GINAと共に
第171回(2020年9月) ポストコロナのボランティア
新型コロナウイルスが流行しだしてからGINAに寄せられる問い合わせで大きく減少したのが「ボランティアについて」です。
これまでは、「タイで(あるいは他国で)ボランティアをしたいのですが......」という問い合わせがそれなりにあったのですが、新型コロナが流行しだした2020年2月以降、ピタッとなくなりました。それは当然ですし、現在も日本では「新型コロナ実は軽症説」が"流行"しているようですが、世界的にはまったく気を緩められる状態ではありません。「医療者のなかにも軽症説を唱える者がいるではないか」と言われることもありますが、急激に症状が悪化する患者さんを経験した医師はそのようなことは言いません。
話を戻します。新型コロナが登場してから海外に医療ボランティアに行くことはほぼできなくなりました。もうしばらくすると医療者が新型コロナの流行している他国にボランティアに出向くという動きが出てくるようになると思いますが、一般の人が例えばタイのエイズ施設にボランティアに行くというようなことは当分の間できません。
では、医療者でない人が医療ボランティアに行くことができる時代は再び訪れるのでしょうか。新型コロナが完全に収束すれば可能となるのでしょうか。私の考えは「以前と同じかたちには戻らないしまた戻すべきでない」です。
その理由のひとつは「新型コロナは収束しない」からです。いい薬があるんじゃないの?、ワクチンができれば解決するのでは?、といった意見があるでしょうが、私は薬やワクチンができたとしても完全に収束することはないと考えています。その理由を述べます。まず、新型コロナにあなたが感染してすぐれた薬で治療できたとしましょう。しかし、薬はすべての人に効くとは限りません。新型コロナの最たるハイリスク者は高齢者です。そして、医療ボランティアとしてケアするのは高齢者が多いのです。
HIVについては、私がタイのエイズ施設にかかわりだした2000年代前半は、HIVは若い人の病でした。ですが、それから20年近くがたち、高齢者の疾患に変わりつつあります。日本でも私が日々みているHIV陽性の患者さんの平均年齢はどんどんと上がっています。これからますますHIV陽性者に対するケアが高齢者に対するケアとなっていきます。
では、小児の施設へのボランティアは問題ないのでしょうか。施設にもよりますが、例えば腎不全や白血病のある小児は新型コロナが非常に危険です。精神疾患の場合なら大丈夫かというと、自身の感染予防策が適切にとれない小児と接するのは危険です。
ここでよくある質問に答えておきましょう。それは「けど、それはコロナじゃなくてもインフルエンザでも同じですよね」というものです。答えは「全然違います」。インフルエンザと新型コロナの違いは多数ありますが、最たるもののひとつが「新型コロナは、半数近くが自身が無症状のときに感染させる」ことです。まったくの無症状、つまり感染してからウイルスが消えるまで「無症状」(これをasymptomaticと呼びます)が本当に感染させるのか、については議論があるのですが、発症までの「無症状」(これをpre-symptomaticと呼びます)に感染させることが多いのは確実です。例えば、2日後に頭痛、味覚障害、倦怠感などが絶対に起こらないと断言できる人はいるでしょうか。つまり、いくらいい薬ができたとしてもそれが100%効くものでなければ、自身が無症状でも接し方によっては他人を死に追いやる可能性があるわけです。
次にワクチンをみてみましょう。ワクチン開発には多くの国、そして多くの企業がしのぎを削っていますが、有効性と安全性が担保されたものはまだまだ登場しません。私はワクチンが逆効果となる可能性すら考えています(参照:「新型コロナ ワクチンが逆効果になる心配」)。ちなみに、医療系ポータルサイトMedPeerが2020年9月12日に3,000人の医師を対象とした「新型コロナのワクチンが供給されたら接種しますか」というアンケートでは、「接種しない」と「有効性と安全性が証明されるまで接種しない」を合わせると81%となり、「積極的に接種する」(19.0%)を大きく上回っています。何年かたってからすぐれたワクチンができたとしても、全員に100%有効でしかも効果が持続するようなものはまずできません。
新型コロナを侮ってはいけません。完全なワクチンができる見込みはなく、いい薬が登場したとしても万人に効くわけではありません。そして無症状者からも感染し、高齢者のみならず若年者の命を奪うこともあり、さらに後遺症を残す可能性すらあるのです。可能な限り他人に感染させるリスクを取り除かねばなりません。
そんな新型コロナを考えたときに従来のボランティアはできません。ではどうすればいいか。その前に「なぜ人はボランティアをやりたがるのか」を考えてみましょう。ボランティアをするととても気持ちがいいことを以前コラム(GINAと共に第103回(2015年1月)「ボランティアを嫌う人とボランティアが「気持ちいい」理由」) で述べました。そのコラムでは、ボランティアを通しての「貢献」が人間の原則にしたがっているということにも触れました。そして、「感謝の言葉を求めてはいけない」と言及しました。
もうプレコロナ時代には戻れませんから「一度体験すれば分かります」とは言えず説得力に欠けるかもしれませんが、ボランティアでは人の絆を感じることができ、人が人である理由を実感することができます。「気持ちよさ」を求めてはいけませんが「気持ちいい」のは事実です。私が初めてタイのエイズ施設で患者さんの手に触れたとき、暗くどんよりした表情のその患者さんが突然笑顔になり目に涙を浮かべました。当時のタイではエイズについての知識が周知されておらず皮膚に触ることで感染すると思っている人もいたのです。そんななか、はるばる遠いところからやって来た見知らぬ日本人がエイズを発症している自分の手を握っているということに感動されたのです。
おそらく、素直な気持ちで人が人に触れたときに絆を感じ安らぎが得られるのは人の特徴のひとつなのでしょう。私がタイのエイズ施設でボランティアをしていた頃は、できるだけ患者さんに触れるようにしていました。それだけで笑顔が戻る人も少なくないのです。そして、私の知る限り、ボランティアを長期で続けている人は例外なく患者さんに触れることに長けています。「触れること」は重要なケアのひとつなのです。
話を新型コロナに戻しましょう。もうお分かりいただいたと思いますが、ポストコロナ(ウイズコロナ)の時代には、患者さんに触れることが困難です。また、触れなくても感染させる可能性があります。マスクをしていたとしても近づき方によっては感染する・させるリスクが出てきます。それに外国人の場合、言葉の壁がありますから、表情自体が重要なコミュニケーションとなります。その表情がマスクで隠れるわけですから適切なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
ではどうすればいいのか。マスクを外せないというのは大きなハンディではありますが、それでも医療ボランティアができないわけではありません。まずすべきことは「正しい知識を持つこと」です。新型コロナはワクチンがなくとも(ほぼ)感染しない方法はあります。実際、私は4月以降、新型コロナに感染しない自信を持っています(興味のある方は別のところで書いたコラム「新型コロナ 感染防止に自信が持てる知識と習慣」を参照してください)。
それに、これまでのボランティアがあまりにも無防備というか、タイでは眼を覆いたくなるシーンも随分と見てきました。例えば、結核、B型肝炎、疥癬といった感染症の知識がまるでなく予防が全然できていないボランティアもいるのです。私は彼(女)らを非難したくはありませんが、最低限の知識を身に着けてから医療ボランティアを始めてほしいと思っています。新型コロナの流行がそのきっかけになれば、と今は考えています。
これまでは、「タイで(あるいは他国で)ボランティアをしたいのですが......」という問い合わせがそれなりにあったのですが、新型コロナが流行しだした2020年2月以降、ピタッとなくなりました。それは当然ですし、現在も日本では「新型コロナ実は軽症説」が"流行"しているようですが、世界的にはまったく気を緩められる状態ではありません。「医療者のなかにも軽症説を唱える者がいるではないか」と言われることもありますが、急激に症状が悪化する患者さんを経験した医師はそのようなことは言いません。
話を戻します。新型コロナが登場してから海外に医療ボランティアに行くことはほぼできなくなりました。もうしばらくすると医療者が新型コロナの流行している他国にボランティアに出向くという動きが出てくるようになると思いますが、一般の人が例えばタイのエイズ施設にボランティアに行くというようなことは当分の間できません。
では、医療者でない人が医療ボランティアに行くことができる時代は再び訪れるのでしょうか。新型コロナが完全に収束すれば可能となるのでしょうか。私の考えは「以前と同じかたちには戻らないしまた戻すべきでない」です。
その理由のひとつは「新型コロナは収束しない」からです。いい薬があるんじゃないの?、ワクチンができれば解決するのでは?、といった意見があるでしょうが、私は薬やワクチンができたとしても完全に収束することはないと考えています。その理由を述べます。まず、新型コロナにあなたが感染してすぐれた薬で治療できたとしましょう。しかし、薬はすべての人に効くとは限りません。新型コロナの最たるハイリスク者は高齢者です。そして、医療ボランティアとしてケアするのは高齢者が多いのです。
HIVについては、私がタイのエイズ施設にかかわりだした2000年代前半は、HIVは若い人の病でした。ですが、それから20年近くがたち、高齢者の疾患に変わりつつあります。日本でも私が日々みているHIV陽性の患者さんの平均年齢はどんどんと上がっています。これからますますHIV陽性者に対するケアが高齢者に対するケアとなっていきます。
