GINAと共に
第160回(2019年10月) HIV内定取消病院の呆れるコメントと3つの「新常識」
HIV陽性のソーシャルワーカーの内定を取り消した無知な病院があることを過去のコラム(「GINAと共に」第156回(2019年6月)「なぜかくも馬鹿げた裁判がおこなわれたのか」)で取り上げました。このような内定取り消しをしたこと自体が、自分たちが無知であることを示す「恥さらし」であり、直ちにこの病院は和解に応じるべきだということをそのコラムで述べました。
しかし病院は和解に応じず結局裁判がおこなわれ、当然のことながら原告(内定を取り消されたソーシャルワーカー)が勝訴しました。すると、この病院は謝罪するどころか考えられないようなコメントを発表しました。呆れて物が言えない、というレベルの言葉です。ここに抜粋して紹介しましょう。
(前略)判決が言い渡されましたが、法人として到底、納得できるものではない結果となりました。私どもはあくまで原告が虚偽の発言を複数回にわたり繰り返したことにより信頼を失い、職員としての適正に欠けたための「採用内定取消し」の考えは一貫して変わっておりません。(中略)そのこと(HIV)に対する「差別」や「偏見」といった考えはないことは明白であることを申し添えます。
同院によれば、HIVに対する差別や偏見はないそうです。ならば、なぜ裁判では「流血感染のおそれがある」と繰り返し主張したのでしょう。裁判の様子を細かく伝えた『HUFFPOST』の記事によると、差別としか言いようのない言葉が病院の弁護士から浴びせられています。弁護士の一部の言葉を報道から引用してみます。
「感染していない人がね、感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」
「あなた以外の他の人は、自分自身を感染から守っちゃいけないんですか?」
「精神疾患のある、頭の変な患者から殴られたりしてそういうことが起きたときに、あなたが病気を持っている情報がなければ何も対策できないですよね」
これらの言葉が差別でなくてなんなのでしょう。当然のことながらソーシャルワーカーの業務で流血することはありませんし(大地震などが起こればありうるかもしれませんが)、たとえ流血してその血液が他人に触れたとしても、このソーシャルワーカーの場合きちんと治療を受けていますから他人に感染させることはあり得ません。この事実は我々医療者であれば「常識」なのですが、この病院及びその代理人はそんな基本的なことさえ知らないことが白日の下に晒されたわけです。
これだけ差別的な発言をしておきながら、同院は「HIVに対する差別はない」「内定取り消しの理由は原告が虚偽の発言をしたからだ」と開き直っているわけです。これが詭弁であることは明白であり、こんなことを宣うくらいなら「当院では裁判で弁護士が主張したように職員をHIV感染させたくなかったんです」と正直に言った方がずっとましです。
さて、きちんと治療をうけている場合、「HIV陽性者の血液に触れても感染しない」、さらに(本事件とは無関係のことですが)「コンドームなしの性交渉(unprotected sexでも感染しない」というのは我々医療者にとっては「常識」ですが、一般の方はそうは思っていないかもしれません。だからこそ、こういったことを伝えるのがメディアの仕事ではないでしょうか。
ですがこの内定取り消し事件を報じた各メディアの一連の報道をみてみると、もちろん誤ったことを伝えているわけではないのですが、もう一歩踏み込んで現在のHIVの「常識」について啓発してほしいという気持ちが拭えません。そこで、今回はポイントを絞り、「3つの新常識」について述べたいと思います。
まず1つめの常識は「きちんと治療を受けていればコンドームなしの性行為(unprotected sex)でも針刺し事故でも感染しない」ということで、これを世界的には「U=U」と呼びます。最初の「U」は「undetectable(検出されない)」、後の「U」は「untransmittable(感染しない)」です。つまり、きちんと薬を内服していれば血中ウイルス量をゼロにできる(つまり「検出されない」)わけで、その状態が一定期間持続していれば感染は起こりえないのです。「U=U」はUNAIDS(国連合同エイズ計画)が2018年7月20日に公表した概念で、すでに世界的には「常識」となっています。
今回の内定取り消し事件を報道したメディアのなかで「U=U」を取り上げたのはわずか1件だけです。ちなみに、この1件は毎日新聞「医療プレミア」の連載で私が書いたコラム「HIV感染者の内定取り消しで問う「医療者の姿勢」」です。こう書くと"自慢話"のように聞こえますが、「U=U」について記載したのは私自身ではなく毎日新聞の編集者です。私自身もオリジナルの原稿では「U=U」について触れなかったのですが、これは時期尚早だと考えたからです(なんだか言い訳になってます......)。
2つめの常識は「PrEP」と呼ばれる「曝露前予防」(pre-exposure prophylaxis)です。これはこのサイトの過去のコラム(第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」)でも紹介しましたが、いまだに日本では普及していません。HIVのPrEPとは、例えばパートナーがHIV陽性者の場合、毎日抗HIV薬を内服することで感染が防げるという方法です。先に紹介した「U=U」なら不必要ではないか、と思われる人もいるでしょうが、例えば治療開始直後の場合、「undetectable」(ウイルスが検出されない)が持続していることを確認できるまでにしばらく時間がかかることがあり、この間だけPrEPに頼るのです。あるいは(倫理的な問題はさておき)「複数のパートナーがいる」「セックスワークをしている」という状況にいるため利用しているという人もいます。
