2015年1月26日 月曜日

第103回 ボランティアを嫌う人とボランティアが「気持ちいい」理由 2015年1月号

  単なる偶然かもしれませんが、最近、「ボランティアが嫌い」、「単なる自己満足のボランティアが偉そうなこと言うな」、「自分のナルシシズムを他人に押しつけるな」といった言葉を耳にする機会が増えています。

 最近の若い人たちは、昔ほど欲望を持たなくなり日常で満足している、と言われることが増えていますが、全員がそういうわけでもないのでしょう。相変わらず「自分探し」をしている人は少なくありませんし、生きる目的ややりがいを求めてさまよっている人もいます。

 何のために生きているのか、自分が求めているものは何なのか、といったことを考えるときに、「ボランティア」というものの存在が浮かび上がることがあるのでしょう。深く考えずにボランティアをやってみる、という人もいれば、冒頭で述べたようにボランティアに否定的なコメントをする人も少なくありません。

 私自身はボランティアをぜひ多くの人に体験してもらいたいと考えていますから、ボランティア否定派の人たちに反論したい気持ちはもちろんあるのですが、しかし、一方で否定派の人たちの気持ちも理解できます。

 実際に、私自身がこれまで見てきたボランティアのなかで、初対面から嫌悪感を持ってしまった人も何人かいます。そのように私が嫌悪感を持ってしまう人たちの共通点としては、「自分は偉いことをやっている」、「ボランティアをしない人間は低レベルだ」、「ボランティアを一緒にやるよう勧めたのに断ったやつが気に入らない」、といったことを言うのです。

 もちろんここまで直接的な表現を使う人は稀ですが、しばらく話すとこのような考え方をしていることが伝わってくるのです。彼(女)らは気付いていませんが、これは非常に見苦しいことです。ボランティア否定派の人たちが、ボランティアを嫌う理由がよく分かる瞬間です。

 以前にも述べましたが「謙虚さを忘れたボランティア」ほど見苦しいものはありません。私の経験から言うと、謙虚さを忘れたボランティアたちは、初めこそ困窮している人から感謝されますが、そのうちに「本性」が現れだし、困窮している人たちから感謝の言葉がないと不機嫌になるのです。そして、仲間からも信用されなくなり、やがて去って行きます。

 と、ここまで書くと、私はこのような「謙虚さを忘れたボランティア」たちを徹底的に排除したいと考えていると思われるでしょう。実際、こういう人たちに接したときに瞬間的にわき上がる嫌悪感は抑えがたいものがあります。しかし、冷静になって考えてみるとこの人たちは大変"惜しい"のです。

「困っている人を助ける」、これだけを考えるとこれが正しいのは自明でしょう。そして、ボランティアを実際にやってみるととても「気持ちがいい」のです。(これはやってみるとすぐに分かります) ここで、ボランティアは自分のためにもなるんだ、という事実に気付けばいいのですが、気付かずに「気持ちがいい」がさらに高揚し、興奮度が高まると自分が偉大な人間であるかのような錯覚に陥ってしまいます。そして悲劇が起こるのです。

 ここで、なぜボランティアをすると気持ちがいいのか、を考えてみたいと思います。まずは古典的なアプローチをしてみましょう。社会学では人間の欲求を考えるときのモデルとして「マズローの欲求段階説」がよく取り上げられます。これは人間の「欲求」にはレベルがあり、まずは低いレベルの欲求が満たされると、次のレベルの欲求が生じるとしたものです。

 一番低いレベルの欲求は「生理的欲求」で、食べる、寝る、排泄する、(性欲を満たすための)セックスをする、といったものです。二番目は「安全の欲求」で、安心して過ごせる住居や健康などです。三番目が「社会的欲求」で、友達や恋人がほしい、という欲求です。四番目が「承認欲求」で、他人から認められたい、尊敬されたい、というもので、五番目が「自己実現の欲求」で、自分の夢を実現させる、というものです。

