バーンサバイニュースレター第2号


バーンサバイニュースレター第2号
 

バーンサバイへの期待 - ウッティ・サナン牧師


楽しくて幸せな家を、誰もが望んでいます。…それは、穏やかで安全な家です。病気や困ったときに、私たちが昔から文化として持っている、身近な人同士でお互いに助け合える温かい家族が暮らす家です。しかし、人間の世界にエイズが発生して以降、HIV感染者、エイズ患者やその身内の者への正しい理解に欠け、受け入れられないことから起こる“嫌悪”や“恐れ”を同時にもたらしました。特にまったく身寄りのないエイズ患者や、長い期間、海外へ出稼ぎに行かなければならず、家族や親戚との関係が疎遠になった退陣でHIV感染による症状が出ている場合、家族や周囲の人が彼らを受け入れるのは、何倍にも難しくなります。
そこでバーンサバイに対する見方ですが、現実に起こっている問題への受け皿として、一つの方法だと考えます。しかし、家庭やコミュニティがもつ文化的な側面に影響や問題がでないように、長期的な視点を持って少しずつ進めていく必要があります。状況に沿った形でこの考えや方法を発展させていくために、バーンサバイのスタッフや関係NGOがお互いに協力しています。特に今後は具体的にこの方面で役割を果たしていくために適した家となるよう、様々な面において十分な準備をしていかなければなりません。一つの例として、ある一人の女性の人生があります。彼女は、自分に起こっている状況を受け入れることができず、落胆し、希望をなくし、ずっと病気を隠そうとしてきました。しかし人生の最期が近づいてきたとき、ある牧師の紹介を受け、バーンサバイで過ごすことになりました。スタッフや関係者みんなの温かい思いやりに包まれて、この女性の小さな命が少しずつ輝きを取戻し、再び希望が持てるまでになりました。今ではこの母親は、最愛の息子さんにとつての希望にもなっています。この母親と息子の2人にとって、バーンサバイとの間にできたつながりは、今後もずっと続いていくでしよう。バーンサバイが活動を始めてからのこれまでの期間、個人、公的な団体やNGO、感染者グループの間で、バーンサバイのことも少しずつ知られてきました。問題を抱えていたり、必要とするエイズ患者にとって、ある一定の段階の受け入れ先として認められてきましたが、まだ滞在のための家としては、万全でないという問題も残っています。バーンサバイでは、スタッフを始めとした関係者一同、これまでの経験から多くのことを学び、最善を尽くして環境を整えています。エイズにより病んでいるタイ人や、世話をする家族や親戚のいない日本から帰国したタイ人の人生に応えるための家として、今後も発展し、責務を果たしながら前進していけることを信じています。バーンサバイのスタッフ、そしてCCTAIDSMinistryのスタッフの奉仕によって。(CCTAIDSMinistryコーディネーター、バーンサバイ:運営委員長)[訳]川口泰広(バーンサバイ:運営委員)

マリ通信バーンサバイ2002年下半期入寮状況 - 早川文野


バーンサバイの1日は小鳥たちのさえずりで始まります。さまざまな鳥が庭にある果実を食べに来ます。入寮者は朝食後、それぞれのスケジュールや体調に合わせて、1日を過ごします。少しでも体力をつけようと考え、庭を散歩する人。階下のハンモックでゆらゆら揺れながら眠る人。具合が悪くベッドで過ごす人。入寮者は日々体調が変わりますので、バーンサバイでの過ごし方も毎日異なります。
さて2002年11月〜2003年4月までの入寮者は6名で、女性4名、男性1名、子ども1名です。子どもは男児で母親と共に入寮しました。平均年齢29.2歳、全員タイ国内の居住者です。その他、訪問ケース3件、タイ国内のNGOからの相談ケース3件です。

Kさん・Mさん共に女性18歳
KさんとMさんはいとこ同士で、メーホンツンの出身です。山地民のリス族です。2人は30歳代の日本人男性と結婚しました。夫は兄弟同士です。とくにMさんの夫は短気で、気に入らないことがあるとすぐに暴力をふるいました。始は夫がMさんに暴力をふるうのを喜んで見ていたそうです。Kさんの夫も兄ほどではありませんが、同じように暴力をふるいました。たまりかねた2人は、東京に逃げ、HELP'に入寮しました。妻たちが逃げ出した後、夫たちは何度もメーホンソンの実家まで探しにやってきました。Mさんの夫はナイフを持ち歩き、家族を脅しました。そのため2人は危険であり、直接実家にはもどれません。2人はエイズではありませんが、緊急性があるため、バーンサパイに入寮しました。しかしMさんの父はエイズで死亡し、母も感染しています。またKさんも知人に感染者や患者が多数おり、2人はエイズをよく理解しています。2人はバーンサバイで落ち着くと、実家に連絡をし、親がチェンマイに会いに来ました。どちらの親も真剣で娘をどうしても連れ帰るという強い意志が、顔に表れていました。3時間話し合いました。本当に危険ではないのかと尋ねましたら、警察に夫たちのことは通報してあるし、また隣人たちも皆で守ってくれると言います。結局、KさんとMさんは帰ることを決心し、家に戻りました。その後心配で、電話をしましたが、何度かけてもKさんとFさんはいないとしか言われません。タイ人に頼んで電話をしてもらっても同じ返答です。その後本人から連絡があり、隣人も警察も協力してくれているから、大丈夫とのことでした。DV法が施行されましたが、暴力をふるう日本人男性がいかに多いことか。彼女たちは10代の若さから男性の暴力を受け、心身ともに深い傷をおってしまいました。男性を見ると、恐怖心を持つようになっています。癒されるには時間が必要ですし、また信用できる男性もいるということを学ばなければなりません。

