バーンサバイニュースレター第10号


バーンサバイニュースレター第10号
 

「バーン・サバイ」の歌が出来るまで ― 豊田 勇造

自分の持っている歌詞カードの右肩 には、その曲の出来上がった日付が書 いてあって、「バーン・サバイ」の歌には 2006年9月29日と書いてある。 タイとの係わりが深いこともあり、以前 からバーン・サバイや青木恵美子さんの 名前は知っていたので、 訪ねてみたい気持ちは あったが、少し気が引けて、その機会はなかなか巡ってこなかった。 ところが縁と言うのは不思議なもので、 去年の春に京都の「おからはうす」という自然食喫茶で青木さんと偶然出会った。 ほんの数分の立ち話を交わし、心ばかりのカンパを手渡すことができた。 その数カ月後、バーン・サバイ移転のお知らせカードが届いた。カードには 「近くへ来られたら、ぜひお訪ねください」と書かれてあった。その言葉に、ふっと気が楽になり、そのカードを手にしてバ ーン・サバイを訪ねたのが去年の8月の ことだった チェンマイの市場からソンテウ(乗り合いトラック)に乗り、サーラピー郡の道路わきから少し入った、緑に囲まれた気持 ちのよい場所に、バーン・サバイはあった。青木さん、早川文野さんに迎えられ、
患者さんたち、スタッフの人達に紹介してもらい、話しを聞かせてもらった。 チェンマイへの帰り道、たくさんの大変なことを笑い飛ばしながら、ひとつ屋根の下で暮らす人達へ、できれば歌を作って贈りたいと思った。 その秋、京都の「エイコンズビレッジ」というフリースペースでタイ関連のイベントが催され、そこでライブをすることになったので、そのライブをバーン・サバイのチャリティー・ライブにさせてもらった。 ライブに帰国中の青木さんも来られて少し話をしてもらえることになり、それならばその日にあわせて歌を作り上げ、青木さんにも聴いてもらえたらと思った。 そしてギターを弾きながら、移転のお知らせのカードを開いて緑の屋根のバーン・サバイの写真を見ていると、8月にバーン・サバイを訪ねたときのことがよみがえって来て、すーっと歌が出来上がっ た。



バーン・サバイ
   作詞作曲・豊田勇造

サーラピーの花が咲く頃に
   訪ねてみたい家がある
ラムヤイ実る庭のある
   緑の屋根が目印
緑の屋根のその下で
   家族みたいに暮らす人
からだに病を持った人 心に傷を負った人
   心の傷が癒える時
身体が楽になるという
   あなたが作ったきれいなカードが
海を渡って届きました
   海を渡ったカードを開けば
緑の屋根の家の写真
   言葉が添えられその家の名は
バーン・サバイ安らぎの家
   サーラピーの花が咲く頃に
訪ねてみたい家がある
   ラムヤイ実る庭のある
緑の屋根が目印
   バーン・サバイ 安らぎの家




こんなふうにして出来た歌、「バーン・サバイ」を3月にタイのバンコクで録音し、 6月に発表した新しいアルバム『夢で会 いたい』の中に収録することができたこと、 そして9月1日にバーン・サバイでのコン サートで歌を聴いてもらえることは、とて も婿しいことです。そのときには、タイ語と日本語で「バー ン・サバイ」をうたえたらと思っています。
(シンガーソングライター)

