GINAと共に
第76回 注目されないHIV予防薬(2012年10月)
2012年7月16日、FDA(米国食品医薬品局)は、世界初のHIVの予防薬として「テムトリシタビン・テノホビル ジソプロキシルフマル」(商品名はツルバダ(Truvada)、以下「ツルバダ」とします)を承認しました。ツルバダは現在もHIVの「治療薬」としては世界中で用いられていますが、「予防薬」としては承認されていませんでした。
このニュースは瞬く間に世界中を駆け巡り、日本でも一般紙を含むメディアで報道されました。FDA長官のMargaret A. Hamburg氏は、ツルバダのHIV予防薬としての承認は「HIVとの戦いにおける記念すべきマイルストーン(an important milestone in our fight against HIV)」との声明を発表しました。
マイルストーンというのは、元々は「道しるべ」のことですが、「画期的な出来事」とか「節目」といった意味です。しかし、FDA長官がマイルストーンという言葉を使った割には、その後の報道をほとんど聞きませんし、これに対するコメントを発表した日本人の識者も私の知る限りほとんどいません。特に、日本では、この発表の直後には確かに一般紙でも報じられましたが、その後週刊誌に取り上げられたり、エイズ関連のウェブサイトやメーリングリストで活発な討論が繰り広げられたり、といったこともありませんでした。
私自身はこの報道を聞いたときに感じたことは、「予防薬として承認されたのはよかったけれど、コストを誰がどのように負担するかは論じられていない。高いコストが問題になるのは必然であり、コスト問題を解決しない限り、HIV予防薬などというのは<絵に描いた餅>である」、というものでした。
いずれ、医師を含む識者や、HIV陽性の人のパートナーなどがコスト問題について何らかのコメントを発表していき世間の関心を呼ぶことになるだろう、と私はみていたのですが、意外なことに、私の知る限り、日本においてはほとんどこの件に関する意見を聞きません。
さて、今後ツルバダがHIV予防薬として普及していくかどうかを論じる前に、まずは、どのような経緯でFDAがツルバダを予防薬として承認したか、についてみておきたいと思います。
今回ツルバダが予防薬として承認されることになった、有効性と安全性に対する調査は2つあります。1つは「iPrEx試験」、もうひとつは「Partners PrEx試験」と命名されています。
iPrEX試験は、不特定多数との相手との性交渉がある2,499人を対象とし、ツルバダとプラセボ(偽薬)を投与したそれぞれのグループでHIV感染の有無を比較しています。その結果、ツルバダを投与したグループは、プラセボを投与したグループに比べて42%の感染リスク低下が認められたそうです。
Partners PrEx試験では、HIV陽性のパートナーをもつ4,758人を対象とし、ツルバダを投与したグループはプラセボを投与したグループに比べ、感染リスクが75%低下していたそうです。
安全性については、両方の調査で、下痢、悪心、腹痛、頭痛、体重減少などの報告がありましたが、これらは従来から報告されている軽症の副作用であり、重篤な有害事象の発現はごくわずかだったそうです。
これら2つの調査結果を検討した上で、FDAはツルバダの予防的投与を承認したわけですが、承認されたからといって、誰もがツルバダを予防的に服用できるわけではありません。予防内服ができるのは、(当たり前ですが)HIVに感染していないことが条件です。ですから使用開始前にはHIVに感染していないかどうかの検査をしなければならないことになっています。さらに、ツルバダの投薬が開始された後も、少なくとも3ヶ月に一度程度は感染していないかどうかを確認しなければならないことになっています。また、ツルバダの副作用がでていないかどうかを確認するための採血も定期的に必要になります。
コストに関しては、2012年7月20日付けのReutersの記事を読むと、ツルバダの予防内服には年間14,000USドル(約1,100,000円)の費用が必要になるとされています。アメリカでこれだけの費用を負担してHIVの予防ができる人がどれだけいるのだろう・・、と感じます。
日本では、他の多くの薬と同様、抗HIV薬も諸外国よりも高価であり、ツルバダの薬価(薬1錠あたりの公定価格)は3,756.30円です。日本ではツルバダが予防薬として承認されたとしても保険適用となることはまずありえないでしょうから、まるまる自己負担となります。さらに診察代、検査代も自費となり、自費診療では消費税などもかかってくるでしょうから、年間150万前後の費用がかかることが予想できます。果たして、HIV陽性のパートナーを持つ日本人でこの金額を負担できる人はどれだけいるのでしょうか。
米国(FDA)がツルバダの予防投与を認めた理由は、「感染者を増やさないため」ですが、もう少し"泥臭く"考えてみたいと思います。どこの国でもそうですが、国は国のことを考えているのであって、個人のことを考えているわけではありません。おそらくFDAは次のように考えているはずです。