Oさん女性36歳
チェンマイ近郊に在住し、チェンマイ市内の病院に2週間に1度通院中。リンパ腺が腫
れ、結核の薬を飲まなくてはならなくなりました。すでに抗HIV薬を服用しているため、2種類の薬を併用することになりました。その結果、体の浮腫み、食欲不振、発熱、心臓機能の低下などの副作用が出てきました。彼女の家は男手しかないため、ケアをする人がいません。そのためバーンサバイに入寮となりました。入寮して6日目の夜から高熱が出て、体の清拭を何度かしましたが、深夜胸が苦しく呼吸困難になりました。彼女が「苦しくてどうしたらよいかわからない」と言います。CAMI21の代表サナン牧師に連絡し、病院へ行きました。そして入院となりました。彼女が入寮した時期は冬で、チェンマイでも気温が15°Cくらいまで下がります。急に寒くなると呼吸困難をおこす可能性があると医師に言われました。1日の入院で帰寮できましたが、その後は体自体が少し楽になり、食欲も徐々に出てきました。彼女はまだ30代です。普通ならば、死など身近に感じる年齢ではありません。しかしAIDSという病気ゆえに、時折彼女の脳裏を死がよぎります。死への恐怖、あきらめ、生への希望などさまざまな感情が交錯し、時折不安定になることがあります。人間は誰でも死と無縁ではありません。しかし普通は死を実感しながら暮らしていません。しかしHIV感染者やAIDS患者はどこかで死を意識しつつ生活せざるを得ないのです。彼女の心が揺れるのは当然です。今の瞬間瞬間を大切に生きながら、死を受容していく、つまり死への恐怖を取り除いていくサポートが必要です。彼女が回復し、退寮の時期について話しましたら、また具合が悪くなってきたと言います。彼女の場合、それ以上バーンサバイにいると、かえって自立力を奪う結果になります。そのため、彼女が自立できる段階に達していることを説明し、納得してもらいました。退寮の時期を決めることは、いつもむずかしいです。退寮前日、彼女はバーンサバイで使用しているポータブルトイレと同じ物を買いたいと言いました。退寮後に行く予定の妹の家は、トイレが外にあり、夜行くのがたいへんだから、ポータブルトイレがあれば楽であると言います。タイの田舎の家は、トイレが外にある場合が多く、体力が弱っていたり体が不自由な人はたいへんです。タイには日本のようなポータブルトイレはなく、日本の物はとても高価であることを話しました。そして、以前最初の入寮者の時に買ったポータブルトイレでいいならば、現在使っていないので持ち帰れると話しました。ただしそれは椅子の下におまるを入れる形で、1~2回で満杯になってしまいます。彼女はそれでもいいと言いましたので、便器を持って退寮しま|した。日本には優れた介護用品がたくさんあります。タイには少ししかありませんし、日本のようによく考えられた製品ではありません。またあったとしても、非常に高く、一般の人々には買えません。良い介護用品があれば、介護を受ける人も、介護をする人もかなり楽になります。しかし、タイのHIV感染者やエイズ患者の現状では、とても使用できる状況にはありません。この点でも、日本と大きな差があります。

