GINAと共に
第54回 骨髄移植はHIVの治療となるか(2010年12月)
2010年12月15日、感染していたHIVが体内から消えた、という非常に珍しい症例がドイツで報告されたことがロイター通信で報道されました(注1)。また世界中の多くのメディアがこのニュースを一斉に取り上げ、先を急ぎたがるマスコミのなかには、HIV完治への治療・・・、のような捉え方をしているようなものもあり、科学者や医療従事者だけでなく、一般の人々にもこのニュースは注目されているようです。
ところが、なぜか日本のマスコミはこのニュースを取り上げず、最初は「私が見逃しただけかもしれない」と考え、日経、読売、朝日、毎日のウェブサイトを検索しましたがヒットしませんでした。もう少し調べると共同通信が12月16日に取り上げていることが分かりましたが、ごく短い文章のみ・・・。やはり、日本ではHIVに対する関心が低下しているのでしょうか・・・。
話を戻しましょう。世界中のメディアで報道されたこのニュースは、1本の論文が元になっています。医学誌『Blood』2010年12月8日(オンライン版)に掲載されたもので、この症例の経緯が詳しく報告されています(注2)。
少し詳しくみていくと、まずこの症例は40歳の男性で10年前にHIV陽性が判明し、抗HIV薬の投与を受けていました。2007年2月に白血病(注3)に罹患していることが判り、一般的な白血病の治療薬(抗がん剤)を受け、いったんよくなりましたが再発し、骨髄移植(注4)を受けることになりました。
そして、このとき選ばれたドナー(骨髄を提供する人)に「CCR5△32」という遺伝子をホモ接合で持つ人が選ばれました。
いきなり、CCR5△32とかホモ接合とか言われても、???、となってしまうかもしれませんので、少し詳しく説明します。
HIVは人の体内に侵入しただけでは感染が成立しません。感染するには人の細胞に侵入していく必要があります。この細胞のひとつが有名なCD4陽性リンパ球です。そしてHIVが巧みにCD4陽性リンパ球に侵入するにはCCR5と呼ばれるケモカイン受容体が重要な鍵を握っています。(ケモカイン受容体というよく分からない言葉がでてきましたが、HIVが侵入するのに必要なリンパ球表面にあるものだと思ってもらえればいいかと思います)
CCR5と呼ばれるケモカイン受容体はタンパク質でできています。タンパク質はアミノ酸が結合したもので、どのようなアミノ酸がどのように並ぶかは遺伝子(DNA)にコードされています。人間の遺伝子はDNAで形成されていて、DNAは対になった2本の鎖からなります。そしてCCR5をコードする遺伝子の鎖の32番目の塩基対が突然変異で欠損した遺伝子を、ホモ接合で持った場合(つまり、相同染色体上で同じ位置にある対立遺伝子が共にこの遺伝子を持った場合)、HIVに感染しない(HIV感染が成立しない)ことが知られているのです。
DNA、ホモ接合、対立遺伝子、相同染色体、・・・、と生物学をキライにさせるようなキーワードがたくさんでてきましたから、このあたりを理解するのは簡単ではないかもしれません。分かりにくい場合は、「CCR5△32という遺伝子をホモ接合で持つ人はHIVに感染しない」、あるいはもっと簡単に、「CCR5が遺伝的にきちんとつくられない人はHIVに感染しない」、と覚えてしまって差し支えないと思います。
この症例の男性は、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植を受けたわけですが、この移植をおこなうに際し、医療者も「白血病の治療だけでなくHIVが消えるかもしれない」と考えていたはずです。そして、何度か移植を繰り返し、抗HIV薬を中止し、およそ4年が経過した現在も、白血病細胞が消失しただけでなく、HIVも検出されていないそうです。これをもって、担当医は「HIVが"完治"した」、と宣言したのです。(注1のロイター通信の記事のタイトルを参照ください)
よく知られているように、現在はすぐれた抗HIV薬がいくつもありますが、これらは生涯にわたり内服を継続しなければなりません。薬を毎日飲まなければならない病気が山ほどあることを考えればHIVも特別な病気ではない、と言われることがしばしばあり、これは正しいのですが、それでも副作用のリスク、飲み忘れれば薬が効かなくなるかもしれないという問題、場合によっては費用の問題、などもあり、実際に薬を毎日飲むというのは思いのほか大変です。
