バーンサバイニュースレター第6号


バーンサバイニュースレター第6号
 

“チェンマイに生き、自分にできること" 〜ある感染者グループとの関わり〜 川口泰広

【感染者ネットワークとは?】
チェンマイ市内から東に約40kmのところにメーオーン郡があります。1994年、地域の病院やNGOの支援を受けて、メーオーン郡内に暮らすHIV感染者のグループができました。日常の中で起こる問題を解決するため、感染者自らも役割を担いながら、地域社会で共生していくことを目指しました。2000年7月29日、このグループの活動をより地域に広げるた めに、感染者ネットワークとして再出発しました。 感染者ネットワークの活動目的は、感染者同士が意見や経験を交換しながら、自分の置かれている状況や問題を理解し、お互いに助け合い、精神面で支え合っていくことです。最近では、同郡内に 暮らすHIV感染者やAIDS患者のお見舞いや家庭訪問が主な活動です。また、両親又はどちらかの親をエイズで亡くした孤児を対象とした奨学金の支援も行っています。
【きっかけ】
私がこのネットワークに関わるようにな ったのは、本当にまったくの偶然からでした。1999年、ある縁で日本のグループからの奨学金を橋渡しすることになりました。当初は、エイズ孤児を対象としていたわけではなく、たまたま知り合ったエイズ関係のグループから要請があったのが始まりです。その当時、両親をエイズで亡くし、孤児になるケースが増え始めていました。 感染者ネットワークを通して、エイズ孤児への奨学金支援を始めたのは2001年からです。それまでは、タイに暮らしていてもHIV感染者やエイズについてあまり知りませんでした。奨学金の橋渡しを通して、初めて感染者の人たちと知り合い、多くの現状を知ることになりました。
【チェンマイでの生活】
チェンマイで暮らし始めて、もう10年近くが過ぎましたが、そもそも私がタイに来たのは、決してボランティアをするためで はありません。タイはあくまでも旅の通過点でした。と言っても、日本にいるときからボランティア活動に関わっていたので、タイにもまったく興味がなかったわけで はありません。バンコクでタイ語を学び、 カンチャナブリ県にあるタイのNGOで1 年半ほどボランティアをしました。 その後、タイ人女性と結婚し、北タイの都市チェンマイで暮らすようになり、今では二児の父親です。自分でプロジェクトを実施しているわけでも、NGOの専従スタッフでもありません。職業は、フリーランスの通訳・翻訳ということになっています。 チェンマイに住み始めた最初の2年間は 大学で日本語を教えていましたが、それ
以後はずっと一人でやってきました。組織で働くのが性に合わないのでしよう。
自分で時間をやり繰りしながら、その時々に関われることとして、ストリートチルドレンのNGO、そして今回取り上げたHIV感染者ネットワークなどを手伝って います。一応、バーンサバイの運営委員にも名前を連ねています。また、カンチ ャナブリでボランティアをしていた頃から関わっている"タクライ”という日本人の個人ボランティア・ネットワークの事務局も担当しています。
【それぞれの死】
このネットワークは、いろいろな問題を乗り越えて現在まで続いてきました。振り返ってみても、決して平坦な道のりとは言えません。 感染者ネットワークとして再出発してから約1年が経った2001年10月3日の早朝、それまで献身的にグループを引っ 張ってきた女性が亡くなりました。彼女は自宅を事務所として開放し、自分の体調を顧みず、感染者として様々な公の場で体験や意見を述べてきました。彼女の葬儀には多くの人が参列し、早すぎる別れを惜しみました。その後リーダー不在の中、スタッフ各自の思惑が働き、しばらくの間もめていた時期がありました。結局、二つのグルー プに分かれて、それぞれ隣り合う別の郡 で活動をすることになりました。その約2年後の2003年10月26日には、地区ボランティアの娘さんが、わずか6才の短い命を閉じました。母親は夫から感染し、その夫も既に亡くなり、母子感染により娘さんも感染していました。 その娘さんは肺炎を起こし、 胃やロの中にカンジタ菌によるカビが生え、ご飯も喉を通らない状態で口にするのはお菓子や果物だけという日々が続いていました。 わずかに食べることもできても、すぐ下痢
