GINAと共に

第139回(2018年1月) ポリティカル・コレクトネスのむつかしさ

 2018年1月4日、iPADでBBCのトップページを眺めていた私は、「どこかで見たことある顔...。あっ!浜田さんだ!」と思わず声が出そうになりました。

 ちなみに、私が浜田さんをテレビで初めて見たのは高校3年時の1986年。「今夜はねむれナイト」という深夜番組でした。ダウンタウンを初めて見たときの衝撃は今も忘れられません。私が関西学院大学に入学したのはその数か月後、1987年4月です。同時に「4時ですよ~だ」が始まりました。今の若い人や、私と同年代でも関西以外の人達にはあの頃の「雰囲気」を想像しにくいと思いますが、当時は大阪中が「4時ですよ~だ」を中心に動いていたといっても過言ではありません。5時以降に仲間に合えば「今日の『4時』見たか?」で会話が始まり、翌日学校などでは「昨日の『4時』のあのコーナーが...」という話で持ち切り、という感じです。「4時ですよ~だ」は1989年の秋に惜しまれつつ終了するのですが、この最終回は今も伝説となっています。関西中でどれだけの涙が流れたか...。

 ダウンタウンや当時の若手芸人は当時大阪ミナミの街に出没していて私もよく遭遇しました。特に、私がよく出入りしていた「ヌーバ」という喫茶店では、松本さんや、今田さん、板尾さん、さらに"今はなき"(オールディーズの)栩野さんや(ボブキャッツの)雄大(さん)らも何度か見かけました。しかし、そういえば浜田さんを街で見かけたことはほとんどありません...。1996年に医学部に入学した頃から私はほとんどテレビを見なくなり浜田さんの姿を見ることもほとんどなくなっていました...。

 話をBBCに戻します。BBCのトップページに掲載され全世界で閲覧された浜田さんの顔面には黒人メイクが...。イヤな予感を感じながら文章を読んでみると、やっぱり...。このメイクアップが今は「やってはいけないこと」を日本人が知らない、と指摘する内容でした。

 私は直接確認していませんが、BBCのトップページで取り上げられたくらいですから、このニュースは日本でも報道されているはずです。そして、まず間違いなく「黒人を差別する意図など浜田さんや番組制作者にまったくない。こんなことでマスコミが騒ぐのがおかしいんだ」という意見が日本ではほとんどでしょう。おそらく浜田さんに反省を促すような意見は少なくとも日本人の間では皆無ではないでしょうか。

 少しインテリの人だと、「こういうのをポリティカル・コレクトネス(以下PCとします)と言うんだ。一種の言葉狩りだ。西洋の文化をおしつけるな。我々日本人には日本人の考え方があるんだ」というような意見を述べているかもしれません。

 過去のコラムで私は曽野綾子さんが世界中のメディアからバッシングされたことを引き合いにだし、PCには辟易とする、ということを述べました。曽野さんは異なる文化を持つ人たちと同じアパートに住むのはむつかしいということを述べただけであり差別の意図などまったくありませんでした。私はそのコラムで自分自身の体験を紹介し、曽野さんに完全に同意することを述べ、南アフリカの大使も曽野さんに敬意を払っていることについて言及しました。

 そもそも曽野さんのその文章で本当に不快感をもった当事者(この場合黒人)がいたのか私には疑問です。正確に曽野さんの日本語を"素直に"読めば差別の意図などまったくないことはあきらかです。これは私の推測ですが、おそらく当事者でないPCに"過敏な"人たちが騒ぎ立てたことが事態を大きくさせたのではないでしょうか。
 
 では浜田さんの黒人メイクはどうでしょうか。BBCの記事は、「ミンストレル・ショー(minstrel show)」という単語をキーワードにしています。そしてこの記事のサブタイトルを「このような黒人メイクがおこなわれることで、日本が無知であることがわかる」(Blackface 'makes Japan look ignorant')としています。

