GINAと共に
第186回(2021年12月) 薄れていくHIVへの世間の関心
私の実感で言えば、HIVに対する世間の関心が最も高かったのは2008年です。そして、その後は一定のスピードでゆっくりとその度合いが低下しています。GINAへのメールでの問い合わせは依然たくさんありますが、それでもピーク時に比べると半分以下に減っています。新型コロナウイルスの影響もあるでしょうが、タイでボランティアをしたいという人はほぼ皆無となりました。
最近はHIVに関するイベントを企画しても人が集まらないと聞きます。2010年頃までは、大学の学園祭でもHIV関連のイベントが多数開催され、私もその関連で講演をするために呼ばれたことが何度かあります。最近はHIV関連の講演で依頼を受けるのは、医療関係か教育関係(学生にではなく教師向けのもの)ばかりです。
では、なぜ世間の関心が減ったのでしょうか。今回はこの理由を私見を織り交ぜながら明らかにしていきたいと思います。
例えば、現在も世界各国で猛威を振るい歴史に残る感染症となった新型コロナを考えてみましょう。現在のワクチンは高い効果が期待できますが、それでも感染して死亡する人は少なくありませんし、安全性にも懸念があります。ですが、ワクチンが改良され、感染をほぼ100%防ぐことができて、副作用がほとんどなくなり、さらに安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬ができたとしましょう。こうなれば1年もしないうちに新型コロナは話題に上がることすらなくなるでしょう。
HIVも、もしも有効で安全なワクチンができて、安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬が登場すれば、しかも飲み薬を数日間内服すれば完全に治るようになったとすれば、関心が低くなって当然であり、HIV関連のイベントなど誰も企画しようと思いません。
では、そこまでは到達していないとしてもHIVはもはや恐れるに足りない感染症になったのでしょうか。ワクチンはなく、薬は「よく効いて副作用が少ない」、までは達成しましたが「安い」わけではありませんし「数日間で治る」わけではありません。依然として費用は高く(そのため障がい扱いとなり公費で自己負担を減らす手続きが必要)、生涯飲み続けなければならないことに変わりはありません。「飲み忘れれば耐性ができて薬が効かなくなり、エイズを発生するかもしれない」、というのは感染者にとって依然恐怖です。
また、きちんと薬を内服しウイルス量をおさえられたとしても、少しずつ腎臓の機能が悪くなってきたり、骨がもろくなってきたりする人がいます。これらは抗HIV薬を変更したり、別の薬を足したりして凌ぐことはできます。ですが、HANDと呼ばれる認知機能が低下する現象を完全に予防することは現時点ではできません。「きちんと薬を飲んでいれば日和見感染を予防しエイズを発症しません」と言われても、「HANDを発症し認知症になるかもしれません」と言われればやはりこれは恐怖です。
つまり、HIV感染は依然「何としてでも感染しないように努めなければならない感染症」なのです。
社会的な観点からみていきましょう。GINAを立ち上げた2006年の時点では、HIV感染告知は、ある意味で「社会的な絶望」を意味していました。差別が蔓延し、学校でも会社でも感染していることを告げられず、家族へのカミングアウトも多くの人ができず、生涯パートナーができないと思い込んでいた人が多かったのです。エイズ拠点病院以外の医療機関はかなり多くのところが診療拒否をしていました。
現在は少しずつ変わってきています。障がい者枠で就職することができるようになりましたし、家族へカミングアウトする人も今では珍しくなくなりました。会社や学校で全員にカミングアウトしている人はほとんどいませんが、それでも「仲の良い友達だけには伝えている」という声を聞く機会が増えてきました。では、着実にHIV陽性者が住みやすい社会になってきているのでしょうか。
私見を述べれば、日本の実情は「以前より少しマシ」という程度であり、例えばタイとは大きな差があります。このサイトを立ち上げた頃に伝えていたように、2000年代前半まではタイは日本よりもひどい実情がありました。食堂に入ればフォークを投げつけられ、バスに乗ろうとすると引きずりおろされ、街を歩けば石を投げられ、家族からも地域社会からも追い出されていたのです。さらにほとんどの医療機関では門前払いをくらっていました。
ところが、その後正しい知識が伝わることで激変します。一部の地域では地域住民全員で感染者を支えています。私が個人的に知るあるHIV陽性のタイ人は、大学時代も就職活動でも堂々と感染をカミングアウトしており、現在銀行員をしています。職場の誰もが彼がHIV陽性であることを知っています。
翻って日本をみてみましょう。下記は、今年つまり2021年に私が直接HIVの患者さんから聞いたエピソードです。
・ある大手財閥グループの会社に「障がい者枠」で就職を希望した。面接時に「うちの会社は障がい者は積極的に雇用しているが、あなたの病気はすべて断っている。〇〇系のグループ会社すべてで同じ方針だ」と言われた。
・視力が低下してきたためにある大手チェーンの眼科クリニックを受診した。問診票にHIVと書くと、別室に呼び出され「あなたの病気があると診られない。これは当グループのすべてのクリニックで同じ方針だ」と言われた。
たしかに、一部の外資系グループや、一部の大手建設会社のグループでは積極的にHIV陽性者を障がい者枠で雇用しています。ですが、上記の大手財閥グループの企業では一律に拒否しているというのです。医療機関は、10年前に比べれば随分と改善されてきましたが、受診拒否は今も珍しくありません。特にひどいのが眼科、耳鼻咽喉科、婦人科、それに歯科です。
ところで、HIVの社会活動に関わりイベントの開催などを積極的におこなっている人たちはどのようなことを目的としているのでしょうか。これは大きくわけて2つあります。1つはリスクのある人に関心を持ってもらい早期発見のために検査を促し(無料検査の実施など)、そして予防(コンドームの使用の啓発、PrEP/PEPの広報など)をしてもらうことです。そして、もうひとつが正しい知識の普及につとめ感染者への差別・偏見をなくすことです。
世間がHIVに対する関心を失えば、正しい知識が伝わらず差別や偏見がなくなりません。先述の大手財閥グループや医療機関で辛い思いをすることがなくならないわけです。そして、関心の低下は予防への意識低下とつながり、感染者が増加する可能性もあります。実際、私が院長を務める太融寺町谷口医院を受診する患者さんで、「危険な性行為があったので性感染症が心配」という人から「梅毒は気になるけど、HIVは大丈夫」と言われることがあり驚かされます。
誤解を恐れずに言えば、梅毒など恐れる必要がまったくない感染症です。早期発見して治療をすれば完治するのですから。ワクチンがなくコンドームでも防げませんが、何度かかっても治療をすれば治ります。実際、「今回で梅毒は5回目で~す」などという患者さんもざらにいます。一方、HIVは感染すると生涯薬を飲み続けなければならず、飲み続けたとしてもHANDのリスクが残り、就職や医療機関受診でとても辛い思いをすることもあるわけです。
恐怖心を煽るようなことはしたくありませんが、世間の関心が再び高くなることを願いながら2021年最後の「GINAと共に」を締めたいと思います。
最近はHIVに関するイベントを企画しても人が集まらないと聞きます。2010年頃までは、大学の学園祭でもHIV関連のイベントが多数開催され、私もその関連で講演をするために呼ばれたことが何度かあります。最近はHIV関連の講演で依頼を受けるのは、医療関係か教育関係(学生にではなく教師向けのもの)ばかりです。
では、なぜ世間の関心が減ったのでしょうか。今回はこの理由を私見を織り交ぜながら明らかにしていきたいと思います。
例えば、現在も世界各国で猛威を振るい歴史に残る感染症となった新型コロナを考えてみましょう。現在のワクチンは高い効果が期待できますが、それでも感染して死亡する人は少なくありませんし、安全性にも懸念があります。ですが、ワクチンが改良され、感染をほぼ100%防ぐことができて、副作用がほとんどなくなり、さらに安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬ができたとしましょう。こうなれば1年もしないうちに新型コロナは話題に上がることすらなくなるでしょう。
HIVも、もしも有効で安全なワクチンができて、安くてよく効いて副作用がほとんどない飲み薬が登場すれば、しかも飲み薬を数日間内服すれば完全に治るようになったとすれば、関心が低くなって当然であり、HIV関連のイベントなど誰も企画しようと思いません。
では、そこまでは到達していないとしてもHIVはもはや恐れるに足りない感染症になったのでしょうか。ワクチンはなく、薬は「よく効いて副作用が少ない」、までは達成しましたが「安い」わけではありませんし「数日間で治る」わけではありません。依然として費用は高く(そのため障がい扱いとなり公費で自己負担を減らす手続きが必要)、生涯飲み続けなければならないことに変わりはありません。「飲み忘れれば耐性ができて薬が効かなくなり、エイズを発生するかもしれない」、というのは感染者にとって依然恐怖です。