なるために体力もなく、 抗ウイルス剤を服用 することができませんでsた。当時、 近隣では子供への抗ウイルス剤の施薬が始まっており、良い結果も出ていたのですが、本人が薬を飲むのをとても嫌がっていました。
お見舞いに行く毎に痩せていく女の子を見ながら、 母と娘の関係、 無理やりにでも抗ウィルス剤を飲ませて生きながらえることがいいのか、最期まで子どもの望みを聞いてあげることがいいのか、どちらが母子にとって幸せなのだろうたと、 私自身も考えさせられました。
一人娘を亡くした後も、 ネットワークの 人たちに励まされ、 気丈に振る舞っていた母親ですが、最近体調を崩し、抗ウィルス剤を飲むかどうかで迷っています。
【感染者を取り巻く現状】
現在、このネットワークは大きな岐路にさしかかっています。ここ数年、政府は無料で抗ウイルス剤を施薬し、孤児への奨学金を出すようになりました。体調が良くなった人は自分が暮らすために働くことを優先し、一方で支援を必要とする老人や子供のために活動する感染者の人が少なくなりました。エイズで両親を亡くした子供たちは、年老いた祖父母に育てられています。母子感染によってHIVに感染している子供もいます。タイ国内ではエイズ関連プロジェクトへの予算が減少傾向にあり、政策により改善された面とは裏腹に、感染者同士の相互扶助の意識が薄れてしまい、グループの存在自体が危うくなっています。感染者の親戚に牛の飼育を委託し、生まれた子牛を売却して奨学金基金とするプロジェクトが5年目に入っていますが、たとえ基金があっても、それを管理しフォローアップする人間がいなければ、奨学金支援も続いていきません。結局、2004年度はネットワークの運営費が確保できませんでした。その状況の中で、事務局のサリニーさんと代表のコーンカムさんの二人が、今までの予算残金や物品販売の積立金を切り崩し、ほとんど無給で活動を続けてきました。
サリ二ーさんに「活動に参加する感染者の人も少なくなってきたし、もうネットワークは必要ないんじゃないの?」とちょっと意地悪な質問をしたことがあります。「でもエイズで両親を亡くした子や、その子を育てるお年寄りはどうなるの。ここ簡単にやめるわけにはいかないわ。もし私たちがやらなかったら一体誰がやってくれるというの。 」という答えが返ってきました。彼女自身もHIV に感染しており、今年から小学校5年生になる一人娘を育てています。
【今後の展望】
2005年度は、来年3月 までの1年間の運営費を、日本の方が支援してくださることになりました。奨学金については、このネットワークに関わるきっかけになった日本のグループから、今年も引き続き支援をいただくことができました。さっそく5月14日に前期分として18名のエイズ孤児に奨学金を手渡してきました。 現在、ネットワーク代表のコーンカムさんは、日雇いの建設現場で働いています。比較的自由に休むことができるので、1ケ月の内、何日かはネットワークのために感染者の家庭訪問などをすることになっています。事務局を担当するサリニーさんも、1週間に1日はメーオーン郡病院で感染者の針治療プロジェクトを手伝い、またエイズ・クリニックにも関わっています。たとえ今年は運営費の予算が確保できても、それだけではスタッフとして十分な謝礼が出せるわけではなく、彼らが自分の暮らしを維持していくためには兼業にならざるを得ません。今後、活動に参加する感染者の人が少なくなり、地域でネットワークの役割がなくなってくれば、活動を終了することもあり得るでしょう。誰も活動を担う人がいなくなれば、私にはどうすることもできません。彼ら自身が止めることを決めたときは、その決定を尊重したいと思います。 私にできることは、彼らの中に活動を続けていこうという意志がある限り、できる範囲で関わり続けていくことぐらいです。
(タクライ;事務局) (バーンサバイ;運営委員)

皆さんに伝えたいこと   日本から帰国したAさんの手記

