GINAと共に
第193回(2022年7月) 中絶禁止の米国よりも中絶が困難な日本の現状
2022年7月23日、WHO(世界保健機関)はモンキーポックス(サル痘)に対して、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(Public Health Emergency of International Concern)」、いわゆる「緊急事態宣言」を発令しました。
現時点でモンキーポックス感染者の99%はMSM(男性と性行為をもつ男性)と報道されていますが、米国では小児及びシスジェンダーの女性への感染者も確認されています。ストレートの男女に感染者が増え始めるのも時間の問題でしょう。女性に感染し妊娠すれば(あるいは女性が妊娠してから感染すれば)母子感染のリスクも出てきます。
今回のテーマはモンキーポックスではなく「中絶」です。2022年6月24日、米国では歴史を大きく転換させる中絶に関する判決が出ました。まずは米国の中絶に関する歴史を整理してみましょう。
・1973年、米国最高裁判所が「中絶は合憲」との判決を下した。裁判を起こしたのは「ロー」という名前(仮名)の女性。中絶手術を受けたことで罪を問われていたために「中絶禁止は違憲だ」と訴えを起こしていた。この判決(ロー判決)を「ロー対ウェイド事件」とも呼ぶ。
・ロー判決により、米国では「妊娠24週目までの中絶手術」は合法と認められた。
・1992年、「ロー判決を覆すかもしれない」と言われていたケイシー訴訟と呼ばれる訴訟があった。当初の予想に反して、判決(ケイシー判決)はロー判決を踏襲するもので、依然中絶は合法であることが確認された。
・ロー判決の主役の中絶した女性ローは、後にプロライフ派(中絶反対派のこと、賛成派をプロチョイス派と呼ぶ)に転じた。ロー裁判を起こしたのも自分の意思ではなく、プロチョイス派の弁護士にかつがれただけだ、と言い出した。2005年にはロー判決の最高裁判決の見直しを求める申し立てをおこなった。
・2022年5月3日、米国のメディア「POLITICO」が、「ロー判決は覆る」とする内容の最高裁で用いられる草稿を入手しスクープした。これはサミュエル・アリートという最高裁判事が2022年2月に執筆したもの。
・POLITICOが入手した草稿は「ドブス対ジャクソン・ウイミンズ病院(Dobbs v. Jackson Women's Health Organization)」の裁判に対するもので、判決は6月24日に出されることになった。
・2022年6月24日、POLITICOの報道の通り、米国最高裁判所はロー対ウェイド事件を覆し「人工中絶は憲法上の権利ではない」とした。
中絶が禁止となると考えなければならない問題のひとつは「レイプの被害時にどうするのか」です。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)でも、年に数人から数十人の女性が「緊急避妊希望」で受診されます。パートナーとの性交渉時にコンドームが破損した、という場合もありますが、多いのは「レイプの被害」です。ちなみに、この場合はHIVの曝露後予防(PEP)も緊急避妊と同時におこないます。
緊急避妊は100%成功するものではありません。谷口医院の歴史でも過去15年半で、きちんと緊急避妊の薬を飲んだのにもかかわらず失敗(妊娠)した女性が2人います(ちなみに失敗した2例はいずれもヤッペ法で、LNG法での失敗例はゼロ)。
米国の判決は、正確には「妊娠6週以降の中絶禁止」ですから「緊急避妊」が禁止されるわけではありません。ですが、緊急避妊は100%成功する保証はありませんし、早さが勝負の緊急避妊は治療(薬の内服)が遅れれば失敗(妊娠)してしまいます。妊娠が確定するのはだいたい5週目以降ですから「6週以内」となると、「妊娠発覚時にすでに6週目になっていた」といったことも起こり得ます。また、医療機関に容易にアクセスできない場合はリスクが上がります。そして、私が恐れていたことがすでに起こっていました。
米国最高裁判所がロー対ウェイド事件を覆す判決を出してからまだ1週間もたっていない6月30日、オハイオ州の10歳の少女がインディアナ州に移動して、レイプで妊娠した胎児の中絶手術を受けました。オハイオ州では最高裁判所の判決を受け、中絶手術が違法とされ、そのため少女は州を出なければならなくなったのです。