また、きちんと薬を内服しウイルス量をおさえられたとしても、少しずつ腎臓の機能が悪くなってきたり、骨がもろくなってきたりする人がいます。これらは抗HIV薬を変更したり、別の薬を足したりして凌ぐことはできます。ですが、HANDと呼ばれる認知機能が低下する現象を完全に予防することは現時点ではできません。「きちんと薬を飲んでいれば日和見感染を予防しエイズを発症しません」と言われても、「HANDを発症し認知症になるかもしれません」と言われればやはりこれは恐怖です。
つまり、HIV感染は依然「何としてでも感染しないように努めなければならない感染症」なのです。
社会的な観点からみていきましょう。GINAを立ち上げた2006年の時点では、HIV感染告知は、ある意味で「社会的な絶望」を意味していました。差別が蔓延し、学校でも会社でも感染していることを告げられず、家族へのカミングアウトも多くの人ができず、生涯パートナーができないと思い込んでいた人が多かったのです。エイズ拠点病院以外の医療機関はかなり多くのところが診療拒否をしていました。
現在は少しずつ変わってきています。障がい者枠で就職することができるようになりましたし、家族へカミングアウトする人も今では珍しくなくなりました。会社や学校で全員にカミングアウトしている人はほとんどいませんが、それでも「仲の良い友達だけには伝えている」という声を聞く機会が増えてきました。では、着実にHIV陽性者が住みやすい社会になってきているのでしょうか。
私見を述べれば、日本の実情は「以前より少しマシ」という程度であり、例えばタイとは大きな差があります。このサイトを立ち上げた頃に伝えていたように、2000年代前半まではタイは日本よりもひどい実情がありました。食堂に入ればフォークを投げつけられ、バスに乗ろうとすると引きずりおろされ、街を歩けば石を投げられ、家族からも地域社会からも追い出されていたのです。さらにほとんどの医療機関では門前払いをくらっていました。
ところが、その後正しい知識が伝わることで激変します。一部の地域では地域住民全員で感染者を支えています。私が個人的に知るあるHIV陽性のタイ人は、大学時代も就職活動でも堂々と感染をカミングアウトしており、現在銀行員をしています。職場の誰もが彼がHIV陽性であることを知っています。
翻って日本をみてみましょう。下記は、今年つまり2021年に私が直接HIVの患者さんから聞いたエピソードです。
・ある大手財閥グループの会社に「障がい者枠」で就職を希望した。面接時に「うちの会社は障がい者は積極的に雇用しているが、あなたの病気はすべて断っている。〇〇系のグループ会社すべてで同じ方針だ」と言われた。
・視力が低下してきたためにある大手チェーンの眼科クリニックを受診した。問診票にHIVと書くと、別室に呼び出され「あなたの病気があると診られない。これは当グループのすべてのクリニックで同じ方針だ」と言われた。
たしかに、一部の外資系グループや、一部の大手建設会社のグループでは積極的にHIV陽性者を障がい者枠で雇用しています。ですが、上記の大手財閥グループの企業では一律に拒否しているというのです。医療機関は、10年前に比べれば随分と改善されてきましたが、受診拒否は今も珍しくありません。特にひどいのが眼科、耳鼻咽喉科、婦人科、それに歯科です。
ところで、HIVの社会活動に関わりイベントの開催などを積極的におこなっている人たちはどのようなことを目的としているのでしょうか。これは大きくわけて2つあります。1つはリスクのある人に関心を持ってもらい早期発見のために検査を促し(無料検査の実施など)、そして予防(コンドームの使用の啓発、PrEP/PEPの広報など)をしてもらうことです。そして、もうひとつが正しい知識の普及につとめ感染者への差別・偏見をなくすことです。
世間がHIVに対する関心を失えば、正しい知識が伝わらず差別や偏見がなくなりません。先述の大手財閥グループや医療機関で辛い思いをすることがなくならないわけです。そして、関心の低下は予防への意識低下とつながり、感染者が増加する可能性もあります。実際、私が院長を務める太融寺町谷口医院を受診する患者さんで、「危険な性行為があったので性感染症が心配」という人から「梅毒は気になるけど、HIVは大丈夫」と言われることがあり驚かされます。
誤解を恐れずに言えば、梅毒など恐れる必要がまったくない感染症です。早期発見して治療をすれば完治するのですから。ワクチンがなくコンドームでも防げませんが、何度かかっても治療をすれば治ります。実際、「今回で梅毒は5回目で~す」などという患者さんもざらにいます。一方、HIVは感染すると生涯薬を飲み続けなければならず、飲み続けたとしてもHANDのリスクが残り、就職や医療機関受診でとても辛い思いをすることもあるわけです。
恐怖心を煽るようなことはしたくありませんが、世間の関心が再び高くなることを願いながら2021年最後の「GINAと共に」を締めたいと思います。
第185回(2021年11月) 米国の新しい違法薬物対策
米国の違法薬物汚染が進行しているという話はこのサイトで過去に何度かおこないました(例えば、第161回(2019年11月)「パーデュー社の破産と医師の責任」、第137回(2017年11月)「痛み止めから始まるHIV」)。今回はまず、その「続編」と呼べる動きを紹介し、その後米国の新しい対策について述べたいと思います。
2021年11月17日のWashington Postの記事「10万人の米国人がコロナ禍の12か月間に薬物過剰摂取で死亡 (100,000 Americans died of drug overdoses in 12 months during the pandemic)」によると、2020年4月から2021年4月の一年間で、薬物の過剰摂取で死亡した米国人は10万人以上に上ります。米国の人口は日本の約3倍となる約3億3千万人ですから、薬物による死亡者の割合が同程度だとすると、日本では約3万3千人となります。1998年から2011年まで日本の年間自殺者が3万人を超えていましたから、当時の自殺者全員が薬物により死亡したと考えれば米国の10万人がいかに異常な数字かが分かると思います。
もう少し国際比較をしてみましょう。Washington Postの同記事に欧州諸国との比較が掲載されています。15歳~64歳の人口10万人あたりの薬物による死亡者は、米国が第1位で21人。2位との差を大きく引き離してダントツです。2位以下はノルウェー(5人)、スウエーデン(4.8人)、アイルランド(4.6人)、フィンランド(4.1人)と続きます。米国以外はすべてヨーロッパ北部であることも興味深いと言えます。
米国の違法薬物の内訳をみてみましょう。先に紹介した過去のコラムでは「オキシコドン」(商品名はオキシコンチンが有名)が諸悪の根源であり、これらを販売していた製薬会社、なかでもパーデュー社に大きな責任があるという話をしました(ただし、そのコラムで述べたように、私自身は製薬会社よりも医師の責任が大きいと考えています)。
ところが、現在では危険薬物の代名詞がオキシコドンから「フェンタニル」に変わっています。ここで麻薬の分類を確認しておきます。違法薬物にはたくさんのものがありますが、(狭義の)麻薬としてはコデイン、トラマドール、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルの5種類をおさえましょう(注)。このうち、コデイン(咳止めに入っています)とトラマドール(日本ではトラマール、トラムセットなどの商品名で処方されます)は「弱オピオイド」(弱い麻薬)、残りの3種、すなわち、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは「強オピオイド」(強い麻薬)と考えて差支えありません。
ただし、誤解してはいけないのは弱オピオイドのコデイン、トラマドールでも依存性は充分にあることです。日本では、知らない間に薬局で売っている風邪薬や咳止め(ブロンが最も有名)でコデイン依存症になっている人も少なくありません。また、トラマドールは医師が充分な説明をしないまま患者さんが知らない間に依存症になってしまうこともあります。
他方、強オピオイドのモルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは、医療に用いるのは日本では原則としてがんの疼痛緩和時のみです。しかし、米国では頭痛や関節痛、腰痛といった誰もが経験する慢性の痛みにも処方され続けてきました。そして、一気に広がったのが過去のコラムで紹介したオキシコドンです。オキシコドンはモルヒネに比べて作用が強力であるのみならず、副作用の便秘や嘔気・嘔吐が起こりにくいのです。
ところが、2014年あたりからフェンタニルの消費量が増え始めその後急激な増加をみせます。Washington Postに掲載されたグラフによれば、2020年4月から1年間の全薬物での死亡者100,306人中、6割以上に相当する64,178人がフェンタニルが原因です。他方、日本では覚醒剤が第1位ですから、日米で大きな差があることになります。
それにしてもフェンタニルを中心とした薬物で年間10万人以上が死んでいるというのは異常です。米国に比べれば、最近若者の間で大麻使用者が増えてきた......、などと騒いでいる日本はなんて呑気な国なのだろうと私には思えます。ちなみに、日本で大麻使用者が増えているという意見は正しくないと思っています。こんなもの、昔からちょっと手を伸ばせばいつでも簡単に入手できました(少なくとも関西では)。逮捕者が増えているのは、単にSNSなどで証拠を残す若者が多いからでしょう。