私は2004年12月15日(水)に日本から帰ってきました。夜にチェンマイ空港に 到着したら、そこに日本人が迎えに来てくれていました。そして直接チェンマイにある「バーンサバイ」にやって来ました。私はHIVウイルスに感染して発病しています。 「私は12年もの長い間日本にいました。その間に娘も息子もすっかり大きくなりま した。2人がまだほんの小さい時に、私は日本に行ってしまいました。今では息子は既に結婚して家族があり、娘は高校1年生です。今、その娘が私を訪ねて、チェンマイに来ています。娘は今、夏休みなので、休みの間一緒に暮らすためです。私は日本に居る間、タイにいる家族に私がエイズにかかっていることを話していませんでした。日本ではエイズという病気はとても怖がられています。だから私も自分がエイズだとはとても話せませんでした。家族に知られてしまうのを恐れて、家に帰る勇気すらありませんでした。しかし、娘が私に会いに来てくれたとき、思い切って話しました。何も心配は要りませんでした。娘はエイズという病気のことを学校で勉強していて、怖くなかつたのです。 娘はエイズにかかっている私を受け入れてくれました。 私はとっても嬉しい気持ちで一杯でした。 とっても安心しました。そうして私は家族の皆に電話で話しました。 すると家族皆が私を怖がらずに受け入れてくれたのです。それから息子は毎日電話をかけてきてくれるようになりました。 こうして私は今、自分自身を受け止められるようになりました。今、私はもう何も心配する必要がないのです。
日本には、助けてくださった日本人がいます。お医者さんの澤田先生と「女性の家サーラ―」の新倉さんです。彼らは日本で私を助けてくださったとても親切な方々です。もしお医者さんが助けてくれていなかったら、今頃は失明していました。そしてこのバーンサバイに来ることができました。まさに平安です(注:バーンサバイとは「平安の家」の意)。
今、私は、身体も心も平安です。
私は働くために日本へ行きましたが、騙されて、380万円で売られました。そして380万円はそのまま私の借金になり、売春を強要されました。その後、3回も転売されて、その間お金は1銭ももらえませんでした。生活は苦悩に満ちたものでした。日本での私の生活がどれほどひどいものだった か、すべては話せません。日本に行ったタイ人の中には成功している人もいれば、失敗している人もいます。友達と一緒に住んでいる人もいれば、騙されてやくざに売られた人もいます。例えば私のようにです。私はやくざに腕を切り付けられ、 それを自分でしたことにされました。時々、電気ショックを与えられ、そのため2・3ケ 月寝込んだこともあります。また、1度は逃げようとしましたが、彼らに捕まえられて地下室に閉じ込められたため、1ヶ月半も病気になりました。病気から回復したあとも、働かなかった場合は、いつも叩かれたり殴られたりしました。私 は、日本に行きたいと考えているタイ人に注意したいです。借金をして日本に行き、死ぬまで働いて返している人がたくさんいます。借金を返し終わっても病気になり、タイ に帰る前に死んでしまう人もいま す。借金を返し終わる前に病気になり、 働けなくなったため、 やくざに殺されて海に捨てられた人もい ます。
私が日本で働いて何年が過ぎたでしようか。 転売された借金がおわり、 やっと売春をやめることができました。私は二度と売春はしたくありませんでした。 それからはいろんな仕事をしました。タイにお金を送るために借金を100万円しました。5 回にわけて借金を返しました。借金を返し終わった時にはエイズを発病していました。 売春をさせられていた時に客からHIVウィルスに感染していたのです。 それからも私は頑張って 4 年間日本で働き続けました。 病気の妹にお金を送ってあげなければならなかったからです。 私は苦しみながらも、雇ってくれる人がいさえすれば、売春以外ならどんな仕事でもしなければなりませんでした。家の建築、ゴルフ場の芝生敷きなどです。母に家を建ててあげるために、少しでもお金を送ってあげなければならなかったからです。また下の娘を学校にやる必要もありました。その頃息子は、夜働いて、日中は学校に行っていました。