GINAと共に
第129回(2017年3月) 「エイズパニック」から30年後の今考えるべきこと
個人的な話となってしまいますが、私が高校を卒業したのは1987年の3月。翌月から関西学院大学(以下「関学」)に通うことが決まっていました。
高校時代にろくに勉強していなかった私が高3のクリスマスイブの日に渡された河合塾の全国模試の偏差値は40。この成績で合格できる大学はほとんどありませんが、どうしても関学に行きたかった私はそれからの約1ヶ月半を1日16時間以上、一心不乱に勉強し奇跡的に合格することができました。
受験勉強から解放された私は合格発表を受け取った日から、一切鉛筆を持たなくなり狂ったように遊びだしました。そのとき、大勢の人たち、それは同級生だけでなく、周りの大人たちも、「エイズに気を付けろ」と私に忠告してきました。
受験勉強に没頭し、新聞もテレビも一切みないという生活をしていた私はまったく知らなかったのですが、ちょうどその頃に、神戸在住の20代の女性が性交渉でHIVに感染しエイズを発症したことが大きく報じられていたのです。
翌月から通うことになる関学は兵庫県西宮市に位置していますが、世間一般には神戸圏の大学とみなされています。私の高校は三重県伊賀市というド田舎にあり、自宅から通える範囲に大学はありません。関西圏が最も多いものの、名古屋圏や関東の大学に進む者も少なくなく同級生は全国に散らばります。4月からの新しい生活の話題になると、神戸圏で暮らすことになる私に対して多くの人達が「エイズに注意せよ」と言うのです。
入学後も同級生や先輩との会話でこの話題は何度か出たと思うのですが、実は当時の私はエイズという問題にほとんど興味がなくあまり覚えていません。私が医学部を目指そうと思ったのは関学を卒業し社会人になってからですし、自分がHIV陽性の女性と関係を持つなどとはまったく想像できなかったからです。今考えてみれば、検査をしてなくて感染に気付いていない人が潜在的にいるはずで、そのような相手と突然ロマンスに陥ることもないわけではない...、と考えるべきことがわかりますが、当時の私には「自分には縁のないこと」と高を括っていたのです。
記憶は随分曖昧ですが、1987年の春に私が聞いたことで覚えているのは、神戸の若い女性が日本人女性で初めてエイズを発症した。その女性は性風俗産業に従事していた、ということくらいです。正直に言うと、その女性が気の毒とか、その女性のために何かしたい、などとはまったく思いませんでした。
その15年後の2002年10月、大学病院で研修医をしていた私は1週間の夏休みをもらい、タイのエイズ施設にボランティア(と呼べるほどの活躍はできませんでしたが)に行きました。そこで見た光景は、さんざんいろんなところで話して書いてきましたが、想像を絶する世界で、患者さんたちは「死へのモラトリアム」を過ごしているだけでした。当時のタイでは抗HIV薬がまだ使われていなかったのです。
彼(女)らの病状を和らげることは当時の私にはできませんでしたが、話を聞くことはできます。タイは英語がまったくといっていいほど通じない国ですが、患者さんと話したいと考えていた私はタイ語の堪能な知人を通訳として連れていきました。女性のなかには(そして男性のなかにも)性風俗というか、売春をしてHIVに感染したという人も少なからずいました。当時タイ語のまったくできなかった私は、知人の通訳に「そんなことダイレクトに尋ねて本当のことを話してくれるの?」と聞いたところ、「いや、ダイレクトな言い方はしない。ゴーゴーバーで働いていたことがあるか、とか、外国人相手の接客をしていたか、といった聞き方をすればだいたいわかる。この国の買売春のあり方は日本とはまったく異なるんだ」と教えてくれました。
大勢のタイ人のエイズの患者さんを目の前にして、当時の私はまだ日本人のHIV陽性者をひとりも診察したことがないことを思い出しました。そして、そのとき私は1987年の日本人初の女性エイズ患者のことを考えてみたのです。その後帰国し、大勢の日本人のHIV陽性者を診察することになりますが、このときはまだ「日本人のHIV/AIDS」というものがイメージできなかったのです。