では、米国ではこの異常事態に対してどのような対策を講じているのでしょうか。最近、バイデン大統領が興味深い発表をおこないました。米国のメディア「NPR」の10月27日の記事「薬物過剰摂取による死亡者多数のため、バイデン政権がかつてはタブーだった政策を取り入れる (Overdose deaths are so high that the Biden team is embracing ideas once seen as taboo)」から紹介します。
同記事によると、バイデン政権はこれまで反対意見の多かったハーム・リダクションをついに開始しました。ハーム・リダクションとは分かりやすく一言で言えば「薬物を与え続けながら患者を見守ること」です。違法薬物だからと言って処罰を与えるのではなく、例えば、感染予防のために新しい注射器と針を支給したり、薬物の種類によってはより依存性の少ない別の薬物を与えたりする対策です。私が院長を務める太融寺町谷口医院でも、ベンゾジアゼピン依存症の人に対してはこの治療を取り入れています。
麻薬のハーム・リダクションとしてはメサドン療法が有名で、タイではかなり普及しています。同記事にはメサドンの名前が出てきませんから、米国での具体的な方法は分かりませんが、注射器と麻薬を用意して、それを依存症の人に支給して医療者の目の前で摂取してもらいます。
しかし、反対意見も小さくないようで、現在ニューヨーク市やフィラデルフィアではすでに開始されていますが、今後どこまで広がるかは不透明のようです。ハーム・リダクションには「なぜ、犯罪者の犯罪を助長するのだ」という声が必ず出てくるのです。
カルフォルニアでは別の試みが始まろうとしています。2021年8月27日のAP通信の記事「薬物依存症の者への報酬支給を検討しているカリフォルニア(California looking to pay drug addicts to stay sober)」を紹介しましょう。
タイトルからはカリフォルニア州が画期的な対策を考えだしたかのような印象を受けますが、記事を読むと、このような試みは連邦政府ですでにおこなわれていることが分かります。連邦政府は過去数年間、退役軍人のコカインや覚醒剤(メタンフェタミン)依存症者に報酬を払ってやめさせています。対象者は薬物検査を受け、結果が陰性であればいくらかの報酬を受け取れます。一定期間を過ぎれば数百ドルのギフトカードをもらうことができ、これを現金に換えることができます。
現在カリフォルニア州はこれを住民を対象に実施できるよう連邦政府に申請しています。興味深いことに、同州では刺激系薬物(覚醒剤やコカインのこと)の過剰摂取による死亡者が2010年から2019年の間に4倍に増え、さらに増加しています。
麻薬はハーム・リダクション、覚醒剤は報酬支給、と単純に分類できるわけではないでしょうが(例えば、麻薬にも報酬支給を試みてみてもいいかもしれません)、米国のこういった試みは注目に値します。
日本の最大の薬物問題は何といっても覚醒剤です。なかには上手に付き合っているという声も聞きますが、私の知る範囲で言えば人生を破滅させる人が大半です。「初めから手を出さない」が私が以前から提唱している最善策です。しかし、いったん依存症になってしまった人に対する治療も考えなければなりません。自助グループなどの集団療法は確かに有効性があるのですが、そういった場に行きたくないという人も少なくありません。
最後に先述のWashington Postから興味深いデータを紹介しておきます。それは米国の医師の麻薬処方量です。何年も前から異常事態が生じていることを実際に処方している医師が気付かないはずがありません。2012年には2億5千万枚以上の麻薬の処方箋が発行されていましたが、そこから減少に転じ2020年は約1億4千万枚と半数近くにまで減っています。しかし、麻薬依存症者は一貫して右肩上がりです。闇で入手する者が多いからです。
************
注:もう少し麻薬の定義を広げると、文章に登場した合成麻薬のメサドンも含まれます。さらに広げると、日本の疼痛管理でよく使われるペンタゾシン(商品名ではソセゴン、ペンタジンなど)、ブプレノルフィン(商品名ではレペタン、ノルスパンテープなど)なども入ります。
2021年11月17日のWashington Postの記事「10万人の米国人がコロナ禍の12か月間に薬物過剰摂取で死亡 (100,000 Americans died of drug overdoses in 12 months during the pandemic)」によると、2020年4月から2021年4月の一年間で、薬物の過剰摂取で死亡した米国人は10万人以上に上ります。米国の人口は日本の約3倍となる約3億3千万人ですから、薬物による死亡者の割合が同程度だとすると、日本では約3万3千人となります。1998年から2011年まで日本の年間自殺者が3万人を超えていましたから、当時の自殺者全員が薬物により死亡したと考えれば米国の10万人がいかに異常な数字かが分かると思います。
もう少し国際比較をしてみましょう。Washington Postの同記事に欧州諸国との比較が掲載されています。15歳~64歳の人口10万人あたりの薬物による死亡者は、米国が第1位で21人。2位との差を大きく引き離してダントツです。2位以下はノルウェー(5人)、スウエーデン(4.8人)、アイルランド(4.6人)、フィンランド(4.1人)と続きます。米国以外はすべてヨーロッパ北部であることも興味深いと言えます。
米国の違法薬物の内訳をみてみましょう。先に紹介した過去のコラムでは「オキシコドン」(商品名はオキシコンチンが有名)が諸悪の根源であり、これらを販売していた製薬会社、なかでもパーデュー社に大きな責任があるという話をしました(ただし、そのコラムで述べたように、私自身は製薬会社よりも医師の責任が大きいと考えています)。
ところが、現在では危険薬物の代名詞がオキシコドンから「フェンタニル」に変わっています。ここで麻薬の分類を確認しておきます。違法薬物にはたくさんのものがありますが、(狭義の)麻薬としてはコデイン、トラマドール、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルの5種類をおさえましょう(注)。このうち、コデイン(咳止めに入っています)とトラマドール(日本ではトラマール、トラムセットなどの商品名で処方されます)は「弱オピオイド」(弱い麻薬)、残りの3種、すなわち、モルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは「強オピオイド」(強い麻薬)と考えて差支えありません。
ただし、誤解してはいけないのは弱オピオイドのコデイン、トラマドールでも依存性は充分にあることです。日本では、知らない間に薬局で売っている風邪薬や咳止め(ブロンが最も有名)でコデイン依存症になっている人も少なくありません。また、トラマドールは医師が充分な説明をしないまま患者さんが知らない間に依存症になってしまうこともあります。
他方、強オピオイドのモルヒネ、オキシコドン、フェンタニルは、医療に用いるのは日本では原則としてがんの疼痛緩和時のみです。しかし、米国では頭痛や関節痛、腰痛といった誰もが経験する慢性の痛みにも処方され続けてきました。そして、一気に広がったのが過去のコラムで紹介したオキシコドンです。オキシコドンはモルヒネに比べて作用が強力であるのみならず、副作用の便秘や嘔気・嘔吐が起こりにくいのです。
ところが、2014年あたりからフェンタニルの消費量が増え始めその後急激な増加をみせます。Washington Postに掲載されたグラフによれば、2020年4月から1年間の全薬物での死亡者100,306人中、6割以上に相当する64,178人がフェンタニルが原因です。他方、日本では覚醒剤が第1位ですから、日米で大きな差があることになります。
それにしてもフェンタニルを中心とした薬物で年間10万人以上が死んでいるというのは異常です。米国に比べれば、最近若者の間で大麻使用者が増えてきた......、などと騒いでいる日本はなんて呑気な国なのだろうと私には思えます。ちなみに、日本で大麻使用者が増えているという意見は正しくないと思っています。こんなもの、昔からちょっと手を伸ばせばいつでも簡単に入手できました(少なくとも関西では)。逮捕者が増えているのは、単にSNSなどで証拠を残す若者が多いからでしょう。
では、米国ではこの異常事態に対してどのような対策を講じているのでしょうか。最近、バイデン大統領が興味深い発表をおこないました。米国のメディア「NPR」の10月27日の記事「薬物過剰摂取による死亡者多数のため、バイデン政権がかつてはタブーだった政策を取り入れる (Overdose deaths are so high that the Biden team is embracing ideas once seen as taboo)」から紹介します。
同記事によると、バイデン政権はこれまで反対意見の多かったハーム・リダクションをついに開始しました。ハーム・リダクションとは分かりやすく一言で言えば「薬物を与え続けながら患者を見守ること」です。違法薬物だからと言って処罰を与えるのではなく、例えば、感染予防のために新しい注射器と針を支給したり、薬物の種類によってはより依存性の少ない別の薬物を与えたりする対策です。私が院長を務める太融寺町谷口医院でも、ベンゾジアゼピン依存症の人に対してはこの治療を取り入れています。