では、小児の施設へのボランティアは問題ないのでしょうか。施設にもよりますが、例えば腎不全や白血病のある小児は新型コロナが非常に危険です。精神疾患の場合なら大丈夫かというと、自身の感染予防策が適切にとれない小児と接するのは危険です。
ここでよくある質問に答えておきましょう。それは「けど、それはコロナじゃなくてもインフルエンザでも同じですよね」というものです。答えは「全然違います」。インフルエンザと新型コロナの違いは多数ありますが、最たるもののひとつが「新型コロナは、半数近くが自身が無症状のときに感染させる」ことです。まったくの無症状、つまり感染してからウイルスが消えるまで「無症状」(これをasymptomaticと呼びます)が本当に感染させるのか、については議論があるのですが、発症までの「無症状」(これをpre-symptomaticと呼びます)に感染させることが多いのは確実です。例えば、2日後に頭痛、味覚障害、倦怠感などが絶対に起こらないと断言できる人はいるでしょうか。つまり、いくらいい薬ができたとしてもそれが100%効くものでなければ、自身が無症状でも接し方によっては他人を死に追いやる可能性があるわけです。
次にワクチンをみてみましょう。ワクチン開発には多くの国、そして多くの企業がしのぎを削っていますが、有効性と安全性が担保されたものはまだまだ登場しません。私はワクチンが逆効果となる可能性すら考えています(参照:「新型コロナ ワクチンが逆効果になる心配」)。ちなみに、医療系ポータルサイトMedPeerが2020年9月12日に3,000人の医師を対象とした「新型コロナのワクチンが供給されたら接種しますか」というアンケートでは、「接種しない」と「有効性と安全性が証明されるまで接種しない」を合わせると81%となり、「積極的に接種する」(19.0%)を大きく上回っています。何年かたってからすぐれたワクチンができたとしても、全員に100%有効でしかも効果が持続するようなものはまずできません。
新型コロナを侮ってはいけません。完全なワクチンができる見込みはなく、いい薬が登場したとしても万人に効くわけではありません。そして無症状者からも感染し、高齢者のみならず若年者の命を奪うこともあり、さらに後遺症を残す可能性すらあるのです。可能な限り他人に感染させるリスクを取り除かねばなりません。
そんな新型コロナを考えたときに従来のボランティアはできません。ではどうすればいいか。その前に「なぜ人はボランティアをやりたがるのか」を考えてみましょう。ボランティアをするととても気持ちがいいことを以前コラム(GINAと共に第103回(2015年1月)「ボランティアを嫌う人とボランティアが「気持ちいい」理由」) で述べました。そのコラムでは、ボランティアを通しての「貢献」が人間の原則にしたがっているということにも触れました。そして、「感謝の言葉を求めてはいけない」と言及しました。
もうプレコロナ時代には戻れませんから「一度体験すれば分かります」とは言えず説得力に欠けるかもしれませんが、ボランティアでは人の絆を感じることができ、人が人である理由を実感することができます。「気持ちよさ」を求めてはいけませんが「気持ちいい」のは事実です。私が初めてタイのエイズ施設で患者さんの手に触れたとき、暗くどんよりした表情のその患者さんが突然笑顔になり目に涙を浮かべました。当時のタイではエイズについての知識が周知されておらず皮膚に触ることで感染すると思っている人もいたのです。そんななか、はるばる遠いところからやって来た見知らぬ日本人がエイズを発症している自分の手を握っているということに感動されたのです。
おそらく、素直な気持ちで人が人に触れたときに絆を感じ安らぎが得られるのは人の特徴のひとつなのでしょう。私がタイのエイズ施設でボランティアをしていた頃は、できるだけ患者さんに触れるようにしていました。それだけで笑顔が戻る人も少なくないのです。そして、私の知る限り、ボランティアを長期で続けている人は例外なく患者さんに触れることに長けています。「触れること」は重要なケアのひとつなのです。
話を新型コロナに戻しましょう。もうお分かりいただいたと思いますが、ポストコロナ(ウイズコロナ)の時代には、患者さんに触れることが困難です。また、触れなくても感染させる可能性があります。マスクをしていたとしても近づき方によっては感染する・させるリスクが出てきます。それに外国人の場合、言葉の壁がありますから、表情自体が重要なコミュニケーションとなります。その表情がマスクで隠れるわけですから適切なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
ではどうすればいいのか。マスクを外せないというのは大きなハンディではありますが、それでも医療ボランティアができないわけではありません。まずすべきことは「正しい知識を持つこと」です。新型コロナはワクチンがなくとも(ほぼ)感染しない方法はあります。実際、私は4月以降、新型コロナに感染しない自信を持っています(興味のある方は別のところで書いたコラム「新型コロナ 感染防止に自信が持てる知識と習慣」を参照してください)。
それに、これまでのボランティアがあまりにも無防備というか、タイでは眼を覆いたくなるシーンも随分と見てきました。例えば、結核、B型肝炎、疥癬といった感染症の知識がまるでなく予防が全然できていないボランティアもいるのです。私は彼(女)らを非難したくはありませんが、最低限の知識を身に着けてから医療ボランティアを始めてほしいと思っています。新型コロナの流行がそのきっかけになれば、と今は考えています。
第170回(2020年8月) コロナ禍で消えたタイの「沈没組」
新型コロナウイルスの対策にタイは成功しています。一人目の感染者が見つかったのは2020年1月13日で、中国以外では最初の感染者だっただけに、タイは中国に次いでパンデミックを起こすのではないかと言われていましたが、その後、強力な政策をとったことにより見事に感染抑制に成功しています。8月下旬の現在で、総感染者数はわずか3千人程度、死亡者も50人程度です。
タイが見事だったのは、いわゆるロックダウンを実施し、夜間外出禁止令を発令し、県境をまたぐことを禁止したものの、それでも大きな暴動や犯罪が起こることもなく、住民たちは協力しあい、感染を抑制することに成功しているからです。もっとも、そのために払った犠牲も大きく、事実上の"鎖国"となりましたから経済は大きなダメージを受けています。観光業界は(それは"闇の観光"も含めて)大打撃です。
本来なら私自身もGINA関連の施設を訪れるために今月渡タイする予定でしたが、キャンセルせざるを得ませんでした。しかもチケットをとっていたのはエアアジア。あまりこのサイトで一般企業の悪口を言いたくはありませんが、結論からいえばチケット代が戻ってくる見込みはほぼゼロです。
さて、このコロナ禍で私が心配したのはGINAがサポートしているHIV陽性者よりも、むしろ長期滞在している日本人です。日本人といっても現地駐在の人たちは何も心配いりませんし、現地採用の人たちもいったん帰国してしまうと再びタイに戻れるかどうかわからないというリスクはありますが解雇されなければ問題ないでしょう。問題が多いにあるのがいわゆる「沈没組」の人たちです。
「沈没組」については過去のコラム「悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~」でも述べましたので、そちらも参照いただきたいのですが、簡単に言えば日本社会からドロップアウトし、仕事もせずにタイで長期滞在し薬物や買春に耽溺している人たちのことを指します。
そのコラムで述べたように、全員がいかにもドロップアウトしそうな人たちかというと、そういうわけでもなく、高学歴者も少なくなく、前職が大手企業や学校の先生という人たちもいます。薬物や買春の良し悪しは置いておいて、魅力的な人たちも少なくありません。
彼らがビザも持っていないのにタイに長期滞在できるのは、定期的に一時隣国に抜け出して再入国するからです。ラオスやカンボジアあたりにいったん入国し、そしてまたタイに戻ってくるという方法を繰り返すのです。しかし、新型コロナの流行で隣国への行き来はできなくなりましたからこの方法は使えません。ビザを持っていない彼らはタイに長期滞在することはできません。他国に入国するにもほぼすべての国は入国制限を引いています。つまり、沈没組の彼らは帰国するしかないわけです。
私が初めてこういった沈没組(この呼び方が失礼なのは承知していますが便宜上このまま続けさせてもらいます)の人たちと仲良くなったのは2004年で、それから知人を紹介してもらうなどで次第にこういった人たちの知り合いが増えていきました。しかし、消えていく人、つまり連絡が取れなくなる人も増えていきます。というのは、薬物にどっぷりとつかっている人は突然連絡が取れなくなることがよくあるのです。2年くらいしてから突然連絡が来ることもあるのですが、こちらからメールや電話をしても一向に連絡がつかないこともあります。
ここ数年は新しい沈没組の人と知り合うこともなくどんどんと知り合いが減っている状態でした。それでも数人は連絡がつくはずなので3月以降連絡先のわかる全員にコンタクトをとったのですが、返答はゼロです。つまり、誰とも連絡がとれなくなったのです。
彼らは今どこにいるのでしょうか。失礼ながら想像させてもらうと次のいずれかに該当するはずです。
#1 他界している
率直に言って何人かは他界していると思います。コロナ流行前から「〇〇は死んだよ」という話を沈没組の人たちから聞くことは珍しくありませんでした。実際にはほとんどは薬物の中毒死だと思うのですが、タイでは外国人が死んでもきちんと死体の検証がされているとは言えません。心臓が止まっているという理由で"心不全"という死因にされていたり原因不明の死亡ということで片付けられていることが多いと聞きます。また、自殺というケースもあります。こういったことを私は警察や検察から聞いたわけではなく、沈没組の人たちの噂に過ぎませんが、死亡している人がいるのは事実だと思います。
