GINAと共に
第65回 HIV陽性者に対する就職差別(2011年11月)
「先生、もう疲れました。先週正式に退職しました。明日実家のある宮崎に帰ります・・・」
これはあるHIV陽性の30代男性の患者さん(仮にAさんとしておきます)が診察室で私に話された言葉です(注1)。Aさんは、元々じんましんや風邪などのプライマリケアで、ときどき私のもとを受診していましたが、あるとき、1週間も下痢と発熱が続いている、と言って来られました。診察の結果、Aさんの診断は「急性HIV感染症」。HIVに感染し、2週間ほどたったときに下痢や発熱などが生じた、というわけです。
後から振り返ってみれば、思い当たることがないわけではありませんでしたが、Aさんにしてみると、「まさかそんなことでHIVに感染するなんて・・・」という気持ちだったようです。Aさんは、感染当初、自分がHIVに感染したという事実を受け入れることができませんでした。診察室でのAさんの様子は、ときには泣き崩れ、ときにはうつ状態となりため息をつくばかり、またときにやり場がなく矛先をどこに向けていいか分からない怒りに苦しんでいる、といったような感じでした。
感染が判って2ヶ月ほどたった頃、私がすすめたこともありAさんは抗うつ薬を飲みだしました。この薬がAさんには合ったようで、特に副作用もなく、多少のアップダウンはあるものの、何とか日常生活は問題なく営めるようになりました。
AさんにHIV感染を伝えたとき、私はひとつのことを約束してもらっていました。それは、「HIVに感染していることを職場には言わない」ということです。残念ながら、現在の日本ではHIVに対する偏見が根強く、HIV陽性であることをカムアウトすれば不利益を被ることが少なくありません。これまで、職場でHIV陽性であることを伝えて退職を余儀なくされた患者さんを何人もみてきている私は、Aさんに同じ体験をしてほしくなかったのです。
ところがある日、Aさんは職場でHIV陽性であることを伝えてしまったのです。Aさんは最後まで「職場に伝えたことを後悔していない」と言っていましたが、主治医である私は非常に複雑な気持ちです。
HIV感染がわかると、Aさんがそうであったように、悲しみや怒り、抑うつ気分が出現しますが、ときに躁(そう)状態となりハイテンションになることもあります。そして、このときに他人にHIV陽性であることをカムアウトする人がいるのです。しかし、Aさんの場合はそうではありませんでした。抗うつ薬の効果もあったのかもしれませんが、Aさんの精神状態は安定しており、一次的な躁気分から職場にカムアウトしたわけではありません。
Aさんの職場は中規模の工場で、Aさんがフォークリフトを操縦することもあります。Aさんが所属している班でフォークリフトの免許を持っているのはAさんだけ、ということもあり、Aさんがその班では要となる存在です。実は1ヶ月程前に、その工場で事故があり、従業員のひとりが怪我を負いました。怪我自体はたいしたことがなくてかすり傷程度だったそうなのですが、それを見たAさんは、「自分も同じように怪我をすれば、心配して駆けつけてくれた同僚に自分の血液を触れさせてしまうことになるかもしれない。そうなる前に持ち場を代えてもらうべきだ・・・」と考えました。
数日間考えた末、Aさんは人事部長に直接話し合いすることを申し入れました。Aさんには勝算がありました。入社時からその人事部長には目をかけてもらっていますし、二人で飲みにいったことも何度かあります。親子ほど年齢は離れていますが話しにくい相手ではありません。いえ、それ以前にAさんは誰の目からみても職場では厚い信頼を得ています。上司から気に入られ部下からも慕われ、誰からも仕事ができると認められています。同期で係長の役職が付いているのはAさんだけです。「事情を話して配置転換を申し入れればきっと受け入れてくれるだろう・・・」、Aさんはそのように考えていました。
Aさんが人事部長に直接希望を伝えたとき、人事部長はしばらく黙った後、「検討する」とだけ言ってその場を立ち去りました。そして1週間後、人事部長から呼び出しがかかり、言われた言葉が「現在どこの部署も新たな人員の募集はしておらず、君が今の職場を離れたいなら辞めてもらうしかない。今の職場もね~、これから度々休まれるようなことがあるとうちも困るんでね~」、というものでした。