 ボランティアをこのマズローの欲求段階説で考えると、四番目に該当すると言えるでしょう。人によっては三番目や、なかには五番目の欲求も満たす、という人もいるかもしれません。しかし、欲求段階説だけで考えると、つまるところは自分の欲を満たすだけであり、やっぱりボランティアは自己満足に過ぎないものじゃないの、となってしまいます。

 ボランティアが自己満足であるという側面はたしかに見方によっては否定はできないのですが、ここからは別の観点から考えてみたいと思います。

 ボランティアから離れて「誠実」というものを考えてみましょう。人が「誠実」であろうとするのはなぜなのでしょうか。もちろん誠実でない人も世の中にはたくさんいます。そして、誠実でなく他人を欺くようなことをしていても富や名声を手にしている人もいるでしょう。ここで、それは本当の幸せじゃない、などと言ってしまえば陳腐な道徳論になってしまいます。(だから言いたくありません)

 しかし、人が不誠実な行動をとり続ければどのようになるでしょうか。人は本能的に他人が誠実かどうかを見分けることができます。不誠実な人は、たとえ最初は他人を騙すことができたとしても、そのうちに「本性」が見えてきます。誠実でなければ他人からの信頼を得ることができません。あるいは欺きながら信頼を築いていたとしても不誠実な行動が発覚するとそれまで築いていた信頼が一気に崩壊することになります。つまり、他人を欺き一時的に富や名声を得たとしても長続きすることはないのです。そして、他人から信頼を得られない状態が続くと心の平静を保つこともできなくなります。

 つまり「誠実」とは古今東西どこの世界に行っても正しい絶対普遍な原理原則、あるいは「真実」なのです。私のこの表現を「宗教くさい」と感じる人がいるかもしれません。また、誠実が正しいことをどうやって証明するんだ、という人がいるかもしれません。たしかに数式を用いて証明することはできません。しかし背理法を使えばどうでしょう。つまり、「誠実が正しいことは真実である」の否定形、「不誠実が正しいことは真実である」は明らかに偽である、と言えるのではないでしょうか。この背理法では、厳密な意味で証明したことにはならないかもしれません。しかし、納得できる人も多いのではないでしょうか。

 人が「誠実」であろうとするのはなぜか。それは「誠実」が絶対普遍な原理原則、あるいは「真実」であるから、というのが私の答えです。人は原則や真実に逆らうことはできません。不誠実に生きようとすることは原則や真実に逆らうことになります。原則や真実に逆らえば、やがて人は破綻することになります。重力に逆らって地球上で生きることができないのと同じことです。つまり人は誠実でなければ長期的には生きていけないのです。

 さて、本題はここからです。「誠実」と同じように「貢献」というものを考えてみましょう。人が「貢献」するのはなぜか。それは「貢献」が絶対普遍な原理原則そして真実だからです。つまり、他人や社会に対し「貢献しない」という態度をとることは原則や真実に逆らうことになるのです。「貢献」というのは人間の基本原理であり、誰もが取り組むべきであるということです。冒頭でボランティアを嫌う人たちのことを述べましたが、彼(女)らの言い分は部分的には理解できますが、彼(女)らも心のどこかで他人に貢献すべきという思いが(意識していないにしても)あるはずです。

 ついでにもうひとつ普遍の原則を紹介しましょう。それは「謙虚」です。「謙虚」も「誠実」「貢献」と同様、絶対普遍な原理原則であり真実です。ここまでくればおわかりいただけると思います。人がボランティアをする理由、そしてボランティアをすると気持ちがいいのは「貢献」という絶対普遍の原則に従っているからであり、「謙虚さを忘れたボランティア」が見苦しいのは原則に反しているからです。

 人はどのような行動をとるときも原則に逆らえばいずれ必ず破滅する、というのが私の考えです。ボランティアをおこなうときも「誠実」「貢献」「謙虚」といった原理原則から外れてはいけないということです。


参考:GINAと共に
第58回(2011年4月)「歓迎されないボランティア」 
第59回(2011年5月)「それでもボランティアに行こう!」

投稿者 医療法人太融寺町谷口医院