GINAと共に

第17回 コンドームの限界(後編)(2007年11月)

 最近タイでは、「夫婦間でもコンドームを!」ということがしきりに言われています。

 たしかに、タイでは主婦層でのHIV感染が急増しており、主婦はタイではHIV感染の最たるハイリスクグループとなっています。

 これは、主婦の浮気、あるいは生活するための売春という要素もあるにはありますが、圧倒的に多いのが、「自分の夫からの感染」です。

 なぜ、自分の夫から感染するのかというと、それは夫が買春行為や違法薬物に耽溺するからです。私自身が懇意にしているタイのHIV陽性の女性のなかにも自分の夫からHIVに感染したという人が少なくありません。

 では、やはり家庭内でもコンドームを用いなければならないのでしょうか。

 純粋に予防医学的、あるいは公衆衛生学的に考えたときはその通りになるでしょう。主婦が夫から感染しているのであれば夫婦間でもコンドームを用いることでそのリスクが回避できる、というのは理にかなっています。

 しかしながら、夫婦間の愛情やセックスをそのような観点からのみ論じることには限界があります。

 主婦側からみたときに、「自分の夫も他で遊んでいるかもしれないからコンドームを使おう」、と素直に納得できるでしょうか。

 タイでは"ギグ"と呼ばれる、いわばセックスフレンドのような関係をもつ男女が少なくないのは事実です。また"ミヤノイ"と呼ばれる、妾のような存在が、公然とではないにせよ、広く周知されているのも事実です。

 けれども、だからといって、タイのすべての女性が自分の夫が"ギグ"や"ミヤノイ"を持つことに賛成しているわけではもちろんありません。

 実際、自分の夫が浮気をしたことに逆上して、夫のペニスを切断したというニュースはよくタイの大衆紙に載っていますし、ペニス切断までいかなくても、恋人であるタイの女性を裏切って刺された日本人男性を私も知っています。

 私の印象で言えば、"ギグ"や"ミヤノイ"という言葉が外国人にも広く知れ渡っている割には、タイの女性は純真無垢であるようにみえます。日本と比べると、結婚するまで貞操を守る女性は少なくありませんし、ひとりの男性に捧げる愛情の深さに感銘を受けることもよくあります。

 そんなタイの女性たちが、「家庭内でもコンドーム」という政策に納得できるでしょうか。

 コンドームの使用の前に自分の夫に忠誠を誓わせることの方がはるかに重要であることは明らかです。

 ところで、「性感染予防のABC」というものが世界的に広まっています。Aはabstinence(禁欲)、Bはbe faithful(忠誠を誓う)、Cはcondom(コンドーム)です。

 このなかでA(禁欲)が意味をなさないのは自明でしょう。歴史的には禁酒法の失敗(1920年頃、全米で禁酒法が制定されたが、結果はかえって酒の流通量が増えた)が有名ですが、最近でも、ブッシュ大統領の出身地であるテキサス州で、青少年に対する禁欲を奨励したところ、かえって若年層の性交頻度が増えた、という事例があります。

 C(コンドーム)に効果があるのは事実ですが、前回から述べているように限界があるのもまた事実です。

 私個人としては、B(忠誠を誓う)が、少なくとも夫婦間においてはもっとも理想的であると考えています。「理想的」ではあっても「現実的」ではないということは認めますが、そうであったとしても、繰り返し言い続けることが大切だと思うのです。

 「忠誠」、あるいは「誠実」などといったことを話すのは私の役目ではないかもしれませんし、話したところで意味がないかもしれませんが、私は、どうしてもこういった根源的な原理原則の重要性を置き去りにしたまま、「家庭内にもコンドームを」というスローガンに素直に同意できないのです。

 もちろん、その夫婦が納得して、夫婦間のセックスにコンドームを用いるのは悪いことではありませんし、場合によってはリスク回避のためにやむを得ない場合もあるでしょう。

 最近ある患者さんに興味深い質問をされました。その患者さん(30代女性)は、結婚しているのですが、旦那が浮気や風俗遊びを繰り返していて、自分に性感染症の危険性があると考えています。それで、私に「どれくらいのペースで性感染症の検査を受けるべきか」、と質問するのです。

 私はその言葉に驚き、「まずはご主人に女遊びをやめさせることが大切じゃないですか」と聞いたのですが、彼女は「それは無理だし、別にかまわないと思っている」、と答えました。

 たしかに、ふたりの愛のかたちにはいろんなものがあるでしょうから、こういった夫婦関係に対し正論を押し付けるのはよくないでしょう。特に医師という立場からは、私自身の価値観を話したり、倫理観を話したりしたところであまり意味がありません。

 こういったカップルには夫婦間でもコンドームの使用が大切になってくるでしょう。

 しかしながら、他人の恋愛のかたちにとやかく言うべきではないにしても、「コンドームの使用よりもはるかに大切なのがふたりの間での忠誠心」、という意見を変えるつもりはありません。

 現代の日本では、不倫やキケンな恋、あるいは障害を乗り越えての恋愛、などが小説や映画でもてはやされているようですが、もっと平凡でシンプルなかたちの恋愛のなかに存在する「忠誠」というものの意味を考えるべきではないでしょうか。

GINAと共に目次へ