HIV陽性を告げられたときよりも大きなショックだった、とAさんは言います。その会社は新たな人員を募集していないどころか、人手不足が慢性化しているのです。「キツイ・キタナイ・キケンに給料が安いとくれば誰も来てくれんわなぁ」と口癖のように人事部長が話していたことをAさんはこれからも忘れることはないでしょう。
結局Aさんはその日のうちに荷物をまとめ会社を去りました。送別会もなく、13年間勤めた会社だというのにとてもあっけなかったそうです。何人かの同僚や後輩からその日の夜に電話がありましたがAさんは誰の電話も取らなかったそうです。そして翌日、受診というよりも挨拶に私の元を訪れて、話した言葉が冒頭のものだったのです。
***
少し古いデータですが、2008年8月から2009年1月にかけて、薬害エイズの被害者団体「はばたき福祉事業団」が実施した調査によりますと、HIV陽性者のおよそ4人に1人が、感染を理由に離職した経験があるそうです。「4人に1人」と聞くと、たったそれだけ?、と感じますが、これはおそらく「HIV陽性であることをカムアウトしていない人も含めて」の数字だと思います。私の知る限りで言えば、HIV陽性であることを堂々と話して仕事をしている人はほとんどいません。(特に、大企業や官公庁では皆無です)
また、Aさんとは逆のケース、つまりHIV陽性者が就職活動をおこなうのも極めて困難です。現在の医療保険システムでは抗HIV薬の服薬が開始となれば、障がい者の扱いとなり障がい者手帳が交付されます。HIVは他の障がいと少し異なる点があります。それは精神的にも肉体的にも健常者とほぼ変わらない、ということです。それでも障がい者雇用の対象(注2)になるわけですから、企業にとってみれば、むしろHIV陽性者というのは「採用しやすい障がい者」であるように思えるのですが、実際は正反対なのです。
なぜこのような現実があるのか、それはひとつには、事業主が無知だから、というものですが、それだけではありません。おそらく事業主が「鶴の一声」で、HIV陽性者を雇うな!クビにしろ!、と言っているわけではないでしょう。その企業で働く人たちの全体としての考えが「HIV陽性者と一緒に働きたくない」というものだからではないでしょうか。HIVに対する社会の関心が低下すると、検査を受ける人数が減って発見が遅れるという問題がよくクローズアップされますが、それと同じように問題なのが、関心の低下は無知を助長しその結果HIVに対する偏見が強くなる、ということです。
HIV陽性者の雇用という点については、外資系企業の方が正しい理解をしていると言えます。障がい者の就職を支援するゼネラルパートナーズによりますと、HIV陽性者を偏見なく採用するのは外資系企業に圧倒的に多いそうです(2009年10月24日の日経新聞より)。 私の知る範囲でも、外資系企業はHIV陽性者に対して偏見がなく、むしろHIV・AIDSの支援活動をおこなっていたり、社内教育にHIVのことを取り上げていたりすることもあります。
HIV陽性者が不当な解雇にさらされたり、就職活動に苦労したりすることがないようにまず社会がすべきことは何でしょう。ひとつには、一部の外資系企業と同じように、日本の企業もHIV陽性者に対する偏見をなくすことです。
しかし、その前にすることがあります。それは、わたしたちひとりひとりがHIVに対する正しい知識を持つことです。「自分の横に座って仕事をしている人がHIV陽性だったら・・・」ということから考えてみてはいかがでしょうか。
注1:「Aさん」は、私が診察した複数の患者さんからヒントを得てつくりあげた架空の人物です。もしもあなたの周りにAさんと似た境遇の人がいたとしても、それは単なる偶然であるということをお断りしておきたいと思います。
注2:障がい者の雇用は、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」(障害者雇用促進法)で定められています。一定規模以上(56人以上)の事業主は、障がい者を一定割合以上雇用しなければなりません。障がい者を雇用していない場合は、法定雇用障がい者数に応じて1人につき50,000円の「障害者雇用納付金」を納付しなければなりません。
