GINAと共に
第180回(2021年6月) 「差別」についての初歩的な勘違い
2021年5月31日、与野党を超えた超党派で合意したはずのセクシャルマイノリティの課題に関する「理解増進法案」が、自民党保守派から反対意見が出て見送られることになりました。
その理由として、「差別は許されない」という表現が自民党保守派の人たちに受け入れられなかったから、と報じられています。報道を何度読んでも私にはこの内容がよく理解できません。
「差別は許されない」が許されないなら、「差別は許される」のでしょうか。もちろん、そういうわけではないでしょう。例えば、被差別部落出身者には大学受験の資格がない、などといった差別が許されるはずがありません。
では、自民党保守派の人たちからみて「差別は許されない」の何がいけないのでしょうか。各紙の報道をよく読むと、「行き過ぎた差別禁止の政治運動につながる」から「差別は許されない」そうです。「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
私には、皆目見当がつきません。差別は禁止しなければならないものであり、許されないものです。おっと(この言葉、文章のなかでは使いたくなかったのですが他に適当な表現がみあたりませんでした......)、思わず「差別は許されない」と言ってしまいました。
「差別は許されない」が許されないとは何を意味するのかを理解するには、まずは自民党保守派の人たちの立場に立つのがいいでしょう。「差別が許されない」という表現を認めないということは、自民党保守派にとっては「許される差別」があるはずです。まず、それについて考えてみましょう。
ん?(この言葉も使いたくなかったのですが......、以下同文)「許される差別」とはどのようなものなのでしょう。「許された差別」なら分かります。男女雇用機会均等法の前の男女差別、黒人に選挙権がなかった頃の人種差別、あるいは江戸時代の身分差別なども該当するでしょう。しかし、それらは現在の基本的な人権の視点からみて「あってはならない差別」であり、過去には「許された」のだとしても、現在では許されません。
2021年のこの時代においても「許される差別」にはどのようなものがあるのでしょう。そして、「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
これは皮肉で言っているのではなく、いったいどんな「差別」が「許される差別」になるのか私にはまるで見当がつきません。そこで、ネット検索してみました。しかし、どれだけ調べても「許される差別」が何なのかがまったく分からず、ただひとつの例も見つかりません。
「許される差別」の定義がはっきりしない以上は、「許されない差別」の定義も定めることができません。「差別=すべて許されない」なら筋が通りますが、論理的に「許されない差別」の存在を認めるには「許される差別」の存在を証明しなければならないからです。
「許される差別」......、いったいそんな差別がどこにあるのでしょうか。もしかすると自民党保守派の人たちが読むメディアを読めば分かるかも。そう考えて調べてみると、見つかりました!
「週刊新潮」2021年6月10日号に「マイノリティ擁護のあまり「不寛容」を招く「LGBT法案」」というタイトルの記事がありました。執筆したのは自民党保守派の西田昌司氏です。この記事で西田氏は「許される差別」について2つの例を挙げて示しています。それらを紹介しましょう。
1例目:ある男性国会議員の話
学生の頃、同姓の同級生から「好きだ」と恋愛感情を打ち明けられた男性。彼は戸惑って、その同級生と少し距離ができた。「差別は許されない」と法律で縛ると、この違和感を覚えたことがダメとなりかねない。(違和感を覚えるのは「許される差別」だ)
2例目:女性トイレに先に入っていた女性の話
見た目が男性の(トランスジェンダー女性の)人が女性トイレに入って来たとき、先にトイレに入っていた女性はその人を見て「えっ」を不安に感じるかもしれない。もしも「差別は許されない」という法律ができたら、この「不安」が許されないことになる恐れが出てくる。(不安を感じるのは「許される差別」だ)
「週刊新潮」という週刊誌、歴史のある超一流の雑誌だと私は思っています。私は、この雑誌の記事自体はあまり読まないのですが、いくつかの連載コラムや小説を楽しみにしています。いくつかのコラムは超一流のコラムニストたちによるものでとても読み応えがあります。ちなみに、知人のジャーナリストによると、週刊誌の読者は大きく2つの層に分かれるそうです。私のように連載コラムを中心に読む層と、特集記事を楽しみにしている層です。
話を戻しましょう。日本を代表する週刊誌にこんな記事が載せられたことが私には残念でなりません。この文章、少し読めば理論的におかしいことがすぐに分かります。
西田議員が言っている「差別」とは、その人が「何を感じたか」に過ぎません。1例目の男性が男性から告白されて違和感を覚えるのはその男性にとって「自然なこと」です。同じようにトイレに先に入っていた女性がトランスジェンダーの人をみて「不安」に思うのもやはり「自然なこと」です。