 解説しましょう。ミンストレル・ショーというのは、黒人メイクをした白人がおこなうショーのことです。かつては米国のエンターテインメントのひとつでしたが、1960年代後半あたりから人種差別を助長するものとして次第に禁じられるようになりました。現在は、「ミンストレル・ショーはおこなってはいけない」というのが世界のコンセンサスです。

 つまり、BBCが主張しているのは「日本人はミンストレル・ショーの歴史を知らないのか。21世紀のこのご時世に黒人メイクをしていると"無知"だと思われるよ」ということであり、記事には浜田さんのパフォーマンスを支持する意見も多いということが述べられています。

 例えば、英文レターを女性宛てに書くときはMissやMrs.を使わずにMs.と書くのが数十年前から常識になっています。ChairmanでなくChairperson、ビジネスマンでなくビジネスパーソンもすでに人口に膾炙しているでしょう。何年か前に任天堂は米国で発売した「Tomodachi Life」というソフトで同性婚の設定がないことが差別だと言われ謝罪しました。ゲームソフトに「同性婚」の設定をするのが"常識"とまではまだ言えないかもしれませんが、そのうちに当たり前になるでしょう。

 差別というのは極めてデリケートでむつかしい問題です。単純に何が差別で何が差別でないと言い切れるものではありません。先に述べた曽野綾子さんの件でも、本当に曽野さんの文章を読んで差別と感じた当事者(黒人)がいたのなら、曽野さんはその人に向き合って話をすべき場合もあるでしょう。

 また、当事者だけに限定すべきでないかもしれません。過去のコラムでも述べましたが、私は映画「風と共に去りぬ」を見たとき強烈な不快感に襲われました。黒人差別を助長するためにつくられた映画なのか、と思わずにはいられなかったのです。特に主人公の白人女子スカーレット・オハラが黒人のメイドのプリシーをぶつシーンは今思い出しても怒りがこみ上げてきます。なぜこんな映画が高評価を受けているのか、私にはまったく理解できません。この私の"怒り"は心の底から自然に湧き出てくるものであり、理屈で判断したものではありません。ですが、この"怒り"も、「当事者でないお前が言うならそれはPCではないのか」という意見もおそらく出てくると思います。

 ところで、ミンストレル・ショーが始まったのはなぜでしょうか。もちろん黒人差別をするのが意図ではありません。その証拠に、ミンストレル・ショーは白人だけでなく黒人が黒人メイクをしてパフォーマンスをしていたこともあったのです。日本でもラッツ&スター(シャネルズ)が昔は黒人メイクをしていました。もちろん、差別ではなく彼らが黒人とブラックミュージックに敬意を払っていたからです。

 話は変わってLGBTが差別されるのはなぜでしょうか。今や大企業の重役やCEOでLGBTをカムアウトすることは珍しくなくなりアップル社の社長もゲイであることを公表しています。世界のファッションやアートをリードする人たちの何割かはLGBTですし、過去のコラムでも述べたように歴史的にも偉大な作家や音楽家にLGBTが多いのは有名です。また、LGBTの方がストレートの人たちより年収が高いという報告もあります。

 おそらく差別の裏側には「崇拝」「憧れ」あるいは「畏れ」があるからではないか、というのが私の考えです。そのようなアンビバレントな感情があり、これにPCという問題が加わるから差別は"複雑"になるのです。興味深いことに、BBCは自社内での男女差別を訴えて退職した元従業員女性のインタビュー記事を浜田さんのニュースが出た4日後の1月8日に発表しています。

 ですが、差別は複雑でアンビバレントだとはいえ、黒人メイクのように世界的なコンセンサスが得られているものには従うしかないでしょう。浜田さんがどのような弁明をされたのかを私は知りませんが、きっと、理屈ではなく笑いで世界を納得させてくれるに違いない、というのが1986年からダウンタウンのファンである私の意見です。

 そして、数ある「差別」のなかで問答無用で直ちに廃絶しなければならないと私が強く思うもの。それが病気に対する差別です。