GINAと共に

第118回(2016年4月) 障がい者の「性」と「不倫」

 このところ週刊誌が有名人の不倫をスクープした記事が目立ちます。ここでそれらをいちいち述べていくことには意味がありませんからしませんが、私が奇異に感じるのは、「なんでみんなそんなに簡単に謝るの?」ということです。そもそもいったい誰に謝っているのかもよく分かりません。自分の奥さんに謝るのなら理解できますが、それは家庭内ですればいいことです。

 政治家は公人だから許されないという考えは分からなくもありませんが、例えば私が支持している政治家がいたとして、不倫が発覚したとすれば、私はその政治家に愛想をつかして支持をやめるかというとおそらくそんなことはしません。最近報道された一連の不倫騒動のなかで、私が唯一、「これは一線を越えてしまっているな・・・」と感じたのは、育児休暇を取得して不倫に走っていた宮崎(元)議員くらいです。宮崎議員も育児休暇取得をしていなかったとすれば、国会議員を辞職する必要はなかったと思いますし、不倫報道に対しては「それが何か?」と言ってもよかったんじゃないかと思っています。それで人気がなくなり次回の選挙で落選すれば「その程度の議員」というだけの話です。

 政治家の話は後でおこなうとして、先に芸能人について述べておきたいと思います。芸能人の不倫報道を視聴者が「楽しむ」のは問題ありません。私には関係ないことなので個人的にはさほど面白いと思いませんが、そういう報道を見聞きして楽しめる人がいるならそれはそれでいいと思います。その芸能人からすれば不本意であれエンターテナーとしてネタを提供しているとも言えるわけです。

 歌舞伎役者にとって「(不倫は)芸の肥やし」ではなかったのでしょうか。それがいまや歌舞伎役者や大御所の落語家でさえも不倫や隠し子でバッシングを受ける時代となってしまいました。「不倫してあんたらに迷惑かけたんか? 女房と子供には謝るけどなんであんたらに謝らなあかんのや!」と報道者に文句を言う芸能人がいてもいいと思うのですが、なぜかそういう人はいません。「不倫」は字が示すとおり「倫理的でないこと」です。そして、一般人が不倫をすればたいていはその後の人生が不幸なものになります。私の周りにも不倫で自らの人生を壊滅させた者が何人もいます。不倫は芸能人に許される特権とまでは言いませんが、芸能人も含めて、週刊誌が厳しく不倫を取り締まる現在の日本は、自由のない「管理国家」のような気さえします。

 政治家に話を戻します。先に述べたように育児休暇取得で有名になった張本人が不倫はたしかにマズイと思いますが、政治家が不倫をしてはいけないのでしょうか。田中角栄には何人もの愛人がいたそうですが、それが原因で失脚したわけではありません。フランスのオランド大統領は女優との不倫が発覚しましたが、これを非難する世論は皆無だったと聞きます。現在支持率が低下しているのは別の要因です。ミッテラン元大統領が、不倫について問われて「エ・アロール(それがどうした)」と答えたのは有名な話です。さすがに、イタリアの元大統領ベルルスコーニのように未成年の買春は完全に犯罪ですが・・・。

 さて前置きが大変長くなりましたが、今回取り上げたいのは乙武洋匡氏の不倫報道です。不倫相手と海外旅行に行ったことが『週間新潮』にスクープされ、5人もの愛人がいることが発覚したとか・・。そして謝罪文を公表しています。乙武氏は自民党から立候補すると言われていましたから、周りの助言などもあり、このような謝罪をおこなったのかもしれません。

 さて、果たして乙武氏が、今後政治家になると考えているとして、謝罪する必要があったのでしょうか。

 障がい者を「普通ではない」と考えるのはたしかにある意味で間違っています。実際、乙武氏は自身の著書『五体不満足』で、「太っている人、やせている人。背の高い人、低い人。色の黒い人、白い人。そのなかに、手や足の不自由な人がいても、なんの不思議もない。よって、その単なる身体的特徴を理由に、あれこれと思い悩む必要はないのだ」と述べています。

 乙武氏が一貫して主張しているのが、手足がないのは「障がい」というよりも「身体的特徴」である、「かわいそう」と思われたくない、自分は「純真無垢」などではなく普通の男性だ、といったことです。これらは説得力があります。我々は手足のない人を「不幸」と決めつけてはいけませんし、確かにハンディキャップは「障がい」ではなく「身体的特徴」と見なすべきです。この点で私は乙武氏の主張に異論はありません。

