GINAと共に

第140回(2018年2月) 医療者がHIVの針刺し事故を起こしたとき

 2004年7月、タイのエイズ施設でボランティアを開始してちょうど1週間が経過した日、点滴の針をある男性患者さんの左腕に刺入しようとしたその瞬間、男性が突然身体を動かし、針先が男性の皮膚をかすめ、私の指先に刺さりました。

 それまでの研修医時代に針刺しをしたことが何度かありました。採血や点滴での針刺しや手術の際に縫合針を指に当ててしまい出血したこともあります。ですが、日本で針刺ししたのは子供や高齢者だけだったこともあり、念のためにHIVやC型肝炎ウイルス(HCV)に感染していないことをその後の採血で確認しましたが、HCVはともかくHIVに感染することはほぼあり得ないだろうと考え、特に不安になることはありませんでした。

 ですが、エイズを発症している患者さんに対して針刺し事故を起こしたとなると然るべき対処をしなければなりません。私は冷静になって考えてみました。針は男性の皮膚をかすめたが刺さったわけではない。男性も針が触れただけで痛みは感じなかったと言っている。感染の可能性はあるのか...。この段階であれば、たとえHIVが私の体内に入ったとしても直ちにPEP(曝露後予防)を実施すれば感染成立を防ぐことができます。これからPEPとして4週間薬を飲むべきか、あるいは感染の可能性はないと判断していいのか...。

 私は当時ボランティアに来ていたベルギー人の医師に相談しました。「その程度で感染することはありえない。したがってPEPは不要」が、その医師のコメントであり、私もその判断に同意できたためその時は安心しました。

 ところが、です。いったん安心したはずなのに、ふとしたときに‶不安"が蘇ってくるのです。この不安感はときに睡眠や食欲を妨げます。その度に私は冷静になるよう努め、そのときの状況を思い出し、ベルギー人医師の助言を反芻し、理論的に感染の可能性はほぼゼロであることを自分に言い聞かせました。

 その後、不安感は徐々に小さくなっていきましたが、完全にすっきりすることがなかったために、結局私は血液検査をおこないHIVに感染していないことを確認しました。HCVも梅毒もHTLV-1も陰性で、これで完全に安心することができるようになりました。(B型肝炎ウイルス(HBV)はワクチン接種して抗体形成が確認できていますから検査は不要です)

 さて、この私の経験では、理論的に考えて感染しているはずがないと言えるわけですが、感染の可能性が客観的にみて「ある」場合はどうすればいいのでしょうか。例えば、患者さんがHIV陽性の可能性が否定できないケースで、実際に患者さんの血液が付着した針や医療器具が自身に刺さった場合です。医師、歯科医師、看護師、歯科衛生士のみならず、器具を片付ける看護助手や歯科助手、あるいは清掃業のスタッフにも可能性がでてきます。

 日本でも実際に、針刺し事故でのHIV感染による死亡例の報告があります。2001年9月8日の読売新聞によると、東京都内の大学病院の50代男性の清掃作業員が、体調不良で2001年5月に医療機関を受診した結果、HIVに感染しエイズを発症していることが判明しました。治療が間に合わず、その数日後に死亡したと報じられています。報道によれば、この男性は「病院の手術室で清掃中に何回も注射針などで針刺しがあった」と証言していたそうです。

 この男性の感染ルートが本当に手術室での針刺しによるものだったかどうかは調べようがありません。ですが、現在医療業務に従事している者は日々感染のリスクに晒されているのは事実です。過去にも述べたことがあるように、日本では多くのHIV陽性の患者さんは、自身が感染していることを医療者に"隠して"受診しています。それに、自らの感染に気付いていない人も大勢います。

 もしも、針刺しをした患者さんがHIV陽性が確実であれば、その患者さんの血中ウイルス量に関係なくPEPを実施します。そして、これは通常「労災」の適用となります。4週間、毎日同じ時間に(標準的なPEPだと1日2回)薬を飲むのは思いのほか大変ですし、薬の副作用もないわけではありませんが、もしも感染してしまったときのことを考えると、余程のことがない限りPEPは実施すべきです。労災が適用されるわけですから自己負担はゼロです。

 では、針刺しをした患者さんがHIV陽性かどうか不明な場合はどうすればいいでしょうか。一番いいのは、その場で患者さんに事情を話し、採血をさせてもらうことです。ですが、これには2つの問題があります。1つめは患者さんから同意を得るのが困難ということです。「今、針刺しをしてあなたの血液が私の体内に入った可能性があります。あなたがHIV陽性なら私はPEPをしなければなりません。というわけであなたがHIVに感染していないかどうかを調べさせてもらっていいですか」といったことは気軽に言えませんし、言えたとしても、どれだけの人がこの申し入れに同意するでしょうか。

「オレがHIVに感染していると考えてるのか、失礼な!!」、と怒り出す患者さんもいるかもしれません。「HIV? 大丈夫だと思うけど、もし感染していたらどうしよう...。急に検査しろと言われても決心がつかないよ...」と考える人もいるでしょう。

 もうひとつの問題は、患者さんから同意を得て検査を実施し、結果が陰性だったとしても果たしてそれが信用できるか、というものです。長期入院している患者さんなら検査結果は正確でしょうが、例えば入院してまだ1週間とか、あるいは外来の患者さんの場合、検査で陰性だったとしても2週間前に感染していたという可能性が残ります。「2~3週間以内に危険な性交渉はありませんでしたか?」といった質問はそう簡単にできるものではありません。

 実際には、これら2つの理由から、針刺しをすると患者さんの検査をすることなくPEPを開始することもあります。この場合「大きな問題」があります。それは「費用」です。現行のルールでは、針刺しした患者さんがHIV陽性であることを証明できなければ労災が適用されません。ということは、高額な薬剤費(およそ1日1万円)が自己負担となります。大切な従業員のもしものためにクリニック/病院で全額負担する、と考える院長・理事長ばかりではありません。PEPをしたかったら自分のお金ですれば?と冷たく突き放されている医療者が残念ながらいるのです。

 私が院長をつとめる(医)太融寺町谷口医院にもそのような医療者(最多は歯科衛生士、次に多いのが医師と看護師)がときどき受診します。なんと、上司や院長に相談しても取り合ってくれなかったというのです。あるいは、相談してもどうせムダだから...、と言って上司に相談することなく受診する人もいます。

 こういった場合、針刺しをした患者さんがHIV陽性の可能性はどの程度あるのか、そして本当に感染リスクのある針刺しだったのかどうかについて検討することになります。患者さんについては10代後半から70代前半くらいであれば性別、職業、既婚・未婚、見た目の雰囲気などに関わらず感染している可能性はありますから、除外できるのは後期高齢者と小児くらいです。針刺し時の感染リスク評価については、冒頭で述べた私のような体験であれば、ちょうど私がベルギー人の医師に助言をもらったように、心配ないことを説明します。ですが明らかな針刺しの場合はPEPを開始することになります。

 このようなケースでPEPを実施した場合、時間が経過してからでも針刺しをした患者さんにきちんと話をして検査をお願いするよう助言します。先述したように検査に躊躇する患者さんが多いのは事実ですが、時間がたてば許可してくれる人もいます。その検査結果が陰性であった場合、その時点でPEPを中止できます。

 ですが1日およそ1万円の自己負担は短期間であったとしても大変です。労災の基準が変わることを待つのではなく、すべての医療機関が全額負担し、針刺しをした医療者の自己負担をゼロでPEPを実施すべきなのは自明です。現実にそうなっていないのは、医療機関のなかに従業員を大切にしない「ブラック・クリニック/病院」があるからでしょうか...。