GINAと共に

第51回 HIV感染を隠した性交渉はどれだけの罪に問われるべきか(2010年9月)

 2009年4月某日、ドイツの人気女性ユニット「ノー・エンジェルス」(No Angels)のメンバーのひとりであるナジャ・ベナイサ(Nadja Benaissa)が、フランクフルトの自宅アパートで逮捕されました。その数日後には彼女のソロコンサートが開催される予定でしたが、逮捕後10日間拘留されることとなり、コンサートは急きょ中止となりました。

 1年5ヵ月後の2010年8月26日、ドイツ西部にあるダルムシュタット(Darmstadt)の裁判所で、ナジャ・ベナイサは有罪判決を言い渡されました。有罪となった理由は、「自らがHIV陽性であることを隠して性交渉をおこない、当時交際していた現在34歳の男性にHIVを感染させた」、というものです。ナジャ・ベナイサは法廷で、「心から反省し、後悔している」と証言したそうです。判決は、2年の禁固刑ですが、2年間の執行猶予が付けられました。

 さて、このサイトでは、過去に何度か「HIV陽性であることを隠して性交渉をおこなった事例」を紹介していますが(下記GINAニュース参照)、有名人が当事者となり、逮捕され有罪判決がでた、というのは(私の知る限り)世界で初めてではないかと思われます。(もっとも、この事件をニュースで知るまでは、ナジャ・ベナイサという名前もノー・エンジェルスというグループ名も私は聞いたことがありませんでしたが・・・)

 ノー・エンジェルスは、2000年にドイツのテレビ番組で人気となり、これまでに多くのヒット曲を生み出しているそうです。ナジャ・ベナイサ以外にも、何人かはソロで活動しているそうですから、「国民的人気の女性ユニット」と言えるでしょう。

 報道によりますと、ナジャ・ベナイサの人生は苦難に満ちていたようです。14歳でドラッグに溺れ、17歳で妊娠が発覚します。そして、妊娠時の検査でHIV陽性が判明したそうです。

 ナジャ・ベナイサは現在28歳と報道されていますから、ノー・エンジェルスが結成された2000年には18歳ということになります。またたくまに国民的人気スターになってしまった彼女は、HIV陽性であることをカムアウトできなかったのでしょう。

 ナジャ・ベナイサを取材したマスコミは、彼女は自らを"cowardly act"と話している、と伝えています。"cowardly act"とは、つまり、「本当はいつかカムアウトすべきということは分かっていたのだけれど、勇気のなさがそれを妨げていた」、ということであろうと思われます。

 ノー・エンジェルスが人気絶頂の2004年、ナジャ・ベナイサは当時28歳の男性と恋に落ちます。報道では、"talent agent"とされていますから芸能関係の仕事についている人でしょうか。そして、その男性にも自らがHIVに感染していることを告げることができず、危険な性交渉(unprotected sex)をおこない、そして、HIVを感染させてしまいます。

 一般に、性交渉でHIVを感染させたことを証明するのは簡単ではありません。なぜなら、原告(この場合は当時28歳の男性)が「自分が性交渉をもったのは被告(ナジャ・ベナイサ)だけです」と言ったところで、それを証明することが困難だからです。

 しかし今回は、HIVのウイルス株が原告のものと被告のものが同じものであり、なおかつ、この株はドイツでは比較的珍しいものであることがわかり、さらに様々な状況証拠からナジャ・ベナイサがこの男性に感染させたことは間違いないと判断されたようです。("株"という表現は少しむつかしいかもしれません。一言でHIVと言っても、遺伝子型に微妙な違いがあり、その遺伝子の違いで分けたグループを"株"と呼ぶ、と考えればいいかと思います)

 ナジャ・ベナイサからHIVに感染したこの男性は、彼女がHIVに感染していることを直接本人から聞いたのではなく、彼女のおばさん(aunt)から聞いたと報じられています。

 また、ナジャ・ベナイサは、これまでにHIVを感染させたこの男性以外にも2人の男性と性交渉を持っているそうなのですが、その2人はいずれも陰性、つまりHIVに感染していなかったそうです。

