GINAと共に
第10回 HIV検査でわかる生命の尊さ(07年 4月)
1990年11月某日、大通りの歩道を歩いていた私は、アスファルトの隙間から必死に背を伸ばそうとしている雑草にふと目がとまりました。
なんて美しいんだろう・・・
その大通りは当時私が住んでいたマンションの前に位置しており、最低でも日に2回はその雑草の横を通り過ぎていたことになります。しかし、アスファルトのかたちを変えてしまうほど力強く伸びようとしているその生命に気付いたのはそのときが初めてでした。
ひとつの命の美しさに心をとらわれた私は、その場にしゃがみ込みその生命をじっくりと眺めました。
これから私は大阪市北区の保健所に検査の結果を聞きにいかなくてはなりません。
ちょうど一週間前の昼下がり、さんざん悩んだ挙句、私はHIV抗体検査を受けました。検査を受けるということは、陽性と告知される可能性があると考えていたからです。
エイズが日本で初めて報告されたのは1987年、たしか神戸の女性ではなかったかと記憶しています。
「コンドームは避妊のためだけでなくエイズ予防のために使いましょう」
そのようなことが言われてはいましたが、エイズなんて完全に他人ごとであり、自分に限ってあり得ないなどと何の根拠もなく信じていました。当時の私は自分が医者になるなどとは夢にも思っていなかったのです。
1987年から1990年までの四年間というのは、私が関西の私立大学に在籍していた四年間であり、今思い出してみても大きな苦悩を感じた記憶がほとんどありません。時はバブル経済真っ盛り、毎日がお祭りみたいな時代でした。
数日間続くお祭りの最後の夜が憂鬱な気分になるのと同じように、大学四年生の後半、HIVに感染したかもしれないという不安が突然私を苦しめ始めました。
これまでにセックスした女性がHIV陽性である確率は△△%で、その女性たちから感染する確率は◇◇%くらい、そしてこれらを掛け合わせると天文学的な数字になる。だから自分が感染している確率なんてほぼゼロに等しい・・・。けど、"ゼロ"と"ほぼゼロに等しい"は似ているようでまったく異なる・・・。それに外国人が相手のときはHIV陽性である可能性が高くなるかもしれないから××%で計算しなおさなければ・・・
こんな無意味な試算をどれだけおこなったか分かりません。
これ以上悩んでも何も解決しない・・・
そのことに気付いた私は意を決して検査を受けることにしました。検査は思ったよりも短時間で終わり、まるで健康診断のときの採血のようでした。今考えると、当時はHIV検査の際のカウンセリングなんてものはきちんと考えられていなかったのでしょう。
検査はあっけなく終わりましたが、結果が出るのは1週間後。その間、不安に苛まれながら過ごさなければなりません。当時は即日検査というものがありませんでしたから、誰もが一週間もの間、押し寄せてくる不安と戦わなければならなかったのです。
眠れない夜が七日間も続きいよいよ検査結果を聞きに行く日。ふと私の目にとまったのが冒頭で述べたアスファルトから顔を出した雑草です。
アスファルトの隙間をこじ開けるかのように存在を誇示しているその雑草は、しかしながらほとんどの人が気にも止めません。視界に入ったとしても一秒後には記憶から消し去られていることでしょう。一日に何度も踏み続けられているに違いありませんが、踏みつけた人たちすらも気付かないような存在なのです。
誰からも関心を持たれることがなく、命を絶ったとしても気付かれることすらないかもしれないその雑草を眺めていると、生命の尊さが私の心の奥深くに刻まれていくようでした。
**************
あれから17年近くがたちました。
私は医師となり、ほぼ毎日のようにHIVを含めた性感染症の患者さんを診察するようになりました。また、HIVの検査もほぼ毎日のようにおこなっています。
時代は流れ、検査は即日結果を聞くことができるようになり、また、たとえHIVに感染してもエイズを発症させない薬も普及するようになりました。
私が検査を受けた1990年は、まだ有効な薬がなく、エイズとは「死にいたる病」だったのです。
私の検査結果が陰性だったことは、単に陰性であることでホッとした、という感覚よりも深い意味を私に与えてくれました。一週間の眠れない夜を通して私が思い巡らせたことは単にこれまで経験した女性たちだけではありません。自分が幼少児の頃のこと、両親や兄弟のこと、友達や恋人のこと、そしてこれからの自分の将来のこと・・・。
これらに思いを巡らせ生命の尊さを感じた私は、HIVの検査に、そして考える機会を与えてくれたあの苦悩の一週間に感謝をしています。
あのとき私に生命の尊さを教えてくれた雑踏のなかの雑草にも感謝をしています。検査結果を聞いた帰り道も、その雑草は力強く背を伸ばしていました。
