GINAと共に

第205回(2023年7月) 変わってしまったタイのPEP/PrEP

 先月の「GINAと共に」(「大麻のせいでタイはもはや「微笑みの国」などではない」)で、2022年6月に事実上の大麻全面自由化に踏み切ったタイは、それまでのタイから大きく変わってしまったことを述べました。そのことを自分で確認することも1つの目的とし、先日(2023年7月)、私自身がバンコクを訪問してきました。大麻の話は後述することにし、まずは「変わってしまったHIVのPEP/PrEP」について説明しておきましょう。

 日本では厚生局との様々なやり取りを経た後、私が院長を務める谷口医院ではそれまで日本製しか扱っていなかったHIVのPEP及びPrEPで用いる抗HIV薬を2021年より安い輸入品に切り替えました。これにより大幅に費用が下がり、大勢の人たちがPEP/PrEPとして抗HIV薬を入手することができるようになりました。

 しかし、例えば、タイ滞在中にPEPが必要になったとき(コロナ前まではたくさんの相談が寄せられていました)、あるいは安さを求めてPrEPをタイで購入したいときなどにはタイで抗HIV薬を処方してもらえるのは非常にありがたいわけです。それが、今年(2023年)の1月以降は困難になってきています。正確には、現在もタイでPEP/PrEPの処方を受けることは日本人でもできるのですが、以前のように簡単に安くはできなくなってしまったのです。

 説明しましょう。タイでHIVのPEP/PrEPの処方を受けるには昨年(2022年)12月までは次の3つの方法がありました。

#1 バンコクのAnonymous Clinicを受診する
#2 バンコクを中心にいくつか存在する外国人をターゲットにしたPrEP専門クリニックを受診する
#3 エイズ専門医のいる公的医療機関を受診する

 このなかで圧倒的にお勧めなのは#1のAnonymous Clinicでした。このクリニックはタイ赤十字が運営しているHIV専門クリニックで、治療の他、PEP及びPrEPにも対応してもらえました。PEPについては、日本でアクシデントに遭ってからでもタイに渡航すれば驚くほど安く受けることができたのです。2018年の「タイの医療機関~ワクチン・HIVのPEPを中心に~」で紹介したように、1日あたりのPEPの費用は標準的な方法でわずか18.75バーツ、当時のレートで60円未満です。日本で先発品を使った場合、1日あたり約1万円ですからこの差には凄まじいものがありました。

 では、2023年1月以降のタイでのPEP/PrEPはどうなっているかというと、#1の方法が使えなくなりました。正確に言えば「タイのエイズ専門医の処方箋がなければ処方は不可能」とされたのです。つまり、上記#3を経なければならなくなったのです。例えば、レイプの被害に遭ったような場合、緊急事態ですから#3の手続きを踏んで、その場で薬を処方してもらうことはできます。

 しかし、エイズ専門医のいる病院を受診するのがかなり大変です。間違いなく長時間待たねばなりません。手続きも、読み書きも含めてタイ語ができれば問題ありませんが、英語だけの場合、医師以外は英語を話せないのが普通ですからかなり大変です。日本人を含めた外国人がよく使う高級病院にはエイズ専門医がいませんから初めから選択肢に上がりません。

 #2はどうかというと、この方法なら処方を受けることができます。よって現実的にはこの方法に頼るしかないわけですが、この場合は費用が安くありません。PEPとしてどのような薬剤を使うかにもよりますが、おそらく総額で5~6万円前後(薬は28日分)、つまり日本と同じ程度の費用がかかることが予想されるのです。もちろん、この程度の金額でPEPが可能なら実施するしかないわけで(実施すればHIV感染を防げるのですから)このような選択肢があるのはありがたい話ですが、昔ほどは得ではなくなったのは事実です。

 PrEPの場合は、面倒くさい#3を考える人はほとんどいないと思います。必然的に#2となるわけで、バンコクとチェンマイのいくつかのクリニックに直接問い合わせをしてみました。たいてい、どこのクリニックもツルバダの後発品1ヵ月(30日分)の薬代が990~1,400バーツでした。これだけを聞くとそう高くはないのですが、薬代に加えていろいろと費用がかかってきます。診察代(500バーツのところが多かったです)はいいとして、検査代がかかると言うのです。HIVの検査代については「自分は無料の検査場で調べた」と言ってみたところ(私は医師であることを伏せて問い合わせをしました)、「当院でも調べるのがルールだ」とたいてい言われるのです。HIV以外にもいろいろと検査が必要だと言われ、ざっと計算してみると一月あたり3,000~3,500バーツほどかかるようなのです。