#2 日本に帰国している
これを望みたいですし、何人かは日本で生きていると思います。だから彼らから連絡が来ることを私はまだ期待しています。沈没組の人たちは、こちらから連絡しても何の音沙汰もなく忘れた頃に連絡してくることがよくあるからです。しかし、長年タイで耽溺していた人が日本で仕事をするのはとてつもなく困難です。社会復帰は極めて難しく、おそらく日本で薬物に手を出して、命を落とすこともあると思います。
#3 タイ、またはラオスやカンボジアで生きている
現在のタイで許可なし(ビザなし)で滞在するのは困難ですが、捕まらなければ不法滞在者として生きている可能性があります。また、ラオスやカンボジアでもいったん入国してしまえば不法滞在ができるかもしれません。特にここ数年のラオスは薬物が入手しやすく物価も安いために沈没組がタイから"移住"しているという話も聞きます。しかし、健康な暮らしをしているとは考えにくく、いずれ命を危険にさらすことになるでしょう。
さて、ここまで読まれて不快な気持ちになった人も少なくないのではないでしょうか。「あんた医者なら何とかしろよ」と思う人が大半でしょう。しかし、薬物依存症の場合(大麻は除きます)、医者が正論を述べることで薬物をやめられる人など皆無です。有効な治療法があるわけでもありません。(狭義の)麻薬、つまりヘロインやモルヒネの場合はメサドン療法という治療法がありますが(これも必ず成功するわけではありません)、日本人の場合、摂取する薬物にたいてい覚醒剤(メタンフェタミンまたはアンフェタミン)が入ります(注1)。これまで、日本でもタイでも覚醒剤依存症の人たちを(それは日本人も外国人も)数多くみてきましたが、私の知る範囲で言えば社会復帰できた人はごく少数です。ですから、私個人が考える「最も有効な覚醒剤対策」は、このサイトで繰り返し述べているように「初めから手を出さない」です。
しかし私のこの考えはあまり支持されません。「初めから手を出さない」を強調しすぎると、依存症で苦しんでいる人たちが患者ではなく犯罪者になってしまうからです。たしかに、苦しんでいる人が犯罪者のようにみなされることは避けねばならず、依存症になった人たちの立場に立って治療を考えていかねばならないのは自明です。そういった治療に尽力している医療者も少なくなく、そして実際に実績をあげています(注2)。
ただ、私個人の印象でいえば、そこまでたどりつける人はいわば「エリートの患者」です。タイで沈没していた人たちに、日本に帰国して治療を受けようと説得することは私には無理でした......。
一方、私自身がこれまでの人生で、それは10代の頃のことや医学部入学前のことも含めて、度重なる違法薬物の誘惑を断ち切ってこられたのは、子供の頃にみた「覚醒剤やめますか。それとも人間やめますか」のCMです。子供の頃に植え付けられた恐怖がその後の人生を正しく導いてくれることもあるのです。
************
注1:このサイトで繰り返し述べているようにタイでは覚醒剤がものすごく簡単に入手できます。タクシン政権の頃は取締が厳しくなり、日本の方が簡単、と言われていましたがその後は再びタイの方が入手しやすくなっています。品質のよくない「ヤーバー」(「馬鹿の薬」という意味)はもちろん、純度の高いアイス(タイ人は「アイ」と発音します)もほとんど誰でも入手できます。タイの政治はいつから狂ったのか、過去のコラムでも紹介したように法務大臣が「覚醒剤の依存性はアルコールやタバコよりも低いから合法にすべき」と発言しています。
注2:SMARPP(Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program)と呼ばれる治療プログラムが有名です。精神科医の松本俊彦医師が考案した治療法で認知療法に基づいています。松本医師は大変熱心な先生で私は講演を聞きに行ったこともあります。私は松本医師の考えに賛同しますが、本文で述べたようにタイで沈没しているような人たちにSMARPPに参加してもらうのは極めて困難だと思っています。
参考:GINAと共に
第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~
第116回(2016年2月) 「盗聴」に苦しむ覚醒剤中毒者
第13回(2007年7月号)「恐怖のCM」
タイが見事だったのは、いわゆるロックダウンを実施し、夜間外出禁止令を発令し、県境をまたぐことを禁止したものの、それでも大きな暴動や犯罪が起こることもなく、住民たちは協力しあい、感染を抑制することに成功しているからです。もっとも、そのために払った犠牲も大きく、事実上の"鎖国"となりましたから経済は大きなダメージを受けています。観光業界は(それは"闇の観光"も含めて)大打撃です。
本来なら私自身もGINA関連の施設を訪れるために今月渡タイする予定でしたが、キャンセルせざるを得ませんでした。しかもチケットをとっていたのはエアアジア。あまりこのサイトで一般企業の悪口を言いたくはありませんが、結論からいえばチケット代が戻ってくる見込みはほぼゼロです。
さて、このコロナ禍で私が心配したのはGINAがサポートしているHIV陽性者よりも、むしろ長期滞在している日本人です。日本人といっても現地駐在の人たちは何も心配いりませんし、現地採用の人たちもいったん帰国してしまうと再びタイに戻れるかどうかわからないというリスクはありますが解雇されなければ問題ないでしょう。問題が多いにあるのがいわゆる「沈没組」の人たちです。
「沈没組」については過去のコラム「悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~」でも述べましたので、そちらも参照いただきたいのですが、簡単に言えば日本社会からドロップアウトし、仕事もせずにタイで長期滞在し薬物や買春に耽溺している人たちのことを指します。
そのコラムで述べたように、全員がいかにもドロップアウトしそうな人たちかというと、そういうわけでもなく、高学歴者も少なくなく、前職が大手企業や学校の先生という人たちもいます。薬物や買春の良し悪しは置いておいて、魅力的な人たちも少なくありません。
彼らがビザも持っていないのにタイに長期滞在できるのは、定期的に一時隣国に抜け出して再入国するからです。ラオスやカンボジアあたりにいったん入国し、そしてまたタイに戻ってくるという方法を繰り返すのです。しかし、新型コロナの流行で隣国への行き来はできなくなりましたからこの方法は使えません。ビザを持っていない彼らはタイに長期滞在することはできません。他国に入国するにもほぼすべての国は入国制限を引いています。つまり、沈没組の彼らは帰国するしかないわけです。
私が初めてこういった沈没組(この呼び方が失礼なのは承知していますが便宜上このまま続けさせてもらいます)の人たちと仲良くなったのは2004年で、それから知人を紹介してもらうなどで次第にこういった人たちの知り合いが増えていきました。しかし、消えていく人、つまり連絡が取れなくなる人も増えていきます。というのは、薬物にどっぷりとつかっている人は突然連絡が取れなくなることがよくあるのです。2年くらいしてから突然連絡が来ることもあるのですが、こちらからメールや電話をしても一向に連絡がつかないこともあります。
ここ数年は新しい沈没組の人と知り合うこともなくどんどんと知り合いが減っている状態でした。それでも数人は連絡がつくはずなので3月以降連絡先のわかる全員にコンタクトをとったのですが、返答はゼロです。つまり、誰とも連絡がとれなくなったのです。
彼らは今どこにいるのでしょうか。失礼ながら想像させてもらうと次のいずれかに該当するはずです。
#1 他界している
率直に言って何人かは他界していると思います。コロナ流行前から「〇〇は死んだよ」という話を沈没組の人たちから聞くことは珍しくありませんでした。実際にはほとんどは薬物の中毒死だと思うのですが、タイでは外国人が死んでもきちんと死体の検証がされているとは言えません。心臓が止まっているという理由で"心不全"という死因にされていたり原因不明の死亡ということで片付けられていることが多いと聞きます。また、自殺というケースもあります。こういったことを私は警察や検察から聞いたわけではなく、沈没組の人たちの噂に過ぎませんが、死亡している人がいるのは事実だと思います。
#2 日本に帰国している
これを望みたいですし、何人かは日本で生きていると思います。だから彼らから連絡が来ることを私はまだ期待しています。沈没組の人たちは、こちらから連絡しても何の音沙汰もなく忘れた頃に連絡してくることがよくあるからです。しかし、長年タイで耽溺していた人が日本で仕事をするのはとてつもなく困難です。社会復帰は極めて難しく、おそらく日本で薬物に手を出して、命を落とすこともあると思います。
#3 タイ、またはラオスやカンボジアで生きている
現在のタイで許可なし(ビザなし)で滞在するのは困難ですが、捕まらなければ不法滞在者として生きている可能性があります。また、ラオスやカンボジアでもいったん入国してしまえば不法滞在ができるかもしれません。特にここ数年のラオスは薬物が入手しやすく物価も安いために沈没組がタイから"移住"しているという話も聞きます。しかし、健康な暮らしをしているとは考えにくく、いずれ命を危険にさらすことになるでしょう。
さて、ここまで読まれて不快な気持ちになった人も少なくないのではないでしょうか。「あんた医者なら何とかしろよ」と思う人が大半でしょう。しかし、薬物依存症の場合(大麻は除きます)、医者が正論を述べることで薬物をやめられる人など皆無です。有効な治療法があるわけでもありません。(狭義の)麻薬、つまりヘロインやモルヒネの場合はメサドン療法という治療法がありますが(これも必ず成功するわけではありません)、日本人の場合、摂取する薬物にたいてい覚醒剤(メタンフェタミンまたはアンフェタミン)が入ります(注1)。これまで、日本でもタイでも覚醒剤依存症の人たちを(それは日本人も外国人も)数多くみてきましたが、私の知る範囲で言えば社会復帰できた人はごく少数です。ですから、私個人が考える「最も有効な覚醒剤対策」は、このサイトで繰り返し述べているように「初めから手を出さない」です。
