うことはできないのです。
先に述べたようにPrEPについての問い合わせはほとんどが外国人からです。日本でPrEPをおこなうと年間150万円くらいと伝えると、全員が「そんな余裕はない」と言います。では彼(女)らは結局どうしているかというと、母国に帰国したときに大量に処方してもらうか、母国の病院から日本に送ってもらっているようです。海外では高くないのか、と疑問に思いますが、私の知る範囲では、特にアメリカではPrEPも保険適用になり非常に安い価格で購入できているようです。日本人はこの保険を利用できませんが、先に述べたタイの病院を使うという方法は考えてもいいかもしれません。私の知る限り、これを実践している人は現時点ではひとりもいませんが、今後タイに渡航しPrEP用に大量に抗HIV薬を購入する日本人が増えてくるかもしれません。
もちろん一番いいのは、日本でもPEPやPrEPを保険診療でおこなえるようにすることなのですが、これに反対意見が出るのは明らかです。日本では予防医療を保険適用にするという発想がありませんし、最近は次々と高価な薬(がんの免疫チェックポイント阻害薬やC型肝炎の薬)が登場したおかげで医療費が底をつき「国が滅びる」とまで言われています。このような情勢のなか、PEP、PrEPを保険で、というのはなかなか賛同が得られません。やはり「タイの地元病院への医療ツーリズム」が現実化するのでしょうか・・・。
参考:GINAと共に
第113回(2015年11月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~後編」
第81回(2013年3月)「レイプに関する3つの問題」
注1(2016年10月16日付記):
これを書いた時点(2016年5月)には、たしかに「大半の人」は実施に至らなかったのですが、その後数か月で実施する人が大きく増えてきています。これはPEPに対する安全性及び有効性が社会に広く知れ渡るようになったことが最大の原因でしょう。しかし大切なのは、「PEPに頼るのではなく、危険な行為を避けること」であることは言うまでもありません。
第118回(2016年4月) 障がい者の「性」と「不倫」
このところ週刊誌が有名人の不倫をスクープした記事が目立ちます。ここでそれらをいちいち述べていくことには意味がありませんからしませんが、私が奇異に感じるのは、「なんでみんなそんなに簡単に謝るの?」ということです。そもそもいったい誰に謝っているのかもよく分かりません。自分の奥さんに謝るのなら理解できますが、それは家庭内ですればいいことです。
政治家は公人だから許されないという考えは分からなくもありませんが、例えば私が支持している政治家がいたとして、不倫が発覚したとすれば、私はその政治家に愛想をつかして支持をやめるかというとおそらくそんなことはしません。最近報道された一連の不倫騒動のなかで、私が唯一、「これは一線を越えてしまっているな・・・」と感じたのは、育児休暇を取得して不倫に走っていた宮崎(元)議員くらいです。宮崎議員も育児休暇取得をしていなかったとすれば、国会議員を辞職する必要はなかったと思いますし、不倫報道に対しては「それが何か?」と言ってもよかったんじゃないかと思っています。それで人気がなくなり次回の選挙で落選すれば「その程度の議員」というだけの話です。
政治家の話は後でおこなうとして、先に芸能人について述べておきたいと思います。芸能人の不倫報道を視聴者が「楽しむ」のは問題ありません。私には関係ないことなので個人的にはさほど面白いと思いませんが、そういう報道を見聞きして楽しめる人がいるならそれはそれでいいと思います。その芸能人からすれば不本意であれエンターテナーとしてネタを提供しているとも言えるわけです。
歌舞伎役者にとって「(不倫は)芸の肥やし」ではなかったのでしょうか。それがいまや歌舞伎役者や大御所の落語家でさえも不倫や隠し子でバッシングを受ける時代となってしまいました。「不倫してあんたらに迷惑かけたんか? 女房と子供には謝るけどなんであんたらに謝らなあかんのや!」と報道者に文句を言う芸能人がいてもいいと思うのですが、なぜかそういう人はいません。「不倫」は字が示すとおり「倫理的でないこと」です。そして、一般人が不倫をすればたいていはその後の人生が不幸なものになります。私の周りにも不倫で自らの人生を壊滅させた者が何人もいます。不倫は芸能人に許される特権とまでは言いませんが、芸能人も含めて、週刊誌が厳しく不倫を取り締まる現在の日本は、自由のない「管理国家」のような気さえします。
