GINAと共に
第68回2012年2月 からゆきさんを忘るべからず
私が中学生だった頃ですから1980年代の前半、「じゃぱゆきさん」という言葉が流行りました。フィリピンやタイをはじめとする東南アジアの国々から日本に出稼ぎにやってきた若い女性たちのことを指した言葉です。当事発展途上国と呼ばれていた東南アジアの国々から若い女性たちが経済大国である日本にやってきて、たどりつく仕事と言えば「売春」につながるものであることは中学生の私にも分かりました。当事の私は、「発展途上国に女性として生まれると気の毒・・・。日本はいい国だ・・・」、と単純に感じていました。
その数年後、大学生になった私は(当事は社会学部に在籍していました)、近代社会について書かれた書物を読んでいるとき、私が中学生のときに抱いたじゃぱゆきさんに対する感想が、なんてのんきなものだったのか、と痛感することになりました。じゃぱゆきさんという言葉が「からゆきさん」から生まれたのだということを私は大学生になって初めて知ったのです。
さらにそれから十数年がたち、タイのエイズ問題に関わるようになり、あらためて「からゆきさん」に思いを巡らし、いくつかの文献をあたることになりました。
からゆきさんとは、19世紀後半から20世紀初頭に、東南アジアやソ連、中国などに渡って娼婦として働いた日本人女性のことを言います。なかには、ハワイやカリフォルニア、南米、ヨーロッパ、アフリカ(注1)などにも渡った女性がいるそうで、ほとんど世界全域に出向いていたことになります。正確な統計はありませんが、からゆきさんとして世界各国に渡った日本人女性は20万人とも30万人とも言われています。
なぜ当事の若い女性たちは、からゆきさんという道を選択しなければならなかったのかというと、それはもちろん「貧困」に他なりません。つまり、1970年代後半から1980年代にかけてフィリピンやタイからはるばると日本に出稼ぎにやってきた女性たちと事の本質は同じなわけです。
日本という国は、太平洋戦争の敗北後、努力を重ねたことで世界第2位の経済大国となったんだ、ということを子供のときはよく聞かされていました。戦前の日本が貧しかったということは何度も聞かされましたが、それでも、海外に娼婦として出稼ぎにいかなければならない若い女性が大勢いたということに私は驚きました。
ただし、30万人もいたとされるからゆきさんについては、歴史上「日本の恥」とも言えるわけで、「からゆきさん」という言葉は戦前も戦後も公の場で聞くことはそれほどなかったそうです。
そんなからゆきさんが一躍有名になったのは、1972年に出版された、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』だと言われています。この本は、著者の山崎氏が、熊本の天草に渡り、「元からゆきさん」の女性を探し当て、自分の身分を偽りその女性と同居させてもらい、からゆきさんの当事の様子を聞きだしてまとめたものです。この本は、身分を偽って取材をしたこと、取材のなかで他人の写真を勝手に拝借していること、プライバシーに配慮しているとはいえ結果として天草のイメージを損ねたことなどから、批判的な意見も多いのですが、内容・表現ともかなり読み応えのある良書だと私は感じています。
この本は、後に『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで映画化され、高い評価を受けています。1974年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を獲り、監督・女優賞も受賞しています。海外でも高い評価を受けたようで、主役のからゆきさんを演じた田中絹代はベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞しています。
『サンダカン八番娼館』以降も、からゆきさんに関する書物は出ており、21世紀になってから出版されたものもあります。そのなかの何冊かを読んでみたのですが、(どこまで正確に取材されているかという問題はありますが)からゆきさんたちは、相当過酷な環境で酷使されていたのは間違いないようです。
まず、海外に渡ること自体がかなりの苦労を伴います。からゆきさんの仕事自体は1920年に廃娼令が施行されるまでははっきりと禁じられていなかったようですが(注2)、渡航自体は不法入国となりますから簡単にはいきません。ですから、大型船の貨物室の荷物に隠れたり、使っていない給水タンクの中に隠れたりして密入国していたそうです。