麻薬のハーム・リダクションとしてはメサドン療法が有名で、タイではかなり普及しています。同記事にはメサドンの名前が出てきませんから、米国での具体的な方法は分かりませんが、注射器と麻薬を用意して、それを依存症の人に支給して医療者の目の前で摂取してもらいます。
しかし、反対意見も小さくないようで、現在ニューヨーク市やフィラデルフィアではすでに開始されていますが、今後どこまで広がるかは不透明のようです。ハーム・リダクションには「なぜ、犯罪者の犯罪を助長するのだ」という声が必ず出てくるのです。
カルフォルニアでは別の試みが始まろうとしています。2021年8月27日のAP通信の記事「薬物依存症の者への報酬支給を検討しているカリフォルニア(California looking to pay drug addicts to stay sober)」を紹介しましょう。
タイトルからはカリフォルニア州が画期的な対策を考えだしたかのような印象を受けますが、記事を読むと、このような試みは連邦政府ですでにおこなわれていることが分かります。連邦政府は過去数年間、退役軍人のコカインや覚醒剤(メタンフェタミン)依存症者に報酬を払ってやめさせています。対象者は薬物検査を受け、結果が陰性であればいくらかの報酬を受け取れます。一定期間を過ぎれば数百ドルのギフトカードをもらうことができ、これを現金に換えることができます。
現在カリフォルニア州はこれを住民を対象に実施できるよう連邦政府に申請しています。興味深いことに、同州では刺激系薬物(覚醒剤やコカインのこと)の過剰摂取による死亡者が2010年から2019年の間に4倍に増え、さらに増加しています。
麻薬はハーム・リダクション、覚醒剤は報酬支給、と単純に分類できるわけではないでしょうが(例えば、麻薬にも報酬支給を試みてみてもいいかもしれません)、米国のこういった試みは注目に値します。
日本の最大の薬物問題は何といっても覚醒剤です。なかには上手に付き合っているという声も聞きますが、私の知る範囲で言えば人生を破滅させる人が大半です。「初めから手を出さない」が私が以前から提唱している最善策です。しかし、いったん依存症になってしまった人に対する治療も考えなければなりません。自助グループなどの集団療法は確かに有効性があるのですが、そういった場に行きたくないという人も少なくありません。
最後に先述のWashington Postから興味深いデータを紹介しておきます。それは米国の医師の麻薬処方量です。何年も前から異常事態が生じていることを実際に処方している医師が気付かないはずがありません。2012年には2億5千万枚以上の麻薬の処方箋が発行されていましたが、そこから減少に転じ2020年は約1億4千万枚と半数近くにまで減っています。しかし、麻薬依存症者は一貫して右肩上がりです。闇で入手する者が多いからです。
************
注:もう少し麻薬の定義を広げると、文章に登場した合成麻薬のメサドンも含まれます。さらに広げると、日本の疼痛管理でよく使われるペンタゾシン(商品名ではソセゴン、ペンタジンなど)、ブプレノルフィン(商品名ではレペタン、ノルスパンテープなど)なども入ります。
第184回(2021年10月) PrEPについての2つの誤解
GINAと共に第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」で、「日本でも今後HIVのPrEPが急速に広がっていくであろう。その最大の理由は医療機関で後発品を輸入することが認められるようになったからだ」と述べました。
実際、その通りとなり、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)でも、PrEP希望で受診(オンライン診療を含む)される人が次第に増えてきています。しかしながら、私が当初予想していなかった「誤解」をしている人が目立つようになってきました。今回はよくある2つの誤解について述べたいとと思いますが、まずはPrEPの概略を確認しておきましょう。
PrEPとは曝露前予防(Pre-Exposure Prophylaxis)のことで、HIVが体内に侵入する前に抗HIV薬合計4錠のみを内服して感染を予防する方法です。「PrEP」という言葉はHIVの専売特許ではなく、他の感染症でも用います。代表的なものにマラリアがあります。マラリアにはまだ広く普及しているワクチンがなく、マラリア浸淫地を訪れる際は予防薬を飲まねばならないことがあり、予防薬を内服することをPrEPと呼びます。介護施設などでインフエンザが発生したときは職員や患者さんの家族への感染を防ぐために抗インフルエンザ薬を内服(または吸入)することがあり、これもPrEPです。
感染症を予防するためのワクチンはすべてPrEPと言えます。実際、狂犬病のように曝露後(犬などに咬まれた後)にでも使えるワクチンは、曝露後に使うときはPEP(Post-Exposure prophylaxis)と呼び、曝露前に使うとき(要するに通常のワクチンとして使うとき)はPrEPといいます。(例えばインドなどで)狂犬病を頻繁に診ている医師であればPEP/PrEPと言えば、おそらくHIVよりも先に狂犬病を思い出すでしょう。
冒頭のコラムでもHIVのPrEPに関してよくある誤解について言及しました。それらはC型肝炎ウイルス(HCV)に関することと、オンデマンドPrEPについてです(オンデマンドPrEPについては今回も後で述べます)。しかし、PrEPが普及した今、「もっと大きな誤解」があることがわかりました。
そのコラムで私は「PrEPの相談をされる人は性感染症に詳しいことが多く、B型肝炎ウイルス(HBV)のワクチンはすでに接種し抗体形成を確認していることが多い」と述べました。実際、昨年(2020年)までにPrEPの問合せをされてきた人のほぼ全員(日本人も外国人も)が、HBVのワクチン接種を完了し抗体形成を確認しているか、ワクチン接種の途中、または先にワクチンを受けるので抗体ができたことを確認してからHIVのPrEPを開始したい、という人でした。
これは当然と言えば当然で、HIVのPrEPはHIVを防ぐものであり、他の感染症を防ぐことはできません。ただ、ちょっとややこしいことに、実はHIVのPrEPで用いる抗HIV薬はHBVにも効果があります。しかし、このためにHBVに感染したことのある人はPrEPを気軽に始められないという問題もあり、たしかにこのあたりは複雑です(HBVに感染したことがある人のPrEPは少し専門的すぎるので今回は触れないでおきます)。今回は「HBVに感染したことがなくてワクチンを受けていない人」の場合に限っての話を進めます。
HIVのPrEPで用いる薬がHBVにも効果があるのなら、別にHBVのワクチンをしなくてもいいのではないか、という疑問が当然でてきます。しかし、これはまずいのです。その最大の理由はそれを検証した研究がないからです。そして、この研究を欧米諸国で実施するのは困難なのです。なぜなら、欧米諸国では90年代中頃から、すべての国民が生まれてすぐにHBVワクチンを受けるようになり、その上の世代も受けている人が多いために、大半の人はHIVのPrEPを開始する時点で、HBVの心配をしなくていいからです。「HIVの前にHBVの予防を」というのは、ワクチンを受けていない人の話です。そして、残念ながら日本人でHBVワクチンを済ませて抗体形成を確認している人はそう多くはありません。
もうひとつ、HIVのPrEPでHBVを予防するのが危険なのは、感染力の強さの違いです。HIVはHBVほど感染力が強くありません。他方、HBVの場合、感染者の血中ウイルス量にもよりますが、血中ウイルス量が多い場合、精液のみならず、唾液や他の体液にも含まれていることがあります。2002年には佐賀県の保育所で24人が集団感染しました。この事件だけでHBVの感染力の強さが分かるでしょう。HIVのPrEPで"理論上は"HBV感染を防げるのは事実ですが、この感染力の強さを考えるとやはりワクチンは必須となります。つまり、HBVのワクチン接種及び抗体形成確認をすることなく、HIVのPrEPを実施するのは特別な場合(例えば、パートナーがHIV未治療+HBV陰性の場合)を除いてあり得ないのです。尚、HBVのワクチンはせっかく接種しても抗体がつきにくい人がいますが、最終的には抗体形成できる人がほとんどです。
もうひとつ、PrEPで多い誤解を紹介しましょう。それはオンデマンドPrEPに関するものです。冒頭のコラムでも、「オンデマンドPrEPは欧州では効果が高いと考えられているけれども、米国では必ずしも有効性が認められているわけではなくFDAはデイリーPrEPしか承認していない」ことを紹介しました。そして、これはゲイ男性に限ってのことです。女性やストレートの男性は初めからオンデマンドPrEPは推奨されていません。
にもかかわらず、ストレートの男性からのオンデマンドPrEPに対する問い合わせが非常に多いのです。これだけ多いことには何か理由がありそうです。おそらく「ストレートでも有効」と書いてあるウェブサイトが存在するか(未確認ですが)、SNSを通してそういった情報が流れているのでしょう。20代から上は70代まで幅広い年齢層のストレート男性からの問い合わせがあります。