私はタイで母子感染によりHIVに感染した子供たちをたくさんみてきました。彼(女)らは生まれたときから身体が小さかったり、どこかに傷害を抱えていたりします。タイでは最近になってようやく妊娠12週以内であれば中絶手術が合法となりましたが、以前は違法でした。そのため母子感染した可能性があると分かっていながら出産するしかなかった女性が少なくなかったのです。ちなみに日本では21週目と6日目までなら合法です。
中絶に反対する人たちは「生まれてくる赤ちゃんの権利」といった言葉を持ち出しますが、その赤ちゃんの感染症のリスクを考えているのか、私には大いに疑問です。レイプで妊娠したその赤ちゃんがHIV陽性ということも当時のタイでは実際にあったのです。
おそらく多くの日本人が米国最高裁のロー判決を覆したこの判決を疑問に感じているのではないでしょうか。では、21週と6日目までの中絶が合法の日本は世界からどのように思われているのでしょう。女性の権利を大切にしている民主的な国家と思われているのでしょうか。実際はその逆です。日本の法律には世界から理解しがたい点があるのです。その最大の理由は、日本では中絶に「配偶者の同意が必要なこと」です。
2022年6月14日のWashington Postの記事「日本では中絶は合法だがほとんどの女性は配偶者の同意が求められる(In Japan, abortion is legal ? but most women need their husband's consent)」によると、現在、中絶の際に配偶者の同意が必要なのは日本以外に10か国(シリア、イエメン、サウジアラビア、クウェート、赤道ギニア、UAE、台湾、インドネシア、トルコ、モロッコ)ありますが、G7では日本のみです。韓国も過去には配偶者の同意が必要でしたがこの規則は2020年に撤廃されています。「国連女性差別撤廃委員会(The U.N. Committee on the Elimination of Discrimination Against Women)」は、日本に対し配偶者同意の撤廃を求めています。また、日本では、現在安全性が確立されて世界の多くの地域で使われている経口中絶薬がいまだに許可されていません。
こういったルールが強制された結果、何が起こるでしょう。母親による嬰児殺害です。同記事によれば、2018年に1歳未満の乳幼児を殺害した事件は28件、うち7人は生まれたその日に殺されています。また、2022年に母親が新生児を公共の場に遺棄した事件は、6月の時点で少なくとも6件あります。
私自身はこれらの事件を直接知っているわけではありませんが、過去に谷口医院の若い未婚の女性の患者さんが嬰児殺害で逮捕されたことがあります。警察から電話がかかってきて私自身も事情聴取されました。谷口医院の患者さんが事件の加害者ということは時々あるのですが、通常私は事件の詳細を聞きません。聞くべきでないような気がするからです。
しかし、このときは警察官にこの女性がどのような罪で逮捕されたのかを聞かずにはいられませんでした。その理由は、真面目で何事にも一生懸命なその女性が刑事事件を起こすとは到底思えなかったからです。警察官から嬰児殺害と聞いて「彼女なりにいろんなことを考えてそうする以外に方法はなかったのだろう」と感じました。おそらく嬰児殺害に至った女性のほとんどは配偶者がいない未婚の状態で、誰にも相談できなかったのではないでしょうか。
ところで、「未婚だから配偶者の同意が得られず中絶できない」は正しいのでしょうか。そんなことはありません。2013年、厚労省は「未婚の場合は配偶者の同意は不要」との見解を公表しています。ちなみに2021年3月には、「夫からDVを受けるなど婚姻関係が実質破綻し、同意を得ることが困難な場合、本人の同意だけでよい」との見解も示しています。
2020年6月2日、愛知県西尾市の公園で市の職員がポリ袋に入れられた男児の遺体を発見しました。4日後に元看護学生の女性が逮捕されました。男児の父親は小学校の同級生。報道によると、その男性は中絶同意書にサインすることを約束したものの、その後連絡がつかなくなりました。女性は受診した病院で「男性の同意書がないと中絶ができない」と言われ、さらに複数の医療機関に交渉するも、そのすべてから断られたのです。