私は、私が 死ぬ前に子供たちのためにお金を稼がねばなりません。もし私のこの病気が良くなったら、働きたい気持ちでいっぱいです。なぜなら子供たちを助ける必要があるからです。そして、実家に戻り私の母親と息子、娘たちと昔と変わらずに暮らして生きたいと願っています。 今、私は随分丈夫になってきました。バーンサバイが私を助けてくれているからです。私は生まれてこの方幸せだったことは一度もありませんでしたので、バーンサバイに来て以来、まるで生まれ変わったようです。心身ともに清々しいです。 バーンサバイのスタッフはとても親切で、まるで仏さまのようです。たくましい人たちです。心から尊敬しています。私はここで出会った人たちのことは決して忘れないでしよう。 バーンサバイのこと、ここでの温かい食事と住まいのことも、私の心に焼き付い て消えることはありません。スタッフの方々の看護がなければ私はきっと死んでいたでしょう。ここまで体調が良くなったのもバーンサバイが私と共にいつもいてくれたからです。バーンサバイではHI V感染者、エイズ患者を見下す人はいま せん。 もし誰か借金をして、日本に働きに行きたい人がいれば、私は、とっても“アブナイ"と言いたいです。日本に行った後、 またタイに帰ってきたり、日本に行ったりできるのは日本人と結婚した人か、日本で400~500万円の貯金をできた人だけです。私は日本に12年もいましたが、お金は貯まっていません。だから、どうぞ日本へ行かないでください。今は日本の経済もあまりよくありません。失業中の人もいっぱいです。今、私の恋人も失業中で、さらに病を患っています。彼はこの年末にはタ イに帰ってくる予定です。 もし何か質問がありましたら、どうぞバーンサバイに訪ねて来て下さい。今、私にはバーンサバイという居場所があります。もし誰かがバーンサバイとはどんなところか知りたかったら、是非連れてきて見せてあげたいです。 最後に、私自身の心からの言葉でこれを書きました。
[訊:三宅夕姬、濱口愛]

人身売買禁止法について  - 青木惠美子

去年わたしは広報活動のため、日本に帰国している期間が長かったのですが、その時に「バーンサバイ」で世話をして欲しい女性がいるという依頼がありました。その女性がこの手記を書いたAさんです。 Aさんはエイズを発症して、すでに右目が失明しています。このままほうっておく と左目も見えなくなってしまうので、 1日も早く抗HIV薬を飲まなくてはなりません。 しかし、彼女はオーバースティで保険がありません。日本で治療を受けたら月に29万円はかかります。今、抗HIV薬を飲めば片方は助かると医師が「バーンサバイ」に行くように一生懸命説得してくださいました。しかし、彼女ははじめの6年間 はただ働きで、その後はたいしたお金は稼いでないし、持って帰るお金がない。お金を持たずには帰れないといいます。 また彼女はタイにいる家族に自分がエイズだとは話していません。しかし、目が見えなくなれぼ働くこともできません。 やっと彼女はタイに帰る決心をしました。 横浜の入管でわたしは初めて彼女に出会いました。「先生は薬を飲めば助かると言うが、結局わたしは死ぬのでしよ」 と暗い顔 です。「そんなことはないよ。今ではエイ ズは死に至る病気ではないよ」と励ましました。今年、日本で「人身売買禁止法」 が成立します。この法律ができるというので、入管で人身売買禁止法のピンクの調査票が出てきました。今まではオーバースティの人が入管に行くと法律に違反している犯罪人としてしか見られません でしたが、被害者として聞き取り調査が始まったわけです。世界の多くの国では 人身売買禁止法があり、もちろんタイにもあって、被害者への補償が明記されて います。しかし、日本の法律では被害者 への補償はありません。

マリ通信  バーンサバイ2004年度下半期入寮状況 -  早川文野

2004年度下半期の入寮者数は、12名で、女性11名、男性1名、男児2名でした。相変わらず30歳台に集中しています。今期の特徴は、タイ人以外の山岳民族や中国人などの入寮が相次いだことです。また、今年に入ってから、入寮者の入退院がずっと続いていました。 冬が とても寒く、そして夏が酷暑であったことが原因です。2人が同じ病室で枕を並べたことも、しばしばありました。 しかし季節が少しずつ変化し、暑さが和らいできた ため、それぞれ元気を取り戻し、自立を目指し日々を過ごしています。
