GINAと共に
第94回 『ダラス・バイヤーズクラブ』と抗HIV薬の歴史 2014年4月号
世界中の医療者に「過去四半世紀でもっとも進歩した薬は?」と尋ねれば、最も多い答えが「抗HIV薬」となるでしょう。薬剤の過去25年間の経緯をみてみると、スタチンを初めとする生活習慣病のすぐれた薬剤の普及があり、すぐれた抗ガン剤が使われるようになり、最近では分子標的薬と呼ばれる画期的なガン治療薬も注目をあびています。認知症の薬が登場しましたし、骨粗鬆症の治療も随分おこないやすくなりました。以前は打つ手がなかったリウマチなどの自己免疫疾患に対しても生物学的製剤が普及したことで患者さんのQOLが大きく改善したのは間違いありません。
しかし、すべての疾患を見渡したとき、過去四半世紀の薬の歴史のなかで抗HIV薬の発展ほどめざましいものは他に見当たりません。
80年代前半に急増したHIVは当初治療薬がまったくなく「死に至る病」でした。当初は男性同性愛者と薬物常用者(注射針の使い回し)に限定されていましたが、その後母子感染や男女間の性交渉でも感染するケースが急増し、一時は「エイズが世界を滅ぼす」とまで言われていました。これは何も悲観的な観測ではなく、冷静に分析したとしても、このまま治療薬が現れず予防措置が取られなければ数十年後には世界の人口が半減することも充分に考えられたのです。
そんななか、当初は抗ガン剤として開発されていたAZT(アジドチミジン、別名をZDV、またはジドブジンとも呼びます)に抗HIV作用があることが発見され(ちなみにこれを発見したのは元熊本大学医学部教授(現在国立国際医療研究センター臨床研究センター長)の満屋裕明氏です)、1987年に世界初の抗HIV薬として米国で処方がおこなわれるようになりました。日本は新薬の承認が世界に遅れがちですがAZTに関しては米国と同様1987年に処方が開始されています。
世界初の抗HIV薬ということで当時はマスコミもこぞってこのAZTという薬を取り上げていました。これでエイズの恐怖から解放されるかという期待が大きかったのですが、発売からそれほど時間がたっていない頃から、すべての人に効くわけではないこと、副作用で続けられない人がいること、最初は効いていてもそのうちに耐性ができて効かなくなることも多いこと、などが取り上げられるようになっていきました。
しかし、HIVの治療に成功すれば、世界の何十億という人の命を救うことができますし、巨額の富を手にすることもできるわけです。世界中の製薬会社が色めきたってAZTに続く抗HIV薬の開発に力を入れることになります。そしてその結果、様々な有効な抗HIV薬が登場し、それらを組み合わせることで耐性をおこりにくくすることにも成功し、その後のさらなる発展で、1日1回1錠のみでコントロールできる薬まで登場したのです。
と、ここまでが私が最近まで認識していた抗HIV薬の歴史なのですが、実情はこれほど単純な話でもないようです。製薬会社が使命と金銭的魅力から開発に積極的になった、というそれだけの話ではなく、開発や普及には患者側の強い社会活動及び社会運動があった、ということを私は最近ある映画を観て初めて知りました。
その映画とは『ダラス・バイヤーズクラブ』です。これはHIV陽性のある男性患者が抗HIV薬を密輸し密売する話なのですが実話に基づいているそうです。あらすじを簡単に紹介しておくと次のようになります。(ただし映画の話を詳しく書きすぎると「ネタバレ」とレッテルを貼られ一部の人から非難されるようですので、おおまかな流れだけを紹介しておきます。それでも「先に映画を観たい」という人は次のパラグラフはとばしてください)