しかし私のこの考えはあまり支持されません。「初めから手を出さない」を強調しすぎると、依存症で苦しんでいる人たちが患者ではなく犯罪者になってしまうからです。たしかに、苦しんでいる人が犯罪者のようにみなされることは避けねばならず、依存症になった人たちの立場に立って治療を考えていかねばならないのは自明です。そういった治療に尽力している医療者も少なくなく、そして実際に実績をあげています(注2)。
ただ、私個人の印象でいえば、そこまでたどりつける人はいわば「エリートの患者」です。タイで沈没していた人たちに、日本に帰国して治療を受けようと説得することは私には無理でした......。
一方、私自身がこれまでの人生で、それは10代の頃のことや医学部入学前のことも含めて、度重なる違法薬物の誘惑を断ち切ってこられたのは、子供の頃にみた「覚醒剤やめますか。それとも人間やめますか」のCMです。子供の頃に植え付けられた恐怖がその後の人生を正しく導いてくれることもあるのです。
************
注1:このサイトで繰り返し述べているようにタイでは覚醒剤がものすごく簡単に入手できます。タクシン政権の頃は取締が厳しくなり、日本の方が簡単、と言われていましたがその後は再びタイの方が入手しやすくなっています。品質のよくない「ヤーバー」(「馬鹿の薬」という意味)はもちろん、純度の高いアイス(タイ人は「アイ」と発音します)もほとんど誰でも入手できます。タイの政治はいつから狂ったのか、過去のコラムでも紹介したように法務大臣が「覚醒剤の依存性はアルコールやタバコよりも低いから合法にすべき」と発言しています。
注2:SMARPP(Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program)と呼ばれる治療プログラムが有名です。精神科医の松本俊彦医師が考案した治療法で認知療法に基づいています。松本医師は大変熱心な先生で私は講演を聞きに行ったこともあります。私は松本医師の考えに賛同しますが、本文で述べたようにタイで沈没しているような人たちにSMARPPに参加してもらうのは極めて困難だと思っています。
参考:GINAと共に
第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~
第116回(2016年2月) 「盗聴」に苦しむ覚醒剤中毒者
第13回(2007年7月号)「恐怖のCM」
第169回(2020年7月) 差別をなくす2つの方法
前回のコラムでは、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」が脅かされるときに起こると述べました。「差別はなくならない」は現実であったとしても、この差別のメカニズムを考えれば、差別をなくすには2つ方法があることが自ずと分かります。
1つは「自分の世界との境界を変える」です。これを説明するために有名な心理学の実験を紹介しましょう。それは泥棒洞窟(ロバーズ・ケーブ)実験という1960年代に米国で行われた実験です。
11歳から12歳の22名の少年を集め2つのグループに分け、それぞれのグループで社会生活をさせました。最初は別のグループがあることを隠しておき、1週間後、別のグループがいることをそれぞれに伝え、野球の試合をおこなわせました。すると自分たちのグループでの結束が固まり、相手のグループに対しては敵対心が生まれたのです。その後、グループ間で花火や食事などをさせましたが、相手グループのメンバーへの敵対心は変わりませんでした。しかし、2つのグループが共同して取り組まねば解決しない課題を与えると敵対心が友好関係に変わっていったのです。
前回は白人の警官に踏みつぶされ窒息した米国の黒人ラッパー(ジョージ・フロイド氏)のことを取り上げました。米国の黒人差別は深刻と聞きますが、差別が絶対におこらない「組織」もあります。例えば、自分が所属するアメリカンフットボールのチームがリーグ優勝を狙っていたとして同じチームの黒人選手を差別することはありません。このチームのファンの心理も同様です。
オリンピックに出場する米国の黒人選手を応援しない白人の米国人はほぼ皆無でしょう。泥棒洞窟実験から明らかなように、スポーツは最もわかりやい例のひとつであり、"敵"をつくれば同じ世界に所属するメンバーとは友好関係が築けるのです。
泥棒洞窟実験の後半は差別解消のヒントを示しています。共に協力しなければならない課題が与えられたときに敵対心は友好関係へと変わります。これが現実社会で生じている例に科学の世界があります。例えば、現在新型コロナウイルスが猛威を振るい世界を大きく変えてしまいました。現時点で有効なワクチンや特効薬があるとは言えず、また後遺症を残すことも明らかになりつつあり、外出制限を強いられる国や地域もあります。
このような状況で、例えば黒人の科学者が画期的なワクチンを開発したとして、「黒人のつくったワクチンはいらない」と言う白人は皆無でしょう。世界が一丸となって新しい感染症に立ち向かうシーンでは、その感染症が深刻であればあるほど人が人を差別することはなくなっていくわけです。
ですから、すぐに世界中の差別をなくそうと思えば、例えば宇宙人に攻めて来てもらえばいいわけです。地球上に住む人間全員が協力しなければ皆殺しにされてしまう敵が攻めてくるなら、人種や国籍、性別に関係なく我々が一丸となれるのは間違いありません。そこに差別が生まれる余裕はないのです。
ですが、実際にこんな方法で差別をなくすことはできません。新型コロナは脅威ですが、外出制限をして密なところに行かなければ自身は感染しません。この程度の脅威であれば差別がなくなるほどの影響はありません。何もしなければ地球に住む人間全員が殺されてしまうような状況にならなければ人間社会から差別はなくならないでしょう。
そこで、差別が生まれるもうひとつの条件を考えてみましょう。「自分が他者より優位であることの確保」の方です。2つのグループがあったとして、自分たちがマジョリティであり、相手よりも偉いんだ、という気持ちが差別を生み出します。女性差別、人種差別、部落差別などを思い出せば明らかでしょう。ここには「相手よりも自分たちが優位となって当然だ」という気持ちがあります。
では、なぜ自分たちが相手よりも優位とならなければならないのでしょう。これはおそらく動物的な"本能"だと思います。弱肉強食という言葉が示すように、動物の世界では貴重な食糧を得るには相手に勝たねばなりません。つまり、動物というのは元々見ず知らずの相手を警戒するものであり、常に自分が優位でいなければ殺される、食料にありつけない、あるいは伴侶に巡り合えないといったリスクがあるわけです。
実際、人間社会でもこういった動物的な"競争"が存在しています。ビジネス界で生き残れなければ、失業し食べるものがなくなりパートナーを得られるチャンスは激減します。だから、他人よりも偉くなり優位に立たなければならないと考えるのには一理あります。もしもすべての人間がこのような考えに捉われて「人生は競争だ」と考えたとすれば、差別は永遠になくならないでしょう。
ですが、人間は社会的動物です。競争しなくても生きていけるのです。競争社会に身を投じ身体をボロボロにするよりも、そんな競争社会から降りてしまって気楽に生きるという選択肢もあるのです。そして、そういう考えを持てば自然に「差別がばからしい」と思えるようになります。
実は私自身は若い頃にはそれを意識していたわけではないのですが、初めから競争社会には興味がありませんでした。それをコラム(「競争しない、という生き方」)に書いたこともあります。私には、同じ会社の同期と競争するとか、店を経営してライバル店と競争するとか、そういったことがものすごく馬鹿らしいのです。そんなことを考える人たちこそを"差別"したくなってくるのです。
そもそも他人と自分を比較することにどれほどの意味があるのでしょう。サバンナで生きる動物のようにライバルを殺さなければ自分が殺されるのでしょうか。そして、元々そういう考えを持っていた私が、他人と自分を比較することがまったく馬鹿げていることを確信するに至ったのがタイのエイズ施設での経験です。死期のせまったエイズの患者さんと接していると、次第に「なんで自分は医師で、彼(女)らは患者なんだろう」という気持ちが強くなってきました。
このことは最近別のところ(「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」)にも書きました。私が日本に生まれ、恵まれた家庭ではなかったとしても大学までいかせてもらい、その後就職して貯金をつくり医学部受験ができたのは、仮に私の努力が報われた側面があったのだとしても、それはわずかなものであり、今の私がある最大の理由は「運」に他なりません。タイのイサーン地方の村で生まれ、小学校にも行かせてもらえず、大人たちから繰り返し性的虐待を受け、HIVに感染しエイズを発症した少年は努力を怠ったからそうなったわけではないのです。
つまるところ、人生のほとんどは「運」で決まるのです。黒人として生まれるのも、性的嗜好がストレートでないのも、被差別地域で生まれるのも、震災の被害に遭うのも、あるいは新型コロナウイルスに感染するのも「運」なのです。それが理解できれば、自分及び自分たちのグループが相手のグループよりも優れているなどと考えること自体が馬鹿げていることに気付くのではないでしょうか。
私はなぜ差別を許せないのか、これはGINA設立当時から考え続けていることです。今、その問いに答えを出すとすれば「差別する側の人間が運の有難みに気付いていないその無神経さに苛立たされるから」となります。
1つは「自分の世界との境界を変える」です。これを説明するために有名な心理学の実験を紹介しましょう。それは泥棒洞窟(ロバーズ・ケーブ)実験という1960年代に米国で行われた実験です。
