GINAと共に

第148回(2018年10月) 「新潮45」の休刊で隠れたLGBTの真の問題

 「新潮45」2018年8月号に掲載された杉田水脈議員の記事が物議をかもし、10月号で評論家(?)の小川榮太郎氏が痴漢とLGBTを同列で論じたことが火に油を注ぎました。世間から激しいバッシングを受け同誌は休刊を決めました。

 杉田議員は「LGBTには生産性がない」と述べ、小川氏は「痴漢とLGBTは同じだ」と言ったわけですから、世間の怒りを買うのは当然であり私自身も不快に思いました。ですが、一方では表現の自由がありますし、議論を重ねることで新たな理解が得られることもあるわけですから、私個人としては「新潮45」は休刊ではなく、「杉田・小川氏 vs LGBT当事者たちのディベート」を企画してほしかったと思っています。

 さて、今回LGBTの問題を取り上げたいのは、「新潮45」のせいでLGBTが抱える本当の問題が隠れてしまうことを危惧するからです。「LGBTについて何か言うとややこしいから何も言わないでおこう」という風潮ができあがってしまえば、LGBTに伴う問題の解決が遠のくだけです。今回は、私が医師として感じているLGBTの問題を整理しておきたいと思います。

 ですが、その前に杉田・小川両氏の物議をかもしたコメントに補足をしておきましょう。まず、杉田氏の「生産性」という言葉がややこしくなったのは「生殖性」とごちゃ混ぜになっているからです。LGBTの生殖性がストレートの男女に比べて低い(ただしゼロではない)のは自明です。ですから、はじめから杉田氏は記事のなかで「生殖性」という言葉を使っていればここまで問題は大きくならなかったに違いありません。

 では、杉田氏は簡単な日本語が分からないのか、あるいは編集者が訂正すべきであったのかと言えば、そういうわけではありません。(これは誰かがどこかで言っていたと思いますが)元来、社会学や経済学では医療者が使う生殖性の意味で「生産性」という言葉を用いるからです。ですから(後で述べるように私は杉田氏の"思想"には反対ですが)、この記事は不快ではありましたが、そこまで責められるものではないだろうと感じました。

 一方、小川氏の「痴漢論」は一線を越えてしまっています。痴漢には明らかな被害者がいるわけですからLGBTと同列に論じることはできません。ですが、小川氏の立場に立って考えると(念のために付記しておくと私は小川氏の"思想"に共感していません)、痴漢はしたくてしているわけではなく依存症のひとつであり個人の理性では静止できない、つまり理性で決められるものではないという点でセクシャル・アイデンティティといくらかの類似性があるのではないか、ということが言いたかったのではないかと思います。

 さて、私が考えるLGBTの問題の話に入ります。そもそも私はこの「LGBT」という言葉に違和感を覚えています。「セクシャル・マイノリティ」でいいではないか、と思うのです。なぜLGBTがダメかというと、友人知人にLGBTの人がおらず深く話したことがないという人は、次のように考えてしまわないでしょうか。

・ストレート以外にL(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)、T(トランスジェンダー)の4つのセクシャル・アイデンティティがある。

・レズビアンは生物学的に女性であり、性指向(性の対象)が女性である。

・ゲイは生物学的に男性であり、性指向が男性である。

・バイセクシャルは生物学的に男性であろうが女性であろうが、性指向は両方の性である。

・トランスジェンダーは、生物学的に男性であれば女性、女性であれば男性という性自認(自分の性はどちらかという認識)を持っている

 このように考える人がいるとすればLGBTを正確に理解できません。実際にはこの4つに当てはまらない人も少なからずいるからです。実際、そのあたりをきちんと区別しようという声もあり、「LGBTQIA+」という表記も出てきています。「Q」は「Questioning」の「Q」で、性指向や性自認がはっきりしない人を指します。さらに「Intersex」の「I」、「Asexual」の「A」、さらにこれらに入らないものを「+」で表現しようというものです。ここまでくれば、次は何?と考えてしまわないでしょうか。「セクシャル・マイノリティ」でいいではないか、と私が思う所以です。

 次に、これは上記「Q」に近いものですが、性自認も性指向も含めてセクシャル・アイデンティティがはっきりしないことがあるというだけではなく「流動性」もある場合があります。そして、この流動性にはストレートも含まれます。例えば、私の知人のなかにも、ストレート→トランスジェンダー→レズビアン→ストレート→バイセクシャル→ストレート(だが現在も性自認も性指向も揺れ動いている)という人がいます。

 つまり、セクシャル・アイデンティティはL、G、B、Tという4つのどれかに分類されるわけではまったくないどころか、流動性があり、また「自分でもよく分からない」と答える人が少なからずいるのです。また、「A」の人にはそもそも性指向という概念がないこともあり、このタイプの人に「性指向は?」と尋ねること自体が不快感をもたらすこともあります。

 そして、最も重要なのは、L、G、B、T、あるいはそれ以外のどれになるかは自分では選択できないということです。今の時代、食べる物、着る服、乗る車、仕事、住む国、などは自分の意思で決めることができますが、セクシャル・アイデンティティは自分の意思で決めることができないのです(注1)。これは、ストレートの人が性指向を男性(女性)と"選択"して決めたわけではないことを思い出せば簡単に理解できるでしょう。

 私が杉田議員に同意できない理由はここにあります。杉田氏はあるテレビ番組のなかで「自分も女子高出身だから憧れの先輩がいたり後輩に好意を持たれたりしたことがあるが、やがて本来の性が理解できるようになる」といったことを話していました(注2)。これはまったく的を得ていません。セクシャル・アイデンティティとはそういう次元のものではないのです。

 最後に、私が考える最も重要なLGBTの問題を述べたいと思います。それはストレートの人たちと比べて、精神障害を抱える割合が高く、自殺も少なくなく、いじめの被害にあった体験を持つ人も多い、ということです。「LGBTの自殺率はストレートに比べて6倍」という数字が独り歩きしています。この数字の信ぴょう性は置いておいて、杉田議員は先述のテレビ番組のなかで、司会者から「自殺が6倍という声もあるようですが...」と質問されて、「それがどうしたの?」とでも言わんばかりにあざ笑っているのです。文章では隠せてもテレビではそうはいきません。杉田議員のなかにLGBTを蔑む意識があるように私には感じられます。

 セクシャル・マイノリティのことを完璧に理解するのは困難だと思います。理解しようと努めること自体が、当事者の人たちからうっとうしがられることもあります。「薔薇族」の創刊者、伊藤文學氏は「当事者でないあんたに何が分かる!?」という批判を常に受けていたと聞いたことがあります。

 では我々はどうすればいいのか。月並みな言い方になりますが、性には多様性があることを理解し、自分が標準だと思わないことが重要です。そして、何気ない言葉で他人を傷つけることがあることを知っておくべきです。例えば、彼氏、彼女、結婚、妊娠、出産、お見合い、などという言葉を発しただけで他人を傷つけることもあるのです。

 そしてもっともっとLGBTに対する議論を重ねることが重要です。私が思う「新潮45」の本当の"罪"は、休刊により世間に「LGBTの話題はタブー」と思わせてしまったところにあります。

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注1:実際、特定はされていないものの遺伝的にセクシャル・アイデンティティが決まっている可能性があります。

参考:DNA differences are linked to having same-sex sexual partners

注2:下記を参照ください。
https://www.youtube.com/watch?v=Ci5-FYrrx7U&t=799s