改めて確認しておくと、ストレートの男性や女性(ストレートもレズビアンも)のオンデマンドPrEPの適応はありませんし、有効性を示したエビデンスレベルの高い研究もありません。「性交渉の前後で合計4錠飲むだけでHIVが予防できる」というのは大変魅力的ではありますが、これは仕方がありません。尚、なぜゲイ男性はオンデマンドPrEPが有効(FDAは承認していませんが)と考えられているかというと、肛門粘膜に分布する血管へは薬が移行しやすいからです。
ここでよくある質問が「女性はオンデマンドPrEPが無効なのは分かるが、ストレートの男性は有効なのではないか。なぜならゲイのタチ(top)が防げるのなら、ストレートの男性も防げるはずだ」というものです。また、「膣を使わずに肛門しか使わない女性ならOKでは?」という質問もあります。たしかにこれらの理屈は一見正しそうです。そして、実際正しいかもしれません。ですが、これらを実証した研究がないのです。医学の世界では、理論と実際は必ずしも一致しません。なんらかの未知の理由によって、男性の肛門粘膜→陰茎は感染を防げるけれど、女性の膣壁(または肛門粘膜)→陰茎は防げない、といったことがあるかもしれません。
ところで、HIVのPrEP目的で谷口医院を受診(オンライン診療含む)またはメール相談した人のどれくらいの割合の人が実際にPrEPを開始しているかというと、ゲイの男性で8~9割(オンデマンドPrEPを含む)、ストレートの男性で2~3割、女性で3~4割といったところです。
やはり我々の経験でいうと、ストレートの男女よりゲイ男性の方が性感染症に関する知識は豊富です。ただし、知らないことは恥ずべきことではありません。こんなことどこでも習いませんから、むしろ知らないのが当然です。最近は、HIVのPrEPに詳しい医師や看護師も増えてきました。興味のある方は医療機関に相談し、分からないことは何でも尋ねるようにしてください。
実際、その通りとなり、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、「谷口医院」)でも、PrEP希望で受診(オンライン診療を含む)される人が次第に増えてきています。しかしながら、私が当初予想していなかった「誤解」をしている人が目立つようになってきました。今回はよくある2つの誤解について述べたいとと思いますが、まずはPrEPの概略を確認しておきましょう。
PrEPとは曝露前予防(Pre-Exposure Prophylaxis)のことで、HIVが体内に侵入する前に抗HIV薬合計4錠のみを内服して感染を予防する方法です。「PrEP」という言葉はHIVの専売特許ではなく、他の感染症でも用います。代表的なものにマラリアがあります。マラリアにはまだ広く普及しているワクチンがなく、マラリア浸淫地を訪れる際は予防薬を飲まねばならないことがあり、予防薬を内服することをPrEPと呼びます。介護施設などでインフエンザが発生したときは職員や患者さんの家族への感染を防ぐために抗インフルエンザ薬を内服(または吸入)することがあり、これもPrEPです。
感染症を予防するためのワクチンはすべてPrEPと言えます。実際、狂犬病のように曝露後(犬などに咬まれた後)にでも使えるワクチンは、曝露後に使うときはPEP(Post-Exposure prophylaxis)と呼び、曝露前に使うとき(要するに通常のワクチンとして使うとき)はPrEPといいます。(例えばインドなどで)狂犬病を頻繁に診ている医師であればPEP/PrEPと言えば、おそらくHIVよりも先に狂犬病を思い出すでしょう。
冒頭のコラムでもHIVのPrEPに関してよくある誤解について言及しました。それらはC型肝炎ウイルス(HCV)に関することと、オンデマンドPrEPについてです(オンデマンドPrEPについては今回も後で述べます)。しかし、PrEPが普及した今、「もっと大きな誤解」があることがわかりました。
そのコラムで私は「PrEPの相談をされる人は性感染症に詳しいことが多く、B型肝炎ウイルス(HBV)のワクチンはすでに接種し抗体形成を確認していることが多い」と述べました。実際、昨年(2020年)までにPrEPの問合せをされてきた人のほぼ全員(日本人も外国人も)が、HBVのワクチン接種を完了し抗体形成を確認しているか、ワクチン接種の途中、または先にワクチンを受けるので抗体ができたことを確認してからHIVのPrEPを開始したい、という人でした。
これは当然と言えば当然で、HIVのPrEPはHIVを防ぐものであり、他の感染症を防ぐことはできません。ただ、ちょっとややこしいことに、実はHIVのPrEPで用いる抗HIV薬はHBVにも効果があります。しかし、このためにHBVに感染したことのある人はPrEPを気軽に始められないという問題もあり、たしかにこのあたりは複雑です(HBVに感染したことがある人のPrEPは少し専門的すぎるので今回は触れないでおきます)。今回は「HBVに感染したことがなくてワクチンを受けていない人」の場合に限っての話を進めます。
HIVのPrEPで用いる薬がHBVにも効果があるのなら、別にHBVのワクチンをしなくてもいいのではないか、という疑問が当然でてきます。しかし、これはまずいのです。その最大の理由はそれを検証した研究がないからです。そして、この研究を欧米諸国で実施するのは困難なのです。なぜなら、欧米諸国では90年代中頃から、すべての国民が生まれてすぐにHBVワクチンを受けるようになり、その上の世代も受けている人が多いために、大半の人はHIVのPrEPを開始する時点で、HBVの心配をしなくていいからです。「HIVの前にHBVの予防を」というのは、ワクチンを受けていない人の話です。そして、残念ながら日本人でHBVワクチンを済ませて抗体形成を確認している人はそう多くはありません。
もうひとつ、HIVのPrEPでHBVを予防するのが危険なのは、感染力の強さの違いです。HIVはHBVほど感染力が強くありません。他方、HBVの場合、感染者の血中ウイルス量にもよりますが、血中ウイルス量が多い場合、精液のみならず、唾液や他の体液にも含まれていることがあります。2002年には佐賀県の保育所で24人が集団感染しました。この事件だけでHBVの感染力の強さが分かるでしょう。HIVのPrEPで"理論上は"HBV感染を防げるのは事実ですが、この感染力の強さを考えるとやはりワクチンは必須となります。つまり、HBVのワクチン接種及び抗体形成確認をすることなく、HIVのPrEPを実施するのは特別な場合(例えば、パートナーがHIV未治療+HBV陰性の場合)を除いてあり得ないのです。尚、HBVのワクチンはせっかく接種しても抗体がつきにくい人がいますが、最終的には抗体形成できる人がほとんどです。
もうひとつ、PrEPで多い誤解を紹介しましょう。それはオンデマンドPrEPに関するものです。冒頭のコラムでも、「オンデマンドPrEPは欧州では効果が高いと考えられているけれども、米国では必ずしも有効性が認められているわけではなくFDAはデイリーPrEPしか承認していない」ことを紹介しました。そして、これはゲイ男性に限ってのことです。女性やストレートの男性は初めからオンデマンドPrEPは推奨されていません。
にもかかわらず、ストレートの男性からのオンデマンドPrEPに対する問い合わせが非常に多いのです。これだけ多いことには何か理由がありそうです。おそらく「ストレートでも有効」と書いてあるウェブサイトが存在するか(未確認ですが)、SNSを通してそういった情報が流れているのでしょう。20代から上は70代まで幅広い年齢層のストレート男性からの問い合わせがあります。
改めて確認しておくと、ストレートの男性や女性(ストレートもレズビアンも)のオンデマンドPrEPの適応はありませんし、有効性を示したエビデンスレベルの高い研究もありません。「性交渉の前後で合計4錠飲むだけでHIVが予防できる」というのは大変魅力的ではありますが、これは仕方がありません。尚、なぜゲイ男性はオンデマンドPrEPが有効(FDAは承認していませんが)と考えられているかというと、肛門粘膜に分布する血管へは薬が移行しやすいからです。
ここでよくある質問が「女性はオンデマンドPrEPが無効なのは分かるが、ストレートの男性は有効なのではないか。なぜならゲイのタチ(top)が防げるのなら、ストレートの男性も防げるはずだ」というものです。また、「膣を使わずに肛門しか使わない女性ならOKでは?」という質問もあります。たしかにこれらの理屈は一見正しそうです。そして、実際正しいかもしれません。ですが、これらを実証した研究がないのです。医学の世界では、理論と実際は必ずしも一致しません。なんらかの未知の理由によって、男性の肛門粘膜→陰茎は感染を防げるけれど、女性の膣壁(または肛門粘膜)→陰茎は防げない、といったことがあるかもしれません。
ところで、HIVのPrEP目的で谷口医院を受診(オンライン診療含む)またはメール相談した人のどれくらいの割合の人が実際にPrEPを開始しているかというと、ゲイの男性で8~9割(オンデマンドPrEPを含む)、ストレートの男性で2~3割、女性で3~4割といったところです。
やはり我々の経験でいうと、ストレートの男女よりゲイ男性の方が性感染症に関する知識は豊富です。ただし、知らないことは恥ずべきことではありません。こんなことどこでも習いませんから、むしろ知らないのが当然です。最近は、HIVのPrEPに詳しい医師や看護師も増えてきました。興味のある方は医療機関に相談し、分からないことは何でも尋ねるようにしてください。
第183回(2021年9月) 「クラトム」の大流行がやってくる!