11歳から12歳の22名の少年を集め2つのグループに分け、それぞれのグループで社会生活をさせました。最初は別のグループがあることを隠しておき、1週間後、別のグループがいることをそれぞれに伝え、野球の試合をおこなわせました。すると自分たちのグループでの結束が固まり、相手のグループに対しては敵対心が生まれたのです。その後、グループ間で花火や食事などをさせましたが、相手グループのメンバーへの敵対心は変わりませんでした。しかし、2つのグループが共同して取り組まねば解決しない課題を与えると敵対心が友好関係に変わっていったのです。
前回は白人の警官に踏みつぶされ窒息した米国の黒人ラッパー(ジョージ・フロイド氏)のことを取り上げました。米国の黒人差別は深刻と聞きますが、差別が絶対におこらない「組織」もあります。例えば、自分が所属するアメリカンフットボールのチームがリーグ優勝を狙っていたとして同じチームの黒人選手を差別することはありません。このチームのファンの心理も同様です。
オリンピックに出場する米国の黒人選手を応援しない白人の米国人はほぼ皆無でしょう。泥棒洞窟実験から明らかなように、スポーツは最もわかりやい例のひとつであり、"敵"をつくれば同じ世界に所属するメンバーとは友好関係が築けるのです。
泥棒洞窟実験の後半は差別解消のヒントを示しています。共に協力しなければならない課題が与えられたときに敵対心は友好関係へと変わります。これが現実社会で生じている例に科学の世界があります。例えば、現在新型コロナウイルスが猛威を振るい世界を大きく変えてしまいました。現時点で有効なワクチンや特効薬があるとは言えず、また後遺症を残すことも明らかになりつつあり、外出制限を強いられる国や地域もあります。
このような状況で、例えば黒人の科学者が画期的なワクチンを開発したとして、「黒人のつくったワクチンはいらない」と言う白人は皆無でしょう。世界が一丸となって新しい感染症に立ち向かうシーンでは、その感染症が深刻であればあるほど人が人を差別することはなくなっていくわけです。
ですから、すぐに世界中の差別をなくそうと思えば、例えば宇宙人に攻めて来てもらえばいいわけです。地球上に住む人間全員が協力しなければ皆殺しにされてしまう敵が攻めてくるなら、人種や国籍、性別に関係なく我々が一丸となれるのは間違いありません。そこに差別が生まれる余裕はないのです。
ですが、実際にこんな方法で差別をなくすことはできません。新型コロナは脅威ですが、外出制限をして密なところに行かなければ自身は感染しません。この程度の脅威であれば差別がなくなるほどの影響はありません。何もしなければ地球に住む人間全員が殺されてしまうような状況にならなければ人間社会から差別はなくならないでしょう。
そこで、差別が生まれるもうひとつの条件を考えてみましょう。「自分が他者より優位であることの確保」の方です。2つのグループがあったとして、自分たちがマジョリティであり、相手よりも偉いんだ、という気持ちが差別を生み出します。女性差別、人種差別、部落差別などを思い出せば明らかでしょう。ここには「相手よりも自分たちが優位となって当然だ」という気持ちがあります。
では、なぜ自分たちが相手よりも優位とならなければならないのでしょう。これはおそらく動物的な"本能"だと思います。弱肉強食という言葉が示すように、動物の世界では貴重な食糧を得るには相手に勝たねばなりません。つまり、動物というのは元々見ず知らずの相手を警戒するものであり、常に自分が優位でいなければ殺される、食料にありつけない、あるいは伴侶に巡り合えないといったリスクがあるわけです。
実際、人間社会でもこういった動物的な"競争"が存在しています。ビジネス界で生き残れなければ、失業し食べるものがなくなりパートナーを得られるチャンスは激減します。だから、他人よりも偉くなり優位に立たなければならないと考えるのには一理あります。もしもすべての人間がこのような考えに捉われて「人生は競争だ」と考えたとすれば、差別は永遠になくならないでしょう。
ですが、人間は社会的動物です。競争しなくても生きていけるのです。競争社会に身を投じ身体をボロボロにするよりも、そんな競争社会から降りてしまって気楽に生きるという選択肢もあるのです。そして、そういう考えを持てば自然に「差別がばからしい」と思えるようになります。
実は私自身は若い頃にはそれを意識していたわけではないのですが、初めから競争社会には興味がありませんでした。それをコラム(「競争しない、という生き方」)に書いたこともあります。私には、同じ会社の同期と競争するとか、店を経営してライバル店と競争するとか、そういったことがものすごく馬鹿らしいのです。そんなことを考える人たちこそを"差別"したくなってくるのです。
そもそも他人と自分を比較することにどれほどの意味があるのでしょう。サバンナで生きる動物のようにライバルを殺さなければ自分が殺されるのでしょうか。そして、元々そういう考えを持っていた私が、他人と自分を比較することがまったく馬鹿げていることを確信するに至ったのがタイのエイズ施設での経験です。死期のせまったエイズの患者さんと接していると、次第に「なんで自分は医師で、彼(女)らは患者なんだろう」という気持ちが強くなってきました。
このことは最近別のところ(「『偏差値40からの医学部再受験』は間違いだった」)にも書きました。私が日本に生まれ、恵まれた家庭ではなかったとしても大学までいかせてもらい、その後就職して貯金をつくり医学部受験ができたのは、仮に私の努力が報われた側面があったのだとしても、それはわずかなものであり、今の私がある最大の理由は「運」に他なりません。タイのイサーン地方の村で生まれ、小学校にも行かせてもらえず、大人たちから繰り返し性的虐待を受け、HIVに感染しエイズを発症した少年は努力を怠ったからそうなったわけではないのです。
つまるところ、人生のほとんどは「運」で決まるのです。黒人として生まれるのも、性的嗜好がストレートでないのも、被差別地域で生まれるのも、震災の被害に遭うのも、あるいは新型コロナウイルスに感染するのも「運」なのです。それが理解できれば、自分及び自分たちのグループが相手のグループよりも優れているなどと考えること自体が馬鹿げていることに気付くのではないでしょうか。
私はなぜ差別を許せないのか、これはGINA設立当時から考え続けていることです。今、その問いに答えを出すとすれば「差別する側の人間が運の有難みに気付いていないその無神経さに苛立たされるから」となります。
第168回(2020年6月) 差別が生まれる二つの条件
最近見た映像で頭にこびりついて離れないものが2つあります。ひとつは2020年5月25日、白人の警官に首を踏みつけられて窒息死した黒人男性ジョージ・フロイド氏の息が絶えるシーンです。この事件が撮影された動画は瞬く間に世界中に拡散され、世界各地でデモがおこなわれました。
この事件に比べると規模は比較にならないほど小さいものですが、私にはもうひとつ頭から離れない動画があります。その事件のあらましは、「Washington Post」の姉妹誌「The Lily」2020年5月26日号の記事「黒人のバードウォッチャーの撮影に対し、警官を呼んだ白人女性。"日常的なありふれた"アメリカの人種差別(White woman calling cops on black birdwatcher puts on display the'everyday, run-of-the-mill racism'of America)」で紹介され、記事のなかに動画があります。
5月のある日、ニューヨークのセントラルパークでバードウォッチングをしていた57歳の黒人男性が、飼い犬と一緒にいた白人女性に「犬をリードにつないでほしい」とお願いしました。セントラルパークではリードなしでの犬の散歩が禁止されているからです。
するとその女性は「警察に電話する」と言い出しました。なんと「アフリカ系アメリカ人の男性に脅かされていると通報します」と言うのです。当然と言えば当然ですが、男性は「どうぞ電話してください」と返答しました。
女性は実際に警察に電話をかけ「私と私の犬がアフリカ系アメリカ人男性に脅かされています。すぐに来てください!」と訴えました。「アフリカ系アメリカ人(African American)」という言葉を何度も繰り返して、です。
この一連の流れを撮影していた男性は、この画像を妹(か姉、原文はsister)に送ったところ、その妹(か姉)がツイッターに投稿しました。すると、なんと翌日の午後までに再生回数が3000万回を超えたのです。
The Lilyの記事によると、この動画に衝撃を受けた人も多いものの、このような"事件"はアメリカの黒人にとっては日常的にありふれたシーンだそうです。記事のなかで当事者の黒人男性は「アフリカ系アメリカ人で同じような経験をしたことのない人はいないでしょう」とコメントしています。
では、なぜこの動画がこれほどに短期間に拡散され多くの人から注目を浴びたのでしょうか。そして、私自身がこの動画が頭から離れないのはなぜなのでしょうか。
それは、この女性の言動が「差別」というものの最も醜い部分を露呈しているからだと思います。私はこの女性のふるまい、取り乱しながらも自分は白人女性であることを誇示しようとするその様子、自分がいかにか弱く守られるべき存在であるかを必死に訴えるその姿に抑えようのない嫌悪感を覚えます。「悲劇のヒロイン」になりきって自己陶酔しているのです。もしも私が英語をまったく解さなかったとしたら、女性の放つ言葉はこんなふうに聞こえたと思います。
私は休日のセントラルパークで愛犬と散歩を楽しんでいる白人女性よ! あなたみたいな黒人男性とは生きる世界が違うの! そのあなたがこの私に注意するって、どういうことか分かっているの?! あなたは私に口を聞ける立場の人間じゃないのよ! 早く去ってよ! さもないと警察を呼んであなたを逮捕させるわよ! あんた、何? 私を撮影するのやめなさいよ! そんなことしてただで済むと思ってるの?! さっさと去りなさい。さもないと私を守ってくれる警察があなたを逮捕するわよ......
