バーンサバイニュースレター第13号


バーンサバイニュースレター第13号
 

神様に感謝します。  ― ニラン・テムサクン

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。こんにちは。私は二ラン・テムサグンといい、チエンマイで牧師をしております。月に2回ほど、妻と息子と一緒にバーンサバイへ行き、入寮者やスタッフと共に福音を学び、精神的なサポートを行なっております。また、年に2回、神学生を連れてバーンサバイを訪問しています。パーンサバイの人々と共におられる神に感謝し、私や家族、そして学生たちがその働きに加わることができることを嬉しく思います。
私がバーンサバイの活動に参加し、もうすぐ2年になります。バーンサバイの入寮者やスタッフの笑顔を目にし、笑い声をにすることができた、至福の2年間でした。バーンサバイでアクティビティを行なう時にいつも思うのですが、笑いというものは、主なる神から病を持つ者へ与えられた最高の薬です。また、みんなで1つのことに取り組むことで、良い関係を築き上げることもできます。この二ユー スレターをお読みのみなさまにも、是非私たちの笑顔と笑い声に溢れる場に参加して頂きたいものです。これからもパ ーンサバイの営みをお支え頂けるように お願い申し上げます。そして、みなさま にも神の祝福があることを信じております。

私がバーンサバイの活動に参加できる時間は非常に限られたものでしたが、その時間はとても有意義なものになりました。私も可能な限りの準備をして、バー ンサバイの入寮者それぞれが自分自身の中にある価値に気づくように努めて参りました。主なる神のまなざしがバーンサバイの入寮者やスタッフに注がれております。最後にバーンサパイの活動に神からの祝福ありますように、そして、多くの人が神の愛の下に集うことができますようにお祈りいたします。主に在りて。
(パイグレイスルーテル教会牧師、 バーンサバイチャプレン) (翻訊持田敬司)

二ラン牧師には、約2年前か6パーンサパイのチャブレンとして、手伝っていただいています。自分自身の教会があり また神学校でも教鞭をとっていますので忙しい中をぬって、1ヶ月に2度礼拝をしていただいています。以前二ユースレター4、5号に原稿を書いていただいたバーンサバイ理事のプラスートデジャプン氏は、工イズに対する差別がきびしい時代からカミングアウトをし、自らもNGOを作り、活動をされてきました。それと同時に自分自身の思いを歌にたくして、工イズと闘ってきた方でもあ ります。そして彼のコンサートには、二ラン牧師も参加しています。このように二ラン牧師自身も音楽を通じ、長年工イズにかかわってきました。またバーンサバイの退寮者で、ギターを習いたいという方がいた時には、教えていただいたこともあります。 二ラン牧師はチエンマイのみならず、 タイ各地を飛び回る日々ですが、その中で、今回メッセージを書いていただきました。 (早川文野)