クラトムという物質をご存知でしょうか。物質というよりはタイの伝統的な「葉」です。つまり、タイでクラトムと言えば「クラトムの葉」のことを指します。クラトムとは、一言でいえば麻薬に似た成分と覚醒剤に似た成分の双方が含まれている物質で、クラトムの葉はタイを含むアジアで伝統的に、例えば肉体労働の後など、鎮痛目的、疲労回復目的で何世紀にもわたり使われてきたものです。
依存性や中毒性については科学的な文献が見当たらないのでよく分かりませんが、社会的には「違法薬物」の扱いでした。実際、販売(もしくは使用)すると罪になり収監されました。「でした」「ました」と過去形なのは、最近法律が変更されクラトムが合法化されたからです。
2021年8月24日、タイでクラトムが正式に合法化されました。今回は、このクラトムについて今後どのように使用されるのかを検討したいと思います。しかし、その前に過去数年間の世界の動きを振り返っておきましょう。
クラトムは国立研究開発法人の「医薬基盤・健康・栄養研究所」にも情報が掲載されています。トップページの検索欄に「クラトム」と入力すれば記事が表示されます。
2017年11月15日には「米国FDAがクラトムの使用に関する声明を公表」というタイトルの記事が公開されています。米国の中毒事故管理センターに寄せられるクラトム使用に関する事例は2010年から2015年までに10倍となり、年数百件にのぼっているそうです。FDAはこれまでにクラトム含有製品と関連する死亡事例の報告を36件受け取っているとのことです。FDAはクラトムの治療目的での利用を承認していません。
2021年5月21日、「米国FDAがkratom (クラトム) を含む製品の押収を公表」というタイトルで、FDAがクラトムを含む207,000点以上のサプリメント及びその原料を押収したことを発表しました。
要するに、米国ではクラトムは現在も販売及び使用が禁止されている違法薬物に分類されているのです。医薬基盤・健康・栄養研究所は、クラトムにより痙攣や肝障害が生じることを指摘しています。厚労省はクラトムをいわゆる「指定薬物」に分類しています
では、日米では共に違法で、厳しく取り締まられるクラトムがなぜタイでは合法化されたのでしょうか。実は、その理由ははっきりしません。少なくとも「これまではあるとされていた依存性が実はなかった」とか「医薬品としてすぐれた効果があることが実証された」とかそういった医学的なエビデンスが見つかったわけではありません。
おそらく、タイで大麻が合法化されたその"流れ"ではないかと私は考えています。過去のコラム「これからの「大麻」の話をしよう~その4~」で述べたように、タイは2019年2月18日に医療用大麻が合法化され、これはアジアで一番乗りです。
Bangkok Postを読む限り、クラトムの合法化は医療用のみで完全に誰もが何の制約もなく使用できるわけではなさそうですが、記事によればクラトム関連の犯罪で収監されている12,000人以上に恩赦が与えられます。
クラトムについて、私は過去にイサーン(東北地方)に行ったときに現地のタイ人に尋ねたことがあります。私の仕入れていた知識では「クラトムはタイ全域どこででも栽培されている」というものだったのですが、この質問をした男性は「このあたりにはない。南部の農民が嗜むものだ」と言っていました。まあ、「違法薬物を育てていますか」というような失礼なことを聞いたわけで、本当のことを話してくれたかどうかは分かりません。しかし、タイではクラトムが伝統的に使用されていることは間違いなさそうでした。
他方、タイに長期滞在しているドラッグ好きの日本人に聞いてみるとクラトムの経験者はほとんどいませんでした。大麻や、通称「ヤーバー」と呼ばれる覚醒剤が数百円で手に入るわけですからクラトムには需要がなくディーラーが扱っていなかったのかもしれません。
先述のBangkok Postの記事によれば、クラトムの葉は現在1枚1~1.5バーツ(3~5円程度)程度で入手できます。この葉を直接噛んで嗜むようです。ちょうど東アフリカのカートと似たような感じかもしれません(尚、私自身は双方とも試したことがありません)。記事によれば、疲労回復の他、胃痛、咳、糖尿病にも効果があるそうです。
日米では厳しく取り締まられる一方、タイでは1枚5円以下で入手できるクラトム。Bangkok Post以外の英文の記事も複数読んでみましたが、どうもクラトムが医療用として行政や医療機関で厳しく管理されているわけではなさそうです。私のこれまでのタイ滞在やタイ人との付き合いの経験から言って、まず間違いなく医療用・嗜好用の区別なく誰もが簡単に入手できます。おそらく外国人でも入手可能でしょう。新型コロナウイルスの流行が終わり、再び以前のように誰もが簡単に入国できるようになれば、ビールを買うくらいの感覚で入手可能となるでしょう(ただし、「コロナ前の世界に戻れるか」は別の話です)
日本ではクラトムがこれからも厳しく取り締まられるのは間違いないでしょうが、米国では変化が出てきています。科学誌「Scientific American」は2021年8月12日(ちなみに、この日はシリキット王太后の誕生日です。この日を狙ってこの記事が公開されたのかどうかは不明)、「FDAはクラトムの禁止を支持すべきではない (The FDA Shouldn't Support a Ban on Kratom)」というタイトルの記事を公開しました。
興味深いことに、この記事によれば、クラトムは「健康補助食品(原文はhealth supplements)」の名のもとに米国で合法的に販売できるとのことです。これは上述したFDAの見解と異なります。Scientific Americanの記事でははっきりと合法的に(legally)と書かれていて、一方ではFDAは違法とし実際に摘発しているわけですから、いわゆる「グレーゾーン」の扱いとなっているのでしょう。
Scientific Americanの記事はクラトムの安全性を強調するためにCDCの研究を引き合いに出しています。CDCが実施した2016年から2017年の間に報告されたクラトムの過剰摂取約27,000例のうち死亡者は全体の1%未満で、しかも死亡した152人の約3分の2は、フェンタニル(強力な麻薬)やその類似物質も摂取していました。さらに、クラトムのみが検出された7例も、他の物質を摂取していた可能性が否定できないそうです。
これらから、処方薬のオピオイド(モルヒネなどの合法麻薬)に比べ、クラトムにより死亡する可能性は千分の1以下だそうです。尚、これは私の私見ですが、タイで伝統的に嗜まれているような方法、つまり「葉を噛む」という摂取方式で過剰摂取になることはまずあり得ません。
記事では、バイデン大統領がハームリダクション(harm reduction)の政策を取り入れるべきだという意見にも触れられています。ハームリダクションとは「よくないもの」をいきなりすべて禁止するわけではなく、「よくない程度が低いもの」に切り替えていく治療のことを言います。麻薬依存症のメサドン療法がその代表です。私が院長を務める太融寺町谷口医院で実施している治療でいえば、ベンゾジアゼピン依存症に対しての「セルシンへの置き換え療法」が相当します。ニコチン依存症のニコチン貼付薬もハームリダクションと言えるでしょう。
クラトムが麻薬や他の違法薬物のハームリダクションとなるかどうかは今後の研究を待たねばなりません。ですが、(薬物依存があるかどうかに関係なく)何らかの疾患に悩まされている場合は(タイ渡航が可能ならすぐにでも)試してみてもいいかもしれません。ただし、個人的には大麻のときに述べたように若い人には勧めません。難治性神経疾患やがん(あるいはHIV)を患った人たちが症状緩和の目的に、つまり大麻の場合と同じように希望者に協力していくことを考えています。
依存性や中毒性については科学的な文献が見当たらないのでよく分かりませんが、社会的には「違法薬物」の扱いでした。実際、販売(もしくは使用)すると罪になり収監されました。「でした」「ました」と過去形なのは、最近法律が変更されクラトムが合法化されたからです。
2021年8月24日、タイでクラトムが正式に合法化されました。今回は、このクラトムについて今後どのように使用されるのかを検討したいと思います。しかし、その前に過去数年間の世界の動きを振り返っておきましょう。
クラトムは国立研究開発法人の「医薬基盤・健康・栄養研究所」にも情報が掲載されています。トップページの検索欄に「クラトム」と入力すれば記事が表示されます。
2017年11月15日には「米国FDAがクラトムの使用に関する声明を公表」というタイトルの記事が公開されています。米国の中毒事故管理センターに寄せられるクラトム使用に関する事例は2010年から2015年までに10倍となり、年数百件にのぼっているそうです。FDAはこれまでにクラトム含有製品と関連する死亡事例の報告を36件受け取っているとのことです。FDAはクラトムの治療目的での利用を承認していません。
2021年5月21日、「米国FDAがkratom (クラトム) を含む製品の押収を公表」というタイトルで、FDAがクラトムを含む207,000点以上のサプリメント及びその原料を押収したことを発表しました。
要するに、米国ではクラトムは現在も販売及び使用が禁止されている違法薬物に分類されているのです。医薬基盤・健康・栄養研究所は、クラトムにより痙攣や肝障害が生じることを指摘しています。厚労省はクラトムをいわゆる「指定薬物」に分類しています
では、日米では共に違法で、厳しく取り締まられるクラトムがなぜタイでは合法化されたのでしょうか。実は、その理由ははっきりしません。少なくとも「これまではあるとされていた依存性が実はなかった」とか「医薬品としてすぐれた効果があることが実証された」とかそういった医学的なエビデンスが見つかったわけではありません。
おそらく、タイで大麻が合法化されたその"流れ"ではないかと私は考えています。過去のコラム「これからの「大麻」の話をしよう~その4~」で述べたように、タイは2019年2月18日に医療用大麻が合法化され、これはアジアで一番乗りです。
Bangkok Postを読む限り、クラトムの合法化は医療用のみで完全に誰もが何の制約もなく使用できるわけではなさそうですが、記事によればクラトム関連の犯罪で収監されている12,000人以上に恩赦が与えられます。
