バーンサバイニュースレター第5号


バーンサバイニュースレター第5号
 

デーン・プラスート波瀾の人生の記録(後編)-プラスート・デジャブン(通称デーン)

余命がそれ程長くないなら、残された人生に何をすべきなのかを深く考えるようになりました。HIVウィルスに侵された人間の免疫力と同じように、社会自体も自ら再生する力が機能しなくなっていました。私がやらなくてはいけないことは、強固な社会を築くために、一人の感染者の立場で参加することだと気づきました。その頃から、タイ・キリスト教団(CCT)エイズ・ミニストリー(CAM)のボランティアとして、家庭訪問をするという役割を引き受け、感染者の人たちを訪れるようになりました。
訪問先では、私より何倍もひどい苦しみにさらされている感染者の仲間たちと接する機会があり、彼らの家を訪れ励すことで、毎回私自身も励まされていきました。それらの経験が、言葉では言い表せない程の至福を私に与えてくれました。
その後、市内で集まった感染者たちのグループを手伝いに行く機会に恵まれました。彼らは、村の人たちから受け入れられず、自分の村を出なければなりませんでした。また、彼ら自身も自分を受け入れることができずにいました。結果、私が学んだことの一つとして、兄弟や隣人をいう関係を大切にしてきた文化の基本的な部分が、エイズによって引き裂かれ、コミュニティのつながりが崩れ始めたことが、問題の根本原因であるごとに気づきました。そこで、問題を解決するためには、まずコミュニティから 手をつけなければならないと考えました。
その頃から、様々な研修で講師を務めるようになり、「実家や自分のコミュ ニティに戻って、地元で自分たちのグループを作る必要がある」という私の考えを説きました。
私は、感染者たちが可能性を引き出すことで、自らの状況を受け入れ、 社会に向き合うことを支援する一つの グループの立ち上げをきっかけに、運動に関わるようになりました。グループ名は、“ファー・シー・カーオ”(快晴の空)と言います。タンボン(タイの行政単位で、いくつかの村が集まった地区)単位でグループを作ると同時に、各コミュニティでも協力してエイズ問題を解決していくために、コミュニティ内にある様々な住民組織と連絡を取り合いました。最初に取り組んだ活動は、チェンマイ県ドーイサゲット郡のある村で、症状の出ている人たち全員を訪ね、自分がHIV に感染していることを公表することから始めました。その村の中で私にとって初めての感染者と出会い、私は、彼の症状が良くなるまでケアを続けました。 そのことが口コミで広がり、いつの間にか私に家に訪ねて来て欲しいという感染者がたくさん増え、集まり、グループになる までに至りました。 それと同時に、村内のエイズ問題を解決するため、感染者が集まってタンボンのエイズ委員会ができ、様々なグルー プの橋渡しをする役目を担いました。また、感染者の人たちがエイズと共に生きていくことを理解し、自分の身体や心、社会性、精神の健康がコントロールできるように、総合的な健康管理を目指す活動を通して、チェンマイ県、ランプーン県、ランパーン県、チェンラーイ県の4つの県に、活動地域を拡大し始めまし た。
それと同時期、私はエイズに関する権利や政策の充実を働きかけるため、 HIV感染者ネットワークの立ち上げを喚起する活動をNGOと共に始めました。 そしてそのネットワークは徐々に広がり、現在、感染者グループとしては世界中で 最も多い581ものグループに到るまでになりました。 ファー・シー・カーオのこれまでの活動を簡単にまとめてみたいと思います。
1994年、ドーイサゲット郡パーミヤン町にて、感染者宅の訪問や感染者同士の集会など、健康管理に重点をおいた活動を通して、コミュニティレベルでグル ープができ始めました。その後、NAPAC、UNICEF、公共衛生省エイズ局から支援を受け「総合的な健康促進プロジェクト」を立ち上げ、活動地域をその他の郡から県、地方へと徐々に拡大しました。 1996年、北タイ上部地域及びタイ国 内の感染者ネットワーク立ち上げを通して、良い連携体制が築かれました。 1999年、住民参加を促すため、ドーイサゲット郡プラーオ地区に活動地域を固定し、コミュニティを対象とした活動に切り替えました。感染者の健康を見守る中で、村と連携し、コミュニティ内の感染者同士が集まり、健康についての知識を交換し合うことを主な活動としました。 2002年、ドーイサゲット郡のフィールドでは、住民によるエイズの問題に対応するシステムが整いましたが、サンサーイ郡ではまだ住民参加という部分が欠けていたため、ドーイサゲット郡からサンサーイ郡に活動地域を移しました。
これまでの課題は、感染者グループの拡大でしたが、現在、様々なグループが増えたという理由で感染症管理局からの予算が減額されたため、活動地域を広げる計画はありません。しかし、今でも全ての感染者ネットワークを連携して活動をしています。また、今日エイズに関する活動は、地域住民のヘルスケアに参加していく必要があると考えました。 もう一点は、情報システムの確立です。情報を社会に流し、 広げる伝達手段が感染者ネットワーク間にないことで、無理解や嫌悪が問題となっています。そこで私は、ラジオの電波を使って社会と対話し、世界を広げる機会を作るため、「ランナー住民の声」 (9325MH)と、「パヤー・チュムチョン」 (FM100MH:チェンマイ大学民衆の声 通信)というラジオ番組の制作に加わりました。