マリ通信(2008年6月~2008年9月入寮状況)  ― 早川文野

バーンサバイも7回目の冬を迎えました。チエンマイの冬は、朝タかなり冷え込みます。常夏の国にもかかわらず、早朝バイクで通勤や通学をする人たちは、手袋をつけたり、厚手のコートを着たりしています。日中が暑いゆえ、かえって寒さが身にこたえるのかもしれません。これからは体調を崩やすい季節です。要注意の期間が始まりました。
さて、2008年6月から9月までの 4ヶ月間の入寮者数(延べ人数)は成人44名(男性22名、女性22名) 子ども1名でした。今期も相変わらず入院が続きました。新しい入寮者、 継続的にサポートをしている退寮者が、入院日数はそれほど長くはないのですが、順番に入退院を繰り返しました。CD4が増加し、通常の生活ができるようになっても、時折体調が大きく崩れる時があります。バーンサバイを退寮した後も、それぞれの生活は決して平坦なものではありません。不安定な環境や精神状態など、さまざまな要因に影響され、体調が悪くなる場合が多々あります。今やエイズは慢性病になりました。しかしバーンサバイの退寮者の場合、CD4が増えたとは言え、まだまだ通常の値に比べますと低いですからHIVウイルスを体内に持っていることの危うさを感じます。1人1人が病気を1つ1つ越えていく過程は、なまやさしくはありません。しかし自分自身の体を知り、あきらめずに闘っていくしかないのです。
ところで、二ユースレター12号でR さんが独立し、レストランを開店したことをご報告しました。日本の支援者の方からも、何件か問い合わせをいただきました。徐々に固定客もつき、味も美味しいとの評判でした。2ヶ月間は順調に進んでいましたが、大家さんから家を修理するので立ち退くようにと、言われてしまいました。地域の人たちにも知られ始め、これからという矢先の開店は、Rさんにとって大きな痛手でした。仕方なく新しい場所を探しましたが、なかなか見つかりません。どれも帯に短し、袴に長しで、適当な物件が見つからないまま、時だけが過ぎていきました。結局、新しい場所は見っからず、現在に至っています。夏には体調を崩し、入院。幸いひどい症状ではないため、数日で退院できました。順調にいっている時はいいのですが、一度つまずくと、投げ出してしまう性格が、新しい店舗を探す過程で、出てしまいました。 立ち退きという現実によって、やる気や希望が失せてしまったのでしょう。そしてRさんの心の中で失望感や嫌気などが混ざり合い、迷路から出られない状態が 続きました。私たちの人生は、なかなか思い通りにはいきません。辛いことの方が多いものです。しばしば失望、あきらめ、苦痛などさまざまな負の感情にとらわれます。それでも、何とかそこから再生するように自分自身で試行錯誤を繰り返します。しかしRさんやバーンサバイの他の入寮者については、いったんその希望や夢が破れた場合、普通よりも深く落ち込み、投げやりになりがちのように見えます。もちろん性格や環境などにもよりますが、出直すまでに、時間がかかります。 その反面、生きる力も人一倍持っていることも事実です。そうでなければ、過酷な状況の中で、ここまで生き抜いてはこれなかったでしょう。今回のことについては、とても残念ですが、一番残念に思っているのはRさん本人ではないかと思い ます。Rさんのサポートを始めて、5年半 新余曲折を経て自立。しかしまた振り出しに戻りました。今までに何度これを繰り返したことでしょうか。店はまだ再開していませんが、Rさんは夢をあきらめてはいません。Rさんの生き抜く力を信じて、しばらく見守っていきたいと考えています。
* Cさん(男性、33歳)