Rさん(女性:31歳)
Rさんは、2年前に一度バーンサバイ に入寮しました。1ケ月間在寮し、その後 自立しました。退寮後も体力が回復する までは、バーンサバイでカードを作りながら、生活していました。しかしもともと踊りが好きなので、またバーのショーで踊る ようになりました。
バーンサバイを出てから数ヶ月間連絡がありませんでしたが、ある土曜日のタ 方、久しぶりに電話がかかり、具合が悪いので病院に行きたいと言います。即、入院となりました。退院後話しているうちに、抗HIV薬の服用をやめていることがわかりました。初めは1ケ月間くらい飲んでいないと言っていたのですが、よくよく聞いていきますとすでに数ヶ月間飲んでいないことが、わかりました。抗HIV薬を飲むと、恋人に彼女がエイズであることわかってしまうことを恐れたのです。彼女はすでに抗HIV薬を飲んでいますので途中でやめるとリバウンドをおこしやすいですし、抗体ができてしまい同じ薬を服用できなくなります。彼女をサポートしている基金と連絡をとり、引き続き抗HIV薬のサポートをしてもらうことになりました。抗 HIV薬を服用していた時は、CD4の値は150を越えていましたが、 すでに45まで下がっていました。もちろん薬も変えなくてはなりません。しかし彼女は、抗HIV薬を飲むことを踏踏して、なかなか決心がつかない状態が続きました。 その後、結核にかかり、抗HIV薬を飲むことができなくなりました。そして、また 電話がかかり、「同じゲストハウスに住んでいる女性が略血した。怖くなったので「バーンサバイに行きたい」と言います。私はこの電話で、ほっとしました。Rさん は幼い時に家族に捨てられ、実に過酷な状況下で生きてきました。人生に対して、どこか斜にかまえているところがありました。今までの彼女を見ていますと、どうせ死ぬのだから・・・と、自分の生命に対してどこか投げやりな部分が見られました。しかし、怖くなるということは、自分の生命に対して未練を持ったということです。生きたいという感情が芽生えてきたということです。これなら大丈夫と思いました。ししてバーンサバイに戻り、カード作りを始めました。結核の薬は基本的には6カ月間飲まなければなりません。その間は抗HIV薬の服用ができないため、忍耐の数カ月が続きました。そろそろ6カ月が終了するころ、今度はトキソプラズマ菌が脳に入り、入院しました。高熱、身体の震え、嘔吐、苦しい日が続きました。この入院の際、はかったCD4の値は15まで下がっていましたので、抗 HIV薬が投与されました。最初の頃は、少し副作用が出ましたが、今はおさまり、 元気になりました。Rさんは、10代でHI Vウイルスに感染し、今までに無茶をして、 何度も死線をさ迷いました。その彼女が、 少しづつエイズを受け止め、病気と正面 から向き合うようになりました。彼女が病気に苦しむエイズの友人に次のように語 りました。 「今のあんたに必要なのは、まず、自分がェイズなんだってことを認めること。認めて、そして、心を落ち着かせて、希望をもつこと!一番大切なのは、あっさり挫けたりしないで、希望をもつこと。必ず良くなるんだって、ね。」 - 「やっぱり、自分で痛い目にあって、また回復して、でもまた、忘れて痛い目にあって、そういうことを繰り返して、最終的 にここまで、こんなになって、で、やっと気づくんだと思う。自分で経験して、本当にたいへんな目にあつて、それでようやく。どんなに人に言われても、それがどれほど辛くてたいへんかだなんて、 やっば、口で他人が言ってもわかんないのよ。 わたしが、ずっとそうだったから。」 Rさんには若い日本人の友人がたくさんいて、その方たちも彼女を支えてきました。彼女にかかわるさまざまな方たちの思いが、彼女の心に届いたのです。そのようなかかわりの中で、 彼女は自分自身を愛し、他者をも大切にすることを学んだのではないでしょうか。 現在、彼女はバーンサバイで、バティッ ク(ろうけつ染め)のハンカチやTシャツを作っています。今年は、その作品を通して、皆さまにお目にかかれると思います。