1989年の無謀な行為によって、自らがHIVに感染したと知ってからの10年、感染する前としてからとではあきらかに違う、自分に対する社会の変わり様を見せつけられてきました。 2004年現在、多くの感染者が自分の生まれた村に帰ってグループを作り、病院と連携しながら、お互い健康について相談し合い助け合っています。また、職業の面でも多くのグループが、地域の住民組織と協力し合うなど、エイズだけではなく全ての項目に重点をおく運動を始めました。
社会はようやく、感染者が社会の中でもつ役割に、目を向けるようになってきました。村にエイズ委員会ができていくなかで、いくつものコミュニティは感染者を受け入れるようになってきました。又、抗HIV薬を飲む機会が与えられたことによって寿命が延び、生活の質が上がりました。
しかしプラスであればマイナスもあるのは当然のことで、感染者が社会から見捨てられるのは、感染者にも責任があるからだという見方もまだたくさんあります。
個人主義の社会が更にそういう見方をさせているのです。現在の政府は、エイズ問題の重要性を忘れ、徹底的な麻薬撲滅政策の方に力を入れています。したがって、私たちはこれからもこの重大な仕事を続けていかなくてはなりません。私は、国家レベルの政策決定も含め、 行政やNGOのエイズに関する様々なプロジェクトの委員になる機会がありま す。
ここにきて、私は人生というものへの理解だ深まり、世界がより広がりました。私はこれまでと同じく、もんだいを解決する人間としてここに立っています。 [翻訳]石田 愛
今日の私・・・プラスート・デジャブン
疲れたらとりあえず心を休めて目を閉じておやすみ  人生を気に病むことはない  
今の世の中の自分を応援する権利は私にもまだある
今までの私は道に迷ってばかりいた 目的のない人生
今日残酷な真実に向き合う
心が痛い身体が痛い  孤独に歩いて来た
社会の侮辱は卑劣で
自分の身体が無いみたいに 意義を失っていた
人の中傷に傷つくことも避けられない
苦しみに耐えて 社会を変えていく
今日の私より困難な全ての友だちに力を与える
そして人々のために大きな働きができることを私は誇りに思う