もしも、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植が一般化されれば、多くのHIV陽性者たちに歓迎されるかもしれません。
しかし、ことはそう単純なものではありません。
まず、CCR5△32をホモ接合で持つ人がどれだけいるのかはよく分かっていませんが、おそらくそう多くはないでしょう。地域的な偏りがあり、白人全体でみれば1%程度いるのではないかと言われていますが、他の人種(日本人も含めて)についてはデータがありません。では調べればいいではないか、という意見がでてくるかもしれませんが、遺伝子を調べるというのは倫理上の問題が小さくありません。
もしもあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、HIV陽性の人に骨髄を供給しよう、と考えたとしても、いったいどのHIV陽性者が選ばれるべきなのか、という問題があります。
B級SFドラマのようなシナリオを考えれば、仮にあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、何らかの理由でそれが他人に知られてしまえば、あなたは、HIV陽性者に骨髄を売ろうとしている闇のシンジケートにさらわれ、人格を奪われた上で「骨髄製造器」として存在させられ、闇の施設から抜け出せなくなるかもしれません。
それに、骨髄移植というのは成功すれば「夢の治療」のように思われますが、相当なリスクが伴います。まず、レシピエント(この場合移植を受けるHIV陽性者)は、移植前に自分の骨髄を死滅させるため強力な抗がん剤と放射線照射を受けなければなりません。この時点で、男女とも生殖機能が失われますし、抗がん剤や放射線照射の一般的なリスクを負うことになります。
骨髄移植で最もやっかいな合併症(副作用)がGVHD(移植片対宿主病、graft versus host disease)と呼ばれるもので、ドナー(骨髄提供者)の血液がレシピエントの組織を攻撃(注5)することによって、肝機能障害、下血、皮疹などが出現し、こうなれば有効な治療法があるとは言えず死に至ることも少なくありません。
それに、ドナー側のリスクもないわけではありません。末梢血幹細胞の採取は、古典的な骨髄採取とは異なり、通常の採血のようなかたちでおこないますから、麻酔も必要ありませんし痛みもごくわずかです。しかし、採取前に末梢血の骨髄細胞を増やすためにG-CSFという薬を投与しなければなりません。この薬は完全に安全か、という問題があります。
以上のような理由から、「HIVの治療にCCR5△32をホモ接合で持つ人からの骨髄移植」というのは現時点では現実的な治療法ではありません。むしろ研究が急速にすすめば危険性すらあります。
しかしながら、今回のドイツの症例がきっかけとなり、いつの日かこの遺伝子に着眼した安全な治療法が確立されることを願いたいと思います。
注1:ロイター通信は、「German doctors declare "cure" in HIV patient(ドイツの医師がHIV完治を宣言)」というタイトルで報道しており、下記URLで読むことができます。
http://www.reuters.com/article/idUSTRE6BE68220101215
注2:この論文のタイトルは「Evidence for the cure of HIV infection by CCR5{Delta}32/{Delta}32 stem cell
transplantation」で、下記のURLで全文を読むことができます。http://bloodjournal.hematologylibrary.org/content/117/10/2791.full.pdf+html?sid=9c861b00-a524-4bef-a49f-6b8745e011aa
注3:白血病にもいろいろなものがあり、この症例ではAML(骨髄単球性白血病)と呼ばれるものですが、今回は白血病について詳しく取り上げることはしないでおきます。
注4:骨髄移植というと、全身麻酔の下、太い針で腰の骨(腸骨)などから骨髄を採取する大変痛そうな場面がイメージされがちですが、今回おこなわれたのは末梢血幹細胞移植と呼ばれる普通の採血や献血となんら変わらないドナーの負担が少ない方法です。ただし移植をおこなう前に特殊な薬剤(G-CSF)を投与されるため完全に安全とは言えないかもしれません。(本文も参照ください)