このサイトで繰り返し述べているように、私にとって「差別」とはタイのHIV/AIDS問題に関わりだしてからの一貫したテーマです。なぜHIVに感染したことで不当な差別を受けなければならないのか。なぜセクシャルマイノリティやセックスワーカーは差別されるのか。こういった問題に対する答えを見つけたいという気持ちがGINA設立のきっかけのひとつです。
私は医学部入学前に関西の私立大学の社会学部を卒業しています。そこで差別について学んだ経験があります。部落差別、女性差別、外国人差別など、です。その頃にはあまり差別というものが理解できておらず、関心はあったものの、単に単位をとるために勉強した記憶しかありません。しかし、タイのHIV/AIDS問題に関わりだしてから、感染者への差別のみならず、セックスワーカーへの差別(職業差別)、セクシャルマイノリティへの差別、犯罪者(薬物など)への差別、さらにタイ特有の差別としてバンコク人によるイサーン人(東北地方の人)への差別(参考:GINAと共に第31回(2009年1月)「バンコク人 対 イサーン人」)などに強い関心を持つようになりました。
もちろん日本にも差別はあります。HIV感染者への差別は現在では日本の方がタイよりも深刻ですし、部落差別は今も根強くありますし、外国人差別もあります。最近では新型コロナの感染者への差別も無視できません。
これら差別のほぼすべてに共通して存在するのは、「自分の世界との境界の確保」と「自分が他者より優位であることの確保」です。つまり、「私とあなたは生きている世界が違います。私はあなたより優れているんです」という思いが脅かされるときに差別が生まれるのです。
私は過去のコラム(「GINAと共に第109回(2015年7月)「日本のおじさんが同性愛者を嫌う理由」)で、ストレートの人たちがセクシャルマイノリティを差別するのは、「セクシャルマイノリティが羨ましいからだ」という私見を述べました。これは今も間違っていないと思っています。もしもセクシャルマイノリティの人たち全員がとても弱々しく、なおかつ"不幸"な存在であれば、おそらく差別は生まれず「気の毒な人たち」とみられるだけでしょう。しかし実際には、セクシャルマイノリティの人たちは、おしなべて言えば、平均年収が高く、芸術の才能があり、ファッションセンスも高く、生涯のセックスパートナーの人数も多いわけです。それが許せないが故にストレートの人たちはセクシャルマイノリティを差別するのではないかと思うのです。
他の差別をみてみましょう。黒人は明らかに自分とは違う存在であり、その黒人がこの高貴な白人の私に意見を言うことが許せない(先述の白人女性)。黒人が白人と同じように街で暮らしているのが癪(しゃく)に障る。白人の警官の言うことにはすべて文句を言わず従って当然だ(ジョージ・フロイド事件)。HIVや新型コロナの感染者と自分は違う。あなた達は"別世界"の人間なんだから私たちの暮らしに入って来ないで。そして私をあなた達の世界に引き込まないで(病気の差別)。部落の人間が俺たちが出入りする店で俺たちと同じように飲み食いして楽しむのが許せない(部落差別)。月経時に体調を崩し妊娠して出産する女性が我々男性と同じような出世街道に乗るのが許せない(女性差別)。自分の身体を売って生活している人たちは私たちとは別世界。そんな人たちに私たちと同じ権利はいらない(セックスワーカーへの差別)。
このように考えると、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」を脅かすときに起こると考えられます。自分自身も感染する可能性がある感染症は「境界」が脅かされることが差別につながりやすく、「性」「肌の色」「出身地」など生涯変わらないもの(セクシャルアイデンティティは変わり得ますが)については「他者より優位」が脅かされることが差別につながります。
自分と他者との「境界線」は考え方次第でいくらでも引くことができます。自分が他者より優位に立ちたいというのは、人間を動物と考えると「自然な欲求=本能」と言えるかもしれません。ならば差別はなくならないのでしょうか。そんなことはありません。差別をなくす方法はあると私は思っています。次回紹介します。
この事件に比べると規模は比較にならないほど小さいものですが、私にはもうひとつ頭から離れない動画があります。その事件のあらましは、「Washington Post」の姉妹誌「The Lily」2020年5月26日号の記事「黒人のバードウォッチャーの撮影に対し、警官を呼んだ白人女性。"日常的なありふれた"アメリカの人種差別(White woman calling cops on black birdwatcher puts on display the'everyday, run-of-the-mill racism'of America)」で紹介され、記事のなかに動画があります。
5月のある日、ニューヨークのセントラルパークでバードウォッチングをしていた57歳の黒人男性が、飼い犬と一緒にいた白人女性に「犬をリードにつないでほしい」とお願いしました。セントラルパークではリードなしでの犬の散歩が禁止されているからです。
するとその女性は「警察に電話する」と言い出しました。なんと「アフリカ系アメリカ人の男性に脅かされていると通報します」と言うのです。当然と言えば当然ですが、男性は「どうぞ電話してください」と返答しました。
女性は実際に警察に電話をかけ「私と私の犬がアフリカ系アメリカ人男性に脅かされています。すぐに来てください!」と訴えました。「アフリカ系アメリカ人(African American)」という言葉を何度も繰り返して、です。
この一連の流れを撮影していた男性は、この画像を妹(か姉、原文はsister)に送ったところ、その妹(か姉)がツイッターに投稿しました。すると、なんと翌日の午後までに再生回数が3000万回を超えたのです。
The Lilyの記事によると、この動画に衝撃を受けた人も多いものの、このような"事件"はアメリカの黒人にとっては日常的にありふれたシーンだそうです。記事のなかで当事者の黒人男性は「アフリカ系アメリカ人で同じような経験をしたことのない人はいないでしょう」とコメントしています。
では、なぜこの動画がこれほどに短期間に拡散され多くの人から注目を浴びたのでしょうか。そして、私自身がこの動画が頭から離れないのはなぜなのでしょうか。
それは、この女性の言動が「差別」というものの最も醜い部分を露呈しているからだと思います。私はこの女性のふるまい、取り乱しながらも自分は白人女性であることを誇示しようとするその様子、自分がいかにか弱く守られるべき存在であるかを必死に訴えるその姿に抑えようのない嫌悪感を覚えます。「悲劇のヒロイン」になりきって自己陶酔しているのです。もしも私が英語をまったく解さなかったとしたら、女性の放つ言葉はこんなふうに聞こえたと思います。
私は休日のセントラルパークで愛犬と散歩を楽しんでいる白人女性よ! あなたみたいな黒人男性とは生きる世界が違うの! そのあなたがこの私に注意するって、どういうことか分かっているの?! あなたは私に口を聞ける立場の人間じゃないのよ! 早く去ってよ! さもないと警察を呼んであなたを逮捕させるわよ! あんた、何? 私を撮影するのやめなさいよ! そんなことしてただで済むと思ってるの?! さっさと去りなさい。さもないと私を守ってくれる警察があなたを逮捕するわよ......
