GINAと共に

第218回(2024年8月) トランスジェンダーと性分化疾患の混乱

 パリオリンピックの2人の"女性"のボクシング選手に対し「女性の資格がない」とする声が上がり、女子1,500メートルで活躍した米国のNikki Hiltz選手に「男ではないのか」という疑惑が浮上し、また、予選の段階で"女性"なのにオリンピック資格を得られなかったLia Thomas選手に同情の声が寄せられるなど、「女性か否かはどうやって決めるのだ?」という問題が世界で盛り上がっています。しかし、日本のメディアはなぜかあまり取り上げないので、今回は誤解を解く意味もこめてオリンピックの歴史を振り返りながらこの問題に立ち入りたいと思います。

 トランス女性(出生時には男性で女性に変わった"女性")がオリンピックに出場できるか否かは以前から問題として取り上げられていましたが、なかなか認められず、IOC(国際オリンピック委員会)がトランスジェンダーのアスリートをオリンピックに参加することを許可したのは今から20年前の2004年です。

 しかし、厳しい基準があり出場資格を得る選手はなかなか現れませんでした。2015年の規定では、トランス女性のアスリートが手術をせずに出場資格を得るには、少なくとも過去4年間は性自認が女性であると宣言していたことを証明せねばならず、少なくとも12か月間は血中テストステロン値を10nmol/L未満に保っていることが条件でした。また、個々の競技について、IOCは各連盟が独自のガイドラインを設定することを許可しました。例えばWorld Athletics(世界陸上競技連盟)はテストステロンの基準を5nmol/Lとしました(後述するように後にさらに厳格化されます)。

 一般に、男性の血中テストステロン値は10~30nmol/L(年齢や計測時間により差がでます)で、若くて健康な男性は通常20~30nmol/Lの範囲です。女性の基準値は0.7~2.8nmol/Lですから定型男性、定型女性では10倍以上の差があります。これは(ポリティカルコレクトネス的には都合が悪くても)男性が女性よりもフィジカル面では極めて有利であることを示しています。尚、出場の条件として求められるのはテストステロン値のみで、女性ホルモンなど他の項目は不問です。

 世界初のトランス女性がオリンピックに出場したのは2021年、東京オリンピックでした。ニュージーランドの重量挙げ選手Laurel Hubbard選手です。Hubbard選手は過去に国内「男子」大会で合計300kgを持ち上げた記録を保持し、2001年に23歳で引退しています。そして2012年に33歳でトランスジェンダー女性としてカミングアウトし、スポーツ選手としてのキャリアを再開しました。東京オリンピックでは上記のIOCの基準を満たすためテストステロンを抑える薬物を服用していたと報道されています。

 東京オリンピックに出場できず話題になったのが、2012年と2016年のオリンピックで金メダルを獲得した南アフリカの中距離ランナーCaster Semenya選手です。Semenya選手はトランス女性ではなく、DSD(性分化疾患=Differences in sex development)のひとつである5α還元酵素欠損症(以下「5ARD」)という疾患を持っています。この疾患があれば血中テストステロン値が標準的な女性よりも高くなります。重量挙げのHubbard選手が出生時には男性だったのに対し、Semenya選手は出生時に女性です。女性として生まれたのにもかかわらず女性選手としての資格を得られないのはおかしいではないかという意見は当然でてきます。

 ここでDSDについて解説しておきましょう。以前は半陰陽とかインターセックスとか呼ばれていた「性染色体や性ホルモンの代謝などが定型でない状態」のことを指します。DSDには多数の種類があり、ある程度の生物学の知識がないと理解するのが困難で、またインターセックスという表現は医学界では使われなくなってきているものの当事者の間ではアイデンティティを表現するために好んで用いられることもあり、DSDの話を始めるとかなり複雑になってしまいます。

 上述したようにSemenya選手の疾患は5ARDで、冒頭で述べた2人のボクシング選手も水泳のLia Thomas選手も5ARDを有しているのではないかと報道されています。よって、ここではDSDの詳細に立ち入らず「現在スポーツ界で問題になっているDSDの大半が5ARD」と理解すれば十分でしょう。尚、DSD全体ではおそらく先天性副腎皮質過形成(CAH)が最多ではないかと思われるのですが、CAHの女性がオリンピックに出場したという話は聞いたことがありません。

 5ARDを少し詳しく説明します。出生時には外性器のかたちから「女性」と診断されますが、染色体はXY、つまり定型男性型です。テストステロンは定型男性と同じように分泌されます。ところがテストステロンをジヒドロテストステロンと呼ばれる別の男性ホルモンに代謝するときの酵素(5α還元酵素)が欠落し、結果ジヒドロテストステロンが合成されないために陰茎が形成されません。しかし、テストステロンの分泌量は定型男性と同じですから思春期を迎える頃には、声が低くなり、筋肉量が増えます。つまり肉体的には定型男性と同じように成長するのです。また、性自認も男性になることが多いとされています。

