GINAと共に
第187回(2022年1月) 性別適合手術は日本では普及しない
私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではトランスジェンダーへの性別適合手術もホルモン治療も実施していません。しかし、GINAのサイトをみた人達から、これらに関する問い合わせがしばしば入ります。タイでの性別適合手術に興味があるという人が少なくないからです。
周知のように、タイでは美容外科と並び性別適合手術が世界的に有名であり、全世界から希望者が集まっています。新型コロナ流行後はタイ渡航が極めて困難になり、現地駐在員やその家族(現地採用者は困難なようです)、エリートカードを持っている人などを除けばタイへの入国がほぼできません。にもかかわらずタイ政府は性別適合手術が目的の外国人に対しては比較的簡単にビザを発行しています。国自体が奨励している「ビジネス」と呼べるかもしれません。
今回は日本でのトランスジェンダーの性別適合手術の「歴史」を振り返り、最終的に「日本では普及しない」と私が考えている理由を述べたいと思います。
その前に言葉を整理しておきましょう。出生時の性とは異なる性への外科手術のことを以前は「性転換手術」と呼ぶことが多かったのですが、現在は「性別適合手術」という表現が一般的です。これは「転換」(元々のものを換える)のではなく、元々"異なっていた"身体の外見を本来の「性」に"適合"させる手術だから、という考えに基づいています。では性別適合術の歴史を振り返ってみましょう。
性別適合手術の歴史は意外に古く、1930年に実施されたデンマークの画家リリー・エルベに対するM→F(男性→女性)の手術が世界初だと言われています。陰茎切断のみならず、複数回に渡り卵巣及び子宮の移植もおこなわれたのですが、免疫抑制のコントロールがうまくいかず、リリーは1931年に他界しました。2015年の映画『リリーのすべて』はリリー・エルベの生涯を描いた名作です。
実は日本の歴史も意外に古く、1950年には日本医科大学付属病院などでM→Fの手術がおこなわれ成功しています。ところがその後、性別適合手術のイメージ悪化につながる「ブルーボーイ事件」が起こりました。「ブルーボーイ」とは男娼のことです。
1964年、東京都のある診療所の産婦人科医が性別判定の十分な診断をしないまま男娼に対する性別適合手術をおこない、これが優生保護法違反とされ、1969年に有罪判決を受けたのです。
その後、性別適合手術には否定的なイメージがつきまとい、いわばタブーとみなされ、国内での手術はいくつかの特殊なクリニックでおこなわれるのみとなりました。しかし、ブルーボーイ事件からおよそ30年後の1998年、歴史に残る性別適合手術が埼玉医科大学総合医療センターの原科孝雄教授の手によって施されました。それまでは良い印象を持たれていなかった性別適合手術がようやく陽の目を見るようになったのです。そして、今後は全国的に広がるのでは?と期待されました。
ところが、そうはなりませんでした。その理由のひとつが、海外、特にタイでの手術の普及です。1990年代後半、アジア通貨危機の影響を受け、タイの医療機関が性別適合手術を外国人向けに提供するようになりました。高い技術に加え安いバーツで世界各国から手術を希望するトランスジェンダーを集め、また、これがビジネスになると考えたいくつかの企業や個人があっせん業に乗り出し集客に勤しむようになったのです。
そんな時代からおよそ10年が経過した2007年、日本国内で2つの大きな「出来事/事件」が起こりました。
ひとつは先述の原科孝雄教授が埼玉医科大学総合医療センターを2007年3月に定年退職したことです。引き継ぐ医師がほとんどおらず、同センターでの手術件数は大きく減少し、現在ではほとんど実施されていないと聞きます。
もうひとつの事件は大阪で5月に起こりました。大阪市北区で「わだ形成クリニック」を開業し性別適合手術を積極的におこなっていた和田耕治医師が院内で突然死したのです(死因は不明)。
ガイドラインに従わず、独自の考えで90年代から性別適合手術を手掛けていた和田医師は、多くの形成外科医から異端児扱いを受け、同院の手術は「非正規ルートの手術」「ウラの手術」などと呼ばれていました。しかし、谷口医院のトランスジェンダーの患者さんの話によれば(ちなみに谷口医院はわだ形成クリニックの近くにあります)、和田医師のトランスジェンダー達からの評判は軒並み良くて、一部の人たちからは神のように崇められていました。和田医師の死後も「あたしはあの伝説の和田先生に手術をしてもらったの」と診察室で自慢げに語るトランス女性もいるほどです。
国内の性別適合手術は2007年以降も一部の病院やクリニックなどでおこなわれていましたが、症例はさほど多くなく、タイを筆頭とする海外での手術件数には遠く及びませんでした。
そんななか転帰が訪れます。2018年4月、保険診療制度が改定され性別適合手術が保険適用となったのです。私がこの情報を聞いたとき、これで日本人トランスジェンダーのタイでの性別適合手術は激減するかな、と一瞬考えたのですが、その後すぐに日本では普及しないと結論するに至りました(当時の「GINAと共に」でもこの件は取り上げませんでした)。