マリ通信  バーンサバイ2004年上半期入寮状況  早川文野

木の葉が少し紅葉し、空気に透明感が増し、バーンサバイに3度目の冬が巡ってきました。最後の雨が降り、気温が急に下がりました。免疫力の低下したェイズの方たちにとって、冬は厳しい季節です。この時期は入寮者もスタッフも、健康管理により注意をはらわなくてはなりません。
さて、2004年度上半期(2004年5月~10月)の入寮者数は15名で、女性12名、男性2名、子ども1名です。年齢的には30歳代に集中しました。また在寮期間が1ヶ月を越える場合が、増加しています。 バーンサバイは、ここに入られた方たちのすべてが心身ともに元気になり、地域社会へ戻ることを目標にしています。しかし残念ながら、上半期で3名の方たちが亡くなりました。1名はニュースレター4号で紹介したDさんです。病院を退院した後、 バンコク近郊のキリスト教系の施設に入りました。移った1ヶ月後 に、45歳の生涯を閉じました。家族が遺骨の引取りを拒否しましたので、 彼女は施設の共同墓地に埋葬されました。一度でいいからお姉さんに会いたいという夢は、とうとうかないませんでした。 そして他の2名は昨年家族でバーンサバイに入寮したことのあるご夫婦です。
また、退寮後に自立支援事業で働く方たちが、4 名になりました。3名はグリーティングカードの作製、その他の1名は、家事の補助をしています。
Sちゃん男児6歳
バーンサバイでは、親と一緒の場合には子どもも、入寮できます。子どもだけが入寮するという形は基本的にはとっていません。しかし、今回6歳の男児を、 特例として預かりました。 彼の両親はともにエイズを発症しています。2人の具合がかなり悪いと聞いたため、CAMのサナン牧師とともに家を訪問しました。 2人は腐敗した食べ物や汚れた食器に囲まれて、寝ていました。周囲をいろいろな虫がはっています。すぐに掃除をし、その後清拭と洗髪をしました。とくに妻は末期の状態で、意識がはっきりしません。
夫も肛門付近にできたできものが、悪化しています。サナン牧師と相談し、 2人とも入院した方がいいという結論に達しました。2人が住む地域の公立病院に連絡をし、入院を打診しましたが、拒否されました。
そのため来年バーンサバイが移転する地域の病院と話し合い、そこが引き受けてくれました。
しかし両親が入院をすれば、子どもが1人だけで家に残されます。 児童買春や子どもの売買が行われている考えますと、危険です。そのため、緊急性があると判断し、ご夫妻の息子さんを預かりました。彼は、バーンサバイで一晩を過ごし、翌日チェンマイから車で数時間の所にある児童施設に入りました。この1年くらいは、両親の体調が悪かったためでしょうか、何でも1人ででき、手がかかりません。1日しかバーンサバイで過ごしませんでしたが、その間に、私たちが使う日本語の単語を覚え、話します。子どもの頭の柔軟性を、実感しました。ボランテイアのお兄さんに存分に遊んでもらい、 めずらしく子どもの声がバーンサバイに響いた1日でもありました。今でも、庭の樹には彼が遊びで貼った紙が残されています。その後彼の両親は亡くなりましたが、これから長く続く人生を、力強く生き抜いていってほしいと願っています。
Lさん 女性36歳
Lさんはビルマで生まれ、 15歳で3歳年上の男性と結婚しました。 夫は農業をいとなんでいました。 結婚した翌年、16歳で長女が生まれました。Lさんはタイヤイ族です。 ビルマには多くの少数民族が暮らしています。 軍事政権の圧政により、 ビルマでの生活が厳しいため、17年前に一家で国境を越えタイに来ました。ビルマには現在も両親と妹さんたちが残っています。タイに来てからは、チェンマイ近郊で暮らし始めました。夫と2人で建築現場や紙すき工場などでさまざまな仕事をしました。チェンマイに来た時に、地域の 長老が彼女を役所に連れていってくれ、 チェンマイの市民権をとることができました。チェンマイに住むことが法的に認められましたが、他の都市へ移動することはできません。つまり移動が規制されています。夫は結婚当初はいい人でしたが、タイに来てから徐々に性格が変わりました。外でお酒を飲み、麻薬を常習するようになりました。麻薬の注射の回しうちによって、夫がHIVウィルスに感染。その後Lさんにも感染しました。4年前には長女がエイズで死亡。その1年後夫も亡くなりました。 1人になった Lさんは、CD4が下がり、結核にかかりました。 体調が悪くなり、自分で生活することが困難になってきました。家の近くに寺院が運営するエイズの人たちのためのホスピスがあり、 そこを訪ねました。この施設はすでに閉鎖されており、入寮者は誰もいません でした。2ケ月間その施設で暮らし、その後ホスピスの責任者がバーンサバイに連絡をしてきて、入寮しました。 6ケ月間結核の薬を服用した後、医師から結核が治ったと言われましたので、抗HIV薬を飲み始めました。タイには親族がいませんので、退寮後の行き先と仕事を見つけることは困難です。話し合いの結果、バーンサバイのすぐ近くに部屋を借り、ジャンさんの補助をすることになりました。しばらく元気に仕事をして いましたが、働き始めてから3週間後、脳にウイルスが入り、入院しました。CD4が16しかありませんので、免疫力がかなり落ちています。1年前も同じ病気で入院しましたので、予防に気をつけていましたが、再度かかってしまいました。
約3週間入院し、退院しました。 その後抗HIV薬の影響が強く 出て、噛吐、熱、食欲不振になり、今はバーンサバイに戻って 来ています。
Lさんはタイに来てからの17 年間に、1度しかビルマに帰っ ていません。彼女はもうビルマ国には帰る意志はなく、このままタイで生活をしようと決心しています。今はまだ、将来に対して考えが決まっていません。いまひとつ人生に向かって生きる意欲がわいてこないようです。どうしたら前に向かって積極的に生きられるか、今後の課題です。彼女が市民 権を持っているとは言っても、不安定な立場にあることには違いがありません。 移住者ゆえの不利益を抱えています。日本に住む移住労働者のことを考えても 同じです。さまざまな社会的サービスを受けられる機会が少なく、情報からも隔絶されている場合が少なくありません。L さんも抗HIV薬の服用を始める際、ビルマ人なので公的な補助は受けられないと医師に言われました。移住労働者はどこの国においても、安心して生活することがむずかしい状況におかれています。