Sさん(男性:36歳)
上海出身。姉と兄が1人づつおり、上海に住んでいます。両親は早くに亡くなりました。学生の頃に天安門事件にかかわり、中国から出国。ビルマを通って、タイに入国しました。タイに来て、13年になります。 タイに来た当初は、バンコクにあるチュ ラロンコン大学で3ケ月間中国語を教えました。12年前バンコクでタイ人女性と知り合い、結婚。1年後に長女が生まれました。妻は最初の夫かHIVに感染しSさんにも感染。娘は感染していません。中国語を教えるかたわら、洋服の縫製もしていました 娘が5歳の時、妻がマレーシアに出稼ぎに行き、しばらくSさんは1人で娘を育てていました。 妻はマレーシアで働いているうちに、マレーシア人の恋人がで き、彼女はSさんとの離婚を希望しました。結局彼女と別れました。妻と離婚後もしばらくは娘を育てていましたが、娘は幼く、1人で養育するのはむずかしいた
め、チェンセンの養護施設に入れました。今でも時折、娘には会いに行っています。
4年前に、マッサージの仕事をしている 女性と再婚。 妻の故郷のチェンライに戻って暮らしていました。 チェンライでも、彼は中国語を教えていました。妻は感染者ではありませんが、 2年前に肺の病気で死亡しました。 妻が亡くなったため、彼女の兄弟が妻名義の貯金を取り上げ、 その上家を抵当に入れ銀行から借金しました。その借金を返済できなくなり、Sさんは家を出なければならなくなりました。また脳にウィルスが入り、治りはしましたが、まだ時折頭痛がするため、仕事もありません。家も仕事もないため、生活に困り、アクセスチェンライ(チェンライにあるエイズサポートグループ)に相談しました。そこの事務所に1週間泊り、その後バーンサバイに入寮しました。 妻が死んでから1度上海に帰国しましたが、上海の兄姉もそれぞれ結婚し、家 庭を持っているため、彼の世話はむずかしい状態にあります。また、彼は中国政府のエイズに対する政策に批判的で、 中国に住むことができず、またタイに戻 ってきました。Sさんは、何とか中国語教える仕事を見つけ、このまま一生タイに住み続けることを希望しています。
バーンサバイの歩みも丸3年を越えようとしています。この3年で、エイズをめぐる状況がかなり変化しています。タイの抗HIV薬は確かに問題はありますが、この薬を享受できる人々が増えたことによって、着実に発症が抑えられています。 また発症していても、その後CD4が上がり、AIDS患者からHIV感染者に逆戻り している方たちが、増えています。バーンサバイでもTさんは、1年半前はCD4が0でしたが、現在は270を越えました。 バーンサバイでかかわる方々を見ていま すと、人間の持つ生命力、自然治癒力の“すごさ"を確かに実感せざるを得ません。いつも人間の持つ計り知れない底力を目の当たりにします。日々、医学が進歩しています。1日1日を生き抜いていく ことが、明日の生命へとつながります。カ ッコウ悪くてもいいですから、自分自身 の生命に未練がましくなって、病気と闘ってもらいたいと願っています。
(バーンサバイ;ディレクター)

階級差別に立ち向かう - 青木恵美子

患者のTさんの高熱の原因が何処の病院に連れて行っても判らず、最後にチェンマイで一番有名な病院に連れて行ったことがあります。そこで彼の高熱の原因が蓄膜症であることが判明しました。 彼はそれまで医者にかかってなくてさんざん拗らせていたのです。蓄膜症の手 術のため17万バーツ(50万円)が要ると 言われ叱驚しました。バーンサバイを開設して最初の年にバーンサバイが患者に使った治療費はほぼ70万円だったの です。しかし、彼にとって手術が必要ならしなくてはなりません。きっと神が助けてくださると信じて手術を決断した矢先 に友人から寄付を40万円したいというメ ールが入りました。早速事情を書き彼の治療費に指定献金してほしいと依頼しま した。実際には15万円もかからなかったのですが、患者のことを一番に考えて、 あとは神に任せようという信仰がその時、改めて確かなものになりました。