その最大の理由は「ホルモン治療には保険適用がなく、手術を保険でおこなうのは混合診療に該当する」からです。日本では混合診療は認められておらず、ホルモン治療を自費診療で受ければ手術も自費になってしまいます。当初はホルモン治療を自費のクリニックでおこない、手術を病院で保険診療でおこなうことができるのでは?、と楽観視する意見もあったのですが、この考えは早々に打ち消されました。
2018年3月7日、厚労省が「性別適合手術の保険適用について」というタイトルの通知をし、「性別適合手術とホルモン製剤の投与を一連の治療において実施する場合は、原則、混合診療となる」という文章を"わざわざ"公表したのです(この通知は「日本性同一性障害と共に生きる人々の会」のウェブサイトに掲載されています)。要するに厚労省は「ホルモン製剤を使った患者には手術の保険適用を認めない」をルールにしたのです。
ここで、当事者以外の人からよくある質問「ホルモン治療なしでいきなり手術はできないの?」に答えておきましょう。トランスジェンダーの診断は、原則としてホルモン剤をまず用いて、それで不都合がないことを確認せねばなりません。乳房切除のみの手術ならばホルモン治療なしで実施することもあると聞きますが、外性器の場合は原則としてホルモン治療を一定期間先におこなわなければならないのです。そのホルモン治療の保険適用を認めないということは、「厚労省は本当は性別適合手術を保険で認めたくないのでは?」と訝りたくなります。
さて、ここで性別適合手術に関する非常に重要なポイントを指摘しておきましょう。当事者以外の人たちのなかには「トランスジェンダーは全員が性別適合手術を望んでいる」と考えている人がいます。ですが、私がGINAの活動を通じ、それなりの数の日本人、タイ人、それ以外の国籍のトランスジェンダーに話を聞いてきた経験で言えば、必ずしもそういうわけではありません。「手術を受けない今のままの姿でわたしの性自認を認めてほしい」というトランス男性(女性)も少なくないのです。
「保険治療」というのはそもそも病気を治す治療に適用とされるものです。ということは、トランスジェンダーの手術前の状態は"病気"なのか、という疑問がでてきます。「性別適合手術は保険適用」があまりにも強調されると、事情を知らない他人は「(病気を治すために)早く手術を受けられるといいのにね」という当事者が傷つく言葉を善意から口にすることになるかもしれません。
もちろん、一方では「一日も早く性別適合手術を受けたい。タイでの手術は不安だから日本で受けたい」と考えている人もいますから、そういった人たちのためには、ホルモン治療にも保険適用を認めた上で日本での性別適合手術を普及させるべきです。
現時点では、「性には多様性がある。トランスジェンダーのなかにも多様性がある」ことを世間に周知させるのが先決で重要だと私は考えています。
周知のように、タイでは美容外科と並び性別適合手術が世界的に有名であり、全世界から希望者が集まっています。新型コロナ流行後はタイ渡航が極めて困難になり、現地駐在員やその家族(現地採用者は困難なようです)、エリートカードを持っている人などを除けばタイへの入国がほぼできません。にもかかわらずタイ政府は性別適合手術が目的の外国人に対しては比較的簡単にビザを発行しています。国自体が奨励している「ビジネス」と呼べるかもしれません。
今回は日本でのトランスジェンダーの性別適合手術の「歴史」を振り返り、最終的に「日本では普及しない」と私が考えている理由を述べたいと思います。
その前に言葉を整理しておきましょう。出生時の性とは異なる性への外科手術のことを以前は「性転換手術」と呼ぶことが多かったのですが、現在は「性別適合手術」という表現が一般的です。これは「転換」(元々のものを換える)のではなく、元々"異なっていた"身体の外見を本来の「性」に"適合"させる手術だから、という考えに基づいています。では性別適合術の歴史を振り返ってみましょう。
性別適合手術の歴史は意外に古く、1930年に実施されたデンマークの画家リリー・エルベに対するM→F(男性→女性)の手術が世界初だと言われています。陰茎切断のみならず、複数回に渡り卵巣及び子宮の移植もおこなわれたのですが、免疫抑制のコントロールがうまくいかず、リリーは1931年に他界しました。2015年の映画『リリーのすべて』はリリー・エルベの生涯を描いた名作です。
実は日本の歴史も意外に古く、1950年には日本医科大学付属病院などでM→Fの手術がおこなわれ成功しています。ところがその後、性別適合手術のイメージ悪化につながる「ブルーボーイ事件」が起こりました。「ブルーボーイ」とは男娼のことです。
1964年、東京都のある診療所の産婦人科医が性別判定の十分な診断をしないまま男娼に対する性別適合手術をおこない、これが優生保護法違反とされ、1969年に有罪判決を受けたのです。
その後、性別適合手術には否定的なイメージがつきまとい、いわばタブーとみなされ、国内での手術はいくつかの特殊なクリニックでおこなわれるのみとなりました。しかし、ブルーボーイ事件からおよそ30年後の1998年、歴史に残る性別適合手術が埼玉医科大学総合医療センターの原科孝雄教授の手によって施されました。それまでは良い印象を持たれていなかった性別適合手術がようやく陽の目を見るようになったのです。そして、今後は全国的に広がるのでは?と期待されました。
