GINAと共に

第137回(2017年11月) 痛み止めから始まるHIV

 2017年10月26日、トランプ米大統領は、米国内で鎮痛剤オピオイドの依存症患者や過剰摂取による死亡者が増えていることを受け「公衆衛生の非常事態」を宣言しました。中毒による死亡者は年間3万人を超え、働く世代の労働参加率の低迷の原因の2割がオピオイドによるものという試算もあります。

 非常事態宣言が発令されたわけですからこれだけでも大問題ですが、さらに深刻な問題がこの先にあります。それはHIV感染です。米国のニュースメディア「POLITICO」が「オピオイドからHIVへ」というタイトルで米国の麻薬汚染の実態を報告しています(2017年10月21日)。

 同紙によれば、2年前(の2015年)、インディアナ州スコット郡では200人近くの市民がHIVに感染しました。感染源は「針の使いまわし」です。興味深いことに、このような感染が深刻化している他の州をみてみると、ケンタッキー州、ウェストバージニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、テネシー州のアパラチア地方など。これらに共通するのは、トランプ大統領を支持する地域であり、地域社会のほとんどが白人、そして失業率が高いということを同紙は指摘しています。
 
 米国全体でのHIV新規感染は減少傾向にあります。CDC(米国疾病管理予防センター)の報告によれば、2008年に45,700人の新規の報告があったのが、2014年には37,000人まで減少しています。(日本ではだいたい年間の新規感染者数が1,500人ですから約25倍です) 米国の新規感染の約1割が注射針からの感染です。

 さて、ここで鎮痛薬オピオイドの使用がなぜHIV感染につながるのかを確認しておきましょう。慢性の痛みで悩んでいる人は世界中のどこにでもいます。頭痛、関節痛、腰痛、腹痛...、と人によって痛みの部位は様々で、最初は市販の痛み止めで対処しますが、そのうちにより強い鎮痛薬を求めて医療機関を受診することになります。

 医師は鎮痛薬の危険性を知っていますから、安易に副作用の強い鎮痛薬を処方するようなことはしませんが、目の前の患者さんが激しい痛みを訴えれば検討することになります。以前なら、それでも「我慢しなさい」と患者に話す医師が多かったのですが、90年代後半頃からいくつかの製薬会社が「強力な鎮痛薬」の強烈なプロモーションを開始し、医師が影響を受けるようになりました。これが、米国の「麻薬汚染」の始まりです。

「強力な鎮痛薬」がよく効き、かつ副作用がなければ問題があるとは言えません。ですが、この「強力な鎮痛薬」は"強力"な「依存症」を引き起こしました。米国のメディア「ロサンジェルス・タイムズ」がいかにこの鎮痛薬が製薬会社の戦略の下に米国に浸透していったのか、その真相を暴きました。麻薬性鎮痛薬「オキシコンチン」を販売するパーデュー・ファーマ社はこの麻薬を"夢のクスリ"と謳い、売り上げを急増させ、1996年の販売開始以来、米史上最大規模の700万人超という薬物乱用者を発生させたのです。

 麻薬の特徴を二つ挙げるとすれば「耐性」と「依存性」です。ロサンジェルス・タイムズの報告によれば、パーデュー・ファーマ社のオキシコンチンは12時間有効という謳い文句で登場しました。ですが、実際はそれほど効果が続かず、使用者は12時間後が待ち遠しくて仕方がなくなり、オキシコンチンのこと以外は考えられなくなるのです。こうなれば立派な「依存症」です。さらに、耐性がでてくれば当初得られたような効果が期待できず、高用量を求めるようになります。しかし医師の処方には制限があります。その結果何が起こるか...。

 裏ルートで麻薬を入手しようと考える人が出てきます。内服ではもはや満足できなくなった身体はより高い効果が得られる静脈注射を渇望します。そして、ここまでくれば痛みの緩和ではなく、麻薬が切れたときの苦痛が次の「ショット」を求めるようになります。静脈注射に必要なシリンジ(注射筒)は一度入手すると繰り返し使えますが、注射針はそうはいきません。何度か使っているうちに針が鋭利さを失い刺さらなくなります。しかし合法的に次々と注射針を入手するのは困難です。そのとき、もはや立派な依存症となった人たちは何を考えるか。麻薬のためなら他人の使った針でも厭わなくなるのです。これが、先述の「共和党(トランプ大統領)の支持率が高い地域」の実情というわけです。

 さて、このような話を聞いたとき日本人のあなたはどう思うでしょうか。「アメリカって怖い国だよね...」と他人事のように感じる人が多いのではないでしょうか。たしかに、ロサンジェルス・タイムズ社が実情を暴露したパーデュー・ファーマ社のオキシコンチンのような薬は日本では医療現場での使用が厳しく制限されています。そして、米国に比べると麻薬中毒者は日本にはそう多くいません。日本では覚醒剤中毒者が"伝統的に"多いわけですが、これまでのところその中毒者たちのHIV感染は増加傾向にはありません。

 では日本は米国のようにはならないのか。私個人の見解は、「いずれ米国と同じように麻薬中毒者が増加し、その結果HIV感染が増える可能性がある」というものです。理由を述べます。

 たしかに日本ではオキシコンチンのような強力な鎮痛薬はがんの末期など限られた症例にしか使うことができません。ですが、2010年代初頭から日本でも内服のオピオイドががんと関係のない慢性の痛みに処方できるようになりました。製薬会社は「これは麻薬と違います。依存性は小さいです」と医師にPRをおこなっています。そして、製薬会社のウェブサイトにはオピオイドという文字の後にわざわざ「非麻薬」と書いています。(例えばhttp://www.mochida.co.jp/dis/medicaldomain/circulatory/tramcet/info/index.html

 誤解を恐れずに言うならば、これは「詭弁」だと思います。詭弁が失礼であれば「誤解されても仕方がない表現」です。そもそもオピオイドとは、麻薬やその類似物質を指すわけで依存性のリスクはつきまとうものです。そして、一応、これら日本で販売されている内服のオピオイドの添付文書には「依存性があります」と(小さい字で)書かれています。そうです。日本の製薬会社も初めから危険性を分かっているのです。それを医師にPRするときは「依存性が小さい」と言い、患者さんが見るかもしれない自社のウェブサイトには「非麻薬」とご丁寧に書いているというわけです。

 もちろん、いくら危険な薬が発売されようが、処方する医師がきっちりとそのリスクを認識し最低限の処方をしていれば問題は起こりません。実際、私はこれらが発売されたとき、「このような薬が日本で使われることはそれほど多くないだろう」と踏んでいました。ですが、発売後次第に使用者は増えてきています。私が院長を務める太融寺町谷口医院では、初診の患者さんに「今飲んでいる薬は?」と尋ねると、これらオピオイドを毎日飲んでいるという人が年々増えているのです。

 たしかにオピオイドを用いなければコントロールできない痛みというものもあります。ですが率直な私の印象を言えば、「その程度の腰痛で?」「その関節痛、まずは他の鎮痛薬を試すべきでは?」という例が目立つのです。もちろん安易に前医を批判してはいけないのですが、こういった患者さんの何割かは、危険性や依存性を説明すると「えっ、そんな怖い薬とは聞いていません!」と答えるのです。

 つまり、米国と同様、日本でも医師の"安易な"処方がおこなわれていると言わざるをえないのです。数年後に何が起こるか。おそらく現在の内服オピオイドが効かなくなり、あるいは依存症が深刻化し、より強い麻薬が欲しくなるでしょう。そして、米国と同様のストーリーが始まり...、という私の見立てが杞憂であればいいのですが。