チェンマイ生まれで、母親と同居。姉と妹がおり、すでに結婚して家を出ています。父親は大酒のみで、数年前に病死。Cさんは若い時から、麻薬所持などで逮捕され、刑務所と外界を行ったり来たりしていました。出所しても3、4日家にいるだけで、また刑務所に戻るという生活です。しかし4年前に出所してからは、 再逮捕されていません。そして、その最後の服役中から体が熱つぼく、具合が悪かったそうです。彼は、麻薬の注射針が6HMに感染したと考えています。 バーンサバイに入寮前、無料で診療を受けることができる権利がある病院に、 5日間腹痛と幅吐で入院していましたが、 退院後も治りませんでした。食事をすると吐くため、衰弱していきました。看病している母親にも、看病疲れが出てきました。彼は以前、麻薬に関するNGOのポ ランティアをしていたことがあり、そこに相談に行きました。そしてそこのスタッフから電話があり、バーンサバイのスタッフがCさんに会いに行きました。そのままパーンサバイに入寮しましたが、歩くのもつらそうでした。すぐにベッドに横になりましたが、衰弱していて、体重も32kgと捜せ細っていましたので、すぐに病院へ行き、入院となりました。彼に初めて会った時のCD4は31で、バー ンサバイの入寮者の中では多い方ですが、通常からしますととても低い値です。工ローの検査をしたところ、すい臓、肝臓、勝脱が肥大していることもわかりました。
病院を退院してバーンサバイに戻って来たCさんは、早く抗HIV薬を飲んで元気になりたいという意思がとても強く、彼が無料で診療を受けることガできる権利を持っている病院で薬を処方してもらうことになりました。 しかし腹部のリンパ腺の結核が良くなっておらず、また肝臓の値も悪いため、この状態で抗H M薬を飲んでも 体への負担が大きすぎると医師に言われました。結局2ヶ月間結核の薬を服用し、薬の種類が減ってから、抗HIV薬を始めることになりました。Cさんは少し落胆した様子でしたが、前向きに待ちました。その後、抗HIV薬を飲むことができるようになり、治療が始まりました。幸い副作用もあまりなく、今のところ順調
に進んでいます。だんだん元気になり、今は体重も52kgになりました。 出会った時の線の細さがうそのようです。 バーンサバイの入寮者は、家族関係が破綻している場合が多いのですが、Cさんはめずらしく母親との関係が良好で、お互いにいたわり合いながら生活しています。入寮時もバーンサバイの場所を知るために母親がいっしょに来ましたし、 入院している時も付き添ってくれました。入寮中も1人で住む母親を心配し、体調のいい時は一時帰宅 し、また母親も見舞いに来てくれました。若い時から苦労をかけてきた 母親を思う気持ちは、人一倍強いようです。だんだん年をとってきた 母親の世話をしなければならないという自覚も持っています。母親が彼の支えであり、カの源と言えるかもしれません。親子で歩む姿は温いものを私たちに与えてくれす。Cさんにはしつかりした母親がついていますので、私たちも安心です。 彼は手先が器用なので、元気な時には、木の粉でライター入れを作り、1個50パーツで店に卸していました。入寮中も体調がよい時は、この作業をしていました。象や龍などの形をしたライター入れは、とても見事な出来栄えです。そして退寮後の今も、この仕事で生計を立てています。 バーンサバイで出会う方たちは、社会の底辺を生き抜いてきた方たちです。 そのためとくに個性が強く、生き方も独自のものがあります。この6年間、1人1 人について、壁にぶつかり、失敗し、またそこから始めるということを繰り返しています。スプーンで、水を一掬い一掬いしているようなものではないかという思いに、時折とらわれることがありますが、掬わないよりは掬った方がいいのではないかと考えつつ、続けてきました。それと同時にさまざまな問題を抱えなが私たちはやる気や勇気を与えられてもいます。
どうでもいい人生など1つもなく、それぞれの人生には意味があります。このバーンサバイで出会う方たちが、真に自分自身を大切にし、他の人をも大切にしながら生きていくことができるようになることを願いながら、日々を重ねています。
(バーンサバイディレクター)

