GINAと共に
第189回(2022年3月) HIVのPEPは極めて優れた「夢の治療薬」
私が院長をつとめる太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)をスタートしたのは2007年1月です。それまでは大学病院(大阪市立大学医学部附属病院)の総合診療科に勤めていて、そこでの診療もそれなりにやりがいはあったのですが、同時に不満もありました。
不満とは「やりたいことができない」です。元々私が総合診療科医を目指したのは、タイのエイズ施設でのボランティアの経験がきっかけです。このサイトで繰り返し紹介したロッブリー県にある(当時は)「世界最大のエイズホスピス」と呼ばれていたWat Phrabahatnamphuで出会った欧米の総合診療科医の影響を受け、彼(女)らが自分のロールモデルとなり、いつしか「こういった医師たちのようにどのような症状も診る医師になりたい」と考えるようになったのです。
私はそういった彼(女)らの診療への姿勢に感銘を受け、帰国後に母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩きました。当時は、総合診療医という概念がまだ日本にはほとんどなく、大学としてもそんなに力を入れていたセクションではなかったのですが、私は「これが自分の進む道だ」と確信していたのです。
大学病院の総合診療科では「どこに行っていいか分からない」という彷徨える患者さんがたくさん受診され、そういう人たちの診察は私がやりたかったことではあるのですが、診断がついて治療方針が決まればそれで「終わり」で、別の医療機関に紹介しなければなりませんでした。私としては「また困ったことがあればいつでも来てくださいね」と言いたかったわけですが、大学ではそれができません。
そういった不満が重なるにつれ「自分のやりたいことを実践するには自分で開業するしかない」と考えるようになりました。開業してやりたかったことはたくさんあります。全体としては「患者さんのすべての症状を聞く」「薬や検査を最小限にする」「メール相談を受ける」などです。具体的な診療内容としては、とてもここには書ききれないほどたくさんあったのですが、「HIVの相談」はそのなかの重要なひとつでした。
当時、「HIVに感染したかもしれない無症状の人に検査をする」という事業は保健所及び行政から検査委託を受けた一部のNPOがやっているだけで、医療機関で実施しているところはほとんどありませんでした。まず検査を受けられる施設の絶対数が少なかったのです。保健所もNPOも一部の医療機関もしっかりと力を注いでいたとは思うのですが、実際にはそういった施設に対して不平不満を感じる人も多く、このGINAのサイトにも相談が多数寄せられていました。
そこで私は「それなら自分でやろう」と決めたのです。実際、谷口医院を開業したての頃に最も多かった相談のひとつが「HIVに感染したかもしれない」でした。私としては、患者さんから「HIVの検査をしてください」と言われても、検査自体は保健所などでの無料検査を促していました。谷口医院で検査を実施することも可能なのですが、「感染したかもしれない」だけでは保険適用がなく、自費診療となり費用が高くなってしまうからです。
ただ、実際には「少々高くてもかまいませんから検査をしてください」という人の方が多く、谷口医院で検査を実施することになったケースも多々ありました。また、「HIV以外の検査も同時に受けたい」「B型肝炎ウイルスのワクチンもうちたい」という声もそれなりに多く、それができるのは谷口医院しかないと言って受診される人も少なくありませんでした。
そういったHIV相談で受診される患者さんで、私が最も難渋したのが「感染したかもしれないその不安を抑えきれない」という相談でした。そのような相談を寄せてくる人のなかで実際に感染している人はそう多くなく、せいぜい1%程度ですが、もちろんゼロではありません。ですが、検査結果が出るまでの不安に耐えられず押しつぶされそうになる人が少なくないのです。
最も検査結果が早く出るPCR(NAT)でも感染したかもしれない時点から10日程度は待たなければならず、採血をしてもその結果が出るまでに1週間くらいかかります。ということは、「しまった!感染したかもしれない」という時点から考えると、検査をして陰性の結果を得るまでに少なくとも3週間近くかかることになります。
しかし、現在ではそのような不安にさいなまれる必要がなくなりました。いわば「夢の治療薬」が登場したからです。それが、過去にこのサイトでも何度か紹介したPEPと呼ばれる曝露後予防(Post-Exposure Prophylaxis)です。感染したかもしれないアクシデント(医療者の針刺し事故、危険な性交渉など)から目安として3日以内に内服を開始し4週間続ければ感染しないという画期的な方法です(現在は1週間程度経過していても実施することになっています)。この方法は海外では2000年代半ばから有効性が指摘されていたのですが日本ではほとんど普及していませんでした。