ちなみに、私が初めて黒人をみたのは18歳の夏、1987年の沖縄のコザ(現・沖縄市)でした。当時の私はアルバイトで沖縄に駐在しており、ある日の日が暮れかけた時間帯にコザの細い道をひとりで歩いていると、いきなり黒人がその道に面した店から出てきました。生まれて初めて見た黒人は米兵で、身長は190cm以上、体重も優に100kgを超えていました。その黒人に至近距離で睨みつけられた私は恐怖で足がすくみました。さて、女子トイレの女性が「差別」をしたのなら、このとき私も「差別」をしたのでしょうか。
西田氏が完全に勘違いをしているのは(もしくは分かっていて詭弁を宣っているのは)「差別は言動・行動にうつして初めて差別になるわけで、人が何を感じるかはその人の自由」という基本を無視していることです。
例えば、憎らしいと感じる同僚がいたとして、「憎らしい」と感じるのも「辞めてほしい」と考えるのも、あるいは「殺したい」と思ったとしてもこれは罪にはならないどころか、他人が干渉できない「自由」です。殺す計画を立てるのも自由ですし、殺すための包丁を買っても行動にうつさなければ罪にはなりません。
もう一例挙げましょう。ペドフィリアの小学校教師がいたとして、生徒の更衣を覗くのは犯罪ですが、自宅で生徒の裸を想像して自慰行為に耽るのは罪にはなりません(やめてほしいですが)。
国会議員の先生方にはまず「差別」の定義からおさらいしていただきたいと思います。細部については辞書を見てもらうこととして、ここでは最重要事項を確認しておきます。「差別」とは「思うこと」ではありません。そうではなく「差別」とは「行為」を指します。セクシャルマイノリティが嫌いであったとしてもそれは差別ではありません。セクシャルマイノリティであることを理由に、平等に付与されなければならない権利を奪う行動が差別になるわけです。
最後に一点補足しておきます。週刊新潮の記事で、西田議員は故・西部邁氏の言葉を引き合いに出し、自身の説を正当化しようとしています。私自身も西部氏の影響を大きく受けていますが、私の場合は氏の思想に共鳴するからこそセクシャルマイノリティの人権を擁護せねばならないと考えています。
参考:(医)太融寺町谷口医院マンスリーレポート2018年3月「無意味な「保守」vs「リベラル」」
その理由として、「差別は許されない」という表現が自民党保守派の人たちに受け入れられなかったから、と報じられています。報道を何度読んでも私にはこの内容がよく理解できません。
「差別は許されない」が許されないなら、「差別は許される」のでしょうか。もちろん、そういうわけではないでしょう。例えば、被差別部落出身者には大学受験の資格がない、などといった差別が許されるはずがありません。
では、自民党保守派の人たちからみて「差別は許されない」の何がいけないのでしょうか。各紙の報道をよく読むと、「行き過ぎた差別禁止の政治運動につながる」から「差別は許されない」そうです。「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
私には、皆目見当がつきません。差別は禁止しなければならないものであり、許されないものです。おっと(この言葉、文章のなかでは使いたくなかったのですが他に適当な表現がみあたりませんでした......)、思わず「差別は許されない」と言ってしまいました。
「差別は許されない」が許されないとは何を意味するのかを理解するには、まずは自民党保守派の人たちの立場に立つのがいいでしょう。「差別が許されない」という表現を認めないということは、自民党保守派にとっては「許される差別」があるはずです。まず、それについて考えてみましょう。
ん?(この言葉も使いたくなかったのですが......、以下同文)「許される差別」とはどのようなものなのでしょう。「許された差別」なら分かります。男女雇用機会均等法の前の男女差別、黒人に選挙権がなかった頃の人種差別、あるいは江戸時代の身分差別なども該当するでしょう。しかし、それらは現在の基本的な人権の視点からみて「あってはならない差別」であり、過去には「許された」のだとしても、現在では許されません。
2021年のこの時代においても「許される差別」にはどのようなものがあるのでしょう。そして、「行き過ぎた差別禁止の政治運動」とは何なのでしょうか。
これは皮肉で言っているのではなく、いったいどんな「差別」が「許される差別」になるのか私にはまるで見当がつきません。そこで、ネット検索してみました。しかし、どれだけ調べても「許される差別」が何なのかがまったく分からず、ただひとつの例も見つかりません。
「許される差別」の定義がはっきりしない以上は、「許されない差別」の定義も定めることができません。「差別=すべて許されない」なら筋が通りますが、論理的に「許されない差別」の存在を認めるには「許される差別」の存在を証明しなければならないからです。
「許される差別」......、いったいそんな差別がどこにあるのでしょうか。もしかすると自民党保守派の人たちが読むメディアを読めば分かるかも。そう考えて調べてみると、見つかりました!
