GINAと共に

第105回 ポリティカル・コレクトネスのつまらなさ 2015年3月号

  2015年2月11日の産経新聞に掲載された曽野綾子さんのコラムが大変な物議をかもし国際問題にまで発展しました。

 黒人を差別するのか!という怒りの声がネット上にあふれていますが、私はこのような意見を目にする度に辟易します。こういった"正論"を振りかざす人たちに一言いってやりたいのですが、まずはなぜこのような問題にまで発展したのか経過を振り返ってみたいと思います。

 曽野さんのコラムは、日本の高齢者の介護のために外国人を受け入れる必要がある、というところから始まっています。現在、フィリピンやインドネシアから日本で介護の仕事をするために来日して研修を受けている人はいますが、語学の問題もあり資格を取得するのがむつかしいのが現状です。曽野さんはそういったバリアを取り除かなければならない、と主張されています。

 一方後半では、仕事は外国人と一緒にすべきだが外国人と一緒に住むのは困難であることを自身の体験から話されています。この部分が問題になっているので、少し長くなりますが省略せずに紹介したいと思います。

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 南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
 黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
 住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
 間もなくそのマンションはいつでも水栓から水のでない建物になった。それと同時に白人は逃げだし、住み続けているのは黒人だけになった。
 爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
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 これが後に国際問題にまで発展し、『Japan Times』や『New York Times』は黒人の居住地をわけろというのはアパルトヘイトではないかと問題提起をしました。その後、日本の(左寄りの)マスコミはこれに便乗し「黒人差別」と言いだしました。すると、やはり左寄りのネットユーザーたちが騒ぎ出し曽野さんを糾弾しはじめたのです。

 ここまで騒ぎが大きくなれば、南アフリカ共和国の大使館は放っておくわけにはいきません。曽野さんが大使館を訪問し説明することになったそうです。一部で誤解されているようですが、これは曽野さんが謝罪に行くことを強要されたわけではなく、大使の方から曽野さんに会いに伺いたいという申し入れがあったそうです。

 曽野さんはその申し入れを「それはいけません。大使閣下はそのお国を代表していらっしゃるのですから、私が参上するのが礼儀です」と言って自身から大使館を訪問されています(注1)。

 南ア大使と曽野さんが話をするとすぐに誤解は解けたようです。これは私の推測ですが、南アの大使は、曽野さんがどのような人物であり、これまでどれほど南アを含むアフリカ諸国に貢献されてきたのかを知っていたに違いありません。ですから大使は初めから曽野さんに苦情を言うつもりなど一切なかったはずです。ただ、国内外のマスコミが騒ぎ出し収拾が付かなくなったために、話をしておく方がいいと考えた、あるいはこの機会を利用してこれまで南アにも貢献されている曽野さんにお礼が言いたかったのではないでしょうか。

 曽野さんは、南アの大使との話し合いについて下記のように述べています(注2)。

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 大使は実に見事な女性で、私と友情を築いてくださった。私は遠慮して、もしお望みなら「南アのことは以後書かないようにいたします」とも申し上げたのだが、南アのことは今後も書いて欲しい、とお手紙までくださった。
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 曽野さんのアフリカでの活躍はここで述べるときりがありませんので省略しますが、南アのエイズホスピスにも多大なる貢献をされています。このホスピスに霊安室を建てられたのも曽野さんの功績です。

 エイズ関連の活動をしているグループからも、マスコミの報道に便乗し曽野さんをバッシングする意見が出ており、私は大変残念に思いました。彼(女)らは曽野さんの南アのエイズに対する貢献を知っているのでしょうか。

 若い学生の団体が、曽野さんのコラムを読んで「黒人差別だ!」と感じるのは自由ですし、意見を言えばいいと思います。しかし、反対意見を述べるなら、将来是非とも外国人との共存を体験すべきです。

 という私自身も黒人と居住地を共にしたことはありません。しかし、同じような体験をタイでしたことがあり、私が曽野さんのコラムを読んだときにそのときのことを思い出しました。