注5:通常、移植後の拒絶反応というと、レシピエントの免疫がドナーから受けた臓器を攻撃するのが一般的ですが、GVHDはドナーの臓器(骨髄)がレシピエントを攻撃するわけですから、まったく逆の反応ということになります。
ところが、なぜか日本のマスコミはこのニュースを取り上げず、最初は「私が見逃しただけかもしれない」と考え、日経、読売、朝日、毎日のウェブサイトを検索しましたがヒットしませんでした。もう少し調べると共同通信が12月16日に取り上げていることが分かりましたが、ごく短い文章のみ・・・。やはり、日本ではHIVに対する関心が低下しているのでしょうか・・・。
話を戻しましょう。世界中のメディアで報道されたこのニュースは、1本の論文が元になっています。医学誌『Blood』2010年12月8日(オンライン版)に掲載されたもので、この症例の経緯が詳しく報告されています(注2)。
少し詳しくみていくと、まずこの症例は40歳の男性で10年前にHIV陽性が判明し、抗HIV薬の投与を受けていました。2007年2月に白血病(注3)に罹患していることが判り、一般的な白血病の治療薬(抗がん剤)を受け、いったんよくなりましたが再発し、骨髄移植(注4)を受けることになりました。
そして、このとき選ばれたドナー(骨髄を提供する人)に「CCR5△32」という遺伝子をホモ接合で持つ人が選ばれました。
いきなり、CCR5△32とかホモ接合とか言われても、???、となってしまうかもしれませんので、少し詳しく説明します。
HIVは人の体内に侵入しただけでは感染が成立しません。感染するには人の細胞に侵入していく必要があります。この細胞のひとつが有名なCD4陽性リンパ球です。そしてHIVが巧みにCD4陽性リンパ球に侵入するにはCCR5と呼ばれるケモカイン受容体が重要な鍵を握っています。(ケモカイン受容体というよく分からない言葉がでてきましたが、HIVが侵入するのに必要なリンパ球表面にあるものだと思ってもらえればいいかと思います)
CCR5と呼ばれるケモカイン受容体はタンパク質でできています。タンパク質はアミノ酸が結合したもので、どのようなアミノ酸がどのように並ぶかは遺伝子(DNA)にコードされています。人間の遺伝子はDNAで形成されていて、DNAは対になった2本の鎖からなります。そしてCCR5をコードする遺伝子の鎖の32番目の塩基対が突然変異で欠損した遺伝子を、ホモ接合で持った場合(つまり、相同染色体上で同じ位置にある対立遺伝子が共にこの遺伝子を持った場合)、HIVに感染しない(HIV感染が成立しない)ことが知られているのです。
DNA、ホモ接合、対立遺伝子、相同染色体、・・・、と生物学をキライにさせるようなキーワードがたくさんでてきましたから、このあたりを理解するのは簡単ではないかもしれません。分かりにくい場合は、「CCR5△32という遺伝子をホモ接合で持つ人はHIVに感染しない」、あるいはもっと簡単に、「CCR5が遺伝的にきちんとつくられない人はHIVに感染しない」、と覚えてしまって差し支えないと思います。
この症例の男性は、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植を受けたわけですが、この移植をおこなうに際し、医療者も「白血病の治療だけでなくHIVが消えるかもしれない」と考えていたはずです。そして、何度か移植を繰り返し、抗HIV薬を中止し、およそ4年が経過した現在も、白血病細胞が消失しただけでなく、HIVも検出されていないそうです。これをもって、担当医は「HIVが"完治"した」、と宣言したのです。(注1のロイター通信の記事のタイトルを参照ください)
よく知られているように、現在はすぐれた抗HIV薬がいくつもありますが、これらは生涯にわたり内服を継続しなければなりません。薬を毎日飲まなければならない病気が山ほどあることを考えればHIVも特別な病気ではない、と言われることがしばしばあり、これは正しいのですが、それでも副作用のリスク、飲み忘れれば薬が効かなくなるかもしれないという問題、場合によっては費用の問題、などもあり、実際に薬を毎日飲むというのは思いのほか大変です。
もしも、CCR5△32をホモ接合で持つ人からの移植が一般化されれば、多くのHIV陽性者たちに歓迎されるかもしれません。
しかし、ことはそう単純なものではありません。