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なんて美しいんだろう・・・
その大通りは当時私が住んでいたマンションの前に位置しており、最低でも日に2回はその雑草の横を通り過ぎていたことになります。しかし、アスファルトのかたちを変えてしまうほど力強く伸びようとしているその生命に気付いたのはそのときが初めてでした。
ひとつの命の美しさに心をとらわれた私は、その場にしゃがみ込みその生命をじっくりと眺めました。
これから私は大阪市北区の保健所に検査の結果を聞きにいかなくてはなりません。
ちょうど一週間前の昼下がり、さんざん悩んだ挙句、私はHIV抗体検査を受けました。検査を受けるということは、陽性と告知される可能性があると考えていたからです。
エイズが日本で初めて報告されたのは1987年、たしか神戸の女性ではなかったかと記憶しています。
「コンドームは避妊のためだけでなくエイズ予防のために使いましょう」
そのようなことが言われてはいましたが、エイズなんて完全に他人ごとであり、自分に限ってあり得ないなどと何の根拠もなく信じていました。当時の私は自分が医者になるなどとは夢にも思っていなかったのです。
1987年から1990年までの四年間というのは、私が関西の私立大学に在籍していた四年間であり、今思い出してみても大きな苦悩を感じた記憶がほとんどありません。時はバブル経済真っ盛り、毎日がお祭りみたいな時代でした。
数日間続くお祭りの最後の夜が憂鬱な気分になるのと同じように、大学四年生の後半、HIVに感染したかもしれないという不安が突然私を苦しめ始めました。
これまでにセックスした女性がHIV陽性である確率は△△%で、その女性たちから感染する確率は◇◇%くらい、そしてこれらを掛け合わせると天文学的な数字になる。だから自分が感染している確率なんてほぼゼロに等しい・・・。けど、"ゼロ"と"ほぼゼロに等しい"は似ているようでまったく異なる・・・。それに外国人が相手のときはHIV陽性である可能性が高くなるかもしれないから××%で計算しなおさなければ・・・
こんな無意味な試算をどれだけおこなったか分かりません。
これ以上悩んでも何も解決しない・・・
そのことに気付いた私は意を決して検査を受けることにしました。検査は思ったよりも短時間で終わり、まるで健康診断のときの採血のようでした。今考えると、当時はHIV検査の際のカウンセリングなんてものはきちんと考えられていなかったのでしょう。
検査はあっけなく終わりましたが、結果が出るのは1週間後。その間、不安に苛まれながら過ごさなければなりません。当時は即日検査というものがありませんでしたから、誰もが一週間もの間、押し寄せてくる不安と戦わなければならなかったのです。
眠れない夜が七日間も続きいよいよ検査結果を聞きに行く日。ふと私の目にとまったのが冒頭で述べたアスファルトから顔を出した雑草です。
アスファルトの隙間をこじ開けるかのように存在を誇示しているその雑草は、しかしながらほとんどの人が気にも止めません。視界に入ったとしても一秒後には記憶から消し去られていることでしょう。一日に何度も踏み続けられているに違いありませんが、踏みつけた人たちすらも気付かないような存在なのです。
誰からも関心を持たれることがなく、命を絶ったとしても気付かれることすらないかもしれないその雑草を眺めていると、生命の尊さが私の心の奥深くに刻まれていくようでした。
**************
あれから17年近くがたちました。
私は医師となり、ほぼ毎日のようにHIVを含めた性感染症の患者さんを診察するようになりました。また、HIVの検査もほぼ毎日のようにおこなっています。
時代は流れ、検査は即日結果を聞くことができるようになり、また、たとえHIVに感染してもエイズを発症させない薬も普及するようになりました。
私が検査を受けた1990年は、まだ有効な薬がなく、エイズとは「死にいたる病」だったのです。
私の検査結果が陰性だったことは、単に陰性であることでホッとした、という感覚よりも深い意味を私に与えてくれました。一週間の眠れない夜を通して私が思い巡らせたことは単にこれまで経験した女性たちだけではありません。自分が幼少児の頃のこと、両親や兄弟のこと、友達や恋人のこと、そしてこれからの自分の将来のこと・・・。
これらに思いを巡らせ生命の尊さを感じた私は、HIVの検査に、そして考える機会を与えてくれたあの苦悩の一週間に感謝をしています。
あのとき私に生命の尊さを教えてくれた雑踏のなかの雑草にも感謝をしています。検査結果を聞いた帰り道も、その雑草は力強く背を伸ばしていました。
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