ところが、そうはなりませんでした。その理由のひとつが、海外、特にタイでの手術の普及です。1990年代後半、アジア通貨危機の影響を受け、タイの医療機関が性別適合手術を外国人向けに提供するようになりました。高い技術に加え安いバーツで世界各国から手術を希望するトランスジェンダーを集め、また、これがビジネスになると考えたいくつかの企業や個人があっせん業に乗り出し集客に勤しむようになったのです。
そんな時代からおよそ10年が経過した2007年、日本国内で2つの大きな「出来事/事件」が起こりました。
ひとつは先述の原科孝雄教授が埼玉医科大学総合医療センターを2007年3月に定年退職したことです。引き継ぐ医師がほとんどおらず、同センターでの手術件数は大きく減少し、現在ではほとんど実施されていないと聞きます。
もうひとつの事件は大阪で5月に起こりました。大阪市北区で「わだ形成クリニック」を開業し性別適合手術を積極的におこなっていた和田耕治医師が院内で突然死したのです(死因は不明)。
ガイドラインに従わず、独自の考えで90年代から性別適合手術を手掛けていた和田医師は、多くの形成外科医から異端児扱いを受け、同院の手術は「非正規ルートの手術」「ウラの手術」などと呼ばれていました。しかし、谷口医院のトランスジェンダーの患者さんの話によれば(ちなみに谷口医院はわだ形成クリニックの近くにあります)、和田医師のトランスジェンダー達からの評判は軒並み良くて、一部の人たちからは神のように崇められていました。和田医師の死後も「あたしはあの伝説の和田先生に手術をしてもらったの」と診察室で自慢げに語るトランス女性もいるほどです。
国内の性別適合手術は2007年以降も一部の病院やクリニックなどでおこなわれていましたが、症例はさほど多くなく、タイを筆頭とする海外での手術件数には遠く及びませんでした。
そんななか転帰が訪れます。2018年4月、保険診療制度が改定され性別適合手術が保険適用となったのです。私がこの情報を聞いたとき、これで日本人トランスジェンダーのタイでの性別適合手術は激減するかな、と一瞬考えたのですが、その後すぐに日本では普及しないと結論するに至りました(当時の「GINAと共に」でもこの件は取り上げませんでした)。
その最大の理由は「ホルモン治療には保険適用がなく、手術を保険でおこなうのは混合診療に該当する」からです。日本では混合診療は認められておらず、ホルモン治療を自費診療で受ければ手術も自費になってしまいます。当初はホルモン治療を自費のクリニックでおこない、手術を病院で保険診療でおこなうことができるのでは?、と楽観視する意見もあったのですが、この考えは早々に打ち消されました。
2018年3月7日、厚労省が「性別適合手術の保険適用について」というタイトルの通知をし、「性別適合手術とホルモン製剤の投与を一連の治療において実施する場合は、原則、混合診療となる」という文章を"わざわざ"公表したのです(この通知は「日本性同一性障害と共に生きる人々の会」のウェブサイトに掲載されています)。要するに厚労省は「ホルモン製剤を使った患者には手術の保険適用を認めない」をルールにしたのです。
ここで、当事者以外の人からよくある質問「ホルモン治療なしでいきなり手術はできないの?」に答えておきましょう。トランスジェンダーの診断は、原則としてホルモン剤をまず用いて、それで不都合がないことを確認せねばなりません。乳房切除のみの手術ならばホルモン治療なしで実施することもあると聞きますが、外性器の場合は原則としてホルモン治療を一定期間先におこなわなければならないのです。そのホルモン治療の保険適用を認めないということは、「厚労省は本当は性別適合手術を保険で認めたくないのでは?」と訝りたくなります。
さて、ここで性別適合手術に関する非常に重要なポイントを指摘しておきましょう。当事者以外の人たちのなかには「トランスジェンダーは全員が性別適合手術を望んでいる」と考えている人がいます。ですが、私がGINAの活動を通じ、それなりの数の日本人、タイ人、それ以外の国籍のトランスジェンダーに話を聞いてきた経験で言えば、必ずしもそういうわけではありません。「手術を受けない今のままの姿でわたしの性自認を認めてほしい」というトランス男性(女性)も少なくないのです。
「保険治療」というのはそもそも病気を治す治療に適用とされるものです。ということは、トランスジェンダーの手術前の状態は"病気"なのか、という疑問がでてきます。「性別適合手術は保険適用」があまりにも強調されると、事情を知らない他人は「(病気を治すために)早く手術を受けられるといいのにね」という当事者が傷つく言葉を善意から口にすることになるかもしれません。
もちろん、一方では「一日も早く性別適合手術を受けたい。タイでの手術は不安だから日本で受けたい」と考えている人もいますから、そういった人たちのためには、ホルモン治療にも保険適用を認めた上で日本での性別適合手術を普及させるべきです。
現時点では、「性には多様性がある。トランスジェンダーのなかにも多様性がある」ことを世間に周知させるのが先決で重要だと私は考えています。