クラトムについて、私は過去にイサーン(東北地方)に行ったときに現地のタイ人に尋ねたことがあります。私の仕入れていた知識では「クラトムはタイ全域どこででも栽培されている」というものだったのですが、この質問をした男性は「このあたりにはない。南部の農民が嗜むものだ」と言っていました。まあ、「違法薬物を育てていますか」というような失礼なことを聞いたわけで、本当のことを話してくれたかどうかは分かりません。しかし、タイではクラトムが伝統的に使用されていることは間違いなさそうでした。
他方、タイに長期滞在しているドラッグ好きの日本人に聞いてみるとクラトムの経験者はほとんどいませんでした。大麻や、通称「ヤーバー」と呼ばれる覚醒剤が数百円で手に入るわけですからクラトムには需要がなくディーラーが扱っていなかったのかもしれません。
先述のBangkok Postの記事によれば、クラトムの葉は現在1枚1~1.5バーツ(3~5円程度)程度で入手できます。この葉を直接噛んで嗜むようです。ちょうど東アフリカのカートと似たような感じかもしれません(尚、私自身は双方とも試したことがありません)。記事によれば、疲労回復の他、胃痛、咳、糖尿病にも効果があるそうです。
日米では厳しく取り締まられる一方、タイでは1枚5円以下で入手できるクラトム。Bangkok Post以外の英文の記事も複数読んでみましたが、どうもクラトムが医療用として行政や医療機関で厳しく管理されているわけではなさそうです。私のこれまでのタイ滞在やタイ人との付き合いの経験から言って、まず間違いなく医療用・嗜好用の区別なく誰もが簡単に入手できます。おそらく外国人でも入手可能でしょう。新型コロナウイルスの流行が終わり、再び以前のように誰もが簡単に入国できるようになれば、ビールを買うくらいの感覚で入手可能となるでしょう(ただし、「コロナ前の世界に戻れるか」は別の話です)
日本ではクラトムがこれからも厳しく取り締まられるのは間違いないでしょうが、米国では変化が出てきています。科学誌「Scientific American」は2021年8月12日(ちなみに、この日はシリキット王太后の誕生日です。この日を狙ってこの記事が公開されたのかどうかは不明)、「FDAはクラトムの禁止を支持すべきではない (The FDA Shouldn't Support a Ban on Kratom)」というタイトルの記事を公開しました。
興味深いことに、この記事によれば、クラトムは「健康補助食品(原文はhealth supplements)」の名のもとに米国で合法的に販売できるとのことです。これは上述したFDAの見解と異なります。Scientific Americanの記事でははっきりと合法的に(legally)と書かれていて、一方ではFDAは違法とし実際に摘発しているわけですから、いわゆる「グレーゾーン」の扱いとなっているのでしょう。
Scientific Americanの記事はクラトムの安全性を強調するためにCDCの研究を引き合いに出しています。CDCが実施した2016年から2017年の間に報告されたクラトムの過剰摂取約27,000例のうち死亡者は全体の1%未満で、しかも死亡した152人の約3分の2は、フェンタニル(強力な麻薬)やその類似物質も摂取していました。さらに、クラトムのみが検出された7例も、他の物質を摂取していた可能性が否定できないそうです。
これらから、処方薬のオピオイド(モルヒネなどの合法麻薬)に比べ、クラトムにより死亡する可能性は千分の1以下だそうです。尚、これは私の私見ですが、タイで伝統的に嗜まれているような方法、つまり「葉を噛む」という摂取方式で過剰摂取になることはまずあり得ません。
記事では、バイデン大統領がハームリダクション(harm reduction)の政策を取り入れるべきだという意見にも触れられています。ハームリダクションとは「よくないもの」をいきなりすべて禁止するわけではなく、「よくない程度が低いもの」に切り替えていく治療のことを言います。麻薬依存症のメサドン療法がその代表です。私が院長を務める太融寺町谷口医院で実施している治療でいえば、ベンゾジアゼピン依存症に対しての「セルシンへの置き換え療法」が相当します。ニコチン依存症のニコチン貼付薬もハームリダクションと言えるでしょう。
クラトムが麻薬や他の違法薬物のハームリダクションとなるかどうかは今後の研究を待たねばなりません。ですが、(薬物依存があるかどうかに関係なく)何らかの疾患に悩まされている場合は(タイ渡航が可能ならすぐにでも)試してみてもいいかもしれません。ただし、個人的には大麻のときに述べたように若い人には勧めません。難治性神経疾患やがん(あるいはHIV)を患った人たちが症状緩和の目的に、つまり大麻の場合と同じように希望者に協力していくことを考えています。
第182回(2021年8月) 「利己的な利他」は「利他」ではないのか
私がタイのエイズ問題に始めて関わったのは2002年の10月、研修医1年目の頃、当時お世話になっていた教授のご厚意で1週間の夏休みを認めてもらい、パバナプ寺(Wat Phrabhatnamphu)に赴いたときでした。
このときに滞在したのはわずか1週間足らずでしたが、受けた衝撃はとてつもなく大きく、実際、それからすでに19年の年月が経ちましたが、今もこれまでの人生で最も大きな出来事のひとつだと言えます。
なにしろ、どこの医療機関でも診てもらえずにその施設にやっとのことでたどり着いた、という患者さんがほぼ全員なのです。なかには、施設の入り口に捨てられていた乳児や、はるか遠い県からその施設の噂を聞いてかなりの長距離を歩いてやって来たという人もいました。そして、2002年のその当時、タイではまだ抗HIV薬がなかったのです。つまり、その施設に入っても元気で施設を出られる見込みはゼロで、「死へのモラトリウム」を過ごすだけだったわけです。
エイズは全身に症状が出る疾患です。息苦しくなり、下痢がとまらず、様々な皮疹に悩まされ、そのうち食事が摂れなくなり、やがて亡くなっていきます。毎日何名もの人が他界されていました。
その時の経験を通して、私は「この病に生涯関わっていきたい」と考えるようになったのですが、2021年の現在、タイでも日本でもHIV感染はすでに「死に至る病」ではなくなっています。むしろ、薬を飲んでさえいれば、寿命を全うできる疾患になりました。よく指摘されるように、他の慢性疾患、例えば高血圧や高脂血症とあまり変わらなくなってきていると言えなくもないわけです。
社会的な差別は今も残っていますが、タイでは以前のように、食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられるとか、バスに乗ろうとすると引きずり落とされるとか、家族から追い出されるとか、そういったことはもはやありません。それどころか、地方によっては、職場で堂々とカムアウトして仕事をしている人も少なくありません。
日本では、差別についてはタイよりもひどい状況となっていますが、それでも公的扶助が充実していますから、治療を受けられないということはあり得ませんし、感染を黙っていれば社会的差別を受けることはそう多くはなく、医療機関での差別も以前に比べると大きく減少しています。
他方、世の中には治療法のない疾患がたくさんあります。貧しい国に生まれたが故に治療を受けられないという人も大勢います。政治が不安定なために命を脅かされる国や、政府が暴力によって統治しようとしている国もあります。クーデターで大統領が失脚させられた国もありますし、いわゆる難民と呼ばれる人たちは世界的に増加しています。
GINAは、そして私は、2002年以降今もタイのHIV陽性者を支援しているわけですが、これを「公正な」支援と呼んでいいのでしょうか。そして、これは「利他」と呼べるものなのでしょうか。
タイのエイズ問題に関わり始め、お金を集めて寄付をして、時間の許す限りタイに渡航しボランティアをしていた私は、当初から「これは利他なのか」というテーマについて考えてきました。「エイズ患者さんからの感謝の言葉がない」と不満を口にする日本人のボランティアをみて幻滅したことがあります。「タイでボランティアをしたい」と連絡のあった若い大学生とメールのやりとりをしているうちに、「この女性(男性)は心から患者さんを助けたいと思っているのではなく自己満足じゃないか」と感じたことも、あるいは「単なる自分探しのためにエイズ問題に関わるのをやめてほしい」と思ったこともあります。
では、私が否定的に感じた若者と私自身には明確な違いがあるのでしょうか。私には彼(女)らを批判する資格があるのでしょうか。私がやっていることもひとりよがりの自己満足ではないでしょうか。あるいは、利他と呼んでもいいものなのでしょうか。
2005年に『TIME』の「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれたオーストラリア出身の哲学者ピーター・シンガーは、「効果的な利他主義」という概念を提唱しています。シンガーは「幸福の数値化」をおこない、利他主義は最も効果的に実践しなければならないと言います。寄付をするなら、どの団体に寄付すれば最も多くの善になるのかを数値で評価しなければならない、と言うのです。
例えば、米国で一頭の盲導犬を養成するのに4万ドルが必要となる一方で、その金額で発展途上国のトラコーマ(目の病気)を患っている子供400~2,000人の治療ができることが分かっている場合、シンガーによれば、発展途上国に寄付する方がより多くのいいことができるために「より価値がある」となるそうです。
話をタイに戻します。私がタイのエイズ問題に関わり始めた2002年からすでに19年が経過しました。時代は大きく変わり、HIVに感染しても長生きできる時代になりました。とはいえ、HIV感染が原因で、寝たきりになったり、身寄りがなかったりといった事情で人間らしい生活ができていない人も大勢います。そして、そういった人たちを支援している人たちもいます。GINAと私はそういった人たちを金銭的に支援しているわけですが、世界に目を向けてそのお金を別のところに使えば、もっと大勢の人たちを助けることができます。