ひとつ有名なエピソードを紹介しておくと、ある船に乗っていた船員が水道の蛇口をひねると異臭がすることに気付いたそうです。そしてその原因を調べると、給水タンクで溺死していた複数の若い女性が見つかったそうです。これは当初、日本を出航したときには使われない予定だった予備タンクに、数人のからゆきさん(になる予定の女性たち)が隠れており、途中立ち寄った港で当初の予定が変更され水が入れられたことで、そのなかに潜んでいた女性たちが溺死してしまったというわけです。
ここまで無残な事件までいかなくても、貨物室や地下室に潜んでいるとそのうちに全身が糞尿まみれになります。このような状態が数十日も続くわけですから、おそらく相当な数の若き日本女子が外国にたどりつくまでに命を落としていたことが想像できます。小さな船で密入国を試みた女性たちのいくらかは転覆で命を失くしていたことでしょう。
貧困な家庭に生まれた当事10代(10歳未満の少女も少なくなかったそうです)の女性たちは、こんなに苦労して外国にたどりつき、売春をさせられていたのです。戦後の占領統治下で、在日米軍将兵を顧客としていた日本人の娼婦がいたという歴史も恥ずべきものですが、その少し前まで、世界中で、欧米人だけでなくアジア人、アフリカ人を含む多くの男性から日本人の女子が弄ばれていた、という歴史を、忘れたいですが、忘れてはいけないのではないか、と私は思います。
以前、このコラムの「自分の娘を売るということ」で、自分や自分の娘を売る前に、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらうべき」、ということを述べました。
進歩的な考えを持つ人たちのなかには「セックスワークの自由」を主張する人がいて、そのような考え方に対して、私は個人的にはあまり好きにはなれませんが、そういった自由が一部の領域では認められるべきではないか、とも思います(例えば身体障害者に対する性的サービスの供給)。しかし、(そのようなことを"安易に"する人はいないと思いますが)、自分の体を売ることを決意する前に、かつての日本に数多く存在したからゆきさんのことについて思いを巡らせるべきだと思うのです。
残念ながら、少なくなってきたとはいえ、今でもタイの東北部(イサーン地方)や北部の一部の地域では、貧困から自分の娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない人たちもいます。以前このコラムの第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」で述べましたが、映画『闇の子供たち』の冒頭シーンにあるような人身売買のブローカーが女子を親から買っているのは事実です。
私がタイのエイズ問題に関わり始めたとき、自分の娘を売る親がいるということを知り、まず驚き、それが怒りや悲しみにかわり、その後現実を知り理解するようになりましたが、改めて考えてみると、当初私が感じた「タイ人はなんて非道なんだ」という印象は完全に誤りであり、かつての日本にも同じことをせざるを得ない時代があったのです。
売春の問題が語られるとき、倫理観や道徳観が持ち出されることが多く、また、「後悔することになりますよ・・・」とか「性感染症のリスクが・・」と言った話になり、これらは間違ってはいないわけですが、<貧困>という差し迫った現実が立ちはだかれば、このような理屈は一切意味をなさなくなることもまた事実です。
我々は、そのことをかつての日本に存在していた「からゆきさん」から学ぶべきではないでしょうか。
注1:(からゆきさんを美化することに個人的には抵抗があるのですが)からゆきさんの美談として、「アフリカのマダカスカル島に渡っていたからゆきさんが、バルチック艦隊の情報を日本に知らせ、これにより日本軍が情報をつかみ日露戦争勝利につながった」、とするものがあります。
注2:かつての日本は、世界的にみて売買春に対する規則が相当緩やかだったようです。本文で述べたように廃娼令が施行されたのは1920年になってからですし、公娼廃止を謳った芸娼妓解放令が1872年に出されたのは"外圧"を受けてのことです。この"外圧"は「マリア・ルーズ号事件」と命名されています。簡単に紹介しておくと、1872年横浜港に寄港していたペルーのマリア・ルーズ号の船内で中国人の労働者が奴隷のように扱われていたことに対し「虐待事件」として日本の外務省管下で裁判がおこなわれました。その裁判で、被告となった船長が「日本ではもっとひどい奴隷契約があるではないか。それは政府が公認している遊女である」といったようなことを述べ、これを受けて同年に芸娼妓解放令が発令されたそうです。