これはあるHIV陽性の30代男性の患者さん(仮にAさんとしておきます)が診察室で私に話された言葉です(注1)。Aさんは、元々じんましんや風邪などのプライマリケアで、ときどき私のもとを受診していましたが、あるとき、1週間も下痢と発熱が続いている、と言って来られました。診察の結果、Aさんの診断は「急性HIV感染症」。HIVに感染し、2週間ほどたったときに下痢や発熱などが生じた、というわけです。
後から振り返ってみれば、思い当たることがないわけではありませんでしたが、Aさんにしてみると、「まさかそんなことでHIVに感染するなんて・・・」という気持ちだったようです。Aさんは、感染当初、自分がHIVに感染したという事実を受け入れることができませんでした。診察室でのAさんの様子は、ときには泣き崩れ、ときにはうつ状態となりため息をつくばかり、またときにやり場がなく矛先をどこに向けていいか分からない怒りに苦しんでいる、といったような感じでした。
感染が判って2ヶ月ほどたった頃、私がすすめたこともありAさんは抗うつ薬を飲みだしました。この薬がAさんには合ったようで、特に副作用もなく、多少のアップダウンはあるものの、何とか日常生活は問題なく営めるようになりました。
AさんにHIV感染を伝えたとき、私はひとつのことを約束してもらっていました。それは、「HIVに感染していることを職場には言わない」ということです。残念ながら、現在の日本ではHIVに対する偏見が根強く、HIV陽性であることをカムアウトすれば不利益を被ることが少なくありません。これまで、職場でHIV陽性であることを伝えて退職を余儀なくされた患者さんを何人もみてきている私は、Aさんに同じ体験をしてほしくなかったのです。
ところがある日、Aさんは職場でHIV陽性であることを伝えてしまったのです。Aさんは最後まで「職場に伝えたことを後悔していない」と言っていましたが、主治医である私は非常に複雑な気持ちです。
HIV感染がわかると、Aさんがそうであったように、悲しみや怒り、抑うつ気分が出現しますが、ときに躁(そう)状態となりハイテンションになることもあります。そして、このときに他人にHIV陽性であることをカムアウトする人がいるのです。しかし、Aさんの場合はそうではありませんでした。抗うつ薬の効果もあったのかもしれませんが、Aさんの精神状態は安定しており、一次的な躁気分から職場にカムアウトしたわけではありません。
Aさんの職場は中規模の工場で、Aさんがフォークリフトを操縦することもあります。Aさんが所属している班でフォークリフトの免許を持っているのはAさんだけ、ということもあり、Aさんがその班では要となる存在です。実は1ヶ月程前に、その工場で事故があり、従業員のひとりが怪我を負いました。怪我自体はたいしたことがなくてかすり傷程度だったそうなのですが、それを見たAさんは、「自分も同じように怪我をすれば、心配して駆けつけてくれた同僚に自分の血液を触れさせてしまうことになるかもしれない。そうなる前に持ち場を代えてもらうべきだ・・・」と考えました。
数日間考えた末、Aさんは人事部長に直接話し合いすることを申し入れました。Aさんには勝算がありました。入社時からその人事部長には目をかけてもらっていますし、二人で飲みにいったことも何度かあります。親子ほど年齢は離れていますが話しにくい相手ではありません。いえ、それ以前にAさんは誰の目からみても職場では厚い信頼を得ています。上司から気に入られ部下からも慕われ、誰からも仕事ができると認められています。同期で係長の役職が付いているのはAさんだけです。「事情を話して配置転換を申し入れればきっと受け入れてくれるだろう・・・」、Aさんはそのように考えていました。
Aさんが人事部長に直接希望を伝えたとき、人事部長はしばらく黙った後、「検討する」とだけ言ってその場を立ち去りました。そして1週間後、人事部長から呼び出しがかかり、言われた言葉が「現在どこの部署も新たな人員の募集はしておらず、君が今の職場を離れたいなら辞めてもらうしかない。今の職場もね~、これから度々休まれるようなことがあるとうちも困るんでね~」、というものでした。