マシュー・マコノヒー演じる主人公のロン・ウッドルーフは実在した人物。1985年ダラス、仕事中の事故で救急搬送されそこでHIV陽性であることが判明します。「余命30日」と宣告され最初はそれに反発しますがやがて感染したことを受け入れます。当時有効な薬はありませんでしたがAZTという新薬が治験中であることを知り不正な方法で入手します。しかしそれができなくなったために国境を越えてメキシコの医師を訪ねます。そこですぐれた抗HIV薬があることを知りますが米国では承認されていないことから密輸を試みます。そして自分が助かるだけでなく他人も助けるために(というより金儲けのために)「ダラス・バイヤーズクラブ」(以下DBC)という会員制のクラブをつくり会費を払った患者に薬を支給します。これが大盛況で連日DBCには行列ができます。薬の種類を広げるためにロンは世界各国に薬の買い付けに出かけ密輸を重ねていきます。映画では日本も登場します。ロンに大金を積まれた日本の悪徳医師は不正にインターフェロンを横流しします。(インターフェロンがHIVに効くわけではないのですが当時は有効である可能性が指摘されていたのです) DBCは有名になり多くの患者さんに喜ばれていましたが違法行為であることには変わりありません。そこで司法が介入することになります・・・。
と、あらすじはこんな感じです。この映画の前半では抗HIV薬のことよりも、当時のHIVの社会状況の描かれ方が興味深いと思います。冒頭のシーンで、主人公のロンが、新聞に載っていたあるゲイの有名人がエイズで死亡したニュースについて差別的なコメントをします。当時のアメリカ(というよりは世界中)ではエイズとは「ゲイの病」だったのです。そして少なくとも当時はゲイとは「差別される対象」だったのです。ロンはストレートであり、かつゲイフォビア(ゲイを差別する人)です。
ロンは感染の事実を周囲の男友達に伝えるのですが、「お前はゲイだったのか」となじられ、男友達から嫌がらせを受けるようになります。80年代のこの当時、ゲイは社会的に相当生きにくい世の中であったことが分かります。(ちなみに2014年4月現在、アメリカでは18の州と地域(ワシントンD.C.)で同性婚が認められていますが、ダラスのあるテキサス州では今も認められていません)
ロンは電気技師であり、HIVの宣告を受けてすぐに図書館で医学論文を検索していることからも知的レベルは低くないことが分かります。ドラッグには耽溺していますが針の使い回しはしていません。(映画ではアルコールとタバコに加え、コカインを吸入するシーンが登場します。ちなみにマシュー・マコノヒー自身はマリファナ所持で逮捕歴があります) 注射針の痕がある女性(セックスワーカー)とセックスをしている回想シーンがでてきますから、おそらくロンはその女性から感染したのでしょう。
映画ではAZTの製薬会社や治験をおこなっている病院が「悪」のように描かれていますが、余命30日と宣告されたロンがメキシコに渡航するまでの数ヶ月生き延びたのはAZTのおかげです。一方で、ロンがメキシコから密輸したddCやペプチドTが「副作用のないすぐれた薬」であるかのように扱われていますから、ここは制作の仕方に偏りがあると言わざるを得ません。ロンが税関で薬について尋問を受けるシーンでは、あるときは神父になりすまし、あるときは医師の演技をするわけですが、密輸がこんなに簡単にできてしまうということが信じられません。またロンの主治医の女医がロンから影響を受け、個人的に食事を共にしたりDBCのチラシを病院に置いたりして病院を解雇されるのですが、医師がこのような行為にでるとは到底思えません。この映画は「実話に基づいて」とされていますが、どこまで実話に近いのか疑問が残ります。
とはいえ、私はこの映画を批判したいわけではありません。ロンのつくった密売組織DBCは違法ではあるものの、こういった組織の社会的な影響があったからこそ、アメリカでは海外の抗HIV薬の輸入販売が促進されたのは事実でしょうし、患者が薬剤を使う権利が注目されるようになったのも間違いないでしょう。そして、このようなアメリカの動きが世界中のHIV陽性者に希望を与えることにつながったのです。ということは、元ゲイフォビアでドラッグジャンキーのロン・ウッドルーフというひとりの無法者が、世界中のHIV陽性者に間接的に希望を与えたともいえるわけです。つまり、道徳観念がまるでない自らの欲望にしか興味のない男が、ある意味では抗HIV薬の歴史に登場すべき人物、と言えなくもないのです。