政治家に話を戻します。先に述べたように育児休暇取得で有名になった張本人が不倫はたしかにマズイと思いますが、政治家が不倫をしてはいけないのでしょうか。田中角栄には何人もの愛人がいたそうですが、それが原因で失脚したわけではありません。フランスのオランド大統領は女優との不倫が発覚しましたが、これを非難する世論は皆無だったと聞きます。現在支持率が低下しているのは別の要因です。ミッテラン元大統領が、不倫について問われて「エ・アロール(それがどうした)」と答えたのは有名な話です。さすがに、イタリアの元大統領ベルルスコーニのように未成年の買春は完全に犯罪ですが・・・。
さて前置きが大変長くなりましたが、今回取り上げたいのは乙武洋匡氏の不倫報道です。不倫相手と海外旅行に行ったことが『週間新潮』にスクープされ、5人もの愛人がいることが発覚したとか・・。そして謝罪文を公表しています。乙武氏は自民党から立候補すると言われていましたから、周りの助言などもあり、このような謝罪をおこなったのかもしれません。
さて、果たして乙武氏が、今後政治家になると考えているとして、謝罪する必要があったのでしょうか。
障がい者を「普通ではない」と考えるのはたしかにある意味で間違っています。実際、乙武氏は自身の著書『五体不満足』で、「太っている人、やせている人。背の高い人、低い人。色の黒い人、白い人。そのなかに、手や足の不自由な人がいても、なんの不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」と述べています。
乙武氏が一貫して主張しているのが、手足がないのは「障がい」というよりも「身体的特徴」である、「かわいそう」と思われたくない、自分は「純真無垢」などではなく普通の男性だ、といったことです。これらは説得力があります。我々は手足のない人を「不幸」と決めつけてはいけませんし、確かにハンディキャップは「障がい」ではなく「身体的特徴」と見なすべきです。この点で私は乙武氏の主張に異論はありません。
しかし、背の低い人が取れない高いところにあるものを取ってあげたり、杖をついているお婆さんがバスに乗ろうとしているところを助けてあげたりすりことになんら不自然さはありませんし、そのようなサポートは誰もが積極的にすべきことです。
問題はここからです。「性」についてはどうでしょう。恋愛やセックスに対してハンディはないでしょうか。恋愛については、結婚したくでもできない男なんていくらでもいるんだから、障がいはハンディにならないんじゃないの、という人がいるかもしれませんが、私はそれは「きれいごと」だと思います。実際、乙武氏も著書のなかで「強がってみても、障害者の恋愛にハンデがあるのは動かしがたい事実だと思う」と述べています。
乙武氏が自ら語った5人の「愛人」を乙武氏が愛していたのかどうかは分かりませんが、仮に「愛」よりも「性欲」が勝っていたとすればどうでしょう。ここで当たり前だけどよく見逃されていることを思い出してください。乙武氏は、女性が大好きな普通の男性です。障がい者は「天使」でも「純粋無垢」でもありません。普通の男性には普通の「性欲」があります。医学的にみても定期的な射精は健康維持に必要です。身体的にも必要ですし、精神的にも必要です。
そして、乙武氏はひとりで射精ができないのです。自分の力でひとりで射精(自慰)がおこなえれば「性欲」のコントロールはかなりの部分で可能となります。ひとりで射精できない、奥さんは子供の世話でいっぱいで夫との性交渉に応じなくなった(実際に週刊誌ではそのように報じられています)だけでなく、射精の手伝いもできない、となると、ひとりで射精できない者は、やり場のない「性欲」をどうすればいいのでしょうか。
乙武氏はこれまで教育関係の仕事をしてきた実績があり、政治家に立候補すると言われています。子供たちに夢を与える立場の人間だからこそ糾弾されるべきであり、そういう意味では宮崎(元)議員と同じではないか、という声もあるでしょう。そして、「障がい」は単なる身体的特徴に過ぎないというなら、乙武氏の不倫に寛大になるのは「逆差別」ではないのか、という意見もあるかもしれません。また、乙武氏自身が、「不倫は不倫であり、障がいがあるからといって認められるものではない」という考えを持っているのかもしれません。