ただただ無心に患者第一に考えてそうすることが、周りのタイ人(患者ではない)に「お金がかかる人、かからない人がある。これは患者に対して不公平ではないか」と言われます。かかる費用に差がでるのは当然のことで、患者によっては医療費が国から出る人もいますが、外国から入ってきている人は、 タイの国から福祉は受けられません。最近やっと元気になって、今、バーンサバイで家事担当スタッフの補助をしている女性Pさんもビルマからの難民ですし、Pさんには医療費がとてもかかっています。彼女は2年前に15歳だった娘をェイズで亡くし、その1年後には夫もエイズで亡くなり、Pさんは1人ぼっちになりました。ビルマ人である彼女はタイの福祉は受けられません。もし、バーンサバイがなかったら、今頃私は死んでいたといいます。
先日入っていた女性も1993年 中国から逃げてきた難民です。彼女は天安門事件の際、中国から逃げてきました。ここ何年間はタイ人男性と同棲していて、 二人の子どもがいますが、彼が麻薬で捕まってしまいました。その後お金がなくなり、彼女はエイズを発病しているためバーンサバイ に生 後2ヶ月 の男の赤ちゃんと1歳半の男児を連れて入ってきました。子どもたちは父親が認知したためタイ人としての国籍がありますが、彼女はビザがなくオーバーステイでした。現在タイ人の子の親としてのビザを申請中です。この頃この様にタイの中でもいろんな面で辛酸をなめている、外国人や山岳民族のケースがバーンサバイでは増えています。この間びつくりしましたが、ここに出入りしているエイズ患者の人から「自分とここに入っている患者とは違う」とここに入っている人を軽蔑する発言がありました。バーンサバイに入っててきている人はどん底の人たちばかりです。今も山岳民族の女性が入っていますが、彼女が入ってきたとき39度5分の熱があり、御飯も食べられない状態だったので即入院となりましたが、山岳民族が入院した場合は目が離せません。 今までに何度も痛い思いをしているのですが、彼ら彼女らが山岳民族だというだけで、軽くあしらわれます。同じ病室に入院している人たちからもさげすまれるようです。 この間もちょっと部屋から離れて帰ってきますと、彼女が険しい顔をしています。何か嫌なことを言われたようです。今は、元気になって退院しバーンサバイに帰ってきました。帰ってきて間もなく階段に座ってしくしく泣いています。どうしたのかと聞き ますと、自分には帰る家はないし、親も 死んでしまった。頼れる人は誰もいない。 仕事もないし、お金も3バーツ(9円)しか持っていない。これからどうしていいか分からないといいます。元気になったら、バーンサバイで働いたらいいよ。Pさんもここで働いて、近くのアパートを借りているでしょ。あなたもそうしたらいい。何も心配いらないよと励ましました。翌明から張り切って、庭の木々に水をやったり、いろいろ家事を手伝ってくれています。彼女の元気な明るい笑顔は周りの者を励ましてくれます。 この頃ェイズだからではなくどん底にいる人を階級的に差別する人が結構多いことがわかり睡然としています。お金のある人と無い人、学歴のある人と無い人、身分の高い仕事と低い仕事という具合に差別されるがの人たちがいます。「バーンサバイ」にはいってくる人たちは差別される側の人たちばかりです。「バーンサバイ」の患者が軽くあしらわれるのを目前にする時、わたしは腹が立ってなりません。と同時にわたしには闘志がわいてきました。ここにはいってくる人たちと共に、そういう差別と毅然を戦おうと願っています。
(バーンサバイ;スタッフ)

入寮者との生活から  - 清水耕平