その理由は「費用」です。HIVの薬は1錠数千円から1万円近くもします。それを1日1種類または2種類の服薬を続けるには20~30万円もします。この費用を捻出できる人はそうはいません。では海外で流通している安い抗HIV薬はどうでしょうか。
2012年のある日、海外の安い後発品を直接輸入しようと考えて近畿厚生局に相談してみました。しかし回答は「認めない」でした。そこで、考えたのが「直ちにタイに行ってもらう」でした。タイの安いクリニックでならPEPの費用を1日あたり100円未満にすることができます。しかし、PrEPと異なり(参考:GINAと共に第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」)、PEPは直ちに渡航しなければなりませんから、ほとんどの人にとってはハードルの高い方法でした。
2020年に再度近畿厚生局に相談すると、クリニックの輸入は依然「認めない」とのことでした。しかし、海外医薬品の代理店に聞いてみると「できる」とのこと。そこで、2021年1月より谷口医院ではその代理店を使って抗HIV薬を仕入れることにしました。この方法では、直接輸入するよりも代理店を経る分だけ費用が高くなりますが、国内で流通している薬に比べるとずっと安くなります。国内の薬を使えば1日あたり1万円もした費用が、輸入品であれば1日2,500円ほどになるのです。それでもまだまだ高いわけですが、70,000円(2,500円/日x28日、税込み)でHIV感染が防げればこれは有難い話です。
先述したように、「(性交渉で、あるいは針刺し事故で)HIVに感染したかもしれない」と考えて受診する人のなかで、実際にHIVに感染しているのはせいぜい1%程度です。相談に来る人全員にPEPを実施したとすれば、結果からみれば「99%は必要がなかった」ということになります。しかし、当然のことながらその99%に入る保障はないわけで、やはりそれなりのリスクがあるなら「実際には感染していなかったかもしれないけれどPEPを開始する」という選択肢が出てきます。
それに、PEPには感染を防ぐこと以外にもメリットがあります。それは「不安をとってくれること」です。なんらかのHIVに感染したかもしれないアクシデントがあり、結果として感染していなかったとしても、検査を受けて陰性の結果が出るまでの不安感は並大抵のものではありません。多くの人は周囲に不自然なその様子を気付かれますし、なかにはベンゾジアゼピンなどの安定剤が必要になる人すらいます。PEPを始めなければ感染していた場合も、実際には感染していなかった場合も、PEPを実施することでその不安感から解放されるのです。
そう考えるとHIVのPEPはまさに「夢の治療薬」なのです。
不満とは「やりたいことができない」です。元々私が総合診療科医を目指したのは、タイのエイズ施設でのボランティアの経験がきっかけです。このサイトで繰り返し紹介したロッブリー県にある(当時は)「世界最大のエイズホスピス」と呼ばれていたWat Phrabahatnamphuで出会った欧米の総合診療科医の影響を受け、彼(女)らが自分のロールモデルとなり、いつしか「こういった医師たちのようにどのような症状も診る医師になりたい」と考えるようになったのです。
私はそういった彼(女)らの診療への姿勢に感銘を受け、帰国後に母校の大阪市立大学医学部の総合診療科の門を叩きました。当時は、総合診療医という概念がまだ日本にはほとんどなく、大学としてもそんなに力を入れていたセクションではなかったのですが、私は「これが自分の進む道だ」と確信していたのです。
大学病院の総合診療科では「どこに行っていいか分からない」という彷徨える患者さんがたくさん受診され、そういう人たちの診察は私がやりたかったことではあるのですが、診断がついて治療方針が決まればそれで「終わり」で、別の医療機関に紹介しなければなりませんでした。私としては「また困ったことがあればいつでも来てくださいね」と言いたかったわけですが、大学ではそれができません。
そういった不満が重なるにつれ「自分のやりたいことを実践するには自分で開業するしかない」と考えるようになりました。開業してやりたかったことはたくさんあります。全体としては「患者さんのすべての症状を聞く」「薬や検査を最小限にする」「メール相談を受ける」などです。具体的な診療内容としては、とてもここには書ききれないほどたくさんあったのですが、「HIVの相談」はそのなかの重要なひとつでした。
当時、「HIVに感染したかもしれない無症状の人に検査をする」という事業は保健所及び行政から検査委託を受けた一部のNPOがやっているだけで、医療機関で実施しているところはほとんどありませんでした。まず検査を受けられる施設の絶対数が少なかったのです。保健所もNPOも一部の医療機関もしっかりと力を注いでいたとは思うのですが、実際にはそういった施設に対して不平不満を感じる人も多く、このGINAのサイトにも相談が多数寄せられていました。