マリ通信(2006年11月~2007年6月入寮状況)  ― 早川文野

以前はラムヤイ(竜眼)園だった所に、バーンサバイは建てられました。庭にはその名残りの樹々があり、たわわに果実をつけています。今がラムャイの旬。毎日、おやつにその甘い実を楽しんでいます。またさまざまな小鳥たちも訪れ、美しい声を聴く時、心に安らぎを感じます。
新しい家に移転し、1年になろうとしています。建設当時におこった地域住民の反対も、解決しました。隣家の前を通りかかると、庭のリンチー(ライチ)を下さったり、バーンサバイの敷地を近道に使ったり、よい関係を作っています。これからも、絆をより深めていきたいと思います。
さて、上半期の入寮者は12名(女性4 名、男性8名)でした。そして残念なことですが、3名の方が天に召されました。 今までは、入寮者の80%が女性でしたが、今期は男性が多く入寮されました。 入寮期間も、長期化しています。1つの 病気が良くなると、また新しい病気が出てくるといった形で、一進一退を繰り返しています。入寮者のほとんどの方のCD 4の値が10前後ですから、日和見感染 症が次々と出てきても、不思議ではありません。今年は、新年早々から入院患者 が続出し、ほぼ半年間、誰かが入院している状態でした。多い時は4名が同時に入院したり、2つの病院をかけもちでまわるといったこともありました。 ところで、Rさん(33歳)と出会って4年がたちました。幼い時に捨てられ、養護施設に入りましたが、家族に会いたくて脱走。施設に連れ戻されますが、また脱走。これを繰り返し、最終的にストリートチルドレンになりました。何もよるべのない子どもができることは、街角に立ち、売春することでした。10代の終わりでHIV に感染。その後何度も死線をさ迷い、最終的にバーンサバイに入寮しました。初めて会った時は、ガリガリにやせて、CD 4がわずか6。さっそく抗HIV薬の服用を始めました。Rさんは退寮後、バーンサ バイでグリーティングカード作成の仕事をしていましたが、途中で来なくなりまし た。そして、抗HIV薬を飲むのもやめ、 一時期150を越えていたCD4が、また1 0台に落ちたこともありました。この4年間、 紅余曲折をへて、先日の検査でCD4が 344まであがりました。これには、Rさんも 私たちスタッフも感動でした。今までなかなか増えず、薬を変えるという話まで出ていましたので、本人の喜びはひとしおでした。私たちは、Rさんから大きな贈り物をもらった気分です!そしてもう1人、 Lさん(39歳)とは3年の付き合いになります。Lさんもバーンサバイに来た時には、結核の治療の途中で、やせ細って いました。Lさんは、冬になると体調が崩れ、頭痛、発熱、噛吐に悩まされ、1週間に1度は入退院を繰り返しました。Lさんはバーンサバイで入院回数が、 一番多い人です。ところが、バーンサバイでの3回目の冬は、定期健診以外は1度も病院へ行くこともなく、入院することもなく、過ごしました。Lさんも私たちも、大喜びでした。この2人が何度も何度も、 病気と闘っていた姿が思い出されます。私たちスタッフはただそばに付き添うことしかきませんが、 RさんもLさんも、その他の方たちも、皆さんひたすら忍耐して、越えていこうとします。タイでは、黄色いバラがエイズの象徴です。その花言葉が“忍耐”だからです。 バーンサバイの方たちを見ていますと、エイズの象徴がなぜ黄色いバラなのかわかります。現在の健康は、少しずつ少しずつ時を重ねてきた結果です。バーンサバイに来られる方たちは、社会の底辺を自力で生き抜いてきたといっていいでしよう。それ故、CD4の値が信じられないくらい低くても、蘇生する力を有しているのかもしれません。バーンサバイのように人間と人間が向き合う現場は、時にぶつかりあい、そこから理解が生まれ、またぶつかり合う。これの繰り返しで、互いに少しずつ成長していくもののようです。バーンサバイは5年を経 過しましたが、6年目もまたこのようにして日々を紡いでいきます。 2001年から始まった30バーツ診療が、昨年から抗HIV薬までカバーできるようになり、服用できる層が拡大しました。タイ人や在留許可証を持っている人で、一定の条件を満たした場合、このサービ スをうけることができます。しかしビ ルマ、ラオスなどといった海外からの移住労働者や身分証明を持たない山地民、またタイ人でもホームレスのような方たちなどは、この制 度の枠外にあります。そのため、タ イのHIV感染者やエイズ患者の置かれている状況が、二極化してきているように思われます。今年に 入ってから入寮される方々が必ず といっていいほど、入院しなければならないのは、公的サービスから抜け落ちている方たちが多いからです。 今まで本格的にエイズ治療をしたことが なく、かなり重い症状になってからここに来られるといった事情があります。そして今後はますます二極化が進むことが予想されます。元気になって、普通の生活ができるHIV感染者の方たちは食べていかなくてはなりませんので、就労の機 会、 住居など生活保障的なサービスが必要になってくることでしょう。 また重症なェイズ患者の方たちには医療へアクセスし、 適切な治療を受けることが急務になります。おそらく、 今後は民間だけの カでは解決できない局面が出てくることと思います。 このタイでも“生活する"という提点を今まで以上に取り入れた政策を考えなければならない時期にきています。そうしなければ、 またそこから新たな生活問題が派生する可能性があります。 バーンサバイの活動も今年で6年目に はいりますが、エイズを取りまく環境が急 速に変化しつつある現在、ほんとうに必 要とされるサポートは何なのかを、常に 模索していかなくてはなりません。そして、 1人1人がその人らしく自己実現しながら 生き抜いていくことを、側面からサポート していきたいと願っています。
(バーンサバイ;ディレクター)

