GINAと共に

第167回(2020年5月) 「差別」と「承認欲求」は根源が同じ

 新型コロナが流行りだしてメディアの取材を受ける機会が増えてきました。特定の治療や薬の宣伝につながるような取材は以前から断っているのですが、コロナの場合はむしろ世間が誤解していることを解きたいという思いもあり、半分くらいは受けるようにしています。

 そのなかで印象に残ったテレビ番組のことを紹介しましょう。その番組は全国放送で、しかも視聴率が高いそうです。担当の記者から「新型コロナに関する差別について意見を聞かせてほしい」という依頼を受けました。そこで、実際に経験した差別があった事例、例えば「他院で熱があるだけで受診拒否された」「明らかに新型コロナの疑いがあったのに保健所では検査を拒否され病院でも門前払いされた(そして結局陽性だった)」「中国帰りというだけで受診を拒否された」といった事例などを患者のプライバシーを確保した上で話しました。

 当然私としては「新型コロナに伴う差別は許しがたい」という内容の番組をつくってもらえるものと思っていました。ところが、です。完成した番組を見てみると、たしかに差別を取り上げてくれてはいたのですが、「差別する気持ちもわかる」というコメントが繰り返し入っていたのです。

 なぜ差別する者をかばうのか......。私にはこれが理解できずその記者に尋ねてみました。「差別する者も理解しないと解決しない」というのがその答えでした。

 しかし私にはその答えでは納得ができません。あきらかに間違った差別をする者を許す理由はありません。今回は新型コロナに伴う差別問題をひとつひとつ取り上げるのではなく、「人はなぜ差別をするのか」という根本的な問題を考えてみたいと思います。しかし、この切り口で考えると学問的なつまらないものになりそうなので、「なぜ私自身が差別を許せないのか」という自分自身のことに対して私見を述べたいと思います。

 私が生涯をかけてでもHIV/AIDSに伴う差別を解消したいと"考えた"のは2002年。初めてタイのエイズ施設を訪れたときでした。当時のタイはまだ抗HIV薬がなく誤解がはびこっていて、家族から、地域社会から、そして病院からも追い出されて行き場をなくした人たちが大勢いました。食堂に入ろうとするとフォークを投げつけられた、バスから引きずり降ろされたといったエピソードは掃いて捨てるほどあり、両親がHIVの赤ちゃんがそのあたりに捨てられていて......、という話も珍しくありませんでした。

 私は今、差別を解消したいと"考えた"と言いましたが、正確には理性的に考えたのではなく、身体の奥からメラメラと燃え上がるような衝動を抑えられなかったというのが本当のところです。しかし、よく考えてみると、こういった悲惨な差別の状況を私と同じように知ったとしても何の行動もしない人もいるわけです。というより、そういう人の方が圧倒的に多いわけで、私のように「生涯をかけてでも......」と思う方が奇特なのです。

 私がかつて出版した本に『医学部6年間の真実』というものがあります。そのなかで、学生時代に研究から臨床に転向した私が取り組みたいと考えたのが(私は医学部入学当時、医師になるつもりはなく研究者を目指していました)、「病気で差別されている人たちの力になること」と書いてあります。どうも私は「差別」というものに人生を左右されているようです。

 そういうわけで、昔から「自分の考えが正しいかどうかは別にして、なぜ私は差別というものにこれほど心を揺さぶられるのか」というのが不思議でした。「差別解消に立ち向かう」と言えば聞こえはいいですし、間違ってはいないでしょうが、本当に差別されている人のためだけなのか、もしかすると単なる自己満足ではないのか、という気持ちは今もあります。

 そんな私が差別以外のことで「自分は世間からズレているかもしれない」と昔から気になっているのが「出世や名誉にまるで興味が持てない」ということです。出世を求める会社の上司に幻滅したエピソードは太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)のコラム「競争しない、という生き方~その2~」で述べました。そもそも、私は就職時(1991年)に空前の好景気であったにも関わらず、有名企業への就職などは初めから眼中になく、非上場の無名な会社に就職しました。ゼミの仲間は私の行動を不思議がっていましたが、そもそも私は彼(女)らと異なり、会社名をまるでブランドのようにとらえるそういうセンスが理解できませんでしたし、大企業で競争にさらされる人生が楽しいとは到底思えなかったのです。