AIDSをよりよく知るために
STD(性感染症)
S T DはSexually Transmitted Diseaseの略。主に性行為で感染する病気のこと。 エイズも性感染症の1つです。他にクラミジア、 淋病、梅毒、肝炎などがあります。 近年日本では若年層の間で、 とくにクラミジア に感染する人々が増加しています。 クラミジアは自覚症状がないため、気づかずにいる人が多いのです が、感染している場合は、 HIVに感染する確率が4倍になります。 不妊、子宮外妊娠にも関係してきます。STDによる炎症や潰瘍が局部 にある場合、男性で10~50倍、女性で50〜300倍、HIVに感染する確率が高くなります。たとえ潰瘍などがなかったとしても、 感染率が 2〜5倍高くなります。


現在タイには、100万人のHIV感染者がおり、その半数の50万人が治療を 受けています。そして、その50万人のうち5万人が、政府のプロジェクトにより抗HIV薬を無料で提供されています。 抗HIV薬を服用してから、数年で薬に対する抗体ができ、同じ薬を服用し続けることができなくなります。現在抗HIV薬を無料で提供されている方たちも、近い将来薬を変えなくてはなりません。抗 HIV 薬は飲み始めたら一生飲み続けなくてはならない薬です。途中で服用を中止しますと、かえって病気を悪化させる可能性があります。ですから、5万人分の次の抗HIV薬をどのように提供するのか、 この問題に遅かれ早かれ直面することになります。抗HIV薬の薬価が下がったとはいえ、一般の人々には、依然として高い薬です。もし政府が引き続き無料で新しい薬を提供できなければ、服用できない人々がたくさん出てきます。政府がこのまま引き続きカバーするのか、または個人的に対応しなければならないのか。このプジェクトで抗HIV薬を服用している方たちも、深刻な問題を抱えています。 抗HIV薬治療を受けられる人たちの裾野が徐々に広がり、 また薬や治療方法が進んでいく中で、 エイズが慢性病へと変化してきています。 今までは感染か 発症までの期間が短かったですから、サポートの仕方もターミナルケア的な 要素が強かったと言えます。 しかし今後 は、エイズの人々がそのかけがえのない人生の中で、 一人一人がどのように生きていくのか、それをサポートする必要性が出てくるのではないでしょうか。 バーンサバイも、 ここの入寮者にとって一番必とされるサポートは何かを考えつつ、一歩一歩歩んで行きたいと願っています。 (バーンサバイ ;ディレクター)