このサイトで繰り返し述べているように、私にとって「差別」とはタイのHIV/AIDS問題に関わりだしてからの一貫したテーマです。なぜHIVに感染したことで不当な差別を受けなければならないのか。なぜセクシャルマイノリティやセックスワーカーは差別されるのか。こういった問題に対する答えを見つけたいという気持ちがGINA設立のきっかけのひとつです。
私は医学部入学前に関西の私立大学の社会学部を卒業しています。そこで差別について学んだ経験があります。部落差別、女性差別、外国人差別など、です。その頃にはあまり差別というものが理解できておらず、関心はあったものの、単に単位をとるために勉強した記憶しかありません。しかし、タイのHIV/AIDS問題に関わりだしてから、感染者への差別のみならず、セックスワーカーへの差別(職業差別)、セクシャルマイノリティへの差別、犯罪者(薬物など)への差別、さらにタイ特有の差別としてバンコク人によるイサーン人(東北地方の人)への差別(参考:GINAと共に第31回(2009年1月)「バンコク人 対 イサーン人」)などに強い関心を持つようになりました。
もちろん日本にも差別はあります。HIV感染者への差別は現在では日本の方がタイよりも深刻ですし、部落差別は今も根強くありますし、外国人差別もあります。最近では新型コロナの感染者への差別も無視できません。
これら差別のほぼすべてに共通して存在するのは、「自分の世界との境界の確保」と「自分が他者より優位であることの確保」です。つまり、「私とあなたは生きている世界が違います。私はあなたより優れているんです」という思いが脅かされるときに差別が生まれるのです。
私は過去のコラム(「GINAと共に第109回(2015年7月)「日本のおじさんが同性愛者を嫌う理由」)で、ストレートの人たちがセクシャルマイノリティを差別するのは、「セクシャルマイノリティが羨ましいからだ」という私見を述べました。これは今も間違っていないと思っています。もしもセクシャルマイノリティの人たち全員がとても弱々しく、なおかつ"不幸"な存在であれば、おそらく差別は生まれず「気の毒な人たち」とみられるだけでしょう。しかし実際には、セクシャルマイノリティの人たちは、おしなべて言えば、平均年収が高く、芸術の才能があり、ファッションセンスも高く、生涯のセックスパートナーの人数も多いわけです。それが許せないが故にストレートの人たちはセクシャルマイノリティを差別するのではないかと思うのです。
他の差別をみてみましょう。黒人は明らかに自分とは違う存在であり、その黒人がこの高貴な白人の私に意見を言うことが許せない(先述の白人女性)。黒人が白人と同じように街で暮らしているのが癪(しゃく)に障る。白人の警官の言うことにはすべて文句を言わず従って当然だ(ジョージ・フロイド事件)。HIVや新型コロナの感染者と自分は違う。あなた達は"別世界"の人間なんだから私たちの暮らしに入って来ないで。そして私をあなた達の世界に引き込まないで(病気の差別)。部落の人間が俺たちが出入りする店で俺たちと同じように飲み食いして楽しむのが許せない(部落差別)。月経時に体調を崩し妊娠して出産する女性が我々男性と同じような出世街道に乗るのが許せない(女性差別)。自分の身体を売って生活している人たちは私たちとは別世界。そんな人たちに私たちと同じ権利はいらない(セックスワーカーへの差別)。
このように考えると、あらゆる差別は「自分の世界との境界の確保+自分が他者より優位であることの確保」を脅かすときに起こると考えられます。自分自身も感染する可能性がある感染症は「境界」が脅かされることが差別につながりやすく、「性」「肌の色」「出身地」など生涯変わらないもの(セクシャルアイデンティティは変わり得ますが)については「他者より優位」が脅かされることが差別につながります。
自分と他者との「境界線」は考え方次第でいくらでも引くことができます。自分が他者より優位に立ちたいというのは、人間を動物と考えると「自然な欲求=本能」と言えるかもしれません。ならば差別はなくならないのでしょうか。そんなことはありません。差別をなくす方法はあると私は思っています。次回紹介します。
第167回(2020年5月) 「差別」と「承認欲求」は根源が同じ
新型コロナが流行りだしてメディアの取材を受ける機会が増えてきました。特定の治療や薬の宣伝につながるような取材は以前から断っているのですが、コロナの場合はむしろ世間が誤解していることを解きたいという思いもあり、半分くらいは受けるようにしています。
そのなかで印象に残ったテレビ番組のことを紹介しましょう。その番組は全国放送で、しかも視聴率が高いそうです。担当の記者から「新型コロナに関する差別について意見を聞かせてほしい」という依頼を受けました。そこで、実際に経験した差別があった事例、例えば「他院で熱があるだけで受診拒否された」「明らかに新型コロナの疑いがあったのに保健所では検査を拒否され病院でも門前払いされた(そして結局陽性だった)」「中国帰りというだけで受診を拒否された」といった事例などを患者のプライバシーを確保した上で話しました。
当然私としては「新型コロナに伴う差別は許しがたい」という内容の番組をつくってもらえるものと思っていました。ところが、です。完成した番組を見てみると、たしかに差別を取り上げてくれてはいたのですが、「差別する気持ちもわかる」というコメントが繰り返し入っていたのです。
なぜ差別する者をかばうのか......。私にはこれが理解できずその記者に尋ねてみました。「差別する者も理解しないと解決しない」というのがその答えでした。
しかし私にはその答えでは納得ができません。あきらかに間違った差別をする者を許す理由はありません。今回は新型コロナに伴う差別問題をひとつひとつ取り上げるのではなく、「人はなぜ差別をするのか」という根本的な問題を考えてみたいと思います。しかし、この切り口で考えると学問的なつまらないものになりそうなので、「なぜ私自身が差別を許せないのか」という自分自身のことに対して私見を述べたいと思います。
私が生涯をかけてでもHIV/AIDSに伴う差別を解消したいと"考えた"のは2002年。初めてタイのエイズ施設を訪れたときでした。当時のタイはまだ抗HIV薬がなく誤解がはびこっていて、家族から、地域社会から、そして病院からも追い出されて行き場をなくした人たちが大勢いました。食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられた、バスから引きずり降ろされたといったエピソードは掃いて捨てるほどあり、両親がHIVの赤ちゃんがそのあたりに捨てられていて......、という話も珍しくありませんでした。
私は今、差別を解消したいと"考えた"と言いましたが、正確には理性的に考えたのではなく、身体の奥からメラメラと燃え上がるような衝動を抑えられなかったというのが本当のところです。しかし、よく考えてみると、こういった悲惨な差別の状況を私と同じように知ったとしても何の行動もしない人もいるわけです。というより、そういう人の方が圧倒的に多いわけで、私のように「生涯をかけてでも......」と思う方が奇特なのです。
私がかつて出版した本に『医学部6年間の真実』というものがあります。そのなかで、学生時代に研究から臨床に転向した私が取り組みたいと考えたのが(私は医学部入学当時、医師になるつもりはなく研究者を目指していました)、「病気で差別されている人たちの力になること」と書いてあります。どうも私は「差別」というものに人生を左右されているようです。
そういうわけで、昔から「自分の考えが正しいかどうかは別にして、なぜ私は差別というものにこれほど心を揺さぶられるのか」というのが不思議でした。「差別解消に立ち向かう」と言えば聞こえはいいですし、間違ってはいないでしょうが、本当に差別されている人のためだけなのか、もしかすると単なる自己満足ではないのか、という気持ちは今もあります。
そんな私が差別以外のことで「自分は世間からズレているかもしれない」と昔から気になっているのが「出世や名誉にまるで興味が持てない」ということです。出世を求める会社の上司に幻滅したエピソードは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のコラム「競争しない、という生き方~その2~」で述べました。そもそも、私は就職時(1991年)に空前の好景気であったにも関わらず、有名企業への就職などは初めから眼中になく、非上場の無名な会社に就職しました。ゼミの仲間は私の行動を不思議がっていましたが、そもそも私は彼(女)らと異なり、会社名をまるでブランドのようにとらえるそういうセンスが理解できませんでしたし、大企業で競争にさらされる人生が楽しいとは到底思えなかったのです。
もうひとつ私が「世間からズレているかもしれない」と以前から気になっているのは「お金儲けに興味が持てない」ということです。今述べた就職活動でも、会社が無名というだけでなく、おそらく年収も大企業に比べれば相当低いところに就職しました。その会社をやめた理由も企業人としてのステップアップではなく「大学院進学を目指す」というものでした。結局、医学部受験に方向転換しましたが、当初は社会学部の大学院を目指していたのです。しかし、医学部に入学したのはいいものの、研究の道は(センスも能力もないことを思い知らされ)臨床に変更せざるを得ませんでした。
医師になってからも大病院に就職したり、大学に戻って教授を目指したりすることには一切の興味がありませんでした。そして、自分のやりたい医療を実践するために開業することにしました。「開業すると最初はお金がかかるけどいずれお金持ちになれますね」といったことを過去に100回以上聞きましたが、私はクリニックを開業するときもお金をかけていませんし(用意したのは300万円だけです)、今も収入は多くありません(おそらく医師のなかでは下位10%に入っていると思います)。利益を追求すればできるのかもしれませんが、そういうことにはまるで興味が持てないのです。そもそも医療で利益を得るのはおかしい(患者さんの中には貧困で苦しんでいる人も少なくない)というのが私の考えです。
私には自分のためにお金を稼ごうという意欲がまるで湧きません。ただ、念のために付記しておくと「お金がいらない」とか「お金がなくても幸せ」と言っているわけではありません。タイで「その日に食べるものの確保ができない人たち」を大勢みてきたからです。お金は必要ですが、ある程度の収入で楽しく暮らすことはできます(このあたりは太融寺町谷口医院の過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」でも述べました)。
ここ数年よく聞く言葉に「承認欲求」というものがあります。これも谷口医院の過去のコラム「「承認欲求」から逃れる方法」で述べたことがあります。私が言いたいのは「承認欲求なんて捨ててしまえばいい。変わらざる自己があればそんなものは不要」ということです。