参考:GINAと共に
第52回(2010年10月) 「自分の娘を売るということ」
第27回(2008年9月) 「幼児買春と臓器移植」
『サンダカン八番娼館』(文春文庫) 山崎朋子
『からゆきさん物語』(不知火書房)宮崎康平
『北のからゆきさん』( 共栄書房)倉橋正直
その数年後、大学生になった私は(当事は社会学部に在籍していました)、近代社会について書かれた書物を読んでいるとき、私が中学生のときに抱いたじゃぱゆきさんに対する感想が、なんてのんきなものだったのか、と痛感することになりました。じゃぱゆきさんという言葉が「からゆきさん」から生まれたのだということを私は大学生になって初めて知ったのです。
さらにそれから十数年がたち、タイのエイズ問題に関わるようになり、あらためて「からゆきさん」に思いを巡らし、いくつかの文献をあたることになりました。
からゆきさんとは、19世紀後半から20世紀初頭に、東南アジアやソ連、中国などに渡って娼婦として働いた日本人女性のことを言います。なかには、ハワイやカリフォルニア、南米、ヨーロッパ、アフリカ(注1)などにも渡った女性がいるそうで、ほとんど世界全域に出向いていたことになります。正確な統計はありませんが、からゆきさんとして世界各国に渡った日本人女性は20万人とも30万人とも言われています。
なぜ当事の若い女性たちは、からゆきさんという道を選択しなければならなかったのかというと、それはもちろん「貧困」に他なりません。つまり、1970年代後半から1980年代にかけてフィリピンやタイからはるばると日本に出稼ぎにやってきた女性たちと事の本質は同じなわけです。
日本という国は、太平洋戦争の敗北後、努力を重ねたことで世界第2位の経済大国となったんだ、ということを子供のときはよく聞かされていました。戦前の日本が貧しかったということは何度も聞かされましたが、それでも、海外に娼婦として出稼ぎにいかなければならない若い女性が大勢いたということに私は驚きました。
ただし、30万人もいたとされるからゆきさんについては、歴史上「日本の恥」とも言えるわけで、「からゆきさん」という言葉は戦前も戦後も公の場で聞くことはそれほどなかったそうです。
そんなからゆきさんが一躍有名になったのは、1972年に出版された、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』だと言われています。この本は、著者の山崎氏が、熊本の天草に渡り、「元からゆきさん」の女性を探し当て、自分の身分を偽りその女性と同居させてもらい、からゆきさんの当事の様子を聞きだしてまとめたものです。この本は、身分を偽って取材をしたこと、取材のなかで他人の写真を勝手に拝借していること、プライバシーに配慮しているとはいえ結果として天草のイメージを損ねたことなどから、批判的な意見も多いのですが、内容・表現ともかなり読み応えのある良書だと私は感じています。
この本は、後に『サンダカン八番娼館 望郷』というタイトルで映画化され、高い評価を受けています。1974年のキネマ旬報ベスト・テン第1位を獲り、監督・女優賞も受賞しています。海外でも高い評価を受けたようで、主役のからゆきさんを演じた田中絹代はベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞しています。
『サンダカン八番娼館』以降も、からゆきさんに関する書物は出ており、21世紀になってから出版されたものもあります。そのなかの何冊かを読んでみたのですが、(どこまで正確に取材されているかという問題はありますが)からゆきさんたちは、相当過酷な環境で酷使されていたのは間違いないようです。
まず、海外に渡ること自体がかなりの苦労を伴います。からゆきさんの仕事自体は1920年に廃娼令が施行されるまでははっきりと禁じられていなかったようですが(注2)、渡航自体は不法入国となりますから簡単にはいきません。ですから、大型船の貨物室の荷物に隠れたり、使っていない給水タンクの中に隠れたりして密入国していたそうです。
ひとつ有名なエピソードを紹介しておくと、ある船に乗っていた船員が水道の蛇口をひねると異臭がすることに気付いたそうです。そしてその原因を調べると、給水タンクで溺死していた複数の若い女性が見つかったそうです。これは当初、日本を出航したときには使われない予定だった予備タンクに、数人のからゆきさん(になる予定の女性たち)が隠れており、途中立ち寄った港で当初の予定が変更され水が入れられたことで、そのなかに潜んでいた女性たちが溺死してしまったというわけです。