夢が実現します -青木恵美子

バーンサバイは2002年7月7日に開設しましたが、丸2年が過ぎ、3年目を迎えています。
山岳民族ラフ族の夫妻が二人ともエイズにかかり、以前からバーンサバイでお世話していましたが、妻の方が結核も発覚し、重症になり、夫もお尻に大きなおできができて一緒に入院しました。二人が入院してすぐに見舞いました。妻の方はウイルスが頭に入っていて、見舞っている私が誰かわかりませでしん。パンパースをしていましたが、口から何かを吐いたらしく、顔が汚れています。パンパースから便がはみ出して衣服も汚れていま す。パンパースを代えて、顔も身体も拭き、衣服を取り替えまし た。よほど気持ちが良かったのでしよう。にっこりと笑ってくれました。彼女 はクリスチャンです。帰るときに彼女の手を取って祈るとアーメンと唱和しました。 祈る時だけは頭がはっきりするのでしよう か。胸がつかれました。6月初め、 妻が亡くなった報せは、彼らを見舞いに向かう途上、私の携帯電話で受けました。 病院に着いて、彼女の遺体が安置されている霊安室に飛んで行きました。もうそんなに長くはないと覚悟はしていましたが、こんなに早いとは思いませんでした。私はうろたえていましたが、私を迎えてくれた彼女の顔は輝いていたのです。 まだ目が閉じられてはいなくてにつこりと笑っています。もともときれいな方でした が、あんなに美しく喜んで、輝いた顔は
初めて見ました。彼女はやっと苦私しみから解放され神の手の内で平安を得たのでしょう!彼女の手を握り締め、最後の祈りをしました。その後一人残された夫の部屋に行きました。彼女の亡くなったことは既に知っていましたが、何の感概も示しません。彼のお尻のできものも少しは良くなったように見えましたが、食事が進まず、点満はまだはずされていません。医師は「お尻のできもの以外内臓には問題はない。歩く努力をして、食事
も食べ、自分で前向きになれば回復する」と言います。しかし、彼は耳を傾けようとはしません。看護婦さんは「彼は言うことを何も聞いてくれない。良くなろうとする気が全くない」と言います。医者も看護婦も匙を投げてしまいました。 これ以上治療の必要はないと言われ、 退院することになりました。その時バーンサバイには女性が入っていたので、彼を受け入れられません。バーンサバイには 患者用の部屋が1つしかないので、男性と女性を同時に受け入れられないのです。亡くなった妻と暮らしていた小屋に帰ることになりました。ラフ族の教会の人たちが食事を運んでくれました。しばらくしてバーンサバイに入寮していた女性が家に帰ることになり、部屋が空きました。それで、彼を迎えに小屋まで行ったのですが、病状が悪化していてあわててまた入院させました。その後見舞いに行き、「あなたさえ前向きに病気と闘う気になれば、病気は良くなるのだから、出された食事は食べて、少しでも歩くように努力をしよう。退院できるまで回復したら、バーンサバイに帰れるからね。」と励ましました。ところがその後すぐバーンサバイには女性が入り、また彼が帰れなくなり、どうしようかと悩んでいました。病院に見舞う度に看護婦から「早く連れて帰ってくれ」と文句ばかり言われます。ある日チェンマイ料理が食べたいというので、買ってきて食べさせると涙を目に一杯ためて、少し食べました。
その数日後の早朝亡くなりました。バーンサバイにもう1部屋さえあれば世話できたかもしれないのに、思い上がりかも知れませんが、無念でなりません。彼は妻より12歳年下でまだ30歳でした。昨年の夏、バーンサバイは患者用の家をもう1軒借りました。そこは『 村の住宅街で、大家さんはエイズの人たちがそこで暮らすことを了解してくれました。 男性も女性も一度に受け入れることができ、ほっとしていました。しかし、3カ月でそこを追われてしまいました。 大家さんは大変理解がありましたが、ご近所から文句がでました。 エイズミニストリー (CAM)タイ語で書かれた車が絶えず出入りしています。一目でエイズとわかる人が暮らしています。タイでは日本に比べればエイズの人たちに対する差別が少ないです。しかし、家の隣がエイズの施設であることが許せない人々もいます。
という訳で、バーンサバイはどうしても土地を買って、新しい家を建てるしかないと決断しました。 皆さまからのご支援のおかげで、1500坪の土地が手に入りました。 その地はチェンマイ郊外にある村で、空港からも30分くらいで行けます。果物の樹が豊富にあり、小鳥がたくさん疇っています。近くには公立の病院があり、その病院の中にはエイズの人たちのネットワークやNGOがあります。近くに市場もあります。幹線道路から歩いて5分ほど入った場所で便利なところです。
土地を購入する時に、一番大切なことはご近所の了解を得ることでした。殆どの家は気持ちよく了解してくださいました。しかし、1軒だけが難色を示されました。いつもお世話になっている NGO「CAM」の責任者サナン牧師が、その方を説得してくださいました。ェイズという病気は一緒に生活するレベルで 感染する病気ではないことをきちんと伝えてくださいました。チェンマイでは下水の浄化装置がありません。土地に垂れ流し状態です。念のために、バーンサバイでは浄化装置をつけるという条件で了解してくださいました。土地の登記の時、村の長老さんも、ご近所にあるエイズ関係NG0のスタッフも立ち会ってくださいました。この村にはHIV感染者もエイズ患者も多く住んでいます。お互いに協力できることが沢山ありそうです。 そして何よりも嬉しいことは結核病棟が作れることです。エイズは免疫力が弱っていく病気です。結核菌にはひとた まりもありません。エイズ患者が結核にかかると、抗HIV薬の種類によっては、
結核の薬と併用できないものがあります。 そのため、抗HIV薬治療を中断せざるを得ない場合が出てきます。この2年間でバーンサバイは8人の方が亡くなりました。その半数の方が結核でした。他の入寮者に結核が感染しないように、どうしても結核の入寮者用の部屋を別棟にしたかったのです。その夢が実現します。 皆さまのご支援とお祈りのおかげでバーンサバイの新しい家が与えられることに なりました。感謝! (バーンサバイ:スタッフ)