『ダラス・バイヤーズクラブ』は単館系の映画館での上映であり、ハリウッド映画のように、観た者全員が感動に包まれる、というようなタイプの映画ではありません。主人公のロンには共感できる部分も多いものの、最後まで反道徳的な側面を残していますし、その反道徳的な一面はマフィア映画ややくざ映画で描かれる仁義や任侠とは質の異なるものです。
それでも一見の価値ある映画だと私は感じました。
しかし、すべての疾患を見渡したとき、過去四半世紀の薬の歴史のなかで抗HIV薬の発展ほどめざましいものは他に見当たりません。
80年代前半に急増したHIVは当初治療薬がまったくなく「死に至る病」でした。当初は男性同性愛者と薬物常用者(注射針の使い回し)に限定されていましたが、その後母子感染や男女間の性交渉でも感染するケースが急増し、一時は「エイズが世界を滅ぼす」とまで言われていました。これは何も悲観的な観測ではなく、冷静に分析したとしても、このまま治療薬が現れず予防措置が取られなければ数十年後には世界の人口が半減することも充分に考えられたのです。
そんななか、当初は抗ガン剤として開発されていたAZT(アジドチミジン、別名をZDV、またはジドブジンとも呼びます)に抗HIV作用があることが発見され(ちなみにこれを発見したのは元熊本大学医学部教授(現在国立国際医療研究センター臨床研究センター長)の満屋裕明氏です)、1987年に世界初の抗HIV薬として米国で処方がおこなわれるようになりました。日本は新薬の承認が世界に遅れがちですがAZTに関しては米国と同様1987年に処方が開始されています。
世界初の抗HIV薬ということで当時はマスコミもこぞってこのAZTという薬を取り上げていました。これでエイズの恐怖から解放されるかという期待が大きかったのですが、発売からそれほど時間がたっていない頃から、すべての人に効くわけではないこと、副作用で続けられない人がいること、最初は効いていてもそのうちに耐性ができて効かなくなることも多いこと、などが取り上げられるようになっていきました。
しかし、HIVの治療に成功すれば、世界の何十億という人の命を救うことができますし、巨額の富を手にすることもできるわけです。世界中の製薬会社が色めきたってAZTに続く抗HIV薬の開発に力を入れることになります。そしてその結果、様々な有効な抗HIV薬が登場し、それらを組み合わせることで耐性をおこりにくくすることにも成功し、その後のさらなる発展で、1日1回1錠のみでコントロールできる薬まで登場したのです。
と、ここまでが私が最近まで認識していた抗HIV薬の歴史なのですが、実情はこれほど単純な話でもないようです。製薬会社が使命と金銭的魅力から開発に積極的になった、というそれだけの話ではなく、開発や普及には患者側の強い社会活動及び社会運動があった、ということを私は最近ある映画を観て初めて知りました。
その映画とは『ダラス・バイヤーズクラブ』です。これはHIV陽性のある男性患者が抗HIV薬を密輸し密売する話なのですが実話に基づいているそうです。あらすじを簡単に紹介しておくと次のようになります。(ただし映画の話を詳しく書きすぎると「ネタバレ」とレッテルを貼られ一部の人から非難されるようですので、おおまかな流れだけを紹介しておきます。それでも「先に映画を観たい」という人は次のパラグラフはとばしてください)
マシュー・マコノヒー演じる主人公のロン・ウッドルーフは実在した人物。1985年ダラス、仕事中の事故で救急搬送されそこでHIV陽性であることが判明します。「余命30日」と宣告され最初はそれに反発しますがやがて感染したことを受け入れます。当時有効な薬はありませんでしたがAZTという新薬が治験中であることを知り不正な方法で入手します。しかしそれができなくなったために国境を越えてメキシコの医師を訪ねます。そこですぐれた抗HIV薬があることを知りますが米国では承認されていないことから密輸を試みます。そして自分が助かるだけでなく他人も助けるために(というより金儲けのために)「ダラス・バイヤーズクラブ」(以下DBC)という会員制のクラブをつくり会費を払った患者に薬を支給します。これが大盛況で連日DBCには行列ができます。薬の種類を広げるためにロンは世界各国に薬の買い付けに出かけ密輸を重ねていきます。映画では日本も登場します。ロンに大金を積まれた日本の悪徳医師は不正にインターフェロンを横流しします。(インターフェロンがHIVに効くわけではないのですが当時は有効である可能性が指摘されていたのです) DBCは有名になり多くの患者さんに喜ばれていましたが違法行為であることには変わりありません。そこで司法が介入することになります・・・。