3つめの常識は「HIV診療の現場」です。これは全員が知っておく必要はないかもしれませんが、HIVをよりよく理解していただくために社会に周知してもらうべきだと私は考えています。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではほぼ毎日HIV陽性の患者さんが受診されます。彼(女)らは抗HIV薬はエイズ拠点病院で処方されており、谷口医院を受診するのはそれ以外のことです。その受診理由が谷口医院開院時の2007年と比べると現在は随分と変わってきています。昔は「抗HIV薬の副作用が出た」「薬局で売っている薬や(歯科医院などで)処方された薬と抗HIV薬の飲み合わせについて教えてほしい」という相談が多かったのですが、現在こういう内容の悩みはあまり聞きません。薬が劇的に改良され1日1回1錠のみというケースも増えてきています。副作用も大きく減少し、さらに、一昔前は複雑だった薬の飲み合わせが現在はかなり簡単になってきています。
これらに代わって増えてきている相談が「生活習慣病」です。HIV陽性者の死因がエイズであったのは遥か昔のことであり、現在はHIV関連疾患で他界することはほとんどありません。代わって問題になっているのが「生活習慣病」です。HIVに感染していると、たとえ「U=U」の状態であったとしても動脈硬化が起こりやすくなります。したがって、HIV陰性者よりも厳しいレベルで生活習慣の改善が必要となり、高脂血症や高血圧症、糖尿病をコントロールしていく必要があります。そして、HIV陽性者は(なぜか)喫煙者が多く、禁煙の重要性を理解してもらって取り組んでいかねばなりません。さらに、過去のコラム(第117回(2016年3月)「HIVに伴う認知症をどうやって予防するか」)で述べたように、HAND(HIV-associated neurocognitive disorders)(HIV関連神経認知障害)と呼ばれる神経疾患の予防も必要となり、禁煙は必須となります。
つまるところ、谷口医院を受診しているHIV陽性者に我々が供給している医療というのは、大半は生活習慣病の指導と治療、禁煙治療、認知症の予防なのです。「HIVの治療について、抗HIV薬の処方はエイズ拠点病院で実施すべきだが、それ以外は(私のような)総合診療科医が担うべき」ということをここ数年、様々な学会や研究会で主張しています。
流血感染のおそれが......、などと馬鹿なことを言っている北海道の病院は放っておいて、「U=U」「PrEP」「生活習慣病の予防と治療」が現在のHIVの常識であることをこのサイトの読者には知っておいてほしいと思っています。
しかし病院は和解に応じず結局裁判がおこなわれ、当然のことながら原告(内定を取り消されたソーシャルワーカー)が勝訴しました。すると、この病院は謝罪するどころか考えられないようなコメントを発表しました。呆れて物が言えない、というレベルの言葉です。ここに抜粋して紹介しましょう。
(前略)判決が言い渡されましたが、法人として到底、納得できるものではない結果となりました。私どもはあくまで原告が虚偽の発言を複数回にわたり繰り返したことにより信頼を失い、職員としての適正に欠けたための「採用内定取消し」の考えは一貫して変わっておりません。(中略)そのこと(HIV)に対する「差別」や「偏見」といった考えはないことは明白であることを申し添えます。
同院によれば、HIVに対する差別や偏見はないそうです。ならば、なぜ裁判では「流血感染のおそれがある」と繰り返し主張したのでしょう。裁判の様子を細かく伝えた『HUFFPOST』の記事によると、差別としか言いようのない言葉が病院の弁護士から浴びせられています。弁護士の一部の言葉を報道から引用してみます。
「感染していない人がね、感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」
「あなた以外の他の人は、自分自身を感染から守っちゃいけないんですか?」
「精神疾患のある、頭の変な患者から殴られたりしてそういうことが起きたときに、あなたが病気を持っている情報がなければ何も対策できないですよね」
これらの言葉が差別でなくてなんなのでしょう。当然のことながらソーシャルワーカーの業務で流血することはありませんし(大地震などが起こればありうるかもしれませんが)、たとえ流血してその血液が他人に触れたとしても、このソーシャルワーカーの場合きちんと治療を受けていますから他人に感染させることはあり得ません。この事実は我々医療者であれば「常識」なのですが、この病院及びその代理人はそんな基本的なことさえ知らないことが白日の下に晒されたわけです。
これだけ差別的な発言をしておきながら、同院は「HIVに対する差別はない」「内定取り消しの理由は原告が虚偽の発言をしたからだ」と開き直っているわけです。これが詭弁であることは明白であり、こんなことを宣うくらいなら「当院では裁判で弁護士が主張したように職員をHIV感染させたくなかったんです」と正直に言った方がずっとましです。