ハイ・ガムランチャィ 〜前に進む力をください〜   貝瀨亮子

たびたび患者さんとの会話の中で出 てくる言葉があります。「ハイ・ガムランチ ャイ=心に力を与えること、励ますこと」 です。ある患者さんはよく私にこう言いま す。「私たちエイズ患者に必要なのはガムランチャイなの。友達がいて、助けてくれる人がいて、励ましてくれて、それで 頑張ろうって気になるんだ。」エイズは、 精神状態が病状にかなりの影響を与える病気です。励ましを得たおかげで「まだ頑張れるぞ」と思えば体も回復し、「もうだめだ」とあきらめたとたんに体調を崩したりします。バーンサバイでの生活を通して、それを自分の目で見て実感できるようになってきました。
患者さん同様、 スタッフとして働く私たちにとってもガムランチャイは重要です。 私たちも人間なので、患者さんとの関わりの中でくたびれたり、怒ってみたりという感情を抑えられないこともあり、そんな時には全部を投げ出し、 あきらめることばかりを考えてしまったりします(私だけでしょうか?)。でも、 そこで患者さんがガムランチャイをくれることで、すぐにあきらめたりしないでなんとか前にすすめているのではないかと思うのです。「ほら、私たちだって頑張ってるんだから、あなたもだいじようぶ。やってみようよ。」そんな メッセージを日々投げられている気がし ます。歩けなかった人が歩けるようになった、CD4 の数値があがったなど、患者さんが元気になっていく姿を目のあたりにすること、その喜びを共有することなどは 一番わかりやすく見える形で患者さんが 私たちにガムランチャイを与えてくれる瞬 間です。 前向きに生に向かって回復していくことがある一方、バーンサバイ には死という現実が常に控えているというもう一つの側面もあります。 これまで関わってきた人を失った悲しみと、自分は全力であたって 来たのだろうかという疑問と、本当はもっと何かができたのではないかという自責の念と、もう戻らないという無力感とが交差し、気持ちが混乱します。今年は1月から3月の間にバーンサバイ入寮者3名が亡 くなりました。生まれて初めて、これだけ短期間に続けて人の死を経験することになり、正直かなり動揺しました。この数ヶ月間、そのような 気持ちの混乱を感じながらも仕事 を続けてきました。しかし、最近ふと一連の患者さんの死を振り返った時に、死という最も悲しい出来事を通してさえ彼らは私たちに何かを残し、また別の形でガムランチャイを与え続けてくれているのではないかと感じるようになって来て いることに気付きました。
1月、Nさんの計報を私が受けとったのはEメールででした。日本に一時帰国している時のことです。私が初めて経験する、自分が関わった患者さんの死でし た。Nさんは11月からバーンサバイに入寮していました。結核菌・カビが全身にまわっており、多臓器不全・療療(る いれき)からの激痛、呼吸困難、 結核の薬の副作用による嘱吐に も苦しんでいました。1月になってからは症状が悪化した為、病院 に入院していました。 Nさんは病気で弱っている自 分をなかなか受け入れることがで きず、具合が悪くなっても病院に 行くことを頑なに拒否し、何度も 「こんな状態なら死んだ方がまし だ。もっとひどくなる前に死にた い。」と言い、ロッブリーにあるエ イズ患者のホスピスに自分を送り、 そこで死なせてくれ、と懇願して いました。また、そんな自分を守 るためか、なかなか心を開いてくれませんでした。 しかし、バーンサバイで他の患者さん やスタッフと一緒に過ごすうちに、Nさん の気持ちにも変化があったようです。Nさんの行動から、「ただあきらめて死ぬ」以外に「生き残って楽しむ」という選択肢が 初めて視野に上がってきたのではないかという印象を受けるようになったのです。Nさんたちが私たちの間に置いていた心の壁も、少しずつですが崩れはじめたようにも見えました。そして1月、体調が悪くなった際に「病院に行って元気になろうよ」と言う私たちの言葉に額き、入院することになりました。入院してからはスタッフが交替しながら24 時間体制で付き添いをしていました。私も病院に通い、1 日のうちのかなりの時間をNさんと一緒に病室で過ごすようになり、次第に色々な話ができるようになっていきました。無機質で単調な入院生活の中で純粋に話し相手が欲しあるいはまだ傍にいる人がいることを確認してガムランチャイを得たいという気持 ちもあったのか、Nさんは私の訪問を心待ちにしていてくれていました。そんなNさんの気持ちから私もガムランチャイを得て、毎日病院に通っていました。