HIV陽性を告げられたときよりも大きなショックだった、とAさんは言います。その会社は新たな人員を募集していないどころか、人手不足が慢性化しているのです。「キツイ・キタナイ・キケンに給料が安いとくれば誰も来てくれんわなぁ」と口癖のように人事部長が話していたことをAさんはこれからも忘れることはないでしょう。
結局Aさんはその日のうちに荷物をまとめ会社を去りました。送別会もなく、13年間勤めた会社だというのにとてもあっけなかったそうです。何人かの同僚や後輩からその日の夜に電話がありましたがAさんは誰の電話も取らなかったそうです。そして翌日、受診というよりも挨拶に私の元を訪れて、話した言葉が冒頭のものだったのです。
***
少し古いデータですが、2008年8月から2009年1月にかけて、薬害エイズの被害者団体「はばたき福祉事業団」が実施した調査によりますと、HIV陽性者のおよそ4人に1人が、感染を理由に離職した経験があるそうです。「4人に1人」と聞くと、たったそれだけ?、と感じますが、これはおそらく「HIV陽性であることをカムアウトしていない人も含めて」の数字だと思います。私の知る限りで言えば、HIV陽性であることを堂々と話して仕事をしている人はほとんどいません。(特に、大企業や官公庁では皆無です)
また、Aさんとは逆のケース、つまりHIV陽性者が就職活動をおこなうのも極めて困難です。現在の医療保険システムでは抗HIV薬の服薬が開始となれば、障がい者の扱いとなり障がい者手帳が交付されます。HIVは他の障がいと少し異なる点があります。それは精神的にも肉体的にも健常者とほぼ変わらない、ということです。それでも障がい者雇用の対象(注2)になるわけですから、企業にとってみれば、むしろHIV陽性者というのは「採用しやすい障がい者」であるように思えるのですが、実際は正反対なのです。
なぜこのような現実があるのか、それはひとつには、事業主が無知だから、というものですが、それだけではありません。おそらく事業主が「鶴の一声」で、HIV陽性者を雇うな!クビにしろ!、と言っているわけではないでしょう。その企業で働く人たちの全体としての考えが「HIV陽性者と一緒に働きたくない」というものだからではないでしょうか。HIVに対する社会の関心が低下すると、検査を受ける人数が減って発見が遅れるという問題がよくクローズアップされますが、それと同じように問題なのが、関心の低下は無知を助長しその結果HIVに対する偏見が強くなる、ということです。
HIV陽性者の雇用という点については、外資系企業の方が正しい理解をしていると言えます。障がい者の就職を支援するゼネラルパートナーズによりますと、HIV陽性者を偏見なく採用するのは外資系企業に圧倒的に多いそうです(2009年10月24日の日経新聞より)。 私の知る範囲でも、外資系企業はHIV陽性者に対して偏見がなく、むしろHIV・AIDSの支援活動をおこなっていたり、社内教育にHIVのことを取り上げていたりすることもあります。
HIV陽性者が不当な解雇にさらされたり、就職活動に苦労したりすることがないようにまず社会がすべきことは何でしょう。ひとつには、一部の外資系企業と同じように、日本の企業もHIV陽性者に対する偏見をなくすことです。
しかし、その前にすることがあります。それは、わたしたちひとりひとりがHIVに対する正しい知識を持つことです。「自分の横に座って仕事をしている人がHIV陽性だったら・・・」ということから考えてみてはいかがでしょうか。
注1:「Aさん」は、私が診察した複数の患者さんからヒントを得てつくりあげた架空の人物です。もしもあなたの周りにAさんと似た境遇の人がいたとしても、それは単なる偶然であるということをお断りしておきたいと思います。
注2:障がい者の雇用は、「障がい者の雇用の促進等に関する法律」(障害者雇用促進法)で定められています。一定規模以上(56人以上)の事業主は、障がい者を一定割合以上雇用しなければなりません。障がい者を雇用していない場合は、法定雇用障がい者数に応じて1人につき50,000円の「障害者雇用納付金」を納付しなければなりません。