米国ではHIV予防や教育をこれまでおこなってきたが、それでもなお毎年約5万人の成人や思春期の子どもが新たにHIVに感染している。毎年5万人がHIVに感染することで必要になる医療費は相当な額になる。ツルバダは高価な薬だが、HIVの治療をおこなうことを考えれば随分と安くつく。(ツルバダはHIVの治療としては単独で用いられることはなく他のHIV薬と組み合わせて用います) つまり、国全体でみたときには、ツルバダをリスクのある人たちに予防的に内服してもらうのが結果として医療費を削減することになる。と、このようにFDAは判断しているわけです。
さらに、もう少し"きなくさい"観点から推論してみたいと思います。FDAの承認というのは世界中に影響を与えます。FDAが承認したなら、金銭的な問題がクリアできれば、例えばアフリカの貧しい国でも使うべき、ということに世論は納得します。しかし、当然アフリカの国々の政府には高価な薬を大量に購入する余裕はありませんし、ODAとして先進国から受ける支援も抗HIV薬のみに向けることもできません。では、金銭的な問題はどうしようもないのか、というとそういうわけでもありません。例えばゲイツ財団などは(私の知る限り「噂」の域を出ませんが)アフリカでのエイズ支援を積極的に考えており、ツルバダを大量購入することに前向きなのではないかと言われています。一方、ツルバダの製造元のGilead社としては、特許が切れて安い後発品(ジェネリック薬品)が登場する前に大量にさばいて在庫を処分してしまいたいと考えているのではないか、と指摘する声があります。
しかし、たとえ製造元の在庫処分という目的があったとしても、結果としてアフリカの必要としている人々にツルバダが行き渡り、HIVの新規感染が減少すれば、先にアメリカの話で述べたようにトータルでみた医療費が安くつくのは事実なわけです。
残念ながら日本では、HIV陽性者の(パートナーの)立場に立った議論も上がってこなければ、公衆衛生学的な観点からの議論も聞かれません。いったいこの国は、HIVの新規感染に対してどのように考えているのでしょうか。「だったらお前が立ち上がって世間の関心を高めるような努力をやれ!」と言われそうですが、私も実際そう思います。
これから私はこの問題を多くの人に問いかけていきたいと考えています。これを読まれたあなたも、「もしも自分のパートナーがHIV陽性だったら予防薬を使うべきか」という観点で考えてもらえれば、と思います。
参考:GINAと共に第61回(2011年7月) 「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」
このニュースは瞬く間に世界中を駆け巡り、日本でも一般紙を含むメディアで報道されました。FDA長官のMargaret A. Hamburg氏は、ツルバダのHIV予防薬としての承認は「HIVとの戦いにおける記念すべきマイルストーン(an important milestone in our fight against HIV)」との声明を発表しました。
マイルストーンというのは、元々は「道しるべ」のことですが、「画期的な出来事」とか「節目」といった意味です。しかし、FDA長官がマイルストーンという言葉を使った割には、その後の報道をほとんど聞きませんし、これに対するコメントを発表した日本人の識者も私の知る限りほとんどいません。特に、日本では、この発表の直後には確かに一般紙でも報じられましたが、その後週刊誌に取り上げられたり、エイズ関連のウェブサイトやメーリングリストで活発な討論が繰り広げられたり、といったこともありませんでした。
私自身はこの報道を聞いたときに感じたことは、「予防薬として承認されたのはよかったけれど、コストを誰がどのように負担するかは論じられていない。高いコストが問題になるのは必然であり、コスト問題を解決しない限り、HIV予防薬などというのは<絵に描いた餅>である」、というものでした。
いずれ、医師を含む識者や、HIV陽性の人のパートナーなどがコスト問題について何らかのコメントを発表していき世間の関心を呼ぶことになるだろう、と私はみていたのですが、意外なことに、私の知る限り、日本においてはほとんどこの件に関する意見を聞きません。
さて、今後ツルバダがHIV予防薬として普及していくかどうかを論じる前に、まずは、どのような経緯でFDAがツルバダを予防薬として承認したか、についてみておきたいと思います。
今回ツルバダが予防薬として承認されることになった、有効性と安全性に対する調査は2つあります。1つは「iPrEx試験」、もうひとつは「Partners PrEx試験」と命名されています。
iPrEX試験は、不特定多数との相手との性交渉がある2,499人を対象とし、ツルバダとプラセボ(偽薬)を投与したそれぞれのグループでHIV感染の有無を比較しています。その結果、ツルバダを投与したグループは、プラセボを投与したグループに比べて42%の感染リスク低下が認められたそうです。