さて、きちんと治療をうけている場合、「HIV陽性者の血液に触れても感染しない」、さらに(本事件とは無関係のことですが)「コンドームなしの性交渉(unprotected sexでも感染しない」というのは我々医療者にとっては「常識」ですが、一般の方はそうは思っていないかもしれません。だからこそ、こういったことを伝えるのがメディアの仕事ではないでしょうか。
ですがこの内定取り消し事件を報じた各メディアの一連の報道をみてみると、もちろん誤ったことを伝えているわけではないのですが、もう一歩踏み込んで現在のHIVの「常識」について啓発してほしいという気持ちが拭えません。そこで、今回はポイントを絞り、「3つの新常識」について述べたいと思います。
まず1つめの常識は「きちんと治療を受けていればコンドームなしの性行為(unprotected sex)でも針刺し事故でも感染しない」ということで、これを世界的には「U=U」と呼びます。最初の「U」は「undetectable(検出されない)」、後の「U」は「untransmittable(感染しない)」です。つまり、きちんと薬を内服していれば血中ウイルス量をゼロにできる(つまり「検出されない」)わけで、その状態が一定期間持続していれば感染は起こりえないのです。「U=U」はUNAIDS(国連合同エイズ計画)が2018年7月20日に公表した概念で、すでに世界的には「常識」となっています。
今回の内定取り消し事件を報道したメディアのなかで「U=U」を取り上げたのはわずか1件だけです。ちなみに、この1件は毎日新聞「医療プレミア」の連載で私が書いたコラム「HIV感染者の内定取り消しで問う「医療者の姿勢」」です。こう書くと"自慢話"のように聞こえますが、「U=U」について記載したのは私自身ではなく毎日新聞の編集者です。私自身もオリジナルの原稿では「U=U」について触れなかったのですが、これは時期尚早だと考えたからです(なんだか言い訳になってます......)。
2つめの常識は「PrEP」と呼ばれる「曝露前予防」(pre-exposure prophylaxis)です。これはこのサイトの過去のコラム(第119回(2016年5月)「PEP、PrEPは日本で普及するか」)でも紹介しましたが、いまだに日本では普及していません。HIVのPrEPとは、例えばパートナーがHIV陽性者の場合、毎日抗HIV薬を内服することで感染が防げるという方法です。先に紹介した「U=U」なら不必要ではないか、と思われる人もいるでしょうが、例えば治療開始直後の場合、「undetectable」(ウイルスが検出されない)が持続していることを確認できるまでにしばらく時間がかかることがあり、この間だけPrEPに頼るのです。あるいは(倫理的な問題はさておき)「複数のパートナーがいる」「セックスワークをしている」という状況にいるため利用しているという人もいます。
3つめの常識は「HIV診療の現場」です。これは全員が知っておく必要はないかもしれませんが、HIVをよりよく理解していただくために社会に周知してもらうべきだと私は考えています。私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下「谷口医院」)ではほぼ毎日HIV陽性の患者さんが受診されます。彼(女)らは抗HIV薬はエイズ拠点病院で処方されており、谷口医院を受診するのはそれ以外のことです。その受診理由が谷口医院開院時の2007年と比べると現在は随分と変わってきています。昔は「抗HIV薬の副作用が出た」「薬局で売っている薬や(歯科医院などで)処方された薬と抗HIV薬の飲み合わせについて教えてほしい」という相談が多かったのですが、現在こういう内容の悩みはあまり聞きません。薬が劇的に改良され1日1回1錠のみというケースも増えてきています。副作用も大きく減少し、さらに、一昔前は複雑だった薬の飲み合わせが現在はかなり簡単になってきています。
これらに代わって増えてきている相談が「生活習慣病」です。HIV陽性者の死因がエイズであったのは遥か昔のことであり、現在はHIV関連疾患で他界することはほとんどありません。代わって問題になっているのが「生活習慣病」です。HIVに感染していると、たとえ「U=U」の状態であったとしても動脈硬化が起こりやすくなります。したがって、HIV陰性者よりも厳しいレベルで生活習慣の改善が必要となり、高脂血症や高血圧症、糖尿病をコントロールしていく必要があります。そして、HIV陽性者は(なぜか)喫煙者が多く、禁煙の重要性を理解してもらって取り組んでいかねばなりません。さらに、過去のコラム(第117回(2016年3月)「HIVに伴う認知症をどうやって予防するか」)で述べたように、HAND(HIV-associated neurocognitive disorders)(HIV関連神経認知障害)と呼ばれる神経疾患の予防も必要となり、禁煙は必須となります。
つまるところ、谷口医院を受診しているHIV陽性者に我々が供給している医療というのは、大半は生活習慣病の指導と治療、禁煙治療、認知症の予防なのです。「HIVの治療について、抗HIV薬の処方はエイズ拠点病院で実施すべきだが、それ以外は(私のような)総合診療科医が担うべき」ということをここ数年、様々な学会や研究会で主張しています。
流血感染のおそれが......、などと馬鹿なことを言っている北海道の病院は放っておいて、「U=U」「PrEP」「生活習慣病の予防と治療」が現在のHIVの常識であることをこのサイトの読者には知っておいてほしいと思っています。