素晴らしい日々 - 田中真一

バーンサバイに来て約一年が経った。 ここへ来たのはディレクターである早川さんのお母さんの介護をするためで、体の不自由なお母さんの食事、入浴、排池、のお手伝いと、話し相手をするのが僕の主だった仕事である。そしてそれと同時にバーンサバイでのボランティアもやら せてもらった。 -
介護の「か」の字も知らない未体験未経験知識皆無と三拍子揃った僕は、 もちろん自信のカケラもなく不安だったが、早川さん、青木さんをはじめとするバーンサバイスタッフや、入寮者の方々にも助けられながら今日までやってきた。
バーンサバイでのボランティアも同様 で、何の知識、経験もなく、タイ語も全くできなかった。エイズについても学校の保健体育で学んだ程度でしか知らず、日本で実際にエイズ患者やHIV感染者会った事もなかったので、どんなものか想像もつかなかった。 初めて会ったエイズの方は24歳の女性で、僕がバーンサバイに来た2日後に入寮してきた。すごくやせ細っていてすぐ病院に入院し、彼女は約2カ月後の12月24日に亡くなった。一生懸命にケアしていたスタッフの姿や、葬式を終え火葬場へと送られていく彼女の姿を熱心に祈って見送る青木さんの姿は、来たばかりの僕にとってすごく印象に残った。 この方の他にも実にいろいろな入寮者の方々と出会った。両親をエイズで亡くした子どももいた。諸事情でバーンサバイに入寮し、その時に僕はその子と遊んだりした。この子が子どもの施設へと向かう時の寂しげな瞳も忘れることがで きない。この子は両親の死をどのように受容していくのだろうか。どうか笑って元気に過ごしていてほしい。 バーンサバイをステップに新たなスタートを切った人もいる。今や僕のタイでの友人でもあるトムさんもその一人だ。家がすぐ近いせいもあって、僕らは互いに日本語タイ語を教えあったり遊んだりしている。最初は野宿していて、バーンサバイに入寮した後も入退院を 繰り返していた彼が、元気になって目標を見つけ頑張っているのは本当に婿しい。でも彼と話しているとふとこんな言葉を耳にする。「俺がエイズじゃなかったら・・・」「あと何年生きられたら・・・」他のエイズの人たちと話していても同様の言葉を聞く事がある。人間誰しもいつかは死ぬし、僕だって明日死ぬかもしれない。でも彼らはそんな考え以上に、エイズという病気や死の影に悩み苦しんでいるのを考えると、何ともやりきれなく なる。また彼らといて他の人が、例えば コンビニの店員などが差別的な眼や仕草で接するのを見た事もある。いったい彼らエイズの人たちが何をしたのだろう。 早川さんが前に僕に「理想はバーンサバイがなくなること」と話してくれた。別にバーンサバイが消滅するとか潰れるというのではなく、 バーンサバイを必要としない社会という意味でだ。差別、偏見といったもののない、誰しもが胸をはって前を向いて生きられる社会。本当 に素晴らしいと思う。しかし現実を見れば困難な道だと思う。 その道を少しずつでも日々努力 し、エイズの人々と共に歩を進める早川さん、青木さんをはじめとするスタッフの方々、同じ志をもって生きる人々の様に、ここバーンサバイで学ばせてもらった事、感じた事を活かして生きていければ、と僕は思う。

[新スタッフ紹介]  バーンサバイに来て ー 清水耕平