日本では厚労省が許可しているのにもかかわらず、医療者や医療機関が中絶に配偶者(胎児の父親)の同意書を強制しているのです。これが女性の権利を踏みにじる行為と言えば言い過ぎでしょうか......。
現時点でモンキーポックス感染者の99%はMSM(男性と性行為をもつ男性)と報道されていますが、米国では小児及びシスジェンダーの女性への感染者も確認されています。ストレートの男女に感染者が増え始めるのも時間の問題でしょう。女性に感染し妊娠すれば(あるいは女性が妊娠してから感染すれば)母子感染のリスクも出てきます。
今回のテーマはモンキーポックスではなく「中絶」です。2022年6月24日、米国では歴史を大きく転換させる中絶に関する判決が出ました。まずは米国の中絶に関する歴史を整理してみましょう。
・1973年、米国最高裁判所が「中絶は合憲」との判決を下した。裁判を起こしたのは「ロー」という名前(仮名)の女性。中絶手術を受けたことで罪を問われていたために「中絶禁止は違憲だ」と訴えを起こしていた。この判決(ロー判決)を「ロー対ウェイド事件」とも呼ぶ。
・ロー判決により、米国では「妊娠24週目までの中絶手術」は合法と認められた。
・1992年、「ロー判決を覆すかもしれない」と言われていたケイシー訴訟と呼ばれる訴訟があった。当初の予想に反して、判決(ケイシー判決)はロー判決を踏襲するもので、依然中絶は合法であることが確認された。
・ロー判決の主役の中絶した女性ローは、後にプロライフ派(中絶反対派のこと、賛成派をプロチョイス派と呼ぶ)に転じた。ロー裁判を起こしたのも自分の意思ではなく、プロチョイス派の弁護士にかつがれただけだ、と言い出した。2005年にはロー判決の最高裁判決の見直しを求める申し立てをおこなった。
・2022年5月3日、米国のメディア「POLITICO」が、「ロー判決は覆る」とする内容の最高裁で用いられる草稿を入手しスクープした。これはサミュエル・アリートという最高裁判事が2022年2月に執筆したもの。
・POLITICOが入手した草稿は「ドブス対ジャクソン・ウイミンズ病院(Dobbs v. Jackson Women's Health Organization)」の裁判に対するもので、判決は6月24日に出されることになった。
・2022年6月24日、POLITICOの報道の通り、米国最高裁判所はロー対ウェイド事件を覆し「人工中絶は憲法上の権利ではない」とした。
中絶が禁止となると考えなければならない問題のひとつは「レイプの被害時にどうするのか」です。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)でも、年に数人から数十人の女性が「緊急避妊希望」で受診されます。パートナーとの性交渉時にコンドームが破損した、という場合もありますが、多いのは「レイプの被害」です。ちなみに、この場合はHIVの曝露後予防(PEP)も緊急避妊と同時におこないます。
緊急避妊は100%成功するものではありません。谷口医院の歴史でも過去15年半で、きちんと緊急避妊の薬を飲んだのにもかかわらず失敗(妊娠)した女性が2人います(ちなみに失敗した2例はいずれもヤッペ法で、LNG法での失敗例はゼロ)。
米国の判決は、正確には「妊娠6週以降の中絶禁止」ですから「緊急避妊」が禁止されるわけではありません。ですが、緊急避妊は100%成功する保証はありませんし、早さが勝負の緊急避妊は治療(薬の内服)が遅れれば失敗(妊娠)してしまいます。妊娠が確定するのはだいたい5週目以降ですから「6週以内」となると、「妊娠発覚時にすでに6週目になっていた」といったことも起こり得ます。また、医療機関に容易にアクセスできない場合はリスクが上がります。そして、私が恐れていたことがすでに起こっていました。
米国最高裁判所がロー対ウェイド事件を覆す判決を出してからまだ1週間もたっていない6月30日、オハイオ州の10歳の少女がインディアナ州に移動して、レイプで妊娠した胎児の中絶手術を受けました。オハイオ州では最高裁判所の判決を受け、中絶手術が違法とされ、そのため少女は州を出なければならなくなったのです。