 しかし、背の低い人が取れない高いところにあるものを取ってあげたり、杖をついているお婆さんがバスに乗ろうとしているところを助けてあげたりすりことになんら不自然さはありませんし、そのようなサポートは誰もが積極的にすべきことです。

 問題はここからです。「性」についてはどうでしょう。恋愛やセックスに対してハンディはないでしょうか。恋愛については、結婚したくでもできない男なんていくらでもいるんだから、障がいはハンディにならないんじゃないの、という人がいるかもしれませんが、私はそれは「きれいごと」だと思います。実際、乙武氏も著書のなかで「強がってみても、障害者の恋愛にハンデがあるのは動かしがたい事実だと思う」と述べています。

 乙武氏が自ら語った5人の「愛人」を乙武氏が愛していたのかどうかは分かりませんが、仮に「愛」よりも「性欲」が勝っていたとすればどうでしょう。ここで当たり前だけどよく見逃されていることを思い出してください。乙武氏は、女性が大好きな普通の男性です。障がい者は「天使」でも「純粋無垢」でもありません。普通の男性には普通の「性欲」があります。医学的にみても定期的な射精は健康維持に必要です。身体的にも必要ですし、精神的にも必要です。

 そして、乙武氏はひとりで射精ができないのです。自分の力でひとりで射精(自慰)がおこなえれば「性欲」のコントロールはかなりの部分で可能となります。ひとりで射精できない、奥さんは子供の世話でいっぱいで夫との性交渉に応じなくなった(実際に週刊誌ではそのように報じられています)だけでなく、射精の手伝いもできない、となると、ひとりで射精できない者は、やり場のない「性欲」をどうすればいいのでしょうか。

 乙武氏はこれまで教育関係の仕事をしてきた実績があり、政治家に立候補すると言われています。子供たちに夢を与える立場の人間だからこそ糾弾されるべきであり、そういう意味では宮崎(元)議員と同じではないか、という声もあるでしょう。そして、「障がい」は単なる身体的特徴に過ぎないというなら、乙武氏の不倫に寛大になるのは「逆差別」ではないのか、という意見もあるかもしれません。また、乙武氏自身が、「不倫は不倫であり、障がいがあるからといって認められるものではない」という考えを持っているのかもしれません。

 しかし、私はたとえ乙武氏の反感を買ったとしても、障がい者(特に自慰行為のできない障がい者)に対しては「性に寛容であるべき」と主張したいと思います。これは私の医師としての経験が関与しています。私はこれまで、脊髄損傷を含めて手足の自由を奪われた入院患者を大勢みてきました。こういったことはなかなか聞き出せませんが、かなりの長期間射精をしていないのではないかと思われる人も少なくありません。そして、このようなことは決して公にはなりませんが、一部の看護職・介護職の者、あるいは近親者、ときには母親が射精の手伝い(あるいはそれ以上のこと)をすることは実際にあります。

 障がい者のケアをすると、いずれ「性欲」は深刻な問題であることに誰もが気づきます。そして、ニーズをくみ取ったサービス、例えば障がい者を対象とした性風俗業者や射精の手伝いをおこなう業者もあるようです。しかし、一方では、いまだに障がい者には性欲がないと思い「天使」「純粋無垢」のイメージを持っている人も少なくありません。

 障がい者にも普通の「性欲」があり、自慰行為ができないために何らかの補助が必要。乙武氏のようにモテる障がい者の不倫には社会が寛容になり(ただし妻が寛容になるかどうかはまた別の話です)、外出困難などで性に縁の無い障がい者は性サービスを利用すべき、というのが私の考えです。さらに、障がい者の性サービスは保険適用としてもいいのではないか、とまで私は考えています。

 乙武氏には、謝罪をおこなうのではなく、障がい者の性の苦悩を訴えてほしかった、そして同時に、性サービスを利用している(あるいはこれから利用する)障がい者、複数のパートナーがいる障がい者などに対してはHIVを含む性感染症への注意喚起をおこなってほしかった、と私は考えています。

 最後に、乙武氏も著書で引用しているヘレンケラーの名言を記しておきます。

 障害は不便である。しかし、不幸ではない。

参考:『五体不満足』乙武洋匡著 講談社