8月から1年間、バーンサバイで働かせてもらうことになりました清水耕平といいます。タイの文化も言葉も、何も分からないままチェンマイに来て、あっという間に2カ月が経ちました。チェンマイの気候は、昼間は日本の夏と同じくらいの暑さで、朝と深夜は気温が一気に下がるので寒く感じました。一年を通して日中の気温が30度を超えると聞くので、クリスマスや年末年始の頃の雰囲気は、日本とはだいぶ違うのではないかと思います。私はバーンサバイでは、患者の方を車で病院に送り迎えすることや、会計の仕事などをしています。朝、昼、晩と3度の食事を入寮者やスタッフと共にいただき、ボランティアの方を含めて皆で共同生活をしてい ます。 タイでは現在人口がおよそ6000万人いて、HIV感染者が100万人ほどいると言われています。60人に1人の割合でHIV感染者の数がいることを考えると、タイではェイズが日常的で、重要な社会 問題であるということが言えると思いま す。 私がバーンサバイで出会った入寮者の方たちの様子は、私が日本で想像していたものとはかなり違いました。入寮者の方たちは、食事や楽しい話をする時はとても明るく、大きな声で話をし、よく笑い ます。私はエイズという病気をかかえた人たちは物静かで、少し暗くなりながら生活しているのではないかと考えていました。だから彼らの陽気で、時には強く主張する姿を見て、最初は驚きました。彼らと一緒に生活をしていると、彼らがエイズという病気をかかえているとい たう事実を忘れそうになることがあります。
私が日本にいた時に、タイという国は一部の裕福な人と、多くの貧しい人々との二階層の社会だと聞いたことがありました。  実際に生活してみて、それと同じことを感じることがあります。私 は入寮者の方と共にいくつかの病院に通いますが、その病院によって見た目にも建物や、清潔さが違います。おそらく経済的な格差から、受けられる医療にも差があると思います。そしてエイズという病気も、貧困と深くかかわっているのではないかと思うのです。アフリカやアジアという経済的に比較的貧しい地域に、多くのHIV感染者がいます。 貧しさから食糧や医療や教育が充分に受けられずに、HIVに感染していった方が多いのではないかと思います。バーンサバイの入寮者の方の生ても、それを感じることがあります。彼らは子供の頃に安定した家庭を持てず、学校に通うのも難しい状況のまま、社会に出なければならなかったのです。現在、エイズの拡大の問題は的なものとして考えられています。子供の頃から食糧や医療や教育が安定して受けられることが大事だと思います。立場の弱い子供の時に生活が安定しなければ、働く ことやお金を稼ぐことが優先されて、麻薬や売春やエイズのような病気のことが、軽く扱われるようになるからです。バーンサバイにいる入寮者の方が、「自分には時間がない」と言っているという話を聞いたことがあります。重い病気をかかえた方の気持ちを、本当に理解することは難しいことです。しかし私は、その限られた時間の手助けをするためバーンサバイに来ました。私がパーンサバイにいる期間も、長くはありません。出来るだけ多くのものを吸収して、日本に帰りたいと思っています。(バーンサバイ:スタッフ)