そんなある日のことです。Nさんと同室の患者さんのお見舞いに来た人に「あの人とはどういう関係なの?」と聞かれ、私は「お世話をしているスタッフの者です」とNさんが聞いている前で答えました。それ以降、Nさんの私に対する態度が急変したのです。Nさんは言葉少なになり、気難しい顔をして黙り込むことが多くなりました。せっかく縮まって来たと思った距離が開き、再び壁が置かれた感じがしました。私は何が原因かわからないまま戸惑っていましたが、もしかしたら本人の前で「スタッフです」と答えたことがNさんを 傷つけてしまったのではないかと思い至りました。私としては情報の行き違いがあってはいけないと思い、 あえて肩書き通りスタッフです、と言ったつもりだったの ですが、Nさんがどう受け取るかまで思慮に入れていませんでした。せっかく色々話をできる友達として心を開いたのに、結局は仕事として事務的にやっていただけだったのか、とNさんに思わせてしまったのではないかと考えると、自分の配慮のなさに腹が立ちました。 その後「仕事は仕事だけど、それとは別にNさんに会いに来るのを友達として楽しみにしていたんだ。」と伝えなくては と思っているうちに、Nさんは呼吸困難のために集中治療室に移されてしまいました。Nさんの体調は芳しくありませんでした。話をするのもつらく、意識が臓腫とする頻度も高くなりました。私は初めてNさんの死を意識しました。日本に帰る日も迫っていたため、私の頭の中は「日本にいる間にNさんが亡くなったらどうしよう」という不安でいっぱいになっていました。 帰国予定日の数日前、付き添っていたスタッフ全員が主治医に室外に呼ばれました。菌が全身にまわり長くはないだろう、とのお話でした。涙が出てきました。 涙を拭いて部屋に戻り、皆でNさんのベッドの周りに立ちました。Nさんは呼吸が苦しくて喋れないけれども、不安そうな目で私たちのことを見つめています。スタッフの1人がNさんに「だいじょうぶよ、私たち友達4人がみんな一緒にいるからね。」と言うと、Nさんは少しほっとしたような表情になり、領いてくれました。私はその時少し救われた気持ちになりました。
Nさん、私もまだ友達でいていいんだね、
そんな気持ちになりまた涙がこみ上げてきました。 帰国の為にチェンマイを離れる日、私は荷物を持って病院に行きました。出発のぎりぎりまでNさんの傍にいようと思ったのです。いよいよ行かなくてはという時、
Nさんの意識はしっかりとしていました。私は「ごめんね、今から日本に帰るけど、戻って来るまで待っててね。絶対待っててね。」とNさんに言いました。Nさんも苦しい息の中で私に向かって深く額いてくれました。病室を出たとたん、また涙が出てきました。「額いてくれて有難う」とい う気持ちと、「待っててと言いながら心の中ではこれで最期になるだろうと思っていて、それを知っていて日本に帰るなんて自分はなんてひどいヤツなんだ」という気持ちが交互にやってくるのです。バンコクに向かうバスの中、私はずっと泣いていました。
そして、やはりそれが最期になってしまいました。「Nさんが天に召されました」 という一文を遠く離れた日本で読んだ時、 ああ、間に合わなかった、何もできないうちに全てが終わってしまった、と放心してしまいました。
死をもって全て終わってしまったと思う 感覚はその後も私の中にずっとありましたが、Nさんの死から4ヶ月近く経ったある日、「いや、終わったわけではないのかも」と考えさせられる出来事がありまし た。
バーンサバイにもたびたびお見舞いに来ていたNさんの友達が、突然1人の日本人の方を連れてバーンサバイにやって来たのです。仕事先で偶然に日本人旅行者に会い、バーンサバイの話をしたところ興味があって訪問したいと言うので連れてきた、とのことでした。その方もバーンサバイの活動に関心を持ってくださり、色々お話をすることができました。この出来事が単なる偶然なのか、天に召されたNさんの引き合わせなのかわかりま せん。でも、確かなのはNさんの存在を通して人のつながりが残され、それがまた新たな人のつながりを生み、それらが本人の死後も切れずに残されているのだという事実です。 Nさんの生前、彼が必要としていたことに対して私は100%応えてあげることはできなかったと思います。それでもNさん はこうやって、死を通してでさえ私たちにとても大切なものを残してくれたのです。 死を終わりとするのではなく、それを別の形で引き継いでいくのだという、これまで私の中にはなかった感覚が初めて沸いてきました。人の人生に関わらせてもらい、そこからまた別の人の人生にもつながりの生まれることの有難さを認識する時、それがまた私にとっての新たなガム ランチャイとなっていく気がするのです。
残念なことに、私たちの側は死を通して残された物を受け取ることができても、 亡くなってしまったらその患者さんに対して私たちの方からガムランチャイを届けることはできなくなってしまいます。だからこそ、私たちは患者さんが残してくれた 物やメッセージの重みをしっかりと受け止め、与えられたガムランチャイを大事にし、前にすすんで行かなくてはいけな いのではないかと思うのです。そして、これから生に向かって病気と闘っていくたくさんの人々のガムランチャイとなって行くことでその恩を返していけたら、とも思います。死をただの終わりとしてしまわないように。
(バーンサバイ;スタッフ)

