GINAと共に

第170回(2020年8月) コロナ禍で消えたタイの「沈没組」

 新型コロナウイルスの対策にタイは成功しています。一人目の感染者が見つかったのは2020年1月13日で、中国以外では最初の感染者だっただけに、タイは中国に次いでパンデミックを起こすのではないかと言われていましたが、その後、強力な政策をとったことにより見事に感染抑制に成功しています。8月下旬の現在で、総感染者数はわずか3千人程度、死亡者も50人程度です。

 タイが見事だったのは、いわゆるロックダウンを実施し、夜間外出禁止令を発令し、県境をまたぐことを禁止したものの、それでも大きな暴動や犯罪が起こることもなく、住民たちは協力しあい、感染を抑制することに成功しているからです。もっとも、そのために払った犠牲も大きく、事実上の"鎖国"となりましたから経済は大きなダメージを受けています。観光業界は(それは"闇の観光"も含めて)大打撃です。

 本来なら私自身もGINA関連の施設を訪れるために今月渡タイする予定でしたが、キャンセルせざるを得ませんでした。しかもチケットをとっていたのはエアアジア。あまりこのサイトで一般企業の悪口を言いたくはありませんが、結論からいえばチケット代が戻ってくる見込みはほぼゼロです。

 さて、このコロナ禍で私が心配したのはGINAがサポートしているHIV陽性者よりも、むしろ長期滞在している日本人です。日本人といっても現地駐在の人たちは何も心配いりませんし、現地採用の人たちもいったん帰国してしまうと再びタイに戻れるかどうかわからないというリスクはありますが解雇されなければ問題ないでしょう。問題が多いにあるのがいわゆる「沈没組」の人たちです。

 「沈没組」については過去のコラム「悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~」でも述べましたので、そちらも参照いただきたいのですが、簡単に言えば日本社会からドロップアウトし、仕事もせずにタイで長期滞在し薬物や買春に耽溺している人たちのことを指します。

 そのコラムで述べたように、全員がいかにもドロップアウトしそうな人たちかというと、そういうわけでもなく、高学歴者も少なくなく、前職が大手企業や学校の先生という人たちもいます。薬物や買春の良し悪しは置いておいて、魅力的な人たちも少なくありません。

 彼らがビザも持っていないのにタイに長期滞在できるのは、定期的に一時隣国に抜け出して再入国するからです。ラオスやカンボジアあたりにいったん入国し、そしてまたタイに戻ってくるという方法を繰り返すのです。しかし、新型コロナの流行で隣国への行き来はできなくなりましたからこの方法は使えません。ビザを持っていない彼らはタイに長期滞在することはできません。他国に入国するにもほぼすべての国は入国制限を引いています。つまり、沈没組の彼らは帰国するしかないわけです。

 私が初めてこういった沈没組(この呼び方が失礼なのは承知していますが便宜上このまま続けさせてもらいます)の人たちと仲良くなったのは2004年で、それから知人を紹介してもらうなどで次第にこういった人たちの知り合いが増えていきました。しかし、消えていく人、つまり連絡が取れなくなる人も増えていきます。というのは、薬物にどっぷりとつかっている人は突然連絡が取れなくなることがよくあるのです。2年くらいしてから突然連絡が来ることもあるのですが、こちらからメールや電話をしても一向に連絡がつかないこともあります。

 ここ数年は新しい沈没組の人と知り合うこともなくどんどんと知り合いが減っている状態でした。それでも数人は連絡がつくはずなので3月以降連絡先のわかる全員にコンタクトをとったのですが、返答はゼロです。つまり、誰とも連絡がとれなくなったのです。

 彼らは今どこにいるのでしょうか。失礼ながら想像させてもらうと次のいずれかに該当するはずです。

#1 他界している

 率直に言って何人かは他界していると思います。コロナ流行前から「〇〇は死んだよ」という話を沈没組の人たちから聞くことは珍しくありませんでした。実際にはほとんどは薬物の中毒死だと思うのですが、タイでは外国人が死んでもきちんと死体の検証がされているとは言えません。心臓が止まっているという理由で"心不全"という死因にされていたり原因不明の死亡ということで片付けられていることが多いと聞きます。また、自殺というケースもあります。こういったことを私は警察や検察から聞いたわけではなく、沈没組の人たちの噂に過ぎませんが、死亡している人がいるのは事実だと思います。