しかし、私はたとえ乙武氏の反感を買ったとしても、障がい者(特に自慰行為のできない障がい者)に対しては「性に寛容であるべき」と主張したいと思います。これは私の医師としての経験が関与しています。私はこれまで、脊髄損傷を含めて手足の自由を奪われた入院患者を大勢みてきました。こういったことはなかなか聞き出せませんが、かなりの長期間射精をしていないのではないかと思われる人も少なくありません。そして、このようなことは決して公にはなりませんが、一部の看護職・介護職の者、あるいは近親者、ときには母親が射精の手伝い(あるいはそれ以上のこと)をすることは実際にあります。
障がい者のケアをすると、いずれ「性欲」は深刻な問題であることに誰もが気づきます。そして、ニーズをくみ取ったサービス、例えば障がい者を対象とした性風俗業者や射精の手伝いをおこなう業者もあるようです。しかし、一方では、いまだに障がい者には性欲がないと思い「天使」「純粋無垢」のイメージを持っている人も少なくありません。
障がい者にも普通の「性欲」があり、自慰行為ができないために何らかの補助が必要。乙武氏のようにモテる障がい者の不倫には社会が寛容になり(ただし妻が寛容になるかどうかはまた別の話です)、外出困難などで性に縁の無い障がい者は性サービスを利用すべき、というのが私の考えです。さらに、障がい者の性サービスは保険適用としてもいいのではないか、とまで私は考えています。
乙武氏には、謝罪をおこなうのではなく、障がい者の性の苦悩を訴えてほしかった、そして同時に、性サービスを利用している(あるいはこれから利用する)障がい者、複数のパートナーがいる障がい者などに対してはHIVを含む性感染症への注意喚起をおこなってほしかった、と私は考えています。
最後に、乙武氏も著書で引用しているヘレンケラーの名言を記しておきます。
障害は不便である。しかし、不幸ではない。
参考:『五体不満足』乙武洋匡著 講談社
政治家は公人だから許されないという考えは分からなくもありませんが、例えば私が支持している政治家がいたとして、不倫が発覚したとすれば、私はその政治家に愛想をつかして支持をやめるかというとおそらくそんなことはしません。最近報道された一連の不倫騒動のなかで、私が唯一、「これは一線を越えてしまっているな・・・」と感じたのは、育児休暇を取得して不倫に走っていた宮崎(元)議員くらいです。宮崎議員も育児休暇取得をしていなかったとすれば、国会議員を辞職する必要はなかったと思いますし、不倫報道に対しては「それが何か?」と言ってもよかったんじゃないかと思っています。それで人気がなくなり次回の選挙で落選すれば「その程度の議員」というだけの話です。
政治家の話は後でおこなうとして、先に芸能人について述べておきたいと思います。芸能人の不倫報道を視聴者が「楽しむ」のは問題ありません。私には関係ないことなので個人的にはさほど面白いと思いませんが、そういう報道を見聞きして楽しめる人がいるならそれはそれでいいと思います。その芸能人からすれば不本意であれエンターテナーとしてネタを提供しているとも言えるわけです。
歌舞伎役者にとって「(不倫は)芸の肥やし」ではなかったのでしょうか。それがいまや歌舞伎役者や大御所の落語家でさえも不倫や隠し子でバッシングを受ける時代となってしまいました。「不倫してあんたらに迷惑かけたんか? 女房と子供には謝るけどなんであんたらに謝らなあかんのや!」と報道者に文句を言う芸能人がいてもいいと思うのですが、なぜかそういう人はいません。「不倫」は字が示すとおり「倫理的でないこと」です。そして、一般人が不倫をすればたいていはその後の人生が不幸なものになります。私の周りにも不倫で自らの人生を壊滅させた者が何人もいます。不倫は芸能人に許される特権とまでは言いませんが、芸能人も含めて、週刊誌が厳しく不倫を取り締まる現在の日本は、自由のない「管理国家」のような気さえします。
政治家に話を戻します。先に述べたように育児休暇取得で有名になった張本人が不倫はたしかにマズイと思いますが、政治家が不倫をしてはいけないのでしょうか。田中角栄には何人もの愛人がいたそうですが、それが原因で失脚したわけではありません。フランスのオランド大統領は女優との不倫が発覚しましたが、これを非難する世論は皆無だったと聞きます。現在支持率が低下しているのは別の要因です。ミッテラン元大統領が、不倫について問われて「エ・アロール(それがどうした)」と答えたのは有名な話です。さすがに、イタリアの元大統領ベルルスコーニのように未成年の買春は完全に犯罪ですが・・・。
さて前置きが大変長くなりましたが、今回取り上げたいのは乙武洋匡氏の不倫報道です。不倫相手と海外旅行に行ったことが『週間新潮』にスクープされ、5人もの愛人がいることが発覚したとか・・。そして謝罪文を公表しています。乙武氏は自民党から立候補すると言われていましたから、周りの助言などもあり、このような謝罪をおこなったのかもしれません。