と、あらすじはこんな感じです。この映画の前半では抗HIV薬のことよりも、当時のHIVの社会状況の描かれ方が興味深いと思います。冒頭のシーンで、主人公のロンが、新聞に載っていたあるゲイの有名人がエイズで死亡したニュースについて差別的なコメントをします。当時のアメリカ(というよりは世界中)ではエイズとは「ゲイの病」だったのです。そして少なくとも当時はゲイとは「差別される対象」だったのです。ロンはストレートであり、かつゲイフォビア(ゲイを差別する人)です。
ロンは感染の事実を周囲の男友達に伝えるのですが、「お前はゲイだったのか」となじられ、男友達から嫌がらせを受けるようになります。80年代のこの当時、ゲイは社会的に相当生きにくい世の中であったことが分かります。(ちなみに2014年4月現在、アメリカでは18の州と地域(ワシントンD.C.)で同性婚が認められていますが、ダラスのあるテキサス州では今も認められていません)
ロンは電気技師であり、HIVの宣告を受けてすぐに図書館で医学論文を検索していることからも知的レベルは低くないことが分かります。ドラッグには耽溺していますが針の使い回しはしていません。(映画ではアルコールとタバコに加え、コカインを吸入するシーンが登場します。ちなみにマシュー・マコノヒー自身はマリファナ所持で逮捕歴があります) 注射針の痕がある女性(セックスワーカー)とセックスをしている回想シーンがでてきますから、おそらくロンはその女性から感染したのでしょう。
映画ではAZTの製薬会社や治験をおこなっている病院が「悪」のように描かれていますが、余命30日と宣告されたロンがメキシコに渡航するまでの数ヶ月生き延びたのはAZTのおかげです。一方で、ロンがメキシコから密輸したddCやペプチドTが「副作用のないすぐれた薬」であるかのように扱われていますから、ここは制作の仕方に偏りがあると言わざるを得ません。ロンが税関で薬について尋問を受けるシーンでは、あるときは神父になりすまし、あるときは医師の演技をするわけですが、密輸がこんなに簡単にできてしまうということが信じられません。またロンの主治医の女医がロンから影響を受け、個人的に食事を共にしたりDBCのチラシを病院に置いたりして病院を解雇されるのですが、医師がこのような行為にでるとは到底思えません。この映画は「実話に基づいて」とされていますが、どこまで実話に近いのか疑問が残ります。
とはいえ、私はこの映画を批判したいわけではありません。ロンのつくった密売組織DBCは違法ではあるものの、こういった組織の社会的な影響があったからこそ、アメリカでは海外の抗HIV薬の輸入販売が促進されたのは事実でしょうし、患者が薬剤を使う権利が注目されるようになったのも間違いないでしょう。そして、このようなアメリカの動きが世界中のHIV陽性者に希望を与えることにつながったのです。ということは、元ゲイフォビアでドラッグジャンキーのロン・ウッドルーフというひとりの無法者が、世界中のHIV陽性者に間接的に希望を与えたともいえるわけです。つまり、道徳観念がまるでない自らの欲望にしか興味のない男が、ある意味では抗HIV薬の歴史に登場すべき人物、と言えなくもないのです。
『ダラス・バイヤーズクラブ』は単館系の映画館での上映であり、ハリウッド映画のように、観た者全員が感動に包まれる、というようなタイプの映画ではありません。主人公のロンには共感できる部分も多いものの、最後まで反道徳的な側面を残していますし、その反道徳的な一面はマフィア映画ややくざ映画で描かれる仁義や任侠とは質の異なるものです。
それでも一見の価値ある映画だと私は感じました。