私がバーンサバイに来て、9ヶ月が経ちました。バーンサバイに泊まり、入寮者とスタッフで三度の食事を共にする生活を続けました。私の仕事は、入寮者を病院に送ることと、会計と、郵便物の管理をすることでした。 バーンサバイは、HIV感染者と、エイ ズ患者の自立支援の施設です。私は入寮者と生活して、彼らが自立をしていく道のりは、簡単ではないと感じました。理曲は、3つあります。 1つ目は、HIVとエイズの病気の症状が、とても多いということです。体中が癖くなることもあるし、脳に影響が出ることもあります。また、眼が見えなくなることもあります。体のどこからでも、HIVとエイズの影響が出てくるような印象を受けました。2つ目は、高い医療費を、払わなけれ ばならないということです。抗HIV薬は、一度飲み始めたら、飲み続けなければなりません。他にも、眼に問題があれば、眼の薬が必要だし、歯が痛くなれば、歯科へ行かなければなりません。頻繁に、 医療費がかかります。バーンサバイに来る入寮者は、元々お金に余裕がありません。病気で体に無理がきかないので、出来る仕事も限られます。しかし医療費は、確実にかかっていくという悪循環があるのです。 3つ目は、入寮者が入院しているときに、私が感じたことです。バーンサバイは入寮者に対して、食事と休息の場所を確保する努力をしています。しかし入寮者が、病院に入院しなければならない時は、病院の食事を食べます。その時に、バーンサバイの入寮者は、同じ病室の患者が食べている入院食を、おいしくないからと言って食べないことが、度々ありまた。それは、バーンサバイが自分が好む料理や食べ物を、用意してくれるという気持ちから来ていると、私は理解しています。バーンサバイが入寮者の環境を整備することで、彼らの自立する力を奪ってしまうことにならないかと、考えさせられるのです。 しかし、痩せ細って入ってきた入寮者が、少しずつ元気になって、健康を取り戻していく姿には、勇気付けられました。入寮者がバーンサバイから自立していくことになって、一緒に引越しの手伝いをする時は、私もうれしい気持ちになるのです。 私がバーンサバイで出会った入寮者の中で、特に交流のあった人が2人います。 Aさんは日本に12年間いて、 HTVに感染して体調が悪くなり、 昨年の12月にバーンサバイに来ました。私がチェンマイ空港で、彼女に初めて会った時、彼女はとても具合が悪そうに見えました。半年ほど経った現在、 彼女は病院に通いながら、随分体力を取り戻したように見えます。Aさんは、12年前に仕事を探して、日本に行きました。その12年の途中で、HTVに感染しました。しかし彼女は、12 年前に日本に行った判断に、後悔はないのだと言います。理曲は、その時に自分が日本に働きに行かなければ、自分の子供や、親や、兄弟が、どうなっていたか分からないからだと、話してくれました。それ程、彼女の家族と、育った地域は貧しかったそうです。
私はチェンマイにいて、タイや東南アジアの女性の売春について、度々話を聞いたり、記事を読む機会がありました。 タイや東南アジアでは、貧しさや仕事が ないために、若い女性が売春でお金を稼ぐという形が、根付いている印象を受けました。
Cさんと、彼女の2人の子供がバーンサバイに来たのは、2月の終わりでした。彼らは、Cさんの夫が麻薬の所持で逮捕され、 住んでいた所を出なければならず、住む場所に困りバーンサバイに来ました。Cさんは、20代前半の若いお母さんでしたが、 生まれて2ケ月の赤ちやんと、1 歳半の男の子の面倒をよく見ていました。本人がHIVに感染していて、夫は刑務所からいつ戻れるか分からない状態でしたが、弱音を吐いたり、文句を言うことはありませんでした。その姿勢 は、頼もしく見えました。
バーンサバイでは、赤ちゃん や子供を長期間預かることが出来ないので、Cさん親子を受け入れてくれる場所を探しました。結局、彼らは2週間バーンサバイで生活して、別の子供の NGOに移りました。そのNGOは、エイ ズの医療については専門外だったので、 移った後も連絡を取り合いながら、やっていくことになりました。私はCさん親子が移ってから、3度彼らにオムツなどを持って会いに行きました。Cさん親子は、バーンサバイにいた時よりも、元気になったように見えます。特に2ヶ月だった赤ちやんは、だいぶ太って大きくなりました。 2歳の男の子は、私が行く度に新しく覚えた挨拶や、大人の真似をしてくれます他の入寮者と同様に、Cさん親子も多くの問題を抱えたままです。困難に対して、 冷静で前向きに対応していた彼女の姿勢を、続けてほしいと願っています。
(バーンサバイ;スタッフ)