他のところでさんざん述べているように、その後私がHIV/AIDSの諸問題に取り組みたいと考え、そしてGINA設立の動機になったのは、HIVという病原体やエイズという疾患に医学的な興味があるからというよりも、HIV感染に伴う差別や偏見に立ち向かいたいと考えたからです。
そういった観点から改めて1987年の神戸の女性のことを考えてみると、この「女性」は当時相当辛い思いをしたことが想像できます。可能ならこの「女性」の家族に当時の話を聞いてみたいものですがそれはできないでしょう。
当時の「彼女」の苦しみを何とか知る方法はないか...。30年前の雑誌や新聞の入手は極めて困難ですし、当時の新聞記事のデジタル化はおこなわれていないと思われます。ですが、一部の新聞(産経新聞)の写真がネット上で公開されていることを見つけました(注1)。
「彼女」がHIVに感染していることが発覚したのは1987年1月17日。前年の夏頃から高熱に悩まされ肺炎の診断がついたものの当初は原因がわからず、最終的にカリニ肺炎と診断されようやくエイズを発症していることがわかりました。他界したのはそのわずか3日後の1月20日です。この日の記事(注2)のタイトルは「エイズの女性死ぬ」です。この「死ぬ」という表現に違和感はないでしょうか。どことなくこの「女性」を蔑んでいるように感じられないでしょうか。
注1の産経ウエストのウェブサイトによれば、「不特定の男性100人以上を相手に7年間売春行為を続けていた」「三宮・元町で出会った男性と性交渉を持った」といった情報が飛び交っていました。なかには、「女性」のプライバシーを暴くことを試みて、実名や顔写真を載せる週刊誌まであったそうです。これでは「患者」ではなく「加害者」の扱いです。
また、神戸市によれば、「女性」の報道を見聞きして、自分も感染したのではないかと考え、電話で相談する人が続出しました。相談件数は1日に千件を超える日もあり、1月18日~31日の2週間で合計8,400件もの問い合わせがあったそうです。なかには、ノイローゼで入院したり、血液検査を受けた後、感染したに違いないと思い込んで自殺を図ったりした男性もいたそうです。
さて、21世紀に生きる我々がこの「女性」から学ぶべきことはどのようなことでしょうか。まずは、社会全体でこの「女性」を「加害者」のように見なしたことを反省すべきです。性風俗産業で働くことを「加害者」とみる人もいるかもしれませんが、タイで何人もの元セックスワーカーのHIV陽性者と仲良くなった私の立場からはとてもそのようには思えません。彼女らの大半は、貧困からやむを得ず春を鬻ぐようになったのであり、なかには親に売られたような女性もいるのです。日本とタイは違う、という意見もあるでしょうが、売春(セックスワーク)でHIVに感染した人に対して「加害者」のような扱いをすることを私は許しません。
ではこの「女性」は被害者でしょうか。報道で名誉を傷つけられたことに対しては「被害者」と言えるでしょう。もしも実名が本当に掲載されたのならプライバシー侵害は自明です。また「女性」にHIVを感染させた男性が自らの感染を隠して性交渉をもったのだとしたら、男性は加害者で「女性」は被害者です。この性行為がレイプであったとすればやはり「女性」は被害者です。
ですが、故意にうつしたのでなければ男性も「女性」も被害者でも加害者でもありません。またこの「女性」が別の男性に感染させたとしてもその男性は被害者ではありません。当時からHIVの存在は知られていたはずです。学校では習わないでしょうが、性交渉をもつ以上はそういった感染症のリスクがあることは各自の責任で学んでおくべきだと私は思います。
30年前のエイズパニックから我々が学ぶべきこと...。それは、感染症には加害者も被害者もない、ということだと私は考えています。
************
注1:下記URLを参照ください。
http://www.sankei.com/west/news/170117/wst1701170075-n1.html
注2:下記URLを参照ください。