「どうしたら、私たちの想いが伝わるのだろう?」 ―  持田敬司

35歳の男性Pさんは、色黒でスーッと通った鼻筋とくっきりした目をしており、 背丈が少し低めです。彼は耐(ほこら)の脇で野宿しながら、お供え物を食べたり、 物乞いなどをしたりして生活していました。 薄い髭がちょろちょろと伸び、髪もボサボサで、杖を使って歩いている姿は世離れ していました。バーンサバイに入寮してからは、髭も髪も刺って一見お坊さんの ようになりました。しかし、入院先の病室が暑いためにいつも上着を脱ぎ、刺青が見える体からは荒々しい雰囲気が出ています。
HIV/AIDS問題について取り組んでい る団体間の連携を図るネットワーク型NGOが「AIDSを発病していていて野宿をしている人がいるのですが、バーンサバイで支援できないでしょうか?」と彼を紹介してきました。バーンサバイから彼に会いに行くと、ひどい下痛のためすぐに病 院へ行き、入院することになりました。入院している彼に付き添ったのが、彼と私の初めての出会いでした。とてもハキハキと話をし、遠慮をしながらも自分のして欲しいことはしっかりと伝えてきます。「すごく頭の良い人だなあ」というのが彼の第 1印象でした。 彼はタイ南部出身ですが、チェンマイに暮らしている妹に連絡を取るとバーンサバイに来てくれました。彼は「○○大学(タイの名門大学)に入学したけど、中 退した。昔は銀行職員や有名レストランのシェフをしていた」と私たちには言っていました。しかし、妹さんの話と照らし合わせると、まったく事実とは異なることがわかりました。また、本人は「刺青を入れた時にHIVに感染した」と言っています が、妹さんは「麻薬もやっていたし、男性同性愛者に体を売る職業ゲイもやっていたから、なにで感染したかわからない」と言います。これらの虚言癖や徐々に現れてきた横柄で高圧的な態度も、今の自分の状況を受け入れることができないために、虚勢を張って人の上に立つことで自分の精神的均衡を保つために生じるのでしよう。 入院して下卿はすぐに治りましたが、胆石、肝臓肥大、牌臓が炎症を起こしていることがわかりました。今まで不摂生な生活では自分の命を縮めてしまうのは明らかなため、「バーンサバイでしばらく生活しないか?」と話しましたが、「自分は今の生活が好きだから、祠へ帰る」と言います。仕方がなく彼を元の祠へ送って行きましたが、その日の夜「バーンサバイ へ行きたいんだけど、今から迎えに来られるか?」と突然電話がかかってきたので、その日の深夜にバーンサバイに入寮しました。 そのうちに「目が霞む」と言うので病院で検査すると、サイトメガロウィルス網膜 症という放置すると失明してしまう病気であることもわかりました。「60回、目に注射しなくてはならない」と医者に言われたのですが、1回目の注射を終えた時にPさんは「祠に帰る」と言い出しました。「治療しないと失明しちやうんだよ!それに自分の命を縮めることになるんだよ!」と 説得しても、「祠に迎えに来てくれれば、一緒に病院に行くから」と言って聞く耳を持ちません。案の定、通院の日に迎えに行っても、朝から酔っ払っていて通院を拒否します。これが何度も続いたので通院を勧めるのは諦め、時々「話し相手」として様子を見に通っていました。ある日、 彼は便や尿にまみれて、高熱のために意識が臓艦としています。急いで近くで服を買ってきて着替えさせてから、病院へ行き即入院になりました。この入院生 活では「病院の御飯はおいしくないから、 あれを買ってきてくれ!