#2 日本に帰国している

 これを望みたいですし、何人かは日本で生きていると思います。だから彼らから連絡が来ることを私はまだ期待しています。沈没組の人たちは、こちらから連絡しても何の音沙汰もなく忘れた頃に連絡してくることがよくあるからです。しかし、長年タイで耽溺していた人が日本で仕事をするのはとてつもなく困難です。社会復帰は極めて難しく、おそらく日本で薬物に手を出して、命を落とすこともあると思います。

#3 タイ、またはラオスやカンボジアで生きている

 現在のタイで許可なし(ビザなし)で滞在するのは困難ですが、捕まらなければ不法滞在者として生きている可能性があります。また、ラオスやカンボジアでもいったん入国してしまえば不法滞在ができるかもしれません。特にここ数年のラオスは薬物が入手しやすく物価も安いために沈没組がタイから"移住"しているという話も聞きます。しかし、健康な暮らしをしているとは考えにくく、いずれ命を危険にさらすことになるでしょう。

 さて、ここまで読まれて不快な気持ちになった人も少なくないのではないでしょうか。「あんた医者なら何とかしろよ」と思う人が大半でしょう。しかし、薬物依存症の場合(大麻は除きます)、医者が正論を述べることで薬物をやめられる人など皆無です。有効な治療法があるわけでもありません。(狭義の)麻薬、つまりヘロインやモルヒネの場合はメサドン療法という治療法がありますが(これも必ず成功するわけではありません)、日本人の場合、摂取する薬物にたいてい覚醒剤(メタンフェタミンまたはアンフェタミン)が入ります(注1)。これまで、日本でもタイでも覚醒剤依存症の人たちを(それは日本人も外国人も)数多くみてきましたが、私の知る範囲で言えば社会復帰できた人はごく少数です。ですから、私個人が考える「最も有効な覚醒剤対策」は、このサイトで繰り返し述べているように「初めから手を出さない」です。

 しかし私のこの考えはあまり支持されません。「初めから手を出さない」を強調しすぎると、依存症で苦しんでいる人たちが患者ではなく犯罪者になってしまうからです。たしかに、苦しんでいる人が犯罪者のようにみなされることは避けねばならず、依存症になった人たちの立場に立って治療を考えていかねばならないのは自明です。そういった治療に尽力している医療者も少なくなく、そして実際に実績をあげています(注2)。

 ただ、私個人の印象でいえば、そこまでたどりつける人はいわば「エリートの患者」です。タイで沈没していた人たちに、日本に帰国して治療を受けようと説得することは私には無理でした......。

 一方、私自身がこれまでの人生で、それは10代の頃のことや医学部入学前のことも含めて、度重なる違法薬物の誘惑を断ち切ってこられたのは、子供の頃にみた「覚醒剤やめますか。それとも人間やめますか」のCMです。子供の頃に植え付けられた恐怖がその後の人生を正しく導いてくれることもあるのです。

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注1:このサイトで繰り返し述べているようにタイでは覚醒剤がものすごく簡単に入手できます。タクシン政権の頃は取締が厳しくなり、日本の方が簡単、と言われていましたがその後は再びタイの方が入手しやすくなっています。品質のよくない「ヤーバー」(「馬鹿の薬」という意味)はもちろん、純度の高いアイス(タイ人は「アイ」と発音します)もほとんど誰でも入手できます。タイの政治はいつから狂ったのか、過去のコラムでも紹介したように法務大臣が「覚醒剤の依存性はアルコールやタバコよりも低いから合法にすべき」と発言しています。

注2:SMARPP(Serigaya Methamphetamine Relapse Prevention Program)と呼ばれる治療プログラムが有名です。精神科医の松本俊彦医師が考案した治療法で認知療法に基づいています。松本医師は大変熱心な先生で私は講演を聞きに行ったこともあります。私は松本医師の考えに賛同しますが、本文で述べたようにタイで沈没しているような人たちにSMARPPに参加してもらうのは極めて困難だと思っています。

参考:GINAと共に
第120回(2016年6月) 悲しき日本の高齢者~「豊かな青春、惨めな老後」~
第116回(2016年2月) 「盗聴」に苦しむ覚醒剤中毒者
第13回(2007年7月号)「恐怖のCM」