GINAと共に
第201回(2023年3月) トランス女性を巡る複雑な事情~前編~
私がトランスジェンダーの人たちの世界に本格的に関わり始めたのは2004年、タイのエイズ施設でした。2年前の2002年にその施設を訪問したときには、タイでは抗HIV薬がまだ使われておらず、HIV感染は「死へのモラトリウム 」を意味していましたが、2004年には抗HIV薬が広く普及し始めていて、比較的元気な患者さんも少なくありませんでした。
そのなかに、個人的に仲良くなったトランス女性の人たちが何人かいました。"彼女"たちと話せば話すほど、"彼女"たちが「女性」であることがよく分かりました。性別適合手術(gender-affirming surgery)(当時はまだ性転換手術「sex-change operation」と呼ばれていました)を実施している「女性」も、していない「女性」もいました。
当時の私は、「"彼女"たちの性自認(gender identity)は「女性」なのだから当然それを尊重しなければならない」と考えていました。"彼女"らには(希望すれば)女性トイレを使う権利があり、誰も"彼女"らを男性のように扱うべきではないと考えました。
しかし、現在はその考えに少し「疑問」を持っています。そのような疑問を持つようになった事例を紹介しましょう。ただし、この事例は数年前に太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)で経験した実例ですが、極めてプライベートな内容を含んでいることもあり、事実にやや変更を加えています。ただし、本質は何ら変わっていません。
2010年代後半のある日、「離婚を考えている」という40代のある女性患者から相談を受けました(その女性の病気については伏せておきます)。離婚を考える理由は「夫が警察に逮捕されたから」というものでした。長い人生のなかで配偶者が逮捕(誤認逮捕も含めて)されるという経験はそう珍しくはないでしょう。それだけで離婚を考えると言うにはそれなりの理由があるはずです。40代のその夫が逮捕された理由は「建造物侵入の疑い」だそうです。問題はここからでした。
夫が侵入したのは「映画館の女子トイレ」で、そのトイレを利用していた女性に見つかり映画館の職員が警察に通報したそうです。こういうケース、「誤って入ってしまった」という言い訳ができますし、実際にその可能性もなくはないでしょうから、逮捕には確実な「物証」が必要です。てっきり私は盗撮していたところを現行犯で抑えられたのかと思ったのですが、事実はそうではありませんでした。逮捕されたこの男性、「女装」していたというのです。
しかし、女装自体は罪とは言えません。では、なぜこの男性が逮捕されたのか。本来男性は女子トイレに入ってはいけないという規則があります(これを文章にした法律は知りませんが)。その規則を破り、建物に入ったのだから「建造物侵入」という罪が適用されるのだそうです。
しかし、その男性が「男性」だと誰が決めたのだ、という問題があります。この男性の性自認は「女性」という可能性は充分にあるでしょう。しかし、このケースは戸籍が男性であるだけではなく、日常生活は男性として社会人をしており、さらに結婚して妻がいるわけですから「自分は女性です」と言っても通じないでしょう。
結局、この男性は警察署まで連行されたものの、誰にも直接的な危害は加えていないこと、反省の意思を見せていること、速やかに妻が身元引受人として署にやって来たことなどから罪には問われなかったそうです。ですが、妻の立場からすれば自身の夫に女装趣味があったことを知り、ショックを隠しきれません。私のところに相談に来た時点で、すでに「夫とはその後別居している」と話されていました。
さて、逮捕されたこの男性の「罪」はどう考えればいいのでしょうか。私自身はその男性と面識がなく尋ねたわけではありませんが、「自分は女性だから女性トイレを使う権利がある」と訴えるかもしれません。
2021年5月27日、東京高裁は「トランス女性の職員に女子トイレ使用の制限を課した職場の対応は違法ではない」との判決を下しました。
この職員は、生物学的性は男性、性自認が女性、つまりトランス女性で、女性として日常生活を営んでいました。それを職場(経済産業省)にカミングアウトし、一部のトイレ(職場から近いトイレ)の女子トイレ使用の許可を職場から得ていました。しかし、他の場所のトイレではそれが認められず、これが争点となっていました。
この判例、高裁ではたしかに「職場の対応は違法ではない(件の職員は女子トイレを使ってはいけない)」という判決が出ましたが、一審では職員の主張が認められています。この事件は大きく報道され、世論も二分しました。
セクシャルマイノリティ当事者及びそれを支持するいわゆる「アライ」と呼ばれる人たちの多くは、トランス女性の職員を擁護し「女子トイレを使うのは当然の権利」と主張します。一方、いわゆる保守的な男女は「トランス女性が女子トイレを使うと、そのトイレを利用するストレートの女子が安心できない」という理由で、トランス女性の女子トイレ利用に反対します。