 ひと昔前のタイを知る人なら「それでも安いんじゃないの?」と感じるかもしれませんが、円安・バーツ高を計算に入れねばなりません。以前のように「バーツx3=円」というわけにはいかず、現在は最低でも4.1をかけなければなりません。つまり3~3千5百バーツというのは、日本円でいえば13,000円前後を覚悟しなければならないのです。これなら日本で処方を受ける方が結果として安くつきます。1錠あたりではまだタイの方が安いですが、日本では(少なくとも谷口医院では)必要なければ検査は省略しますし、HIVの検査は基本的には保健所などの無料検査を実施してもらっています。

 ところで、タイではどうしてこんなにもPEP/PrEPの処方がややこしくなったのでしょうか。それは2023年1月にタイ政府が「エイズ専門医以外は抗HIV薬を処方できない」というルールをつくったからです。これにより、民間の良心的なクリニックにタイ政府が安く供給するHIV薬が行き渡らなくなりました。上述の#2の外国人をターゲットにしたクリニックは独自で海外から輸入したものを扱っているのです。

 しかし、予防(PEP/PrEP)については冷たい対応を取り始めたタイ政府もHIV陽性者に対してはこれまでどおりの優しい方針を維持しています。Anonymous Clinicには連日、治療を求めたタイ人及び(日本人も含めた)外国人が薬の処方や定期検査の目的で受診しています。

 Anonymous Clinicのプライスリストによると、ツルバダの後発品は今も1錠15バーツです(2023年4月20日現在)。この円安・バーツ高下でも1錠60円台です。「慌ただしくて忙しない日本を離れタイでゆっくりと働きながらHIVの治療も受けたい」、という日本人のHIV陽性者にとっては依然ありがたい国なのです。

 最後に、今回私が数日間のみですがタイに久しぶりに滞在して驚いたことが2つありますのでそれらについて述べておきましょう。

 1つは「日本人がいない」ことです。7月だというのに往路のタイ航空はガラガラで、復路は満席に近かったのですが8割以上がタイ人でした。スクンビッド通りではアソークのあたりに行ってみましたが、観光客やバックパッカーの日本人はゼロでした。さらに驚くべきことに、久しぶりにカオサンロードに行ってみると、店頭の看板やメニューから日本語がほとんどなくなっているのです。そして、やはり日本人の姿はゼロ。さらに両替屋が表示している表記には日本円がなく、20年以上タイを見てきた私からは信じられない光景でした。

 もう1つの驚いたことはやはり大麻ショップの多さでした。前回も述べたように、タイでは以前から大麻は比較的簡単に入手できたのは事実です。しかし実際に手に入れるには、例えばヤワラーの裏通りでウロウロしている怪しげなプッシャーを探さねばならないという"ハードル"があったわけです。

 ところが、現在は、日本人の一流駐在員が通勤で通るような大通り沿いに、しかも24時間営業の大麻ショップが並んでいるのです。「クリニック」と称して、大麻を販売しているところもあります。表のガラスには「不眠、痛み、抑うつ状態などに有効......」ともっともらしいことが書かれています。カオサンロードではざっと見ただけで大麻ショップが10軒以上あり、さらに屋台でも大麻が売られていました。ある屋台で店員(老婆)に、「このネタ、吸わせてもらえるの?」と試しに聞いてみると、「マイペンライ」と言って少量の"クサ"をつまんで小皿に取りすぐに火をつけようとするのです。もちろん「マイアオクラップ!(要りません!)」と言ってすぐにやめてもらいましたが(私は日本では違法だからという理由以前に基本的に大麻に反対です)、この雰囲気だと「ちょっとくらいいいか」と考えてしまう人の方がずっと多いと思います。

 HIVのPEP/PrEPが困難となり、為替の利点がなくなり、そしてごく簡単に大麻が入手できるようになったタイが元に戻ることはないでしょう。「古き善き時代」のタイは、我々中年以降の世代にとってはすでに過去のノスタルジーに過ぎません。そんななかで、GINAは、そして私自身はどのような行動を取るべきなのか。支援を求めている人がいる限り、活動はこのまま続けますが将来的には矛先を替えるべきなのかもしれません。