生きる意欲  ― 持田敬司

30歳の男性Fさんが亡くなったという 知らせは、薬物使用者への支援をしているNGO で、彼のことを知っている職員から聞きました。彼が亡くなつた翌日のことです。バーンサバイは彼をサポートしていましたが、3週間ほど前に彼のサポートを中断したところでした。彼は1度バーンサバイ退寮した後、足を痛め て入院しました。その入院時にも私たちは付き添っていたのですが、病院を抜け出してタバコを吸ったり、病室に酔っ払って戻って来たりしました。そのため、もう1度、吹生をやり直したい』という決心をしたら、いつでもバーンサバイに電話してください。今、バーンサバイは Fさんをサポートできません。決心をするのはFさんです」と彼に言い、サポートを中断しました。ですが、私たちはその後も用事を装って彼のいる公園を訪問したり、彼の友人たちから彼の話を聞いていたりして、様子を伺っていました。 亡くなる2週間前にも会っていましたし、 1週間前には電話で話もしました。死因は、雨に降られて体が濡れている状態で、漏電した街灯に触れてしまったことによる感電死でした。 Fさんは、バーンサバイが以前からサポートしていた別の男性Bさんと同じチェンマイ市内の公園で野宿をしている仲間でした。彼は体中に刺青がありしばしば声を荒げて話をします。そして、右半身が不自由で、右足を引きずって歩き、右腕は自分の意思に関係なく常にプラプラと動いてしまいます。喋っても、歩いていても、じっとしていても、とても目立つ人でした。Bさんに会いに公園へ行っているうちに、自然と話をするようになりました。そして、ある日突然、Fさんから俺もバーンサバイに行きたい」と言われました。
FさんやBさんが生活している公園にはHIV感染者が多くいます。ですが、自分がHIVに感染している事実を認めれなかったり、治療に取り組もうという意欲を持てなかったりする人がほとんどです。Fさんも、エイズのことはみんなにカミングアウトをしていましたが、酔い潰れて抗HV薬を飲み忘れたりしている様子を見かけていました。Bさんによると、以前からFさんはバーンサバイに行きたい」と言っていたそうです。その度に、Bさんは顧もタバコも止めて、本当に健康のことを大切にする決心をしなきゃダメだよ」と言っていたそうです。 野宿生活が辛い。右半身の検査をして、治療したい。人生をやり直したい。」、 彼は私たちにこのように言いました。 バーンサバイではお酒もタバコも禁止だから、この2つをやったら出て行く」という約束もしました。 Fさんはバーンサバイに入寮する前には足を洗いましたが、昔はさまざまな薬物をやっていました。右半身が不自由であることについても本人は「太ももに注射して麻薬をやっていた時に、打ち所が悪くて神経傷ついたからだと思う」と彼は言います。また、薬物を止めた後も、右半身の不随意運動を抑えるために大量の抗不安剤と睡眠薬が処方され、それを飲んでいます。初めてかかったある医者には、「こんなに強い薬をこれだけの量を飲んで、起きていられるのか?普通の人はこの半分の量で起きていられなくなるよ」と言われました。このためでしょうか、コミュニケーションが難しかったり理解能力が低いと感じたりすることが多々ありました。 抗HIV薬は、毎日決まった時間に飲まなければ、十分な効果を得ることができません。また、飲み忘れたり、時間がズレたりすると抗体ができて薬が効かなくなってしまう 可能性があります。Fさんはこのことをしつかりと理解していますが、 抗HIV薬を正確に服用することがなかなかできませでした。 バーンサバイに来る前の話ですが、彼は何度か刑務所に服役していたことがあります。その間は物理的に抗HIV薬が手に入りませんでした(もちろん、建前は服 役者も適切な治療を受けられる権利が保障されていますが..)。 野宿していた時には飲酒による酷面のため薬を飲み忘れているのを度々見かけました。バーンサバイに来てからは、Fさんが薬を飲む時間の頃に私たちが飲んだかどうかを確認していました。それでも、例えば8時に飲む薬を7時前に飲んでしまうことなどがありました。 抗HIV薬を正しく飲むことができない理曲は、薬の理解、生活スタイル、価値観、性格などいろいろなものが考えられます。Fさんの場合は特に緊を飲む意義」を問いていたように思います。そして、兄気になって、もう一度○○をしたい」、元気になって、人生をやり直したい」、このような気持ちを最後まで持つことができなかったのではないかと思います。右半身の検査は脳のCTスキャンも撮り、2つの病院で診てもらいましたが、脳血栓が起きて、その血栓周辺の脳細胞が死んでいる。抗不安剤などで神経を弘緩させて、症状を押さえ ることしかできない」という結果でした。かかりつけの病院で免疫力の検査や抗HIV薬の相談をしても、病院の中でたらい回しにされて、終わりでした(彼の使える医療 保障は病院を選ぶことができません)。どうせ抗HV薬を飲んだって、今さら良くならない。もし元気になっても、やれることなんてない」、彼の心の奥にはこのような想いが深く沈んでいたように思います。 Fさんの家はチエンマイ市内にあり彼はお金を無心しによく家へ行っていました。私も何度か彼について行き、一緒に住んでいる彼の親戚と話すことができました。親戚のおじさんはFがいつこの家に戻って、住み始めても構わない。ただ、この家には小さい子どもがいるから、家の中で酒を飲んだり、麻薬をやったりすることは絶対に許さない」と言います。バーンサバイを1度退寮した後、彼は家へ戻りましたが、1週間後には公園で野宿生活をしていました。 Fさんのお葬式に参列した際に、彼からは知らされていなかった事実を親戚の方から聞きました。 私たちがFさんの家を訪問する時、両親はいつも留守でした。その度に彼は「今、両親は商品の買出し に行っている」海へ旅行に行っている」、と説明していました。確かにFさんの家は商売をしていて、 家の佇まいからも裕福であることが想像できたので、私たちも特に疑問を抱いたりしていませんでした。しかし、Fさんのおばさんは、彼の両親は、まだ彼が小さい頃に2人とも亡くなり、それからは私が育ててきた」と言います。家には寄り付かず、自由気ままな生活ができる野宿を自ら選んでいるように見えましたが、その裏には同 し家に住む者との複雑な葛藤があったのかもしれません。
パーンサパイが彼のサポートを中断したのは、Fさんに、もう1度生きる意欲を持って欲しいと思い、バーンサバイのサポートがあると彼はいつまでも自分のことを考える機会が持てないと考えたからです。この私の想いはしっかり彼に届いていたように思います。Fさんのサポートを中断して遠くから彼の様子を伺っていた時期には、タバコを止めるために、タバコが不味くなるうがい薬を手に入れた。タバコを止めたら、もう一度バーンサパイに行けるかな?」と彼が言っていたとも聞いています。今までの生活を変えるということは、肉体的にも、精神的にも大きなストレス
を生み、大変な辛さを伴うことでしよう。もう1度チャレンジをしよう」、 彼がそう思いかけていた矢先にこのような事故が起きてしまいました。 両親のことを話してほしかった」という無力感。サポートを中断すると彼に伝えた時に感じた、身を切るような辛さ。もう1度、人生をやり直したい」という決心をしたら、いつでもバーンサバイに電話してください。」と彼に言っておきながら、もう彼からの電話は来なくなってしまった悔しさ。たくさんの想いが残ります。
(バーンサバイスタッフ)