さて、果たして乙武氏が、今後政治家になると考えているとして、謝罪する必要があったのでしょうか。
障がい者を「普通ではない」と考えるのはたしかにある意味で間違っています。実際、乙武氏は自身の著書『五体不満足』で、「太っている人、やせている人。背の高い人、低い人。色の黒い人、白い人。そのなかに、手や足の不自由な人がいても、なんの不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」と述べています。
乙武氏が一貫して主張しているのが、手足がないのは「障がい」というよりも「身体的特徴」である、「かわいそう」と思われたくない、自分は「純真無垢」などではなく普通の男性だ、といったことです。これらは説得力があります。我々は手足のない人を「不幸」と決めつけてはいけませんし、確かにハンディキャップは「障がい」ではなく「身体的特徴」と見なすべきです。この点で私は乙武氏の主張に異論はありません。
しかし、背の低い人が取れない高いところにあるものを取ってあげたり、杖をついているお婆さんがバスに乗ろうとしているところを助けてあげたりすりことになんら不自然さはありませんし、そのようなサポートは誰もが積極的にすべきことです。
問題はここからです。「性」についてはどうでしょう。恋愛やセックスに対してハンディはないでしょうか。恋愛については、結婚したくでもできない男なんていくらでもいるんだから、障がいはハンディにならないんじゃないの、という人がいるかもしれませんが、私はそれは「きれいごと」だと思います。実際、乙武氏も著書のなかで「強がってみても、障害者の恋愛にハンデがあるのは動かしがたい事実だと思う」と述べています。
乙武氏が自ら語った5人の「愛人」を乙武氏が愛していたのかどうかは分かりませんが、仮に「愛」よりも「性欲」が勝っていたとすればどうでしょう。ここで当たり前だけどよく見逃されていることを思い出してください。乙武氏は、女性が大好きな普通の男性です。障がい者は「天使」でも「純粋無垢」でもありません。普通の男性には普通の「性欲」があります。医学的にみても定期的な射精は健康維持に必要です。身体的にも必要ですし、精神的にも必要です。
そして、乙武氏はひとりで射精ができないのです。自分の力でひとりで射精(自慰)がおこなえれば「性欲」のコントロールはかなりの部分で可能となります。ひとりで射精できない、奥さんは子供の世話でいっぱいで夫との性交渉に応じなくなった(実際に週刊誌ではそのように報じられています)だけでなく、射精の手伝いもできない、となると、ひとりで射精できない者は、やり場のない「性欲」をどうすればいいのでしょうか。
乙武氏はこれまで教育関係の仕事をしてきた実績があり、政治家に立候補すると言われています。子供たちに夢を与える立場の人間だからこそ糾弾されるべきであり、そういう意味では宮崎(元)議員と同じではないか、という声もあるでしょう。そして、「障がい」は単なる身体的特徴に過ぎないというなら、乙武氏の不倫に寛大になるのは「逆差別」ではないのか、という意見もあるかもしれません。また、乙武氏自身が、「不倫は不倫であり、障がいがあるからといって認められるものではない」という考えを持っているのかもしれません。
しかし、私はたとえ乙武氏の反感を買ったとしても、障がい者(特に自慰行為のできない障がい者)に対しては「性に寛容であるべき」と主張したいと思います。これは私の医師としての経験が関与しています。私はこれまで、脊髄損傷を含めて手足の自由を奪われた入院患者を大勢みてきました。こういったことはなかなか聞き出せませんが、かなりの長期間射精をしていないのではないかと思われる人も少なくありません。そして、このようなことは決して公にはなりませんが、一部の看護職・介護職の者、あるいは近親者、ときには母親が射精の手伝い(あるいはそれ以上のこと)をすることは実際にあります。
障がい者のケアをすると、いずれ「性欲」は深刻な問題であることに誰もが気づきます。そして、ニーズをくみ取ったサービス、例えば障がい者を対象とした性風俗業者や射精の手伝いをおこなう業者もあるようです。しかし、一方では、いまだに障がい者には性欲がないと思い「天使」「純粋無垢」のイメージを持っている人も少なくありません。
障がい者にも普通の「性欲」があり、自慰行為ができないために何らかの補助が必要。乙武氏のようにモテる障がい者の不倫には社会が寛容になり(ただし妻が寛容になるかどうかはまた別の話です)、外出困難などで性に縁の無い障がい者は性サービスを利用すべき、というのが私の考えです。さらに、障がい者の性サービスは保険適用としてもいいのではないか、とまで私は考えています。
乙武氏には、謝罪をおこなうのではなく、障がい者の性の苦悩を訴えてほしかった、そして同時に、性サービスを利用している(あるいはこれから利用する)障がい者、複数のパートナーがいる障がい者などに対してはHIVを含む性感染症への注意喚起をおこなってほしかった、と私は考えています。
最後に、乙武氏も著書で引用しているヘレンケラーの名言を記しておきます。
障害は不便である。しかし、不幸ではない。
参考:『五体不満足』乙武洋匡著 講談社
第117回(2016年3月) HIVに伴う認知症をどうやって予防するか
最近物忘れがひどくなってきたように思います。他人の名前がすぐに思い出せなかったり、友達と会う予定の日を1日間違えたりすることがあるんです。認知症でしょうか・・・。
これは50代男性のHIV陽性の患者さんから最近受けた質問です。この患者さんがHIV陽性であることが分かって9年が経過します。比較的早い段階で抗HIV薬を開始することになり、服薬を開始して6年以上が経過しています。(抗HIV薬の処方については、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではおこなっておらず、エイズ拠点病院にお願いしています。谷口医院では、この患者さんのように抗HIV薬の処方以外のことで症状や悩みを聞いています)
他人の名前がすぐに思い出せない。予定を勘違いする。こういったことは誰にでもあり、このようなエピソードが少々増えてきたからといって認知症の診断がつくわけではありません。しかしながら、HIV陽性の人に対しては、エイズを発症しておらず、またCD4を代表とする免疫系の数値が安定化していたとしても、認知症の可能性を考慮しなければならなくなってきました。
HIVに感染してもきちんと薬を飲んでいればエイズを発症しない。もはやHIVは「死に至る病」ではなく高血圧や糖尿病と同じような慢性疾患だ・・・
このようなことが、すぐれた抗HIV薬が複数登場しだした2000年代半ばあたりから盛んに言われるようになりました。飲み忘れれば薬が効かなくなるが、きちんと内服を続けてさえいれば免疫力は下がらない。だから寿命はまっとうできるんだ、という理屈です。
実際、HIV陽性者の死因がエイズであったのは遠い過去の話で、現在は心筋梗塞など生活習慣病が原因の心血管系の疾病か悪性腫瘍(がん)であることが多く、これらに気をつけることが抗HIV薬の服薬遵守の次に重要である、と言われています。HIV陽性者は感染していない人に比べて喫煙率が高く、またHIVに感染したこと及び抗HIV薬の影響で中性脂肪が増加するなどで心血管系疾患のリスクが高いのは事実です。
では、HIV陽性者は薬の服薬を忘れないようにして、生活習慣病に気をつけていればそれで充分なのか・・・。ここ数年の研究はそれでは不十分であることを物語っています。それは、HIVに感染すれば、認知症を含むなんらかの認知機能障害が高頻度で起こりうることが分かってきたからです。
HIVに関連する認知機能障害はHAND(HIV-associated neurocognitive disorders、HIV関連神経認知障害)と呼ばれます(そのまま「ハンド」と読みます)。
HANDは3つに分類できます。最重症は、HIV認知症(HIV-associated dementia, HAD)で、これはとてもひとりでは生活ができないほどの認知症です。家族の顔が分からなかったり、徘徊したりする人もいます。HIV陽性者に対する介護の問題は最近よく話題になります。何が問題かというと、きちんとケアできる訪問看護師や介護士の数が圧倒的に少なく、またHADを発症しているHIV陽性者には終日ケアできる家族やパートナーがいないことなどもあり、現実として、現在日本でHADを発症している人の多くは入院しています。
2つめは、軽度神経認知障害(mild neurocognitive disorder, MND)と呼ばれるものです。「軽度」とついていますが、自立は困難であり、日常生活に何らかの支障がでていることが多く支援が必要となります。医療者に加え、家族やパートナーの協力が必要になりますが、適切な支援が得られず孤立することがあり、この問題は今後さらにクローズアップされるでしょう。
3つめは無症候性神経認知障害(asymptomatic neurocognitive impairment, ANI)と呼ばれるもので、日常生活上ではあまり症状が見られず自覚もないものの「神経心理試験」という認知症の初期におこなう試験で異常がみつかります。
では、HIV陽性者のどの程度がHANDと呼ばれる状態になっているのでしょうか。現在よく引き合いに出されるのが、2010年に米国で実施された「CHARTER」と呼ばれる大規模研究です。この研究の対象者はHIV陽性者合計1,555人です。結果は、HAND全体では47%。最重症のHADは2%、MNDが12%、軽症のANIが33%です。
日本の研究もあります。「J-HAND研究」と呼ばれるもので現在も継続されています。最終的な数値はまだ出ていませんが、これまでの状況から日本でのHAND有病率は約25%と推定されています。日本の有病率が米国の半分である理由についてはよく分かっていませんが、私の私見を述べると、日本人は米国人に比べてHIV感染が早期発見されていることが多く、きちんと服薬できているからではないかと考えています。
HANDの最大のリスクは、長期間免疫状態が悪化していることです。つまり、HIVに感染していることに気づかず、無治療でいた期間が長ければ長いほどHANDのリスクも上がるのです。そういう意味では、将来のHANDのリスクを下げるためにも一層の早期発見に努めることが重要と言えるでしょう。
しかし、早期発見できたとしてもHANDを完全に防ぐことができるわけではありません。なぜきちんと治療を受けていてもHANDが生じるのか。この理由ははっきりとは分かっていませんが、おそらく「HIVに感染した脳神経細胞の機能不全」だと思われます。ですから、脳細胞に多くのウイルスが浸入することを防ぐためにも可能な限りの早期発見・早期治療が必要なのです。
2015年9月30日、WHO(世界保健機関)が「どのような状態であれHIV陽性者は可及的速やかに投薬を開始すべきである」という声明を発表しました(注1)。「無症状だし、CD4レベルを含めて免疫状態が安定しているんだからまだ薬を開始したくない」、という人もいますが、HANDのことを考えるとやはり早期の服薬を検討した方がいいでしょう(注2)。
先にも述べたように2000年代の中頃には「HIVは慢性疾患のひとつだ」とよく言われていました。私自身も、HIVは毎日薬を飲むのが大変・・、という人に対して、「あなたの周りに高血圧や糖尿病の人はいないですか。彼(女)らと同じように毎日薬を飲むのと同じことですよ。いえ、むしろ糖尿病の人のように1日に何度も注射をするよりずっと簡単じゃないですか」と言ってきました。
ところで高血圧や糖尿病の人も、重症化しなければ、あるいは重症化しても服薬でコントロールできるようになれば、自覚症状が生じるわけではありません。ではなぜ薬を飲まなければならないのかというと、動脈硬化を予防して心筋梗塞や脳梗塞といった心血管系の疾患を予防するためです。そして、動脈硬化が進行すれば認知症が生じることが分かっています。認知症で最も多いのはアルツハイマー病ですが、動脈硬化に起因する認知症はその次に多いのです。
ということは、高血圧や糖尿病、あるいは高脂血症といった生活習慣病のある人は、心血管の疾患だけでなく認知症を予防するためにも、きっちりと薬を飲み、さらに食事療法や運動療法にも取り組まなければならないわけです。禁煙も当然おこなわなければなりません。
これを読まれている人がHIV陽性の人なら、私の言わんとしていることはもうお分かりでしょう。私は日頃、HIV陽性の人に、「HIVに感染すると中性脂肪が高くなるなどで動脈硬化のリスクが上がり、抗HIV薬の服薬を開始すると今度は薬の影響で動脈硬化が起こりやすくなる。HIVに感染すると、感染していない人よりも動脈硬化のリスクが上昇するのは間違いない。HIV陽性者の死因がエイズでなく心疾患系疾患が多くなったのは、すぐれた薬のおかげでエイズを発症しなくなったということもあるが、心血管系疾患が増えているというのも事実である。だから動脈硬化を予防するために、運動、食事に気をつけましょう。タバコなどもってのほかです!」という話をよくします。
そして、動脈硬化を予防することがそのままHANDの予防につながるのもまた事実なのです。ということは、将来起こりうるかもしれないHANDに対する不安に悩まされるのではなく、認知症のリスクを少しでも下げるために、規則正しい生活や運動、禁煙をしっかりとおこなうことが現時点でおこなうべき最善のことなのです。