私はタイで母子感染によりHIVに感染した子供たちをたくさんみてきました。彼(女)らは生まれたときから身体が小さかったり、どこかに傷害を抱えていたりします。タイでは最近になってようやく妊娠12週以内であれば中絶手術が合法となりましたが、以前は違法でした。そのため母子感染した可能性があると分かっていながら出産するしかなかった女性が少なくなかったのです。ちなみに日本では21週目と6日目までなら合法です。
中絶に反対する人たちは「生まれてくる赤ちゃんの権利」といった言葉を持ち出しますが、その赤ちゃんの感染症のリスクを考えているのか、私には大いに疑問です。レイプで妊娠したその赤ちゃんがHIV陽性ということも当時のタイでは実際にあったのです。
おそらく多くの日本人が米国最高裁のロー判決を覆したこの判決を疑問に感じているのではないでしょうか。では、21週と6日目までの中絶が合法の日本は世界からどのように思われているのでしょう。女性の権利を大切にしている民主的な国家と思われているのでしょうか。実際はその逆です。日本の法律には世界から理解しがたい点があるのです。その最大の理由は、日本では中絶に「配偶者の同意が必要なこと」です。
2022年6月14日のWashington Postの記事「日本では中絶は合法だがほとんどの女性は配偶者の同意が求められる(In Japan, abortion is legal ? but most women need their husband's consent)」によると、現在、中絶の際に配偶者の同意が必要なのは日本以外に10か国(シリア、イエメン、サウジアラビア、クウェート、赤道ギニア、UAE、台湾、インドネシア、トルコ、モロッコ)ありますが、G7では日本のみです。韓国も過去には配偶者の同意が必要でしたがこの規則は2020年に撤廃されています。「国連女性差別撤廃委員会(The U.N. Committee on the Elimination of Discrimination Against Women)」は、日本に対し配偶者同意の撤廃を求めています。また、日本では、現在安全性が確立されて世界の多くの地域で使われている経口中絶薬がいまだに許可されていません。
こういったルールが強制された結果、何が起こるでしょう。母親による嬰児殺害です。同記事によれば、2018年に1歳未満の乳幼児を殺害した事件は28件、うち7人は生まれたその日に殺されています。また、2022年に母親が新生児を公共の場に遺棄した事件は、6月の時点で少なくとも6件あります。
私自身はこれらの事件を直接知っているわけではありませんが、過去に谷口医院の若い未婚の女性の患者さんが嬰児殺害で逮捕されたことがあります。警察から電話がかかってきて私自身も事情聴取されました。谷口医院の患者さんが事件の加害者ということは時々あるのですが、通常私は事件の詳細を聞きません。聞くべきでないような気がするからです。
しかし、このときは警察官にこの女性がどのような罪で逮捕されたのかを聞かずにはいられませんでした。その理由は、真面目で何事にも一生懸命なその女性が刑事事件を起こすとは到底思えなかったからです。警察官から嬰児殺害と聞いて「彼女なりにいろんなことを考えてそうする以外に方法はなかったのだろう」と感じました。おそらく嬰児殺害に至った女性のほとんどは配偶者がいない未婚の状態で、誰にも相談できなかったのではないでしょうか。
ところで、「未婚だから配偶者の同意が得られず中絶できない」は正しいのでしょうか。そんなことはありません。2013年、厚労省は「未婚の場合は配偶者の同意は不要」との見解を公表しています。ちなみに2021年3月には、「夫からDVを受けるなど婚姻関係が実質破綻し、同意を得ることが困難な場合、本人の同意だけでよい」との見解も示しています。
2020年6月2日、愛知県西尾市の公園で市の職員がポリ袋に入れられた男児の遺体を発見しました。4日後に元看護学生の女性が逮捕されました。男児の父親は小学校の同級生。報道によると、その男性は中絶同意書にサインすることを約束したものの、その後連絡がつかなくなりました。女性は受診した病院で「男性の同意書がないと中絶ができない」と言われ、さらに複数の医療機関に交渉するも、そのすべてから断られたのです。
日本では厚労省が許可しているのにもかかわらず、医療者や医療機関が中絶に配偶者(胎児の父親)の同意書を強制しているのです。これが女性の権利を踏みにじる行為と言えば言い過ぎでしょうか......。