まず、CCR5△32をホモ接合で持つ人がどれだけいるのかはよく分かっていませんが、おそらくそう多くはないでしょう。地域的な偏りがあり、白人全体でみれば1%程度いるのではないかと言われていますが、他の人種(日本人も含めて)についてはデータがありません。では調べればいいではないか、という意見がでてくるかもしれませんが、遺伝子を調べるというのは倫理上の問題が小さくありません。
もしもあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、HIV陽性の人に骨髄を供給しよう、と考えたとしても、いったいどのHIV陽性者が選ばれるべきなのか、という問題があります。
B級SFドラマのようなシナリオを考えれば、仮にあなたがCCR5△32をホモ接合で持っていることが判り、何らかの理由でそれが他人に知られてしまえば、あなたは、HIV陽性者に骨髄を売ろうとしている闇のシンジケートにさらわれ、人格を奪われた上で「骨髄製造器」として存在させられ、闇の施設から抜け出せなくなるかもしれません。
それに、骨髄移植というのは成功すれば「夢の治療」のように思われますが、相当なリスクが伴います。まず、レシピエント(この場合移植を受けるHIV陽性者)は、移植前に自分の骨髄を死滅させるため強力な抗がん剤と放射線照射を受けなければなりません。この時点で、男女とも生殖機能が失われますし、抗がん剤や放射線照射の一般的なリスクを負うことになります。
骨髄移植で最もやっかいな合併症(副作用)がGVHD(移植片対宿主病、graft versus host disease)と呼ばれるもので、ドナー(骨髄提供者)の血液がレシピエントの組織を攻撃(注5)することによって、肝機能障害、下血、皮疹などが出現し、こうなれば有効な治療法があるとは言えず死に至ることも少なくありません。
それに、ドナー側のリスクもないわけではありません。末梢血幹細胞の採取は、古典的な骨髄採取とは異なり、通常の採血のようなかたちでおこないますから、麻酔も必要ありませんし痛みもごくわずかです。しかし、採取前に末梢血の骨髄細胞を増やすためにG-CSFという薬を投与しなければなりません。この薬は完全に安全か、という問題があります。
以上のような理由から、「HIVの治療にCCR5△32をホモ接合で持つ人からの骨髄移植」というのは現時点では現実的な治療法ではありません。むしろ研究が急速にすすめば危険性すらあります。
しかしながら、今回のドイツの症例がきっかけとなり、いつの日かこの遺伝子に着眼した安全な治療法が確立されることを願いたいと思います。
注1:ロイター通信は、「German doctors declare "cure" in HIV patient(ドイツの医師がHIV完治を宣言)」というタイトルで報道しており、下記URLで読むことができます。
http://www.reuters.com/article/idUSTRE6BE68220101215
注2:この論文のタイトルは「Evidence for the cure of HIV infection by CCR5{Delta}32/{Delta}32 stem cell
transplantation」で、下記のURLで全文を読むことができます。http://bloodjournal.hematologylibrary.org/content/117/10/2791.full.pdf+html?sid=9c861b00-a524-4bef-a49f-6b8745e011aa
注3:白血病にもいろいろなものがあり、この症例ではAML(骨髄単球性白血病)と呼ばれるものですが、今回は白血病について詳しく取り上げることはしないでおきます。
注4:骨髄移植というと、全身麻酔の下、太い針で腰の骨(腸骨)などから骨髄を採取する大変痛そうな場面がイメージされがちですが、今回おこなわれたのは末梢血幹細胞移植と呼ばれる普通の採血や献血となんら変わらないドナーの負担が少ない方法です。ただし移植をおこなう前に特殊な薬剤(G-CSF)を投与されるため完全に安全とは言えないかもしれません。(本文も参照ください)
注5:通常、移植後の拒絶反応というと、レシピエントの免疫がドナーから受けた臓器を攻撃するのが一般的ですが、GVHDはドナーの臓器(骨髄)がレシピエントを攻撃するわけですから、まったく逆の反応ということになります。