ここまで無残な事件までいかなくても、貨物室や地下室に潜んでいるとそのうちに全身が糞尿まみれになります。このような状態が数十日も続くわけですから、おそらく相当な数の若き日本女子が外国にたどりつくまでに命を落としていたことが想像できます。小さな船で密入国を試みた女性たちのいくらかは転覆で命を失くしていたことでしょう。
貧困な家庭に生まれた当事10代(10歳未満の少女も少なくなかったそうです)の女性たちは、こんなに苦労して外国にたどりつき、売春をさせられていたのです。戦後の占領統治下で、在日米軍将兵を顧客としていた日本人の娼婦がいたという歴史も恥ずべきものですが、その少し前まで、世界中で、欧米人だけでなくアジア人、アフリカ人を含む多くの男性から日本人の女子が弄ばれていた、という歴史を、忘れたいですが、忘れてはいけないのではないか、と私は思います。
以前、このコラムの「自分の娘を売るということ」で、自分や自分の娘を売る前に、「自分たちのつまらない欲望からではなく、実際に生死をさまようほどの境遇から子供を売らざるを得なかった人たちのことを考えてもらうべき」、ということを述べました。
進歩的な考えを持つ人たちのなかには「セックスワークの自由」を主張する人がいて、そのような考え方に対して、私は個人的にはあまり好きにはなれませんが、そういった自由が一部の領域では認められるべきではないか、とも思います(例えば身体障害者に対する性的サービスの供給)。しかし、(そのようなことを"安易に"する人はいないと思いますが)、自分の体を売ることを決意する前に、かつての日本に数多く存在したからゆきさんのことについて思いを巡らせるべきだと思うのです。
残念ながら、少なくなってきたとはいえ、今でもタイの東北部(イサーン地方)や北部の一部の地域では、貧困から自分の娘を女衒(ぜげん)に売らなければならない人たちもいます。以前このコラムの第27回(2008年9月)「幼児買春と臓器移植」で述べましたが、映画『闇の子供たち』の冒頭シーンにあるような人身売買のブローカーが女子を親から買っているのは事実です。
私がタイのエイズ問題に関わり始めたとき、自分の娘を売る親がいるということを知り、まず驚き、それが怒りや悲しみにかわり、その後現実を知り理解するようになりましたが、改めて考えてみると、当初私が感じた「タイ人はなんて非道なんだ」という印象は完全に誤りであり、かつての日本にも同じことをせざるを得ない時代があったのです。
売春の問題が語られるとき、倫理観や道徳観が持ち出されることが多く、また、「後悔することになりますよ・・・」とか「性感染症のリスクが・・」と言った話になり、これらは間違ってはいないわけですが、<貧困>という差し迫った現実が立ちはだかれば、このような理屈は一切意味をなさなくなることもまた事実です。
我々は、そのことをかつての日本に存在していた「からゆきさん」から学ぶべきではないでしょうか。
注1:(からゆきさんを美化することに個人的には抵抗があるのですが)からゆきさんの美談として、「アフリカのマダカスカル島に渡っていたからゆきさんが、バルチック艦隊の情報を日本に知らせ、これにより日本軍が情報をつかみ日露戦争勝利につながった」、とするものがあります。
注2:かつての日本は、世界的にみて売買春に対する規則が相当緩やかだったようです。本文で述べたように廃娼令が施行されたのは1920年になってからですし、公娼廃止を謳った芸娼妓解放令が1872年に出されたのは"外圧"を受けてのことです。この"外圧"は「マリア・ルーズ号事件」と命名されています。簡単に紹介しておくと、1872年横浜港に寄港していたペルーのマリア・ルーズ号の船内で中国人の労働者が奴隷のように扱われていたことに対し「虐待事件」として日本の外務省管下で裁判がおこなわれました。その裁判で、被告となった船長が「日本ではもっとひどい奴隷契約があるではないか。それは政府が公認している遊女である」といったようなことを述べ、これを受けて同年に芸娼妓解放令が発令されたそうです。
参考:GINAと共に
第52回(2010年10月) 「自分の娘を売るということ」
第27回(2008年9月) 「幼児買春と臓器移植」
『サンダカン八番娼館』(文春文庫) 山崎朋子
『からゆきさん物語』(不知火書房)宮崎康平
『北のからゆきさん』( 共栄書房)倉橋正直