特に「命を救う」という意味においては、タイのHIV陽性者よりも、隣国のミャンマーで政府軍に抑圧されている人たち、そのミャンマーから追い出されてバングラデシュのコックスバザールの難民キャンプで生活しているロヒンギャの人たち、あるいはそのキャンプから2,500km西に位置するアフガニスタンでタリバンに怯えて暮らしている人たちを支援する方が(ピーター・シンガー的に)効率が高いのは間違いありません。
ピーター・シンガーの基本的な立場は「功利主義」です。功利主義の観点に立てば、いかに効率よく人命を救えるか、となるでしょうから、私がやっているようなことは2000年代前半のタイでは意味があったとしても、今おこなっている支援活動は非常に非効率であり、功利主義の精神に反する、ということになるでしょう。
ではGINAと私は立場を変えて、タイでの支援を終了させ、ミャンマーやロヒンギャの難民キャンプやアフガニスタンに矛先を変えるべきなのでしょうか。あるいはアフリカのエイズ孤児のための支援を開始すべきなのでしょうか。
実は過去に似たようなことを考えたこともあります。一時、国軍のクーデターが起こる随分前のミャンマーで、北部の少数民族が迫害されているという話を聞き、そちらにより多くの支援をすべきではないかと思案したことがあるのです。また、ラオスやカンボジアのエイズ事情がタイよりも悪化しているという話を聞いて、支援する施設を全面的に変えようと思ったこともあります。
ですが、新しいことをするための時間が確保できないということもありますが、「この人たちの力になりたい」と2002年のタイで感じた気持ちがそういった考えを妨げます。私には、たとえ効率が悪かったとしても、また、たとえ不公平であったとしても、依然タイで日常生活もままならない人たちや、そういう患者さんを支援している人たちを知っている限りは別のところに行けないのです。
私の考えが矛盾していることも分かっています。日本の困っている人たちを放っておけないと考えて、日本で働く道を選んだわけですが、その日本人全員に支援ができているわけではありませんし、結局、日本でもタイでも、自分の近くにいる人や知り合った人に対して少しばかりのお手伝いをしているに過ぎません。これを利他と呼ぶのはおこがましいですし、もしも呼んでいいのだとしても、その利他は極めて「利己的な利他」であることを承知しています。
ピーター・シンガー的な視点で言えば、私がやっていることは単なるままごと程度に過ぎないのかもしれません。ですが、私にはこれからもそのやり方を変えることはできません。
他人よりも家族が大切なのと同じ意味で、まったく知らない人よりも、これまで知り合った人たちとの縁を大切にし、支援を広げることが可能ならその縁を起点に考えていくつもりです。
このときに滞在したのはわずか1週間足らずでしたが、受けた衝撃はとてつもなく大きく、実際、それからすでに19年の年月が経ちましたが、今もこれまでの人生で最も大きな出来事のひとつだと言えます。
なにしろ、どこの医療機関でも診てもらえずにその施設にやっとのことでたどり着いた、という患者さんがほぼ全員なのです。なかには、施設の入り口に捨てられていた乳児や、はるか遠い県からその施設の噂を聞いてかなりの長距離を歩いてやって来たという人もいました。そして、2002年のその当時、タイではまだ抗HIV薬がなかったのです。つまり、その施設に入っても元気で施設を出られる見込みはゼロで、「死へのモラトリウム」を過ごすだけだったわけです。
エイズは全身に症状が出る疾患です。息苦しくなり、下痢がとまらず、様々な皮疹に悩まされ、そのうち食事が摂れなくなり、やがて亡くなっていきます。毎日何名もの人が他界されていました。
その時の経験を通して、私は「この病に生涯関わっていきたい」と考えるようになったのですが、2021年の現在、タイでも日本でもHIV感染はすでに「死に至る病」ではなくなっています。むしろ、薬を飲んでさえいれば、寿命を全うできる疾患になりました。よく指摘されるように、他の慢性疾患、例えば高血圧や高脂血症とあまり変わらなくなってきていると言えなくもないわけです。
社会的な差別は今も残っていますが、タイでは以前のように、食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられるとか、バスに乗ろうとすると引きずり落とされるとか、家族から追い出されるとか、そういったことはもはやありません。それどころか、地方によっては、職場で堂々とカムアウトして仕事をしている人も少なくありません。
日本では、差別についてはタイよりもひどい状況となっていますが、それでも公的扶助が充実していますから、治療を受けられないということはあり得ませんし、感染を黙っていれば社会的差別を受けることはそう多くはなく、医療機関での差別も以前に比べると大きく減少しています。
他方、世の中には治療法のない疾患がたくさんあります。貧しい国に生まれたが故に治療を受けられないという人も大勢います。政治が不安定なために命を脅かされる国や、政府が暴力によって統治しようとしている国もあります。クーデターで大統領が失脚させられた国もありますし、いわゆる難民と呼ばれる人たちは世界的に増加しています。
GINAは、そして私は、2002年以降今もタイのHIV陽性者を支援しているわけですが、これを「公正な」支援と呼んでいいのでしょうか。そして、これは「利他」と呼べるものなのでしょうか。
タイのエイズ問題に関わり始め、お金を集めて寄付をして、時間の許す限りタイに渡航しボランティアをしていた私は、当初から「これは利他なのか」というテーマについて考えてきました。「エイズ患者さんからの感謝の言葉がない」と不満を口にする日本人のボランティアをみて幻滅したことがあります。「タイでボランティアをしたい」と連絡のあった若い大学生とメールのやりとりをしているうちに、「この女性(男性)は心から患者さんを助けたいと思っているのではなく自己満足じゃないか」と感じたことも、あるいは「単なる自分探しのためにエイズ問題に関わるのをやめてほしい」と思ったこともあります。
では、私が否定的に感じた若者と私自身には明確な違いがあるのでしょうか。私には彼(女)らを批判する資格があるのでしょうか。私がやっていることもひとりよがりの自己満足ではないでしょうか。あるいは、利他と呼んでもいいものなのでしょうか。
2005年に『TIME』の「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれたオーストラリア出身の哲学者ピーター・シンガーは、「効果的な利他主義」という概念を提唱しています。シンガーは「幸福の数値化」をおこない、利他主義は最も効果的に実践しなければならないと言います。寄付をするなら、どの団体に寄付すれば最も多くの善になるのかを数値で評価しなければならない、と言うのです。
例えば、米国で一頭の盲導犬を養成するのに4万ドルが必要となる一方で、その金額で発展途上国のトラコーマ(目の病気)を患っている子供400~2,000人の治療ができることが分かっている場合、シンガーによれば、発展途上国に寄付する方がより多くのいいことができるために「より価値がある」となるそうです。
話をタイに戻します。私がタイのエイズ問題に関わり始めた2002年からすでに19年が経過しました。時代は大きく変わり、HIVに感染しても長生きできる時代になりました。とはいえ、HIV感染が原因で、寝たきりになったり、身寄りがなかったりといった事情で人間らしい生活ができていない人も大勢います。そして、そういった人たちを支援している人たちもいます。GINAと私はそういった人たちを金銭的に支援しているわけですが、世界に目を向けてそのお金を別のところに使えば、もっと大勢の人たちを助けることができます。
特に「命を救う」という意味においては、タイのHIV陽性者よりも、隣国のミャンマーで政府軍に抑圧されている人たち、そのミャンマーから追い出されてバングラデシュのコックスバザールの難民キャンプで生活しているロヒンギャの人たち、あるいはそのキャンプから2,500km西に位置するアフガニスタンでタリバンに怯えて暮らしている人たちを支援する方が(ピーター・シンガー的に)効率が高いのは間違いありません。
ピーター・シンガーの基本的な立場は「功利主義」です。功利主義の観点に立てば、いかに効率よく人命を救えるか、となるでしょうから、私がやっているようなことは2000年代前半のタイでは意味があったとしても、今おこなっている支援活動は非常に非効率であり、功利主義の精神に反する、ということになるでしょう。
ではGINAと私は立場を変えて、タイでの支援を終了させ、ミャンマーやロヒンギャの難民キャンプやアフガニスタンに矛先を変えるべきなのでしょうか。あるいはアフリカのエイズ孤児のための支援を開始すべきなのでしょうか。
実は過去に似たようなことを考えたこともあります。一時、国軍のクーデターが起こる随分前のミャンマーで、北部の少数民族が迫害されているという話を聞き、そちらにより多くの支援をすべきではないかと思案したことがあるのです。また、ラオスやカンボジアのエイズ事情がタイよりも悪化しているという話を聞いて、支援する施設を全面的に変えようと思ったこともあります。
ですが、新しいことをするための時間が確保できないということもありますが、「この人たちの力になりたい」と2002年のタイで感じた気持ちがそういった考えを妨げます。私には、たとえ効率が悪かったとしても、また、たとえ不公平であったとしても、依然タイで日常生活もままならない人たちや、そういう患者さんを支援している人たちを知っている限りは別のところに行けないのです。
私の考えが矛盾していることも分かっています。日本の困っている人たちを放っておけないと考えて、日本で働く道を選んだわけですが、その日本人全員に支援ができているわけではありませんし、結局、日本でもタイでも、自分の近くにいる人や知り合った人に対して少しばかりのお手伝いをしているに過ぎません。これを利他と呼ぶのはおこがましいですし、もしも呼んでいいのだとしても、その利他は極めて「利己的な利他」であることを承知しています。
ピーター・シンガー的な視点で言えば、私がやっていることは単なるままごと程度に過ぎないのかもしれません。ですが、私にはこれからもそのやり方を変えることはできません。
他人よりも家族が大切なのと同じ意味で、まったく知らない人よりも、これまで知り合った人たちとの縁を大切にし、支援を広げることが可能ならその縁を起点に考えていくつもりです。