新スタッフ紹介高山晋


初めて来たのに、懐かしい。そのような思いを人は、即視感というらしい。バーンサバイに来て、ちょうどそのような気分になった。タイを初めて訪れてから13年。タイ国内のあらゆる所を旅してきた。今年の春に長年勤めた会社を退職し、しばらく好きなアシドアをまわった後、7月に天使の都バンコクにやって来た。バンコクは、今ではもう大都会となってしまい昔のような人々の微笑みは見られなくなってしまったが、バーンサバイのあるチェンマイには、昔のタイを感じる。気風のいいおばさんや歳月の長さを感じさせてくれるおじいさん。それに純粋な瞳を持った笑顔の子供たち。日本ではなかなかこのような瞳を持った子供たちに出逢える機会が少なくなってきた。普段学校が終わってから、外で思いつきり遊んでいるからだろうか。子供たちの笑顔を見ていると穏やかな気分にさせられる。バーンサバイで働くようになったきっかけは、バンコクで職を探している時、日本人の集まりで、ニュースレターの創刊号にも紹介されている溝口夏奈さんと出会った事から始まる。夏奈さんと、以前バーンサバイに入寮されていた患者さんと日本食を食べに行く機会が与えられた。その方は、諸事情で病院で薬をもらうことが出来なかった為、その後、一緒に病院へ行き薬をもらうお手伝いをさせてもらった。その頃、ちょうどディレクターが日本に一時帰国されている時で、スタッフの方からバーンサバイを手伝ってくださいというお話を頂いた。特にバンコクでの予定もなかったので、すぐ簡単な荷物をまとめ、一路チェンマイへと夜行列車に乗った。バーンサバイに着いた時、ちょうど一人の患者さんが、入院されておりスタッフの方が忙しくされている所だった。患者さんを介護するスタッフの姿は、普通の方とは違った印象を受けた。人間生まれた時に誰しもが持っている感情、一般恩恵というのかわかりませんが、苦しんでいる人や困っている人を見た時に哀れに思い助けてあげようとするその感情からの介護とは明らかに違ったように思う。神の愛をまさにこの地上において示されているように感じた。その愛に引かれ働くよう決心した。御霊による導きもあったと思う。夜患者さんやスタッフの方と、簡単な聖書の学びと祈りの時がもたれる。このような時が用いられ一人でも多くの患者さんが、神を共に賛美出来る者へと変えられていくよう、御霊による導きを祈りたい。聖書には、人にはそれぞれ神より与えられた賜物があると書いてある。自分に与えられた賜物が何であるか、またその賜物をこのバーンサバイでどう生かすかここに来て2ヶ月、試行錯誤の日々が続く。
(バーンサバイ:スタッフ)