ここで再び、私に相談してきた女性の夫に話を戻しましょう。もしも経産省の職員の女子トイレの使用を認めるなら女装癖のある男性の使用も認めなけれなならない、ということにならないでしょうか。
もちろん二人にはいくつもの「違い」があります。経産省の職員は事前に職場に自身の性自認について説明し、性別適合手術を受ける予定があることも伝えています。日常生活は「女性」として過ごしています。他方、女装癖の男性は日頃は男性として過ごし、家庭では「夫」の役割をこなし実際妻も子供もいます。
したがって、「日頃女性として生活しているトランス女性は女子トイレを用いることができて、普段は男性として過ごし、一時的に女性用の化粧を施し女性のファッションを身にまとっている女装癖のある男性は女子トイレを使えない」という理論は一見成り立つように見えます。
ですが、両者とも生物学的にはペニスが付いています。もしかするとトランス女性は日頃から女性ホルモンの注射をしているのかもしれませんが、それは見た目には分かりません。両者をよく知っている人がいたとすれば区別はできるのかもしれませんが、では、この両者を知らない人がいきなり対面したとして二人を区別できるでしょうか。そもそも区別することに意味があるのか、という問題もあります。
例えば、あなたがストレートの女性だとして、映画館のトイレを利用しようとすると、背丈も格好も同じような2人のトランス女性(と主張する女性)がいたとしましょう。1人は日頃から「女性」として日常を過ごしていて、もう一人はそうでなかったとしても、そんなこと瞬間的に分かるはずがありません。さて、そのときあなたは「あなたは日頃女性として過ごしているからここ(女子トイレ)を使ってOK。でもあなたは単なる女装癖だから出て行って!」と言えるでしょうか。そもそも見ず知らずの2人をあなたに裁く権利があるのでしょうか。
問題はまだあります。例えばあなたが女子トイレに入って、その直後にトランス女性が入って来たとしましょう。身体は大きいですが、振舞や仕草は女性そのもので特に違和感はありません。そのトランス女性はあなたが入った個室の横の個室に入りました。さて、もしもこのトランス女性の性的指向(sex orientation)が「女性」だったなら、つまりこのトランス女性がレズビアンであったとすればどうでしょう。一応補足しておくと、レズビアンの女性によるストレートの女性に対する性暴力(レイプ)というのはそう珍しいことではありません。では、見ず知らずのそのトランス女性を「レズビアンかもしれない」と考えることが正しいのでしょうか......。
次回に続きます。
そのなかに、個人的に仲良くなったトランス女性の人たちが何人かいました。"彼女"たちと話せば話すほど、"彼女"たちが「女性」であることがよく分かりました。性別適合手術(gender-affirming surgery)(当時はまだ性転換手術「sex-change operation」と呼ばれていました)を実施している「女性」も、していない「女性」もいました。
当時の私は、「"彼女"たちの性自認(gender identity)は「女性」なのだから当然それを尊重しなければならない」と考えていました。"彼女"らには(希望すれば)女性トイレを使う権利があり、誰も"彼女"らを男性のように扱うべきではないと考えました。
しかし、現在はその考えに少し「疑問」を持っています。そのような疑問を持つようになった事例を紹介しましょう。ただし、この事例は数年前に太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)で経験した実例ですが、極めてプライベートな内容を含んでいることもあり、事実にやや変更を加えています。ただし、本質は何ら変わっていません。
2010年代後半のある日、「離婚を考えている」という40代のある女性患者から相談を受けました(その女性の病気については伏せておきます)。離婚を考える理由は「夫が警察に逮捕されたから」というものでした。長い人生のなかで配偶者が逮捕(誤認逮捕も含めて)されるという経験はそう珍しくはないでしょう。それだけで離婚を考えると言うにはそれなりの理由があるはずです。40代のその夫が逮捕された理由は「建造物侵入の疑い」だそうです。問題はここからでした。
夫が侵入したのは「映画館の女子トイレ」で、そのトイレを利用していた女性に見つかり映画館の職員が警察に通報したそうです。こういうケース、「誤って入ってしまった」という言い訳ができますし、実際にその可能性もなくはないでしょうから、逮捕には確実な「物証」が必要です。てっきり私は盗撮していたところを現行犯で抑えられたのかと思ったのですが、事実はそうではありませんでした。逮捕されたこの男性、「女装」していたというのです。