そこで私は「それなら自分でやろう」と決めたのです。実際、谷口医院を開業したての頃に最も多かった相談のひとつが「HIVに感染したかもしれない」でした。私としては、患者さんから「HIVの検査をしてください」と言われても、検査自体は保健所などでの無料検査を促していました。谷口医院で検査を実施することも可能なのですが、「感染したかもしれない」だけでは保険適用がなく、自費診療となり費用が高くなってしまうからです。
ただ、実際には「少々高くてもかまいませんから検査をしてください」という人の方が多く、谷口医院で検査を実施することになったケースも多々ありました。また、「HIV以外の検査も同時に受けたい」「B型肝炎ウイルスのワクチンもうちたい」という声もそれなりに多く、それができるのは谷口医院しかないと言って受診される人も少なくありませんでした。
そういったHIV相談で受診される患者さんで、私が最も難渋したのが「感染したかもしれないその不安を抑えきれない」という相談でした。そのような相談を寄せてくる人のなかで実際に感染している人はそう多くなく、せいぜい1%程度ですが、もちろんゼロではありません。ですが、検査結果が出るまでの不安に耐えられず押しつぶされそうになる人が少なくないのです。
最も検査結果が早く出るPCR(NAT)でも感染したかもしれない時点から10日程度は待たなければならず、採血をしてもその結果が出るまでに1週間くらいかかります。ということは、「しまった!感染したかもしれない」という時点から考えると、検査をして陰性の結果を得るまでに少なくとも3週間近くかかることになります。
しかし、現在ではそのような不安にさいなまれる必要がなくなりました。いわば「夢の治療薬」が登場したからです。それが、過去にこのサイトでも何度か紹介したPEPと呼ばれる曝露後予防(Post-Exposure Prophylaxis)です。感染したかもしれないアクシデント(医療者の針刺し事故、危険な性交渉など)から目安として3日以内に内服を開始し4週間続ければ感染しないという画期的な方法です(現在は1週間程度経過していても実施することになっています)。この方法は海外では2000年代半ばから有効性が指摘されていたのですが日本ではほとんど普及していませんでした。
その理由は「費用」です。HIVの薬は1錠数千円から1万円近くもします。それを1日1種類または2種類の服薬を続けるには20~30万円もします。この費用を捻出できる人はそうはいません。では海外で流通している安い抗HIV薬はどうでしょうか。
2012年のある日、海外の安い後発品を直接輸入しようと考えて近畿厚生局に相談してみました。しかし回答は「認めない」でした。そこで、考えたのが「直ちにタイに行ってもらう」でした。タイの安いクリニックでならPEPの費用を1日あたり100円未満にすることができます。しかし、PrEPと異なり(参考:GINAと共に第175回(2021年1月)「ついに日本でもPrEPが普及する兆し」)、PEPは直ちに渡航しなければなりませんから、ほとんどの人にとってはハードルの高い方法でした。
2020年に再度近畿厚生局に相談すると、クリニックの輸入は依然「認めない」とのことでした。しかし、海外医薬品の代理店に聞いてみると「できる」とのこと。そこで、2021年1月より谷口医院ではその代理店を使って抗HIV薬を仕入れることにしました。この方法では、直接輸入するよりも代理店を経る分だけ費用が高くなりますが、国内で流通している薬に比べるとずっと安くなります。国内の薬を使えば1日あたり1万円もした費用が、輸入品であれば1日2,500円ほどになるのです。それでもまだまだ高いわけですが、70,000円(2,500円/日x28日、税込み)でHIV感染が防げればこれは有難い話です。
先述したように、「(性交渉で、あるいは針刺し事故で)HIVに感染したかもしれない」と考えて受診する人のなかで、実際にHIVに感染しているのはせいぜい1%程度です。相談に来る人全員にPEPを実施したとすれば、結果からみれば「99%は必要がなかった」ということになります。しかし、当然のことながらその99%に入る保障はないわけで、やはりそれなりのリスクがあるなら「実際には感染していなかったかもしれないけれどPEPを開始する」という選択肢が出てきます。
それに、PEPには感染を防ぐこと以外にもメリットがあります。それは「不安をとってくれること」です。なんらかのHIVに感染したかもしれないアクシデントがあり、結果として感染していなかったとしても、検査を受けて陰性の結果が出るまでの不安感は並大抵のものではありません。多くの人は周囲に不自然なその様子を気付かれますし、なかにはベンゾジアゼピンなどの安定剤が必要になる人すらいます。PEPを始めなければ感染していた場合も、実際には感染していなかった場合も、PEPを実施することでその不安感から解放されるのです。
そう考えるとHIVのPEPはまさに「夢の治療薬」なのです。