Rさん男性38歳
チェンマイから車で3時間の所にあるチェンライ在住。1年前に体調が悪くなり、診察を受け、HIVに感染していることがわかりました。妻は7ヶ月前に覚せい剤の売買をして警察に逮捕されました。現在服役中です。
妻がいなくなってからは、近くに住む姉妹が身の回りの世話をしています。しかし日常生活に問題があるため、彼の近くに住む友人がCAMのサナン牧師に連絡してきました。チェンライでワークショップがあり、その帰りにRさんを訪問しました。ACCESSチエンライというエイズサポートグループのスタッフの方が、車で連れて行ってくれました。彼は、家の入り口に座り、外を眺めていました。暗い雰囲気の人です。話をしている中で、目が見えにくくなってきており、右手も時折震えるとのことです。ウイルスが脳を侵しているのではないかと思われます。体調が悪くなってからは、仕事をしていないので、時折姉妹がお金をくれるだけです。そのため病院にもかかっていません。今後のことを考えますと、一度きちんと検査する必要があります。彼は一見元気そうに見えるため、家族や友人たちから、働かずに家でぶらぶらしていて怠け者であると考えられています。しかしウイルスが脳を侵していますので、動作や返答が緩慢ですし、日によって体調が異なりますからコンスタントに働くことがむずかしいのです。その上、エイズに対する偏見や差別があります。そのため、実際に仕事を見つけることは困難です。本人だけではなく、家族や周辺の人々にもエイズについて正確に理解してもらうことが大切です。彼は姉妹と相談して、バーンサバイに行くことを考えたいと言っていました。その後、彼から入寮したいと連絡がありましたが、家族の反対でとりやめになりました。彼を施設に捨てたと近隣に誤解されるのを恐れ、姉妹たちが入寮に反対したのです。タイ、とくに北タイは家族がケアをする習慣が根強い地域です。そのため、施設入寮に対する抵抗があったのでしよう。しかし、彼は自分の現状と将来について考え、バーンサバイ入寮を決心しました。彼からCAMの事務所に連絡が入ったのですが、途中で切れてしまつたため、急遽チェンライに向い、彼をバーンサバイに連れ帰りました。久しぶりのバスの旅に、車窓を食い入るようにずっと見ていました。

AIDSをよりよく知るためにその1
抗HIV薬
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)の増殖を抑える薬。現在、作用の違いによって、逆転写酵素阻害薬とプロアテーゼ阻害薬の2種類に分けられます。先進国では約20種類の抗HIV薬があり、逆転写酵素阻害薬2剤とプロアテーゼ阻害薬1剤を併用するHAART(HighlyActiveArtiretroviralTherapy)療法が広く行われています。抗HIV薬の服用を続けていると、耐性化がおこりやすくなってきます。それを防止するために、通常数種類を併用します。タイでは現在5種類が(AZT-ddI-d4T-3TC•NVP)生産され、薬価の低下から、安いものでは1ケ月1、200バーツで入手できます。HIV/AIDS感染者やNGOの運動の成果です。しかし、貧しい人々にとってはまだまだ高価であるため、服用できる人は限られています。
抗HIV薬は、一度服用すると一生飲み続けなくてはなりません。途中でやめますと、かえって病気を悪化させてしまいます。また幅吐、下痛、全身の儀怠感、めまいなどの副作用もあり、飲み方も複雑です。抗HIV薬を服用する時は、十分な知識が必要になります。

Pさん女性37歳(訪問ケース)
2003年が始まって間もない時、サナン牧師からエイズ患者をいつしよに訪問しようと誘われました。しかしバーンサバイの年賀状書きがあるため、次回に行くことにし、その
時は同行しませんでした。そして、1週間後彼女を訪ねました。途中でシーツと紙おむつを買いました。Pさんは年老いた祖父母と7歳になる息子と同居しています。家に着きますと、部屋は虫が道い、悪臭が満ちていました。彼女は衰弱し、汚物にまみれ、うなり続けています。サナン牧師はCAMのオフィスに電話をして、マットレスを持ってくるように指示しました。その間に、部屋を掃除し、彼女の体を洗いました。汚物が乾いて体に付着し、なかなかとれません。また背中は床ずれができ、真っ赤です。体をきれいにし、服を着替えて紙おむつをした頃、マットレスがとどきました。新しく寝床を作り、彼女を移しましたら、気持ちのいい顔をしました。私は最初に誘われた時に行かなかったことを悔やみました。年賀状より大切なことがあったのです。たとえ1日でも、人間らしく生きてほしいと考えました。Pさんをバーンサバイでケアしたい旨を伝えましたが、衰弱がひどいため、病院に入院して状態が良くなってから、入寮した方が良いと言われました。CAMが郡立病院と交渉し、翌々日に入院が決まりましたが、入院を待たずに彼女は亡くなりました。Mさんは山地民のアカ族でタイ国籍がありません。そのため、入院もお葬式も、すべて困難でした。彼女の一生は苦難の連続だったのではないかと考えられます。祖父母のケアはケアと呼べるものではなく、ひどいものでした。しかし、あの極貧の中で暮らし、生活に疲弊しているような祖父母を一概に責められません。祖父母の一生も、困難なものであったにちがいありません。Mさんとのただ一度の出会いは、私たちが何を一番大切にしなければならないのかを、再確認させてくれました。この失敗を2度とおかさないために、Pさんのことを心に刻みつけました。


Aさん女性38歳
昨年9月に入寮し、バンコクに戻ったAさんは、その後もボランティアの溝口夏奈さんが訪ねたり、私たちもバンコクに行った時には、必ず訪ねています。ずっと彼女の世話をしてきた娘さんが、1月に家を出てしまい、現在居所がわかりません。全面的に依存していたため、ショックで食事ができなくなり、衰弱がはげしく、3月初めに入院しました。あまり話すこともせず、また自分で食べる気力がなくなり、家族が食べさせるという状態が続きました。2週間入院し、退院。医師の判断で抗HIV薬を服用することが決まり、3月半ばから飲んでいます。この薬については、日本人のスポンサーを探しましたので、彼女には負担がかからず、服用できます。3月末に訪ねました。歩けないため、おむつをしています。現在のところひどい副作用が出ておらず、食欲もあります。とにかく母に甘えて、「メーメー(お母さん、お母さん)」と呼び、母親が作る料理が一番美味しいと言っていました。幼少の頃から、家族関係に問題があったと考えられますので、今母親と親密な時間を過ごすことで新しい親子関係を作ることができるかもしれません。いつも「お金がない」「具合が悪い」「死にたい」ということしか言わない彼女から、「がんばる」と言う言葉が初めて聞かれました。このまま前向きな気持ちを維持してくれることを願っています。家族のケアは良く、パンパース、おねしょシート、パウダー、タオルなどがきちんと籠に入れられ、用意されていました。普通感染者や患者の家ではこのようなケア用品を使用している家は、ほとんどありません。また入浴ができませんので、体の清拭も母親が毎日しているようでした。他の患者から比べると、ケアの状態は良いと言えます。しかし、これから薬の副作用や経済的な問題、また家族関係から派生する問題が出てくることが考えられますので、その都度どうクリアし、サポートしていくか、今後の課題となります。

タイで最初のエイズ患者が報告されてから、20年が過ぎました。この間に、タイ国内では急速にエイズが広がりました。タイ政府はエイズキャンペーンを繰り広げ、エイズ教育も初等教育から行っています。現在は横道い状態で、一応流行に歯止めがかけられています。しかし相変わらず大勢の日本人や欧米人買春観光客がタイに来ているのを見ていますと、決して楽観してはいられません。またHIV感染者やエイズ患者に対する偏見や差別も少なくなったとは言え、まだまだ根深いものがあります。
昨年の12月1日の世界ェイズデーに、ターペー通りを行進しました。その時、この日の主役であるはずのHIV感染者やエイズ患者は、チェンマイ市当局から行進の最後を歩くように言われました。各NGOは抗議しましたが、聞き入れられませんでした。エイズであることをカミングアウトし、自らボランティアとして活動する感染者や患者が増えているにもかかわらず、受け入れられていない現実があります。エイズに対する十分な知識があり、社会的サービスなどが整ったとしても、最終的に越えなくてはならないのは、人間の心なのではないでしょうか。バーンサバイでは感染者や患者の直接的なケアを行うとともに、偏見や差別をなくし、皆が生きやすい社会を創ることを願いつつ、今後も活動を続けていきます。

2002/12/1世界AIDSDAY


[1]HELPは日本キリスト教婦人嫡風会が100周年記念事業として設立した女性のための緊急避難センター。タイやフイリビンの女性を含め、多くの外国人女性を国籍を問わず支援している。
[2]CAM正式名称は「CCTAIDSMinistry」。タイキリスト教団の社会活動部門に属するAIDSサポートグループ。主にHIV感染者やAIDS患者の家庭訪問を行い、カウンセリングなどを行う。(バーンサバイ:ディレクター)

平和は苦悩と共に、喜びは源と共に、愛は苦しみと共に - 青木惠美子


バーンサバイを応援してくださっている皆さまお元気ですか?この原稿を書いている今日は4月30日、朝の5時ですが、28度あります。昼間は40度近くまで上がる夏の真っ盛りです。といっても雨季の前なので、湿気が少なく大阪の夏よりは過ごしやすいです。5月からそろそろ雨季に入り10月までの半年間続きます。6月頃の湿気の多い暑さが、私には一番かないません。

身体ががたがたです
去年の4月末にバンコクよりチェンマイに引っ越してきて、1年が経ちました。この1年間私の身体はガタガタでした。まず、引越しした日に身体中ダニや南京虫にかまれて、産みが治まらなくなりました。ディレクターの早川さんも一緒でしたが、彼女は1週間で産みが治まりました。やはり、年の差(私は今年65歳になります)の所為かと思っていましたが、痛いのは辛抱するしかありませんが、洋いのは播けますから、身体中を播きまくり、傷だらけになりました。去年の3月に1ヶ月だけ「カメリアン」というカトリック系のエイズ患者のためのホスピスでボランティアをさせて頂きました。このときに、若い患者の娘さんがお尻をