GINAと共に

第141回(2018年3月) 美しき同性愛~その2~

 今から12年前の2006年、私はこの「GINAと共に」の第3回で「美しき同性愛」と題したコラムを公開しました。チャイコフスキーをはじめとする優れた芸術家に同性愛者が多いことを紹介し、同性愛者というだけで社会から差別や偏見を受けるのはおかしい、ということを主張しました。

 その後12年の月日が流れ時代は変わりました。オバマ前大統領は2012年11月7日、再選時のスピーチで、誰にでもチャンスがあるという文脈のなかで、「ゲイでもストレートでも...」と発言しました。自身がLGBTであることをカムアウトする政治家や企業家が次々と現れました。ルクセンブルクのグザヴィエ・ベッテル首相は男性パートナーと結婚、アップル社のCEO(最高経営責任者)であるティム・クック氏は自らがゲイであることを公表しました。

 米国連邦最高裁は2015年6月、「全米のすべての州で同性婚を合法化する」と明言し、事実上米国では同性婚が認められたことになります。世界中の先進国の多くが、同性婚もしくはPACS(詳しくは「GINAと共に」第71回「オバマの同性婚支持とオランドのPACS」参照)を認めるなか、アジアは遅れていましたが、台湾では事実上ほぼ同性婚が合法化されました。

 日本も動きました。2015年度から東京都渋谷区が「パートナーシップ証明書」を発行し、同性のパートナーが保証人になれないなどの不利益を被らないような措置がとられるようになりました。その後、世田谷区、伊賀市、宝塚市、那覇市、札幌市、福岡市と続き、なんと大阪市までもがこの制度の導入を検討していることが報道されました。(大阪は革新的な街のように言われることがありますが、30年以上住んでいる私の"実感"としては保守的で排他的な部分も多く、大阪でパートナーシップ制度が導入されるとは思っていませんでした)

 先日、自らのセクシャリティをカムアウトしLGBTのための社会活動をおこなっている人と話す機会があり、最近の動向を聞いてみると、やはり一部では「LGBTブーム」とも呼べる現象が起こっているとのことです。ですが、一方では、まだまだ根強い偏見があり、日々傷ついているLGBTも多くいます。

 一方「傷つけている側」も意図的に差別的な言動をしているわけではなく、どのように接していいかわからない、と感じている人が多いと聞きます。今まで周りにLGBTの人たちがいなかったからどうしていいか分からない、というコメントはおそらくホンネでしょう。実際には周囲にLGBTの人たちがいなかったのではなく、その人が気づかなかっただけなのですが...。

 今回のコラムは、12年ぶりに世界の有名人、特にミュージシャンにLGBTが多いという事実を振り返り、同性愛を身近なものに考えてもらうことを目的としています。ただし、音楽には私の個人的偏りがあることをあらかじめ断っておきます。

 あのアーティストも?、えっ、彼らも?!、と、こんなにもLGBTのアーティストが多いということを私が知ったのは90年代前半からです。80年代後半からディスコやクラブに入りびたり、一時はDJを目指すことも考えたことのある私は、当時必死でレコードを集めていました。そのなかで、「〇〇はゲイ、△△はレズビアン」という話をよく耳にするようになったのです。

 私が知る限り、最も古いゲイのメンバーからなるユニットは「ヴィレッジピープル(Village People)」です。この名前でピンとこないという人も、西城秀樹さんがカバーした「ヤングマン(YMCA)」を知っている人は多いでしょう。その原曲「YMCA」がヴィレッジピープルのものです。80年代のディスコに通っていた人は、YMCA以外に、「Go West」「In The Navy」「Can't Stop The Music」「Macho Man」あたりを聞けばなつかしくなるはずです。「In The Navy」は日本のピンクレディがカバーしました。「Go West」は、やはりゲイであることをカムアウトした「ペットショップボーイズ(Pet Shop Boys)」がカバーしています。Go Westは、保守的で同性愛に寛容でない米国東部からリベラルな西海岸を目指せ、という意味があると言われています。

 80年代にマハラジャに入り浸っていた人は、ブロンスキー・ビート(Bronski Beat)の「Hit That Perfect Beat」を懐かしく感じるはずです。サビの部分が「ビンボー、ビンボー、イタカジビンボー」と聞こえるあの曲です。彼は早くから自身がゲイであることを公表していました。

 ディスコサウンドで言えば、当時ハイエナジーと呼ばれていたジャンルにシルヴェスター(Sylvester)の「Do you wanna funk」という有名な曲があります。シルヴェスターも早くからゲイであることを公表し、1988年にエイズで他界しました。

 ディスコ/クラブサウンド以外のいわゆる「ポップス」と呼ばれるジャンルのアーティストにも80年代からゲイは少なくありません。カルチャークラブのボーイ・ジョージ(Boy George)は有名ですし、カジャグーグーのヴォーカリスト、リマール(Limahl)もゲイであることを公表しました。2016年に自宅で他界したワムのジョージ・マイケル(George Michael)もゲイであることを公表していました。ワムの代表曲のひとつ「Last Christmas」はこれからも全世界のクリスマスで流されるでしょう。そして、ジョージ・マイケルが他界したのはクリスマスの日です。

 私にはあまり馴染みのないジャンルでよく知っているわけではないのですが、45歳という若さで1991年にエイズで他界したフレディ・マーキュリー、グラミー賞を受賞し俳優としても有名で2016年に亡くなったデヴィッド・ボウイ、UKの国民的スターともいえるエルトン・ジョン、現在世界の誰もが知る2015年にグラミー賞4部門を受賞しアルバムの売り上げでギネスブックにも載ったサム・スミスらがゲイであることは有名です。

 話をディスコ/クラブシーンに戻します。80年代のディスコシーンを語るとき、デッド・オア・アライブは外せません。代表曲を5つ挙げるとすれば、「Brand New Lover」「Something in My House」「You Spin Me Round」「My Heart Goes Bang」「Turn Around And Count 2 Ten」あたりでしょうか。今も、これらのサウンドのイントロが流れただけで、当時のミラーボールや「お立ち台」を思い出すという人は少なくないはずです。私は那覇のディスコ「スクランブル」とコザ(沖縄市)の「ピラミッド」が蘇ります。ヴォーカルのピート・バーンズ(Pete Burns)は、当時から美しいファッションとメイクアップに身をまとった美しい男性でした。女性との噂が絶えず、また実際に女性と結婚しましたからゲイではないと思われていましたが、その後離婚し、男性パートナーとの同居を始めました。しかし、全盛期のような華やかな暮らしに戻ることはなく、最期には金銭的にも困窮し、2016年に自宅で他界しました。

 ペットショップボーイズのニール・テナント(Neil Tennant)がゲイであることをカムアウトしたのは90年代半ばです。私はこのニュースを聞いたときに、次々と懐かしいダンスフロアのシーンが蘇ってきました。「Suburbia」は那覇の「コナ・ガーデン」、「Always on My Mind」は大阪ミナミのダイヤモンドビルのマハラジャ、「It's a Sin」はヨーロッパ通りの「マハラジャ・ウエスト」...、といった感じです。「Go West」が流行ったのは私が医学部の受験勉強をしていた頃で、クラブシーンではなく勉強ばかりの日々を思い出します。

 ペットショップボーイズの「New York City Boy」が流行った99年は、医学部の学生時代でクラブに行く時間はありませんでしたが、レコードを買い自宅で他のハウスサウンドとミックスして楽しんでいました。そういえば、「New York City Boy」のRemixを手掛けた一人がデビッド・モラレス(David Morales)。彼もカムアウトはしていないもののゲイという噂があります。この頃のハウスサウンドで、私がよくレコードをつないでいた(といっても自宅で、ですが)アーティスト(Remixer)にフランキー・ナックルズ(Frankie Knuckles)がいます。彼もまたゲイで2014年に他界しました。2000年前後の当時、私はハウスサウンドに馴染みがないという友人たちに、自分でミックスしたオリジナルMDを聞かせていました。自分の好きな音楽の"押し売り"はやめるべきですが、当時のハウスサウンドの重低音に美しいピアノの旋律が重なるあの"興奮"を多くの人に体験してもらいたかったのです。

 当時のハウスサウンドが好きでたまらないという人は、ニューヨークやシカゴのクラブを「聖地」のように言います。残念ながら私は訪れたことがありませんが、実際にそういった経験のある人達から聞いたのは「有名なクラブに集まるのはほとんどゲイ、レズビアン(か黒人)でストレートはわずかしかいない」ということです。ロンドン好きの人たちからも同じことを聞きましたし、12年前のコラムで述べたように、すごく洒落たロンドンのカフェに入ったとき、ほぼ全員がゲイであったことに驚いた経験が私にもあります。

 私は今も数百枚のダンスミュージック関連のアナログレコードを保有しています。そして、それらの半数以上はLGBTの人たちに手掛けられたものかもしれません。こんな私がLGBTを悪くいう意見に反発したくなるのは当然ですが、今回のコラムで取り上げたミュージシャンに思い出があるという人もLGBTをよりフレンドリーに感じてもらえれば書き手の私としてはとても嬉しく思います。

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第140回(2018年2月) 医療者がHIVの針刺し事故を起こしたとき

 2004年7月、タイのエイズ施設でボランティアを開始してちょうど1週間が経過した日、点滴の針をある男性患者さんの左腕に刺入しようとしたその瞬間、男性が突然身体を動かし、針先が男性の皮膚をかすめ、私の指先に刺さりました。

 それまでの研修医時代に針刺しをしたことが何度かありました。採血や点滴での針刺しや手術の際に縫合針を指に当ててしまい出血したこともあります。ですが、日本で針刺ししたのは子供や高齢者だけだったこともあり、念のためにHIVやC型肝炎ウイルス(HCV)に感染していないことをその後の採血で確認しましたが、HCVはともかくHIVに感染することはほぼあり得ないだろうと考え、特に不安になることはありませんでした。

 ですが、エイズを発症している患者さんに対して針刺し事故を起こしたとなると然るべき対処をしなければなりません。私は冷静になって考えてみました。針は男性の皮膚をかすめたが刺さったわけではない。男性も針が触れただけで痛みは感じなかったと言っている。感染の可能性はあるのか...。この段階であれば、たとえHIVが私の体内に入ったとしても直ちにPEP(曝露後予防)を実施すれば感染成立を防ぐことができます。これからPEPとして4週間薬を飲むべきか、あるいは感染の可能性はないと判断していいのか...。

 私は当時ボランティアに来ていたベルギー人の医師に相談しました。「その程度で感染することはありえない。したがってPEPは不要」が、その医師のコメントであり、私もその判断に同意できたためその時は安心しました。

 ところが、です。いったん安心したはずなのに、ふとしたときに‶不安"が蘇ってくるのです。この不安感はときに睡眠や食欲を妨げます。その度に私は冷静になるよう努め、そのときの状況を思い出し、ベルギー人医師の助言を反芻し、理論的に感染の可能性はほぼゼロであることを自分に言い聞かせました。

 その後、不安感は徐々に小さくなっていきましたが、完全にすっきりすることがなかったために、結局私は血液検査をおこないHIVに感染していないことを確認しました。HCVも梅毒もHTLV-1も陰性で、これで完全に安心することができるようになりました。(B型肝炎ウイルス(HBV)はワクチン接種して抗体形成が確認できていますから検査は不要です)

 さて、この私の経験では、理論的に考えて感染しているはずがないと言えるわけですが、感染の可能性が客観的にみて「ある」場合はどうすればいいのでしょうか。例えば、患者さんがHIV陽性の可能性が否定できないケースで、実際に患者さんの血液が付着した針や医療器具が自身に刺さった場合です。医師、歯科医師、看護師、歯科衛生士のみならず、器具を片付ける看護助手や歯科助手、あるいは清掃業のスタッフにも可能性がでてきます。

 日本でも実際に、針刺し事故でのHIV感染による死亡例の報告があります。2001年9月8日の読売新聞によると、東京都内の大学病院の50代男性の清掃作業員が、体調不良で2001年5月に医療機関を受診した結果、HIVに感染しエイズを発症していることが判明しました。治療が間に合わず、その数日後に死亡したと報じられています。報道によれば、この男性は「病院の手術室で清掃中に何回も注射針などで針刺しがあった」と証言していたそうです。

 この男性の感染ルートが本当に手術室での針刺しによるものだったかどうかは調べようがありません。ですが、現在医療業務に従事している者は日々感染のリスクに晒されているのは事実です。過去にも述べたことがあるように、日本では多くのHIV陽性の患者さんは、自身が感染していることを医療者に"隠して"受診しています。それに、自らの感染に気付いていない人も大勢います。

 もしも、針刺しをした患者さんがHIV陽性が確実であれば、その患者さんの血中ウイルス量に関係なくPEPを実施します。そして、これは通常「労災」の適用となります。4週間、毎日同じ時間に(標準的なPEPだと1日2回)薬を飲むのは思いのほか大変ですし、薬の副作用もないわけではありませんが、もしも感染してしまったときのことを考えると、余程のことがない限りPEPは実施すべきです。労災が適用されるわけですから自己負担はゼロです。

 では、針刺しをした患者さんがHIV陽性かどうか不明な場合はどうすればいいでしょうか。一番いいのは、その場で患者さんに事情を話し、採血をさせてもらうことです。ですが、これには2つの問題があります。1つめは患者さんから同意を得るのが困難ということです。「今、針刺しをしてあなたの血液が私の体内に入った可能性があります。あなたがHIV陽性なら私はPEPをしなければなりません。というわけであなたがHIVに感染していないかどうかを調べさせてもらっていいですか」といったことは気軽に言えませんし、言えたとしても、どれだけの人がこの申し入れに同意するでしょうか。

「オレがHIVに感染していると考えてるのか、失礼な!!」、と怒り出す患者さんもいるかもしれません。「HIV? 大丈夫だと思うけど、もし感染していたらどうしよう...。急に検査しろと言われても決心がつかないよ...」と考える人もいるでしょう。

 もうひとつの問題は、患者さんから同意を得て検査を実施し、結果が陰性だったとしても果たしてそれが信用できるか、というものです。長期入院している患者さんなら検査結果は正確でしょうが、例えば入院してまだ1週間とか、あるいは外来の患者さんの場合、検査で陰性だったとしても2週間前に感染していたという可能性が残ります。「2~3週間以内に危険な性交渉はありませんでしたか?」といった質問はそう簡単にできるものではありません。

 実際には、これら2つの理由から、針刺しをすると患者さんの検査をすることなくPEPを開始することもあります。この場合「大きな問題」があります。それは「費用」です。現行のルールでは、針刺しした患者さんがHIV陽性であることを証明できなければ労災が適用されません。ということは、高額な薬剤費(およそ1日1万円)が自己負担となります。大切な従業員のもしものためにクリニック/病院で全額負担する、と考える院長・理事長ばかりではありません。PEPをしたかったら自分のお金ですれば?と冷たく突き放されている医療者が残念ながらいるのです。

 私が院長をつとめる(医)太融寺町谷口医院にもそのような医療者(最多は歯科衛生士、次に多いのが医師と看護師)がときどき受診します。なんと、上司や院長に相談しても取り合ってくれなかったというのです。あるいは、相談してもどうせムダだから...、と言って上司に相談することなく受診する人もいます。

 こういった場合、針刺しをした患者さんがHIV陽性の可能性はどの程度あるのか、そして本当に感染リスクのある針刺しだったのかどうかについて検討することになります。患者さんについては10代後半から70代前半くらいであれば性別、職業、既婚・未婚、見た目の雰囲気などに関わらず感染している可能性はありますから、除外できるのは後期高齢者と小児くらいです。針刺し時の感染リスク評価については、冒頭で述べた私のような体験であれば、ちょうど私がベルギー人の医師に助言をもらったように、心配ないことを説明します。ですが明らかな針刺しの場合はPEPを開始することになります。

 このようなケースでPEPを実施した場合、時間が経過してからでも針刺しをした患者さんにきちんと話をして検査をお願いするよう助言します。先述したように検査に躊躇する患者さんが多いのは事実ですが、時間がたてば許可してくれる人もいます。その検査結果が陰性であった場合、その時点でPEPを中止できます。

 ですが1日およそ1万円の自己負担は短期間であったとしても大変です。労災の基準が変わることを待つのではなく、すべての医療機関が全額負担し、針刺しをした医療者の自己負担をゼロでPEPを実施すべきなのは自明です。現実にそうなっていないのは、医療機関のなかに従業員を大切にしない「ブラック・クリニック/病院」があるからでしょうか...。

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第139回(2018年1月) ポリティカル・コレクトネスのむつかしさ

 2018年1月4日、iPADでBBCのトップページを眺めていた私は、「どこかで見たことある顔...。あっ!浜田さんだ!」と思わず声が出そうになりました。

 ちなみに、私が浜田さんをテレビで初めて見たのは高校3年時の1986年。「今夜はねむれナイト」という深夜番組でした。ダウンタウンを初めて見たときの衝撃は今も忘れられません。私が関西学院大学に入学したのはその数か月後、1987年4月です。同時に「4時ですよ~だ」が始まりました。今の若い人や、私と同年代でも関西以外の人達にはあの頃の「雰囲気」を想像しにくいと思いますが、当時は大阪中が「4時ですよ~だ」を中心に動いていたといっても過言ではありません。5時以降に仲間に合えば「今日の『4時』見たか?」で会話が始まり、翌日学校などでは「昨日の『4時』のあのコーナーが...」という話で持ち切り、という感じです。「4時ですよ~だ」は1989年の秋に惜しまれつつ終了するのですが、この最終回は今も伝説となっています。関西中でどれだけの涙が流れたか...。

 ダウンタウンや当時の若手芸人は当時大阪ミナミの街に出没していて私もよく遭遇しました。特に、私がよく出入りしていた「ヌーバ」という喫茶店では、松本さんや、今田さん、板尾さん、さらに"今はなき"(オールディーズの)栩野さんや(ボブキャッツの)雄大(さん)らも何度か見かけました。しかし、そういえば浜田さんを街で見かけたことはほとんどありません...。1996年に医学部に入学した頃から私はほとんどテレビを見なくなり浜田さんの姿を見ることもほとんどなくなっていました...。

 話をBBCに戻します。BBCのトップページに掲載され全世界で閲覧された浜田さんの顔面には黒人メイクが...。イヤな予感を感じながら文章を読んでみると、やっぱり...。このメイクアップが今は「やってはいけないこと」を日本人が知らない、と指摘する内容でした。

 私は直接確認していませんが、BBCのトップページで取り上げられたくらいですから、このニュースは日本でも報道されているはずです。そして、まず間違いなく「黒人を差別する意図など浜田さんや番組制作者にまったくない。こんなことでマスコミが騒ぐのがおかしいんだ」という意見が日本ではほとんどでしょう。おそらく浜田さんに反省を促すような意見は少なくとも日本人の間では皆無ではないでしょうか。

 少しインテリの人だと、「こういうのをポリティカル・コレクトネス(以下PCとします)と言うんだ。一種の言葉狩りだ。西洋の文化をおしつけるな。我々日本人には日本人の考え方があるんだ」というような意見を述べているかもしれません。

 過去のコラムで私は曽野綾子さんが世界中のメディアからバッシングされたことを引き合いにだし、PCには辟易とする、ということを述べました。曽野さんは異なる文化を持つ人たちと同じアパートに住むのはむつかしいということを述べただけであり差別の意図などまったくありませんでした。私はそのコラムで自分自身の体験を紹介し、曽野さんに完全に同意することを述べ、南アフリカの大使も曽野さんに敬意を払っていることについて言及しました。

 そもそも曽野さんのその文章で本当に不快感をもった当事者(この場合黒人)がいたのか私には疑問です。正確に曽野さんの日本語を"素直に"読めば差別の意図などまったくないことはあきらかです。これは私の推測ですが、おそらく当事者でないPCに"過敏な"人たちが騒ぎ立てたことが事態を大きくさせたのではないでしょうか。
 
 では浜田さんの黒人メイクはどうでしょうか。BBCの記事は、「ミンストレル・ショー(minstrel show)」という単語をキーワードにしています。そしてこの記事のサブタイトルを「このような黒人メイクがおこなわれることで、日本が無知であることがわかる」(Blackface 'makes Japan look ignorant')としています。

 解説しましょう。ミンストレル・ショーというのは、黒人メイクをした白人がおこなうショーのことです。かつては米国のエンターテインメントのひとつでしたが、1960年代後半あたりから人種差別を助長するものとして次第に禁じられるようになりました。現在は、「ミンストレル・ショーはおこなってはいけない」というのが世界のコンセンサスです。

 つまり、BBCが主張しているのは「日本人はミンストレル・ショーの歴史を知らないのか。21世紀のこのご時世に黒人メイクをしていると"無知"だと思われるよ」ということであり、記事には浜田さんのパフォーマンスを支持する意見も多いということが述べられています。

 例えば、英文レターを女性宛てに書くときはMissやMrs.を使わずにMs.と書くのが数十年前から常識になっています。ChairmanでなくChairperson、ビジネスマンでなくビジネスパーソンもすでに人口に膾炙しているでしょう。何年か前に任天堂は米国で発売した「Tomodachi Life」というソフトで同性婚の設定がないことが差別だと言われ謝罪しました。ゲームソフトに「同性婚」の設定をするのが"常識"とまではまだ言えないかもしれませんが、そのうちに当たり前になるでしょう。

 差別というのは極めてデリケートでむつかしい問題です。単純に何が差別で何が差別でないと言い切れるものではありません。先に述べた曽野綾子さんの件でも、本当に曽野さんの文章を読んで差別と感じた当事者(黒人)がいたのなら、曽野さんはその人に向き合って話をすべき場合もあるでしょう。

 また、当事者だけに限定すべきでないかもしれません。過去のコラムでも述べましたが、私は映画「風と共に去りぬ」を見たとき強烈な不快感に襲われました。黒人差別を助長するためにつくられた映画なのか、と思わずにはいられなかったのです。特に主人公の白人女子スカーレット・オハラが黒人のメイドのプリシーをぶつシーンは今思い出しても怒りがこみ上げてきます。なぜこんな映画が高評価を受けているのか、私にはまったく理解できません。この私の"怒り"は心の底から自然に湧き出てくるものであり、理屈で判断したものではありません。ですが、この"怒り"も、「当事者でないお前が言うならそれはPCではないのか」という意見もおそらく出てくると思います。

 ところで、ミンストレル・ショーが始まったのはなぜでしょうか。もちろん黒人差別をするのが意図ではありません。その証拠に、ミンストレル・ショーは白人だけでなく黒人が黒人メイクをしてパフォーマンスをしていたこともあったのです。日本でもラッツ&スター(シャネルズ)が昔は黒人メイクをしていました。もちろん、差別ではなく彼らが黒人とブラックミュージックに敬意を払っていたからです。

 話は変わってLGBTが差別されるのはなぜでしょうか。今や大企業の重役やCEOでLGBTをカムアウトすることは珍しくなくなりアップル社の社長もゲイであることを公表しています。世界のファッションやアートをリードする人たちの何割かはLGBTですし、過去のコラムでも述べたように歴史的にも偉大な作家や音楽家にLGBTが多いのは有名です。また、LGBTの方がストレートの人たちより年収が高いという報告もあります。

 おそらく差別の裏側には「崇拝」「憧れ」あるいは「畏れ」があるからではないか、というのが私の考えです。そのようなアンビバレントな感情があり、これにPCという問題が加わるから差別は"複雑"になるのです。興味深いことに、BBCは自社内での男女差別を訴えて退職した元従業員女性のインタビュー記事を浜田さんのニュースが出た4日後の1月8日に発表しています。

 ですが、差別は複雑でアンビバレントだとはいえ、黒人メイクのように世界的なコンセンサスが得られているものには従うしかないでしょう。浜田さんがどのような弁明をされたのかを私は知りませんが、きっと、理屈ではなく笑いで世界を納得させてくれるに違いない、というのが1986年からダウンタウンのファンである私の意見です。

 そして、数ある「差別」のなかで問答無用で直ちに廃絶しなければならないと私が強く思うもの。それが病気に対する差別です。

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第138回(2017年12月) ホームレス会議で気づいたタイ人にできて日本人にできないこと

 HIV/AIDSに関係があるわけではありませんが、2017年12月10日大阪市の某所で「第3回大阪ホームレス会議」が開催されたので行ってきました。この「会議」は、ホームレスの人々の自立を応援する「ビッグイシュー基金」が主催しています。『ビッグイシュー』は街角に立つホームレスの人たちが販売している雑誌で、およそ10年前から東京や大阪の街頭ではおなじみの光景になっています。私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)では以前からビッグイシュー基金のスポンサーをしていることもあり今回の会議に参加することになった(といっても聴きに行っただけですが)のですが、実は私が参加したもうひとつの「理由」があります。

 その理由とは、テーマが「食」であったということです。谷口医院は都心部に位置していることもあり、患者層は比較的若い働く世代に多いという特徴があります。その働いている人々のなかで「シングルマザー」は少なくありません。元夫と死別(こちらは少数)もしくは離婚(これがほとんど)し、小さな子供(たち)を自分ひとりで育てねばならなくなった、そしてなかには、両親がいない(もしくは絶縁状態)、さらに周りに助けてくれる人が誰もいない、というケースもまあまああります。というより、こういうケースが年々増えています。

 そんなシングルマザーたちのほとんどは子供に対する"愛情"はあるのですが、うまく伝わっていない、というか、結果として"虐待"と呼べるような行動をとってしまう場合もあります。以前にもコラムで述べたことがあるのですが、私はこのような虐待があるならば、子供と同時に母親を支援すべきだという考えを持っています。もちろん生命の危険が脅かされる前に子供を親から引き離さなければならないようなケースもありますが、母親の支援なくして母子対策はおこなえない、というのが私の考えです。

 シングルマザーが昼間仕事をしていると、どうしても子供の食事がおろそかになります。毎日子供に愛情をこめた食事をつくる余裕はないのです。そんななか、数年前から「子ども食堂」と呼ばれる、子供たちに無料(もしくは低額)でごはんを食べさせてくれる食堂ができ始めました。これは個人もしくはNPO法人が運営している食堂で、母子家庭の子供に限らず、誰でも気軽に利用することができます。私は(GINAとしてではなく個人として)いくつかの子ども食堂を支援していることもあり、2017年11月に大阪で開催された「子ども食堂サミット」にも参加していました(といっても聴きにいっただけですが)。

 話を戻します。ホームレス会議のテーマが「食」で、子ども食堂を運営している人たちもパネリストとして登壇されると聞きましたから、これは参加しないわけにはいかない、と考えたのです。会議を通して最もインパクトがあったのが「ホームレス」当事者の人たちの言葉です。(ここでいう「ホームレス」は文字通り「家がなく野宿している」という意味ではなく『ビッグイシュー』を街頭で販売している人たちです)
 
 当事者の人たちにもいろんなタイプがいて、次から次へとユーモアを交えて流暢に話す人もいれば、ひとつひとつの言葉をじっくりと選びながら思いを訴える人もいました。そういった人たちの話で私が最も印象に残ったのは「飢えることの苦痛」です。その日に食べるものがない、ということがどれだけ辛いか...。そして頼れる人がどこにもいないということにどれだけ絶望するか...。会議で登壇されていたあるNPOの人の話によれば、少なくない日本人が毎年餓死で亡くなられるそうです。

 そして、一方ではどれだけの食べ物が廃棄されているか...。環境省のウェブサイトによれば、年間621万トンもの食品ロス(廃棄)があります。高月紘著『ごみ問題とライフスタイル―こんな暮らしは続かない』(日本評論社)によれば、一般家庭では年間3.2兆円、外食産業では11.1兆円もの損失がでているそうです。

 その日に食べるものがない......。これがどれだけつらいことか。私の個人的見解を言えばこれは「難民」の定義です。私の性格は"優しくない"ので、友人・知人から「自分ほど不幸な人間はいない」などと言われると、「その日に食べるものがない人のことを考えたことがあるのか!」と返したくなります。(実際に発言すると嫌われますから口には出しませんが。それでも嫌われるのを覚悟で言うこともたまにはあります...)

 その日に食べるものがない人がいる同じ国で、年間11.1兆円もの食品を捨てているというこの現実...。「食」についてはいろいろと言いたいことがあるのですが、ここではこれ以上は踏み込まずに、私が感じた日本とタイの違いを紹介したいと思います。

 その日に食べるものがない、が私流の「難民」の定義です。そしてタイでこの定義にあてはまる人は文字通りの「難民」であり、例えばミャンマーの民族紛争を逃れてやってきた人や、タイに入国するのは至難の業ですがなんとかやってきたロヒンギャの人たちなどです。一方、HIV陽性の人たちはどうでしょうか。

 このサイトで何度も述べたように2000年代前半頃までは、HIV陽性者は地域社会で生きていくことができず、町や村を追い出されていました。感染が知られると、食堂に入っても食器を投げつけられ追い返されていたのです。ですが、感染者はまったく食べるものがなく餓死していたのかというとそういうわけではありません。タイでは誰かが食べ物を恵んでくれるのです。(タイ人に食事を恵んでもらい生き延びる日本人のホームレスの話を過去のコラムで紹介したことがあります)

 私が個人としてもGINAとしてもタイのHIV陽性者を支援しているなかで、「感染者が餓死した」という話はまったくないわけではありませんが(例えば、やせほそった赤ちゃんがエイズ施設の前に置き去りにされていて発見された時にはすでに死亡していた、ということが過去にはありました)、食べ物を得ようと思えばタイではなんとかなります。

 よくタイのツアーガイドなどは「道端のホームレスにお金をあげてはいけません」と言います。これは障害を抱えたホームレスや小さい子供を牛耳っているのはマフィアであり、お金をあげてもマフィアに吸い取られるだけだからだ、というのが理由ですが、こういったホームレスたちをよく観察しているとタイ人がお金をあげている姿が目に留まります。それも身なりから判断して貧しい階層の人たちが恵んでいるのです。あるとき、私はそのホームレスが自分の食料を寄り添ってきた犬にあげているのを見てこの国の"仕組み"が理解できました。
 
 つまり、タイでは「助け合い」が社会の基本なのです。この「助け合い」は我々日本人が言う助け合い、つまり「困ったときはお互い様」とは異なるものです。タイには「タンブン」という「お布施」を表す言葉がありこの概念とつながります。要するに、お金や物がある者は無い者に恵むのが"当然"なのです。金持ちは貧しい者に、貧しい者はさらに貧しい者に、最も貧しい者は動物に分け与えるというわけです。タイ人と食事に行って奢ってあげても感謝の言葉がないのは彼(女)らが礼儀知らずなのではなくタイの文化に即して考えれば当然なのです。

 タイの町や村を早朝歩いていると僧侶が托鉢をしている光景をよく目にします。鉢を持って歩いているとどこからともなく住民が駆け寄り、米や野菜、卵などをその鉢に入れていきます。僧侶たちはこれを寺に持ち帰ります。あるタイ人によれば、食べ物がなくなりどうしようもなくなっても寺に行けば何かを食べさせてくれるそうです。

 翻って日本はどうでしょうか。最近まで会社勤めをしていてもリストラで職を失えば一気にホームレスまで転落することもあります。冒頭で紹介したホームレス会議に登壇していた当事者の人たちもそうです。そしていったんホームレスになると支援の手はそう多くありません。寺に行ってもごはんを食べさせてくれるわけではないでしょう。我々のすぐそばにその日に食べるものがなく困っている人がいて、誰がいつホームレスになってもおかしくないのが現実であることを認識すべきです。

 そして、タイに倣え、とは言いませんが、我々ひとりひとりがこの国で何をすべきかを考えなければなりません。今すぐできることもあるはずです。

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第137回(2017年11月) 痛み止めから始まるHIV

 2017年10月26日、トランプ米大統領は、米国内で鎮痛剤オピオイドの依存症患者や過剰摂取による死亡者が増えていることを受け「公衆衛生の非常事態」を宣言しました。中毒による死亡者は年間3万人を超え、働く世代の労働参加率の低迷の原因の2割がオピオイドによるものという試算もあります。

 非常事態宣言が発令されたわけですからこれだけでも大問題ですが、さらに深刻な問題がこの先にあります。それはHIV感染です。米国のニュースメディア「POLITICO」が「オピオイドからHIVへ」というタイトルで米国の麻薬汚染の実態を報告しています(2017年10月21日)。

 同紙によれば、2年前(の2015年)、インディアナ州スコット郡では200人近くの市民がHIVに感染しました。感染源は「針の使いまわし」です。興味深いことに、このような感染が深刻化している他の州をみてみると、ケンタッキー州、ウェストバージニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、テネシー州のアパラチア地方など。これらに共通するのは、トランプ大統領を支持する地域であり、地域社会のほとんどが白人、そして失業率が高いということを同紙は指摘しています。
 
 米国全体でのHIV新規感染は減少傾向にあります。CDC(米国疾病管理予防センター)の報告によれば、2008年に45,700人の新規の報告があったのが、2014年には37,000人まで減少しています。(日本ではだいたい年間の新規感染者数が1,500人ですから約25倍です) 米国の新規感染の約1割が注射針からの感染です。

 さて、ここで鎮痛薬オピオイドの使用がなぜHIV感染につながるのかを確認しておきましょう。慢性の痛みで悩んでいる人は世界中のどこにでもいます。頭痛、関節痛、腰痛、腹痛...、と人によって痛みの部位は様々で、最初は市販の痛み止めで対処しますが、そのうちにより強い鎮痛薬を求めて医療機関を受診することになります。

 医師は鎮痛薬の危険性を知っていますから、安易に副作用の強い鎮痛薬を処方するようなことはしませんが、目の前の患者さんが激しい痛みを訴えれば検討することになります。以前なら、それでも「我慢しなさい」と患者に話す医師が多かったのですが、90年代後半頃からいくつかの製薬会社が「強力な鎮痛薬」の強烈なプロモーションを開始し、医師が影響を受けるようになりました。これが、米国の「麻薬汚染」の始まりです。

「強力な鎮痛薬」がよく効き、かつ副作用がなければ問題があるとは言えません。ですが、この「強力な鎮痛薬」は"強力"な「依存症」を引き起こしました。米国のメディア「ロサンジェルス・タイムズ」がいかにこの鎮痛薬が製薬会社の戦略の下に米国に浸透していったのか、その真相を暴きました。麻薬性鎮痛薬「オキシコンチン」を販売するパーデュー・ファーマ社はこの麻薬を"夢のクスリ"と謳い、売り上げを急増させ、1996年の販売開始以来、米史上最大規模の700万人超という薬物乱用者を発生させたのです。

 麻薬の特徴を二つ挙げるとすれば「耐性」と「依存性」です。ロサンジェルス・タイムズの報告によれば、パーデュー・ファーマ社のオキシコンチンは12時間有効という謳い文句で登場しました。ですが、実際はそれほど効果が続かず、使用者は12時間後が待ち遠しくて仕方がなくなり、オキシコンチンのこと以外は考えられなくなるのです。こうなれば立派な「依存症」です。さらに、耐性がでてくれば当初得られたような効果が期待できず、高用量を求めるようになります。しかし医師の処方には制限があります。その結果何が起こるか...。

 裏ルートで麻薬を入手しようと考える人が出てきます。内服ではもはや満足できなくなった身体はより高い効果が得られる静脈注射を渇望します。そして、ここまでくれば痛みの緩和ではなく、麻薬が切れたときの苦痛が次の「ショット」を求めるようになります。静脈注射に必要なシリンジ(注射筒)は一度入手すると繰り返し使えますが、注射針はそうはいきません。何度か使っているうちに針が鋭利さを失い刺さらなくなります。しかし合法的に次々と注射針を入手するのは困難です。そのとき、もはや立派な依存症となった人たちは何を考えるか。麻薬のためなら他人の使った針でも厭わなくなるのです。これが、先述の「共和党(トランプ大統領)の支持率が高い地域」の実情というわけです。

 さて、このような話を聞いたとき日本人のあなたはどう思うでしょうか。「アメリカって怖い国だよね...」と他人事のように感じる人が多いのではないでしょうか。たしかに、ロサンジェルス・タイムズ社が実情を暴露したパーデュー・ファーマ社のオキシコンチンのような薬は日本では医療現場での使用が厳しく制限されています。そして、米国に比べると麻薬中毒者は日本にはそう多くいません。日本では覚醒剤中毒者が"伝統的に"多いわけですが、これまでのところその中毒者たちのHIV感染は増加傾向にはありません。

 では日本は米国のようにはならないのか。私個人の見解は、「いずれ米国と同じように麻薬中毒者が増加し、その結果HIV感染が増える可能性がある」というものです。理由を述べます。

 たしかに日本ではオキシコンチンのような強力な鎮痛薬はがんの末期など限られた症例にしか使うことができません。ですが、2010年代初頭から日本でも内服のオピオイドががんと関係のない慢性の痛みに処方できるようになりました。製薬会社は「これは麻薬と違います。依存性は小さいです」と医師にPRをおこなっています。そして、製薬会社のウェブサイトにはオピオイドという文字の後にわざわざ「非麻薬」と書いています。(例えばhttp://www.mochida.co.jp/dis/medicaldomain/circulatory/tramcet/info/index.html

 誤解を恐れずに言うならば、これは「詭弁」だと思います。詭弁が失礼であれば「誤解されても仕方がない表現」です。そもそもオピオイドとは、麻薬やその類似物質を指すわけで依存性のリスクはつきまとうものです。そして、一応、これら日本で販売されている内服のオピオイドの添付文書には「依存性があります」と(小さい字で)書かれています。そうです。日本の製薬会社も初めから危険性を分かっているのです。それを医師にPRするときは「依存性が小さい」と言い、患者さんが見るかもしれない自社のウェブサイトには「非麻薬」とご丁寧に書いているというわけです。

 もちろん、いくら危険な薬が発売されようが、処方する医師がきっちりとそのリスクを認識し最低限の処方をしていれば問題は起こりません。実際、私はこれらが発売されたとき、「このような薬が日本で使われることはそれほど多くないだろう」と踏んでいました。ですが、発売後次第に使用者は増えてきています。私が院長を務める太融寺町谷口医院では、初診の患者さんに「今飲んでいる薬は?」と尋ねると、これらオピオイドを毎日飲んでいるという人が年々増えているのです。

 たしかにオピオイドを用いなければコントロールできない痛みというものもあります。ですが率直な私の印象を言えば、「その程度の腰痛で?」「その関節痛、まずは他の鎮痛薬を試すべきでは?」という例が目立つのです。もちろん安易に前医を批判してはいけないのですが、こういった患者さんの何割かは、危険性や依存性を説明すると「えっ、そんな怖い薬とは聞いていません!」と答えるのです。

 つまり、米国と同様、日本でも医師の"安易な"処方がおこなわれていると言わざるをえないのです。数年後に何が起こるか。おそらく現在の内服オピオイドが効かなくなり、あるいは依存症が深刻化し、より強い麻薬が欲しくなるでしょう。そして、米国と同様のストーリーが始まり...、という私の見立てが杞憂であればいいのですが。

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