これを買ってきてくれ!」と要求がどんどんエスカレートしていきます。そして、この入院生活も「俺はもう退院できる」と言い出し、病院側も「本人に治療の意思がないなら、どうしようもない」ということで彼の一方的なもので終わり、彼は三度祠へ戻っていきました。次の朝、彼が暮らしている祠の掃除に来た人から「Pさんに頼まれて電話したのですが...。病院に行きたいと言っています」という電話がかかってきました。今回は前回よりもひどい状況で排池物も垂れ流しで体中汚物まみれ、蝶も集っています。そんな彼を抱えて車へ乗せ て、急いで病院へ連れて行きました。病院へ向かう車の中で「Pさん、
死にたいの?それとも死にたくないの?」と聞くと、朦朧としている意識の中で「死にたくない」と言います。病院では前回の経緯とひどい臭いのために始めはとても嫌な顔をされましたが、バーンサバイが一番信頼している先生が診てくれることになりました。点満をして、ゆっくり休み、意識がハッキリとしてからもう一度「死にたくないんだよね!じゃあ、もう自分1 人で決めて退院したり、バーンサバイから出て行ったりするのは許さないからね!もし今度勝手に出て行ったらそれで最後だからね!」と厳しく言いました。 妹さんは「今まで家族は何度もアパート代を払ったり病院代を払ったりしたけど、全部お酒とタバコに使ってしまって全然自分の人生を変えようとしない」と言います。彼女の生活もとても苦しいのですが、 「他の兄弟姉妹と相談して、なんとか生活するための準備に充てるお金を用意します」と言ってくれた後も彼は祠へ帰って行きました。 彼はバーンサバイの電話を借りて、「私はAIDSで、足にも障害がある。実家に戻りたいんだけど、バス代がないから支援してもらえないか?」と役所に電話して支援を申請しています。それを聞いていた私が驚いて「えっ!?実家 に戻ることにしたの?」と聞くと、「戻らないよ。お金がもらえればいいんだ」と平然と答えます。頭が切れる分、彼にとって「バーンサバイは快適な病院のベッドで寝させてくれて、好きなものを食べさせてくれる所」で、「飽きたらまた今までの生活に戻ればいいや」と考えているのでしよう。「死にたくない」という気持ちはあるのですが、治療や支援をこれだけ明確に拒否し、手元にあるチャンスを使って人生を変えようとしない人には初めて出会いました。「バーンサバイは無駄で非効率なことをしている」と思う人もいるかもしれません。しかし、人間の命は「効率性」だけでは計ることはできません。彼が生まれてきたこと自体が絶対的に価値のあることです。「世の中に死んだ方が良い人 なんていない」と考えているからこそ、私たちは彼に付き合っています。蒸し暑い夜に毛布を2枚もかけても寒気が引かず、ガタガタ震えている彼の背中と足をさすりながら、「どうしたら、私たちの想いが彼に少しでも伝わるだろうか?」と祈ります。
この原稿を書いている今も入院しているPさんは、「体に良いものを食べろ!」 と私たちが怒るとハンガーストライキをやってみせたり、私たちに付き添って欲しいために病院職員の介護を拒否したり、 いろいろなことをして私たちを試しています。私たちは、私たちにできること(彼を受け止め、彼のことを真剣に想っていることを表明していく)をしていきたいと思います。Pさんの人生を変えることの出来るのは最終的に彼だけです。いつか私たちの想いが彼に伝わることを願います。
(バーンサバイ;スタッフ)