http://www.sankei.com/west/photos/170117/wst1701170075-p2.html
高校時代にろくに勉強していなかった私が高3のクリスマスイブの日に渡された河合塾の全国模試の偏差値は40。この成績で合格できる大学はほとんどありませんが、どうしても関学に行きたかった私はそれからの約1ヶ月半を1日16時間以上、一心不乱に勉強し奇跡的に合格することができました。
受験勉強から解放された私は合格発表を受け取った日から、一切鉛筆を持たなくなり狂ったように遊びだしました。そのとき、大勢の人たち、それは同級生だけでなく、周りの大人たちも、「エイズに気を付けろ」と私に忠告してきました。
受験勉強に没頭し、新聞もテレビも一切みないという生活をしていた私はまったく知らなかったのですが、ちょうどその頃に、神戸在住の20代の女性が性交渉でHIVに感染しエイズを発症したことが大きく報じられていたのです。
翌月から通うことになる関学は兵庫県西宮市に位置していますが、世間一般には神戸圏の大学とみなされています。私の高校は三重県伊賀市というド田舎にあり、自宅から通える範囲に大学はありません。関西圏が最も多いものの、名古屋圏や関東の大学に進む者も少なくなく同級生は全国に散らばります。4月からの新しい生活の話題になると、神戸圏で暮らすことになる私に対して多くの人達が「エイズに注意せよ」と言うのです。
入学後も同級生や先輩との会話でこの話題は何度か出たと思うのですが、実は当時の私はエイズという問題にほとんど興味がなくあまり覚えていません。私が医学部を目指そうと思ったのは関学を卒業し社会人になってからですし、自分がHIV陽性の女性と関係を持つなどとはまったく想像できなかったからです。今考えてみれば、検査をしてなくて感染に気付いていない人が潜在的にいるはずで、そのような相手と突然ロマンスに陥ることもないわけではない...、と考えるべきことがわかりますが、当時の私には「自分には縁のないこと」と高を括っていたのです。
記憶は随分曖昧ですが、1987年の春に私が聞いたことで覚えているのは、神戸の若い女性が日本人女性で初めてエイズを発症した。その女性は性風俗産業に従事していた、ということくらいです。正直に言うと、その女性が気の毒とか、その女性のために何かしたい、などとはまったく思いませんでした。
その15年後の2002年10月、大学病院で研修医をしていた私は1週間の夏休みをもらい、タイのエイズ施設にボランティア(と呼べるほどの活躍はできませんでしたが)に行きました。そこで見た光景は、さんざんいろんなところで話して書いてきましたが、想像を絶する世界で、患者さんたちは「死へのモラトリアム」を過ごしているだけでした。当時のタイでは抗HIV薬がまだ使われていなかったのです。
彼(女)らの病状を和らげることは当時の私にはできませんでしたが、話を聞くことはできます。タイは英語がまったくといっていいほど通じない国ですが、患者さんと話したいと考えていた私はタイ語の堪能な知人を通訳として連れていきました。女性のなかには(そして男性のなかにも)性風俗というか、売春をしてHIVに感染したという人も少なからずいました。当時タイ語のまったくできなかった私は、知人の通訳に「そんなことダイレクトに尋ねて本当のことを話してくれるの?」と聞いたところ、「いや、ダイレクトな言い方はしない。ゴーゴーバーで働いていたことがあるか、とか、外国人相手の接客をしていたか、といった聞き方をすればだいたいわかる。この国の買売春のあり方は日本とはまったく異なるんだ」と教えてくれました。
大勢のタイ人のエイズの患者さんを目の前にして、当時の私はまだ日本人のHIV陽性者をひとりも診察したことがないことを思い出しました。そして、そのとき私は1987年の日本人初の女性エイズ患者のことを考えてみたのです。その後帰国し、大勢の日本人のHIV陽性者を診察することになりますが、このときはまだ「日本人のHIV/AIDS」というものがイメージできなかったのです。