「週刊新潮」2021年6月10日号に「マイノリティ擁護のあまり「不寛容」を招く「LGBT法案」」というタイトルの記事がありました。執筆したのは自民党保守派の西田昌司氏です。この記事で西田氏は「許される差別」について2つの例を挙げて示しています。それらを紹介しましょう。
1例目:ある男性国会議員の話
学生の頃、同姓の同級生から「好きだ」と恋愛感情を打ち明けられた男性。彼は戸惑って、その同級生と少し距離ができた。「差別は許されない」と法律で縛ると、この違和感を覚えたことがダメとなりかねない。(違和感を覚えるのは「許される差別」だ)
2例目:女性トイレに先に入っていた女性の話
見た目が男性の(トランスジェンダー女性の)人が女性トイレに入って来たとき、先にトイレに入っていた女性はその人を見て「えっ」を不安に感じるかもしれない。もしも「差別は許されない」という法律ができたら、この「不安」が許されないことになる恐れが出てくる。(不安を感じるのは「許される差別」だ)
「週刊新潮」という週刊誌、歴史のある超一流の雑誌だと私は思っています。私は、この雑誌の記事自体はあまり読まないのですが、いくつかの連載コラムや小説を楽しみにしています。いくつかのコラムは超一流のコラムニストたちによるものでとても読み応えがあります。ちなみに、知人のジャーナリストによると、週刊誌の読者は大きく2つの層に分かれるそうです。私のように連載コラムを中心に読む層と、特集記事を楽しみにしている層です。
話を戻しましょう。日本を代表する週刊誌にこんな記事が載せられたことが私には残念でなりません。この文章、少し読めば理論的におかしいことがすぐに分かります。
西田議員が言っている「差別」とは、その人が「何を感じたか」に過ぎません。1例目の男性が男性から告白されて違和感を覚えるのはその男性にとって「自然なこと」です。同じようにトイレに先に入っていた女性がトランスジェンダーの人をみて「不安」に思うのもやはり「自然なこと」です。
ちなみに、私が初めて黒人をみたのは18歳の夏、1987年の沖縄のコザ(現・沖縄市)でした。当時の私はアルバイトで沖縄に駐在しており、ある日の日が暮れかけた時間帯にコザの細い道をひとりで歩いていると、いきなり黒人がその道に面した店から出てきました。生まれて初めて見た黒人は米兵で、身長は190cm以上、体重も優に100kgを超えていました。その黒人に至近距離で睨みつけられた私は恐怖で足がすくみました。さて、女子トイレの女性が「差別」をしたのなら、このとき私も「差別」をしたのでしょうか。
西田氏が完全に勘違いをしているのは(もしくは分かっていて詭弁を宣っているのは)「差別は言動・行動にうつして初めて差別になるわけで、人が何を感じるかはその人の自由」という基本を無視していることです。
例えば、憎らしいと感じる同僚がいたとして、「憎らしい」と感じるのも「辞めてほしい」と考えるのも、あるいは「殺したい」と思ったとしてもこれは罪にはならないどころか、他人が干渉できない「自由」です。殺す計画を立てるのも自由ですし、殺すための包丁を買っても行動にうつさなければ罪にはなりません。
もう一例挙げましょう。ペドフィリアの小学校教師がいたとして、生徒の更衣を覗くのは犯罪ですが、自宅で生徒の裸を想像して自慰行為に耽るのは罪にはなりません(やめてほしいですが)。
国会議員の先生方にはまず「差別」の定義からおさらいしていただきたいと思います。細部については辞書を見てもらうこととして、ここでは最重要事項を確認しておきます。「差別」とは「思うこと」ではありません。そうではなく「差別」とは「行為」を指します。セクシャルマイノリティが嫌いであったとしてもそれは差別ではありません。セクシャルマイノリティであることを理由に、平等に付与されなければならない権利を奪う行動が差別になるわけです。
最後に一点補足しておきます。週刊新潮の記事で、西田議員は故・西部邁氏の言葉を引き合いに出し、自身の説を正当化しようとしています。私自身も西部氏の影響を大きく受けていますが、私の場合は氏の思想に共鳴するからこそセクシャルマイノリティの人権を擁護せねばならないと考えています。
参考:(医)太融寺町谷口医院マンスリーレポート2018年3月「無意味な「保守」vs「リベラル」」