 ナジャ・ベナイサに対する判決は、「禁固刑2年、執行猶予2年」というものです。もう少し細かく言うと、合計300時間の地域社会への奉仕活動、及び定期的なカウンセリングが義務付けられています。この判決を重いとみなすべきか、軽いとみなすべきかについては意見の別れるところです。

 欧米の報道をみていると、世論はこの判決を軽いとみなしているような印象を受けます。実際、BBCニュースは判決にかかわった裁判官の意見を報道しており、その裁判官は、「軽い判決と言えるかもしれないが、被告は強い自責の念を感じている」、とコメントしています。また、ナジャ・ベナイサの弁護士も、この判決に対して「満足している」との意志表示をしています。

 一方で、エイズ予防をおこなっているいくつかの団体は、今回の判決を重いと考えています。例えば、「Deutsche AIDS-Hilfe」という社会団体は、「感染者のみに罪を負わせる判決である」と今回の判決を非難しています。この団体が言いたいのは、「HIVが性交渉で感染したのは、感染させた方にも責任はあるけれど、感染させられた方にもある程度の責任はあるはず。感染させた方と感染させられた方の共同責任と考えるべき」、ということです。

 この問題は非常にむつかしく、HIV感染を隠して性交渉をした場合、感染させられた方にも責任がでてくるとすれば、性交渉の度に相手を必要以上に疑わなければならないことになってしまいます。その逆に、感染させた方の罪を重くすればするほど、HIV陽性であること自体が罪であるかのような印象を世間に与えることになり、ますますカムアウトできない社会となってしまうことが考えられます。HIV陽性者がHIV陽性であることを隠すことにより、結果としてはかえってHIVを社会に蔓延させてしまうことになるかもしれません。

 今回の事件で、私がナジャ・ベナイサに同情したくなることが1つあります。それは、彼女は、医者から、「他人にうつす可能性はほとんどない(practically zero)」、と言われていたということです。報道からは彼女の血液検査の値を知ることはできませんが、おそらく医師がこのように伝えたのは、彼女の免疫力が充分に保たれており、ウイルス量も少なく、容易に感染させるような状態ではなかったからでしょう。

 ナジャ・ベナイサとしては医師からそのように言われているのだから、多少は安心していたに違いありません。彼女は、当時の交際相手を心から愛しており(直接本人に聞いたわけではありませんが・・・)、HIV陽性であることをカムアウトしたとき自分だけでなくノー・エンジェルスに壊滅的な打撃を与えかねないという状況のなかで、医師から、「感染させる可能性はほとんどない」と言われていれば、素敵なムードから性交渉にごく自然に流れるその雰囲気の中で(私が見たわけではありませんが・・・)、「ちょっと待って! あなたに言わなければならないことがあるの!」、とそのロマンティックな空気を止めることができるでしょうか。

 日本では、「HIVを他人に感染させて傷害罪」という事件が立件されたという話を聞いたことがありませんが、イギリスやオーストラリアでは、この手のニュースがときどき報道されています。

 有名人が有罪判決を受けたこの事件をきっかけに、日本人の我々も、「HIV感染を隠して性交渉をおこなえばどれだけの罪が問われるべきか」を考え、さらに「なぜこの社会ではHIV感染を隠さなければならないのか」ということに思いを巡らせてほしいと思います。

注:この事件は世界中の各メディアで報道されましたが(なぜか日本では報道をほとんど見かけませんでしたが・・・)、下記のBBCニュース(タイトルは、「Suspended sentence for German HIV singer Nadja Benaissa」が一番分かりやすいと思います。ナジャ・ベナイサが登場する報道のビデオを閲覧することもできます。

http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-11097298

参考:GINAニュース
2007年6月25日「HIV陽性であることを告知せずに逮捕」
2006年10月29日「オーストラリア男性が女性観光客にHIVを感染」
2006年6月23日「恋人にHIVをうつした女性が禁固刑に」
2006年10月16日「オーストラリアのゲイ、5人にHIVを故意に感染」