Partners PrEx試験では、HIV陽性のパートナーをもつ4,758人を対象とし、ツルバダを投与したグループはプラセボを投与したグループに比べ、感染リスクが75%低下していたそうです。
安全性については、両方の調査で、下痢、悪心、腹痛、頭痛、体重減少などの報告がありましたが、これらは従来から報告されている軽症の副作用であり、重篤な有害事象の発現はごくわずかだったそうです。
これら2つの調査結果を検討した上で、FDAはツルバダの予防的投与を承認したわけですが、承認されたからといって、誰もがツルバダを予防的に服用できるわけではありません。予防内服ができるのは、(当たり前ですが)HIVに感染していないことが条件です。ですから使用開始前にはHIVに感染していないかどうかの検査をしなければならないことになっています。さらに、ツルバダの投薬が開始された後も、少なくとも3ヶ月に一度程度は感染していないかどうかを確認しなければならないことになっています。また、ツルバダの副作用がでていないかどうかを確認するための採血も定期的に必要になります。
コストに関しては、2012年7月20日付けのReutersの記事を読むと、ツルバダの予防内服には年間14,000USドル(約1,100,000円)の費用が必要になるとされています。アメリカでこれだけの費用を負担してHIVの予防ができる人がどれだけいるのだろう・・、と感じます。
日本では、他の多くの薬と同様、抗HIV薬も諸外国よりも高価であり、ツルバダの薬価(薬1錠あたりの公定価格)は3,756.30円です。日本ではツルバダが予防薬として承認されたとしても保険適用となることはまずありえないでしょうから、まるまる自己負担となります。さらに診察代、検査代も自費となり、自費診療では消費税などもかかってくるでしょうから、年間150万前後の費用がかかることが予想できます。果たして、HIV陽性のパートナーを持つ日本人でこの金額を負担できる人はどれだけいるのでしょうか。
米国(FDA)がツルバダの予防投与を認めた理由は、「感染者を増やさないため」ですが、もう少し"泥臭く"考えてみたいと思います。どこの国でもそうですが、国は国のことを考えているのであって、個人のことを考えているわけではありません。おそらくFDAは次のように考えているはずです。
米国ではHIV予防や教育をこれまでおこなってきたが、それでもなお毎年約5万人の成人や思春期の子どもが新たにHIVに感染している。毎年5万人がHIVに感染することで必要になる医療費は相当な額になる。ツルバダは高価な薬だが、HIVの治療をおこなうことを考えれば随分と安くつく。(ツルバダはHIVの治療としては単独で用いられることはなく他のHIV薬と組み合わせて用います) つまり、国全体でみたときには、ツルバダをリスクのある人たちに予防的に内服してもらうのが結果として医療費を削減することになる。と、このようにFDAは判断しているわけです。
さらに、もう少し"きなくさい"観点から推論してみたいと思います。FDAの承認というのは世界中に影響を与えます。FDAが承認したなら、金銭的な問題がクリアできれば、例えばアフリカの貧しい国でも使うべき、ということに世論は納得します。しかし、当然アフリカの国々の政府には高価な薬を大量に購入する余裕はありませんし、ODAとして先進国から受ける支援も抗HIV薬のみに向けることもできません。では、金銭的な問題はどうしようもないのか、というとそういうわけでもありません。例えばゲイツ財団などは(私の知る限り「噂」の域を出ませんが)アフリカでのエイズ支援を積極的に考えており、ツルバダを大量購入することに前向きなのではないかと言われています。一方、ツルバダの製造元のGilead社としては、特許が切れて安い後発品(ジェネリック薬品)が登場する前に大量にさばいて在庫を処分してしまいたいと考えているのではないか、と指摘する声があります。
しかし、たとえ製造元の在庫処分という目的があったとしても、結果としてアフリカの必要としている人々にツルバダが行き渡り、HIVの新規感染が減少すれば、先にアメリカの話で述べたようにトータルでみた医療費が安くつくのは事実なわけです。
残念ながら日本では、HIV陽性者の(パートナーの)立場に立った議論も上がってこなければ、公衆衛生学的な観点からの議論も聞かれません。いったいこの国は、HIVの新規感染に対してどのように考えているのでしょうか。「だったらお前が立ち上がって世間の関心を高めるような努力をやれ!」と言われそうですが、私も実際そう思います。
これから私はこの問題を多くの人に問いかけていきたいと考えています。これを読まれたあなたも、「もしも自分のパートナーがHIV陽性だったら予防薬を使うべきか」という観点で考えてもらえれば、と思います。
参考:GINAと共に第61回(2011年7月) 「緊急避妊と抗HIV薬予防投与」