他のところでさんざん述べているように、その後私がHIV/AIDSの諸問題に取り組みたいと考え、そしてGINA設立の動機になったのは、HIVという病原体やエイズという疾患に医学的な興味があるからというよりも、HIV感染に伴う差別や偏見に立ち向かいたいと考えたからです。
そういった観点から改めて1987年の神戸の女性のことを考えてみると、この「女性」は当時相当辛い思いをしたことが想像できます。可能ならこの「女性」の家族に当時の話を聞いてみたいものですがそれはできないでしょう。
当時の「彼女」の苦しみを何とか知る方法はないか...。30年前の雑誌や新聞の入手は極めて困難ですし、当時の新聞記事のデジタル化はおこなわれていないと思われます。ですが、一部の新聞(産経新聞)の写真がネット上で公開されていることを見つけました(注1)。
「彼女」がHIVに感染していることが発覚したのは1987年1月17日。前年の夏頃から高熱に悩まされ肺炎の診断がついたものの当初は原因がわからず、最終的にカリニ肺炎と診断されようやくエイズを発症していることがわかりました。他界したのはそのわずか3日後の1月20日です。この日の記事(注2)のタイトルは「エイズの女性死ぬ」です。この「死ぬ」という表現に違和感はないでしょうか。どことなくこの「女性」を蔑んでいるように感じられないでしょうか。
注1の産経ウエストのウェブサイトによれば、「不特定の男性100人以上を相手に7年間売春行為を続けていた」「三宮・元町で出会った男性と性交渉を持った」といった情報が飛び交っていました。なかには、「女性」のプライバシーを暴くことを試みて、実名や顔写真を載せる週刊誌まであったそうです。これでは「患者」ではなく「加害者」の扱いです。
また、神戸市によれば、「女性」の報道を見聞きして、自分も感染したのではないかと考え、電話で相談する人が続出しました。相談件数は1日に千件を超える日もあり、1月18日~31日の2週間で合計8,400件もの問い合わせがあったそうです。なかには、ノイローゼで入院したり、血液検査を受けた後、感染したに違いないと思い込んで自殺を図ったりした男性もいたそうです。
さて、21世紀に生きる我々がこの「女性」から学ぶべきことはどのようなことでしょうか。まずは、社会全体でこの「女性」を「加害者」のように見なしたことを反省すべきです。性風俗産業で働くことを「加害者」とみる人もいるかもしれませんが、タイで何人もの元セックスワーカーのHIV陽性者と仲良くなった私の立場からはとてもそのようには思えません。彼女らの大半は、貧困からやむを得ず春を鬻ぐようになったのであり、なかには親に売られたような女性もいるのです。日本とタイは違う、という意見もあるでしょうが、売春(セックスワーク)でHIVに感染した人に対して「加害者」のような扱いをすることを私は許しません。
ではこの「女性」は被害者でしょうか。報道で名誉を傷つけられたことに対しては「被害者」と言えるでしょう。もしも実名が本当に掲載されたのならプライバシー侵害は自明です。また「女性」にHIVを感染させた男性が自らの感染を隠して性交渉をもったのだとしたら、男性は加害者で「女性」は被害者です。この性行為がレイプであったとすればやはり「女性」は被害者です。
ですが、故意にうつしたのでなければ男性も「女性」も被害者でも加害者でもありません。またこの「女性」が別の男性に感染させたとしてもその男性は被害者ではありません。当時からHIVの存在は知られていたはずです。学校では習わないでしょうが、性交渉をもつ以上はそういった感染症のリスクがあることは各自の責任で学んでおくべきだと私は思います。
30年前のエイズパニックから我々が学ぶべきこと...。それは、感染症には加害者も被害者もない、ということだと私は考えています。
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注1:下記URLを参照ください。
http://www.sankei.com/west/news/170117/wst1701170075-n1.html
注2:下記URLを参照ください。
http://www.sankei.com/west/photos/170117/wst1701170075-p2.html