しかし、女装自体は罪とは言えません。では、なぜこの男性が逮捕されたのか。本来男性は女子トイレに入ってはいけないという規則があります(これを文章にした法律は知りませんが)。その規則を破り、建物に入ったのだから「建造物侵入」という罪が適用されるのだそうです。
しかし、その男性が「男性」だと誰が決めたのだ、という問題があります。この男性の性自認は「女性」という可能性は充分にあるでしょう。しかし、このケースは戸籍が男性であるだけではなく、日常生活は男性として社会人をしており、さらに結婚して妻がいるわけですから「自分は女性です」と言っても通じないでしょう。
結局、この男性は警察署まで連行されたものの、誰にも直接的な危害は加えていないこと、反省の意思を見せていること、速やかに妻が身元引受人として署にやって来たことなどから罪には問われなかったそうです。ですが、妻の立場からすれば自身の夫に女装趣味があったことを知り、ショックを隠しきれません。私のところに相談に来た時点で、すでに「夫とはその後別居している」と話されていました。
さて、逮捕されたこの男性の「罪」はどう考えればいいのでしょうか。私自身はその男性と面識がなく尋ねたわけではありませんが、「自分は女性だから女性トイレを使う権利がある」と訴えるかもしれません。
2021年5月27日、東京高裁は「トランス女性の職員に女子トイレ使用の制限を課した職場の対応は違法ではない」との判決を下しました。
この職員は、生物学的性は男性、性自認が女性、つまりトランス女性で、女性として日常生活を営んでいました。それを職場(経済産業省)にカミングアウトし、一部のトイレ(職場から近いトイレ)の女子トイレ使用の許可を職場から得ていました。しかし、他の場所のトイレではそれが認められず、これが争点となっていました。
この判例、高裁ではたしかに「職場の対応は違法ではない(件の職員は女子トイレを使ってはいけない)」という判決が出ましたが、一審では職員の主張が認められています。この事件は大きく報道され、世論も二分しました。
セクシャルマイノリティ当事者及びそれを支持するいわゆる「アライ」と呼ばれる人たちの多くは、トランス女性の職員を擁護し「女子トイレを使うのは当然の権利」と主張します。一方、いわゆる保守的な男女は「トランス女性が女子トイレを使うと、そのトイレを利用するストレートの女子が安心できない」という理由で、トランス女性の女子トイレ利用に反対します。
ここで再び、私に相談してきた女性の夫に話を戻しましょう。もしも経産省の職員の女子トイレの使用を認めるなら女装癖のある男性の使用も認めなけれなならない、ということにならないでしょうか。
もちろん二人にはいくつもの「違い」があります。経産省の職員は事前に職場に自身の性自認について説明し、性別適合手術を受ける予定があることも伝えています。日常生活は「女性」として過ごしています。他方、女装癖の男性は日頃は男性として過ごし、家庭では「夫」の役割をこなし実際妻も子供もいます。
したがって、「日頃女性として生活しているトランス女性は女子トイレを用いることができて、普段は男性として過ごし、一時的に女性用の化粧を施し女性のファッションを身にまとっている女装癖のある男性は女子トイレを使えない」という理論は一見成り立つように見えます。
ですが、両者とも生物学的にはペニスが付いています。もしかするとトランス女性は日頃から女性ホルモンの注射をしているのかもしれませんが、それは見た目には分かりません。両者をよく知っている人がいたとすれば区別はできるのかもしれませんが、では、この両者を知らない人がいきなり対面したとして二人を区別できるでしょうか。そもそも区別することに意味があるのか、という問題もあります。
例えば、あなたがストレートの女性だとして、映画館のトイレを利用しようとすると、背丈も格好も同じような2人のトランス女性(と主張する女性)がいたとしましょう。1人は日頃から「女性」として日常を過ごしていて、もう一人はそうでなかったとしても、そんなこと瞬間的に分かるはずがありません。さて、そのときあなたは「あなたは日頃女性として過ごしているからここ(女子トイレ)を使ってOK。でもあなたは単なる女装癖だから出て行って!」と言えるでしょうか。そもそも見ず知らずの2人をあなたに裁く権利があるのでしょうか。
問題はまだあります。例えばあなたが女子トイレに入って、その直後にトランス女性が入って来たとしましょう。身体は大きいですが、振舞や仕草は女性そのもので特に違和感はありません。そのトランス女性はあなたが入った個室の横の個室に入りました。さて、もしもこのトランス女性の性的指向(sex orientation)が「女性」だったなら、つまりこのトランス女性がレズビアンであったとすればどうでしょう。一応補足しておくと、レズビアンの女性によるストレートの女性に対する性暴力(レイプ)というのはそう珍しいことではありません。では、見ず知らずのそのトランス女性を「レズビアンかもしれない」と考えることが正しいのでしょうか......。
次回に続きます。