 2016年のリオデジャネイロオリンピックの女子800メートル走で金メダルを獲得したのがSemenya選手で、銀メダルはブルンジのFrancine Niyonsaba選手、銅メダルはケニヤのMargaret Wambui選手です。その3名全員が5ARDだと報じられています。また、東京オリンピックを目指していたナミビアの18歳の女性アスリートで当時の20歳未満の世界記録保持者のChristine Mboma選手も5ARDを持っていると言われています。

 2019年、5ARDをもつ女性アスリートに対して、World Athletics(世界陸上競技連盟)は、400メートル、800メートル、1500メートルの女子競技に参加するにはテストステロン値を抑制する薬の服用を義務付けるとする新しい規則をつくりました。そして、IOCはWorld Athleticsのこの基準を採用することにしました。

 Semenya選手はそのような治療を受けることを拒否しました。奇妙なことに、400メートル、800メートル、1500メートルはSemenya選手が得意とする種目であり、200メートルや5000メートルでは薬の服用の義務がありません。
Semenya選手東京オリンピックでこれら種目に出場することを希望していましたがタイムが伸びずにかないませんでした。またパリオリンピックにも出場できませんでした。

 尚、報道によると、Semenya選手はテストステロン値を下げるために2010年から2015年まで経口避妊薬を服用したものの、体重増加、発熱、絶え間ない吐き気や腹痛など、数え切れないほどの望ましくない副作用を引き起こしたそうです。

 パリオリンピックでは、東京オリンピックのときから比べてトランス女性の出場資格が厳格化されました。性転換手術は12歳までに完了しなければならないという制限が設けられたのです。これにより、先述のニュージーランドのHubbard選手は(性転換をしたのは30代ですから)自動的に出場資格をなくしました。

 パリオリンピックで話題となったボクシングの2人はウエルター級のアルジェリアのImane Khelif選手、もう1人はフェザー級の台湾のLin Yu-ting選手でやはり共に5ARDがあると報じられています。ややこしいのはIBA(国際ボクシング協会)が昨年(2023年)、両選手を世界女子選手権の出場資格の検査に不合格としているからです。IOCは「パスポートが女性だから」という単純な理由で女性枠での出場を認めました。IBAはIOCを記者会見で非難しました。

 2021年の東京オリンピック以降、 World Athleticsは5ARDを持つ女性選手の資格規則を厳格化しました。2023年3月から、競技に参加するには、ホルモン抑制治療を実施して、6か月間テストステロン値を2.5nmol/L未満に抑えることを求めています。これは、400から1500メートルで競技する選手に対して2015年に提案された5nmol/Lの半分のレベルです。

 World Aquatics(世界水泳連盟)は男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則をつくり、さらに男性思春期の恩恵を受けていないトランス女性(思春期を迎える前に性転換手術を完了している女性)の選手も、テストステロン値を2.5nmol/L未満に維持する必要があるとしています。

 米国の水泳選手Lia Thomas選手は、スポーツ仲裁裁判所にWorld Aquaticsに対し女性選手の資格を認めるよう訴訟を起こしました。結果、「薬物療法でテストステロン値を減らした後でも、男性思春期を経験したことで、持久力、パワー、スピード、筋力、肺活量など、身体的にかなりの優位性を維持している」との理由から敗訴し、パリオリンピック出場はかないませんでした。

 現在World AthleticsもWorld Aquaticsと同様、男性思春期を経験したトランス女性は女子レースに出場できない規則を設けています。さらに、The International Cycling Union(国際自転車競技連合)も同じ措置をとっています。

 一方、パリオリンピックに出場できたセクシャルマイノリティの選手で有名なのが1994年生まれの米国人、中距離ランナーNikki Hiltz選手です。Hiltz選手はパリオリンピックの女子1500メートル決勝で7位に入りました。
Hiltz選手には「男性ではないのか」という疑惑が挙がりましたが、Reuterによると、トランスジェンダーでかつノンバイナリーです。そして5ARDなどの疾患はありません。

 「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が分かりにくいかもしれません。トランスジェンダーとは「性自認が出生証明書に記載されている『男性』『女性』と異なる場合」で、ノンバイナリーとは「性自認が男性・女性という二元的な性別に当てはまらない場合」を指します。ノンバイナリーだけでじゅうぶんな気がしますが、「トランスジェンダーかつノンバイナリー」という表現が好まれることが多いようです。

 以上みてきたように、5ARDを始めとするDSDとトランスジェンダーはまったく異なる概念です。これらをしっかりと理解していなければ話はまったく噛み合いません。


参考:GINAと共に
第201回(2023年3月)「トランス女性を巡る複雑な事情~前編~」
第202回(2023年4月)「トランス女性を巡る複雑な事情~後編~」