注1:注1:詳しくは下記を参照ください。
GINAと共に第112回(2015年10月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~前編」
注2:ただし日本では更生医療の制度上の問題があります。現在の制度では、CD4が500/uL以上あれば更生医療が適応されず、その場合3割負担で抗HIV薬の処方を受けねばならないため服薬開始になかなか踏み切れないのです。
これは50代男性のHIV陽性の患者さんから最近受けた質問です。この患者さんがHIV陽性であることが分かって9年が経過します。比較的早い段階で抗HIV薬を開始することになり、服薬を開始して6年以上が経過しています。(抗HIV薬の処方については、私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではおこなっておらず、エイズ拠点病院にお願いしています。谷口医院では、この患者さんのように抗HIV薬の処方以外のことで症状や悩みを聞いています)
他人の名前がすぐに思い出せない。予定を勘違いする。こういったことは誰にでもあり、このようなエピソードが少々増えてきたからといって認知症の診断がつくわけではありません。しかしながら、HIV陽性の人に対しては、エイズを発症しておらず、またCD4を代表とする免疫系の数値が安定化していたとしても、認知症の可能性を考慮しなければならなくなってきました。
HIVに感染してもきちんと薬を飲んでいればエイズを発症しない。もはやHIVは「死に至る病」ではなく高血圧や糖尿病と同じような慢性疾患だ・・・
このようなことが、すぐれた抗HIV薬が複数登場しだした2000年代半ばあたりから盛んに言われるようになりました。飲み忘れれば薬が効かなくなるが、きちんと内服を続けてさえいれば免疫力は下がらない。だから寿命はまっとうできるんだ、という理屈です。
実際、HIV陽性者の死因がエイズであったのは遠い過去の話で、現在は心筋梗塞など生活習慣病が原因の心血管系の疾病か悪性腫瘍(がん)であることが多く、これらに気をつけることが抗HIV薬の服薬遵守の次に重要である、と言われています。HIV陽性者は感染していない人に比べて喫煙率が高く、またHIVに感染したこと及び抗HIV薬の影響で中性脂肪が増加するなどで心血管系疾患のリスクが高いのは事実です。
では、HIV陽性者は薬の服薬を忘れないようにして、生活習慣病に気をつけていればそれで充分なのか・・・。ここ数年の研究はそれでは不十分であることを物語っています。それは、HIVに感染すれば、認知症を含むなんらかの認知機能障害が高頻度で起こりうることが分かってきたからです。
HIVに関連する認知機能障害はHAND(HIV-associated neurocognitive disorders、HIV関連神経認知障害)と呼ばれます(そのまま「ハンド」と読みます)。
HANDは3つに分類できます。最重症は、HIV認知症(HIV-associated dementia, HAD)で、これはとてもひとりでは生活ができないほどの認知症です。家族の顔が分からなかったり、徘徊したりする人もいます。HIV陽性者に対する介護の問題は最近よく話題になります。何が問題かというと、きちんとケアできる訪問看護師や介護士の数が圧倒的に少なく、またHADを発症しているHIV陽性者には終日ケアできる家族やパートナーがいないことなどもあり、現実として、現在日本でHADを発症している人の多くは入院しています。
2つめは、軽度神経認知障害(mild neurocognitive disorder, MND)と呼ばれるものです。「軽度」とついていますが、自立は困難であり、日常生活に何らかの支障がでていることが多く支援が必要となります。医療者に加え、家族やパートナーの協力が必要になりますが、適切な支援が得られず孤立することがあり、この問題は今後さらにクローズアップされるでしょう。
3つめは無症候性神経認知障害(asymptomatic neurocognitive impairment, ANI)と呼ばれるもので、日常生活上ではあまり症状が見られず自覚もないものの「神経心理試験」という認知症の初期におこなう試験で異常がみつかります。