 もうひとつ私が「世間からズレているかもしれない」と以前から気になっているのは「お金儲けに興味が持てない」ということです。今述べた就職活動でも、会社が無名というだけでなく、おそらく年収も大企業に比べれば相当低いところに就職しました。その会社をやめた理由も企業人としてのステップアップではなく「大学院進学を目指す」というものでした。結局、医学部受験に方向転換しましたが、当初は社会学部の大学院を目指していたのです。しかし、医学部に入学したのはいいものの、研究の道は(センスも能力もないことを思い知らされ)臨床に変更せざるを得ませんでした。

 医師になってからも大病院に就職したり、大学に戻って教授を目指したりすることには一切の興味がありませんでした。そして、自分のやりたい医療を実践するために開業することにしました。「開業すると最初はお金がかかるけどいずれお金持ちになれますね」といったことを過去に100回以上聞きましたが、私はクリニックを開業するときもお金をかけていませんし(用意したのは300万円だけです)、今も収入は多くありません(おそらく医師のなかでは下位10%に入っていると思います)。利益を追求すればできるのかもしれませんが、そういうことにはまるで興味が持てないのです。そもそも医療で利益を得るのはおかしい(患者さんの中には貧困で苦しんでいる人も少なくない)というのが私の考えです。

 私には自分のためにお金を稼ごうという意欲がまるで湧きません。ただ、念のために付記しておくと「お金がいらない」とか「お金がなくても幸せ」と言っているわけではありません。タイで「その日に食べるものの確保ができない人たち」を大勢みてきたからです。お金は必要ですが、ある程度の収入で楽しく暮らすことはできます(このあたりは太融寺町谷口医院の過去のコラム「なぜ「幸せ」はこんなにも分かりにくいのか」でも述べました)。

 ここ数年よく聞く言葉に「承認欲求」というものがあります。これも谷口医院の過去のコラム「「承認欲求」から逃れる方法」で述べたことがあります。私が言いたいのは「承認欲求なんて捨ててしまえばいい。変わらざる自己があればそんなものは不要」ということです。

 さて、これまで述べてきたように、私が他人と感覚がズレているかもしれないと感じているのは「差別が許せない」「出世や名誉に興味がない」「お金にも興味がない」「承認欲求がない」ということなどです。そして、最近は、これらはすべてがつながっているのではないか、と思うようになってきています。それぞれの言葉を、角度を変えてみてみると次のようになります。

差別が許せない → 自分が上の立場にいたいという気持ちが理解できない
出世や名誉に興味がない → 上の立場になることや他人から尊敬されることに興味がない
お金に興味がない → お金で他人より優位に立つことに興味がない
承認欲求がない → 他人からどう思われるかということに興味がない

 完全な平等主義を支持しているわけではありませんが、私は「自分が他人より優れている」と考える人を理解できません。自分を卑下する必要はありませんが、他人より優れているはずとする理由はどこにもありません。これを私が最も強く実感したのが初めてタイのエイズ施設を訪れたときです。実際に患者さんに会うまでは「かわいそうな人たち」という気持ちがどこかにあったのですが、患者さん達と話しているうちにそのような気持ちは吹っ飛びました。代わりに出てきた感情は「自分が医師であなたが患者なのは単に運によるものだ」というものです。つまり、"たまたま"私が医師であなたが患者であるだけの話で、この役割が正しくて逆が正しくないことは自明でない、ということです。

 これには反論があるでしょう。例えば、努力して出世するのはいいことではないか、という考えです。私はそうは思いません。努力を否定するわけではありませんし、私自身は努力を生涯続けるつもりです。しかしながら、生まれつき努力が苦手という人もいますし、小学校にも行かせてもらえなかった(当時のタイの患者さんにはそういう人たちが多かった)人たちに「努力せよ」などと言えるでしょうか。

 私は「他人より自分が優れている」と考える人に我慢がなりません。そして、おそらく私のこの"感覚"は生まれ持ってのものであり、これからも変わることはないでしょう。ということは、私は生涯を通して差別に対して立ち向かっていくということになります。