さて、これまで述べてきたように、私が他人と感覚がズレているかもしれないと感じているのは「差別が許せない」「出世や名誉に興味がない」「お金にも興味がない」「承認欲求がない」ということなどです。そして、最近は、これらはすべてがつながっているのではないか、と思うようになってきています。それぞれの言葉を、角度を変えてみてみると次のようになります。
差別が許せない → 自分が上の立場にいたいという気持ちが理解できない
出世や名誉に興味がない → 上の立場になることや他人から尊敬されることに興味がない
お金に興味がない → お金で他人より優位に立つことに興味がない
承認欲求がない → 他人からどう思われるかということに興味がない
完全な平等主義を支持しているわけではありませんが、私は「自分が他人より優れている」と考える人を理解できません。自分を卑下する必要はありませんが、他人より優れているはずとする理由はどこにもありません。これを私が最も強く実感したのが初めてタイのエイズ施設を訪れたときです。実際に患者さんに会うまでは「かわいそうな人たち」という気持ちがどこかにあったのですが、患者さん達と話しているうちにそのような気持ちは吹っ飛びました。代わりに出てきた感情は「自分が医師であなたが患者なのは単に運によるものだ」というものです。つまり、"たまたま"私が医師であなたが患者であるだけの話で、この役割が正しくて逆が正しくないことは自明でない、ということです。
これには反論があるでしょう。例えば、努力して出世するのはいいことではないか、という考えです。私はそうは思いません。努力を否定するわけではありませんし、私自身は努力を生涯続けるつもりです。しかしながら、生まれつき努力が苦手という人もいますし、小学校にも行かせてもらえなかった(当時のタイの患者さんにはそういう人たちが多かった)人たちに「努力せよ」などと言えるでしょうか。
私は「他人より自分が優れている」と考える人に我慢がなりません。そして、おそらく私のこの"感覚"は生まれ持ってのものであり、これからも変わることはないでしょう。ということは、私は生涯を通して差別に対して立ち向かっていくということになります。
そのなかで印象に残ったテレビ番組のことを紹介しましょう。その番組は全国放送で、しかも視聴率が高いそうです。担当の記者から「新型コロナに関する差別について意見を聞かせてほしい」という依頼を受けました。そこで、実際に経験した差別があった事例、例えば「他院で熱があるだけで受診拒否された」「明らかに新型コロナの疑いがあったのに保健所では検査を拒否され病院でも門前払いされた(そして結局陽性だった)」「中国帰りというだけで受診を拒否された」といった事例などを患者のプライバシーを確保した上で話しました。
当然私としては「新型コロナに伴う差別は許しがたい」という内容の番組をつくってもらえるものと思っていました。ところが、です。完成した番組を見てみると、たしかに差別を取り上げてくれてはいたのですが、「差別する気持ちもわかる」というコメントが繰り返し入っていたのです。
なぜ差別する者をかばうのか......。私にはこれが理解できずその記者に尋ねてみました。「差別する者も理解しないと解決しない」というのがその答えでした。
しかし私にはその答えでは納得ができません。あきらかに間違った差別をする者を許す理由はありません。今回は新型コロナに伴う差別問題をひとつひとつ取り上げるのではなく、「人はなぜ差別をするのか」という根本的な問題を考えてみたいと思います。しかし、この切り口で考えると学問的なつまらないものになりそうなので、「なぜ私自身が差別を許せないのか」という自分自身のことに対して私見を述べたいと思います。
私が生涯をかけてでもHIV/AIDSに伴う差別を解消したいと"考えた"のは2002年。初めてタイのエイズ施設を訪れたときでした。当時のタイはまだ抗HIV薬がなく誤解がはびこっていて、家族から、地域社会から、そして病院からも追い出されて行き場をなくした人たちが大勢いました。食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられた、バスから引きずり降ろされたといったエピソードは掃いて捨てるほどあり、両親がHIVの赤ちゃんがそのあたりに捨てられていて......、という話も珍しくありませんでした。
私は今、差別を解消したいと"考えた"と言いましたが、正確には理性的に考えたのではなく、身体の奥からメラメラと燃え上がるような衝動を抑えられなかったというのが本当のところです。しかし、よく考えてみると、こういった悲惨な差別の状況を私と同じように知ったとしても何の行動もしない人もいるわけです。というより、そういう人の方が圧倒的に多いわけで、私のように「生涯をかけてでも......」と思う方が奇特なのです。
私がかつて出版した本に『医学部6年間の真実』というものがあります。そのなかで、学生時代に研究から臨床に転向した私が取り組みたいと考えたのが(私は医学部入学当時、医師になるつもりはなく研究者を目指していました)、「病気で差別されている人たちの力になること」と書いてあります。どうも私は「差別」というものに人生を左右されているようです。
そういうわけで、昔から「自分の考えが正しいかどうかは別にして、なぜ私は差別というものにこれほど心を揺さぶられるのか」というのが不思議でした。「差別解消に立ち向かう」と言えば聞こえはいいですし、間違ってはいないでしょうが、本当に差別されている人のためだけなのか、もしかすると単なる自己満足ではないのか、という気持ちは今もあります。
そんな私が差別以外のことで「自分は世間からズレているかもしれない」と昔から気になっているのが「出世や名誉にまるで興味が持てない」ということです。出世を求める会社の上司に幻滅したエピソードは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のコラム「競争しない、という生き方~その2~」で述べました。そもそも、私は就職時(1991年)に空前の好景気であったにも関わらず、有名企業への就職などは初めから眼中になく、非上場の無名な会社に就職しました。ゼミの仲間は私の行動を不思議がっていましたが、そもそも私は彼(女)らと異なり、会社名をまるでブランドのようにとらえるそういうセンスが理解できませんでしたし、大企業で競争にさらされる人生が楽しいとは到底思えなかったのです。
もうひとつ私が「世間からズレているかもしれない」と以前から気になっているのは「お金儲けに興味が持てない」ということです。今述べた就職活動でも、会社が無名というだけでなく、おそらく年収も大企業に比べれば相当低いところに就職しました。その会社をやめた理由も企業人としてのステップアップではなく「大学院進学を目指す」というものでした。結局、医学部受験に方向転換しましたが、当初は社会学部の大学院を目指していたのです。しかし、医学部に入学したのはいいものの、研究の道は(センスも能力もないことを思い知らされ)臨床に変更せざるを得ませんでした。
医師になってからも大病院に就職したり、大学に戻って教授を目指したりすることには一切の興味がありませんでした。そして、自分のやりたい医療を実践するために開業することにしました。「開業すると最初はお金がかかるけどいずれお金持ちになれますね」といったことを過去に100回以上聞きましたが、私はクリニックを開業するときもお金をかけていませんし(用意したのは300万円だけです)、今も収入は多くありません(おそらく医師のなかでは下位10%に入っていると思います)。利益を追求すればできるのかもしれませんが、そういうことにはまるで興味が持てないのです。そもそも医療で利益を得るのはおかしい(患者さんの中には貧困で苦しんでいる人も少なくない)というのが私の考えです。
私には自分のためにお金を稼ごうという意欲がまるで湧きません。ただ、念のために付記しておくと「お金がいらない」とか「お金がなくても幸せ」と言っているわけではありません。タイで「その日に食べるものの確保ができない人たち」を大勢みてきたからです。お金は必要ですが、ある程度の収入で楽しく暮らすことはできます(このあたりは太融寺町谷口医院の過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」でも述べました)。
ここ数年よく聞く言葉に「承認欲求」というものがあります。これも谷口医院の過去のコラム「「承認欲求」から逃れる方法」で述べたことがあります。私が言いたいのは「承認欲求なんて捨ててしまえばいい。変わらざる自己があればそんなものは不要」ということです。
さて、これまで述べてきたように、私が他人と感覚がズレているかもしれないと感じているのは「差別が許せない」「出世や名誉に興味がない」「お金にも興味がない」「承認欲求がない」ということなどです。そして、最近は、これらはすべてがつながっているのではないか、と思うようになってきています。それぞれの言葉を、角度を変えてみてみると次のようになります。
差別が許せない → 自分が上の立場にいたいという気持ちが理解できない
出世や名誉に興味がない → 上の立場になることや他人から尊敬されることに興味がない
お金に興味がない → お金で他人より優位に立つことに興味がない
承認欲求がない → 他人からどう思われるかということに興味がない
完全な平等主義を支持しているわけではありませんが、私は「自分が他人より優れている」と考える人を理解できません。自分を卑下する必要はありませんが、他人より優れているはずとする理由はどこにもありません。これを私が最も強く実感したのが初めてタイのエイズ施設を訪れたときです。実際に患者さんに会うまでは「かわいそうな人たち」という気持ちがどこかにあったのですが、患者さん達と話しているうちにそのような気持ちは吹っ飛びました。代わりに出てきた感情は「自分が医師であなたが患者なのは単に運によるものだ」というものです。つまり、"たまたま"私が医師であなたが患者であるだけの話で、この役割が正しくて逆が正しくないことは自明でない、ということです。
これには反論があるでしょう。例えば、努力して出世するのはいいことではないか、という考えです。私はそうは思いません。努力を否定するわけではありませんし、私自身は努力を生涯続けるつもりです。しかしながら、生まれつき努力が苦手という人もいますし、小学校にも行かせてもらえなかった(当時のタイの患者さんにはそういう人たちが多かった)人たちに「努力せよ」などと言えるでしょうか。
私は「他人より自分が優れている」と考える人に我慢がなりません。そして、おそらく私のこの"感覚"は生まれ持ってのものであり、これからも変わることはないでしょう。ということは、私は生涯を通して差別に対して立ち向かっていくということになります。