では、HIV陽性者のどの程度がHANDと呼ばれる状態になっているのでしょうか。現在よく引き合いに出されるのが、2010年に米国で実施された「CHARTER」と呼ばれる大規模研究です。この研究の対象者はHIV陽性者合計1,555人です。結果は、HAND全体では47%。最重症のHADは2%、MNDが12%、軽症のANIが33%です。
日本の研究もあります。「J-HAND研究」と呼ばれるもので現在も継続されています。最終的な数値はまだ出ていませんが、これまでの状況から日本でのHAND有病率は約25%と推定されています。日本の有病率が米国の半分である理由についてはよく分かっていませんが、私の私見を述べると、日本人は米国人に比べてHIV感染が早期発見されていることが多く、きちんと服薬できているからではないかと考えています。
HANDの最大のリスクは、長期間免疫状態が悪化していることです。つまり、HIVに感染していることに気づかず、無治療でいた期間が長ければ長いほどHANDのリスクも上がるのです。そういう意味では、将来のHANDのリスクを下げるためにも一層の早期発見に努めることが重要と言えるでしょう。
しかし、早期発見できたとしてもHANDを完全に防ぐことができるわけではありません。なぜきちんと治療を受けていてもHANDが生じるのか。この理由ははっきりとは分かっていませんが、おそらく「HIVに感染した脳神経細胞の機能不全」だと思われます。ですから、脳細胞に多くのウイルスが浸入することを防ぐためにも可能な限りの早期発見・早期治療が必要なのです。
2015年9月30日、WHO(世界保健機関)が「どのような状態であれHIV陽性者は可及的速やかに投薬を開始すべきである」という声明を発表しました(注1)。「無症状だし、CD4レベルを含めて免疫状態が安定しているんだからまだ薬を開始したくない」、という人もいますが、HANDのことを考えるとやはり早期の服薬を検討した方がいいでしょう(注2)。
先にも述べたように2000年代の中頃には「HIVは慢性疾患のひとつだ」とよく言われていました。私自身も、HIVは毎日薬を飲むのが大変・・、という人に対して、「あなたの周りに高血圧や糖尿病の人はいないですか。彼(女)らと同じように毎日薬を飲むのと同じことですよ。いえ、むしろ糖尿病の人のように1日に何度も注射をするよりずっと簡単じゃないですか」と言ってきました。
ところで高血圧や糖尿病の人も、重症化しなければ、あるいは重症化しても服薬でコントロールできるようになれば、自覚症状が生じるわけではありません。ではなぜ薬を飲まなければならないのかというと、動脈硬化を予防して心筋梗塞や脳梗塞といった心血管系の疾患を予防するためです。そして、動脈硬化が進行すれば認知症が生じることが分かっています。認知症で最も多いのはアルツハイマー病ですが、動脈硬化に起因する認知症はその次に多いのです。
ということは、高血圧や糖尿病、あるいは高脂血症といった生活習慣病のある人は、心血管の疾患だけでなく認知症を予防するためにも、きっちりと薬を飲み、さらに食事療法や運動療法にも取り組まなければならないわけです。禁煙も当然おこなわなければなりません。
これを読まれている人がHIV陽性の人なら、私の言わんとしていることはもうお分かりでしょう。私は日頃、HIV陽性の人に、「HIVに感染すると中性脂肪が高くなるなどで動脈硬化のリスクが上がり、抗HIV薬の服薬を開始すると今度は薬の影響で動脈硬化が起こりやすくなる。HIVに感染すると、感染していない人よりも動脈硬化のリスクが上昇するのは間違いない。HIV陽性者の死因がエイズでなく心疾患系疾患が多くなったのは、すぐれた薬のおかげでエイズを発症しなくなったということもあるが、心血管系疾患が増えているというのも事実である。だから動脈硬化を予防するために、運動、食事に気をつけましょう。タバコなどもってのほかです!」という話をよくします。
そして、動脈硬化を予防することがそのままHANDの予防につながるのもまた事実なのです。ということは、将来起こりうるかもしれないHANDに対する不安に悩まされるのではなく、認知症のリスクを少しでも下げるために、規則正しい生活や運動、禁煙をしっかりとおこなうことが現時点でおこなうべき最善のことなのです。
注1:注1:詳しくは下記を参照ください。
GINAと共に第112回(2015年10月)「HIV治療の転換~直ちに投薬、PEP、PrEP~前編」
注2:ただし日本では更生医療の制度上の問題があります。現在の制度では、CD4が500/uL以上あれば更生医療が適応されず、その場合3割負担で抗HIV薬の処方を受けねばならないため服薬開始になかなか踏み切れないのです。