 あれはたしか2004年。私が定期的にタイのエイズ施設を訪問していた頃のことです。バンコクで仲良くなったタイ人の夫婦がいて、親戚が田舎から来てパーティをするから参加しないか、と誘われたのです。タイ人は男性でも女性でも少し仲良くなるとすぐに、親を紹介したい、親戚と一緒にご飯を食べよう、泊まりに来い、などと言ってきます。このような国民性に私はとても好感をもっていて、この夫婦に誘われたときも二つ返事で「伺います」と答えました。

 その夫婦の住む地域は、スラム街とまではいいませんが、明らかに貧困層が住むエリアで、バンコク人ではなく東北地方(イサーン地方)から出稼ぎに来た人たちが大勢住んでいるところです。

 お世辞にもきれいとはいえないアパートの2階にその夫婦の部屋はありました。階段で2階にあがって驚いたのが「やかましさ」です。このようなアパートでクーラーをもっている世帯はまずありませんから、暑さをしのぐためにどの部屋も扉を開けています。どこの部屋からも大声や笑い声が聞こえてきます。日本ではこのような光景はちょっと想像できません。

 夫婦の部屋を訪れて驚いたのは人の多さです。6畳ほどのワンルームに、下は1歳くらいの赤ちゃんから上は70代くらいの高齢者まで合計10人が騒いでいるのです。私が顔を見せると「よく来た、よく来た」と言って歓迎してくれるのは嬉しいのですが、座る場所もありません。それに、たしかに床は丁寧に拭いてあるのですが、毛布や枕などはきれいには見えません。

「ご飯食べたか?(ギンカーオ・ルヤン・カー?)」と聞かれて「まだです(ヤンマイギン・クラップ)」と答えると、「食べろ食べろ」と言って食事を出してくれるのですが、アリの卵、いろんな昆虫が混ざった素揚げ、腐敗臭にしか感じられないソムタム(パパイヤサラダ)など、イサーン料理のオンパレードです。

「ソムタム」と言えばタイ料理を代表するパパイヤサラダですが、これは主にバンコク人の食べるもので正確には「ソムタム・タイ」と言います。一方、イサーン人の食べる「ソムタム・プララ」や「ソムタム・プー」というのは発酵させた魚やサワガニが入っていて、日本人からすれば発酵ではなく腐敗臭にしか感じられません。しかし、この体験も含めて何度かイサーン人と行動を共にしたおかげで、私は今ではほとんどのイサーン料理が食べられるようになりました。

 話を戻しましょう。苦労したのは食事だけではありません。この部屋には台所というものがありません。水道はトイレの便器の横にひとつあるだけです。ではどうやって調理をするのかというとその便器の横の水道で水をくむのです。タイでは水道水は飲めませんからペットボトルの水を使いますが、食器を洗うのも、トイレをした後にお尻を洗うのも、その後手を洗うのも、入浴(「水浴び」といった方が正確ですが)もすべてその1つの水道でおこなわなければなりません。この部屋には私をいれて11人がいるのです。11人全員がトイレでお尻を洗うのも手を洗うのも、身体や頭を洗うのもすべてその1本の水道で済まさねばならず、食器の洗浄も、もちろん衣服の洗濯も、その1つの水道だけが頼りなのです。

「遠慮するな、泊まっていけ」と皆が言いますが、この部屋で私はどうやって眠ればいいのでしょう。しかし、外国人の私はスペシャルゲストのようで一番いい毛布を渡してくれました・・・。

 この家族は比較的早く全員が寝ましたが、アパートの住民のなかには朝まで騒いでいた者も大勢いたようで、いい睡眠がとれたとはとても言えませんでした・・・。

 翌朝私は何度も礼を言い、その部屋を出るときには「またいつでも泊まりに来てね」と言われました。私はその後もその夫婦にバンコクで何度か会っていて、今もときどき連絡をとりますが、あの部屋にもう一度行こうとは思いません・・・。

 黒人と一緒に住むことはできないだと! それは黒人差別じゃないか! そんな発言はけしからん! ・・・!  たしかにこういう意見は間違ってはいないでしょう。政治的には"正しい"からです。「ポリティカル・コレクトネス」というやつです。

 いくら正しくても、私はポリティカル・コレクトネスにはうんざりします・・・。

注1注2:『新潮45』2015年4月号に掲載されている曽野綾子さんのコラム「人間関係愚痴話」(第47回)に詳しく書かれています。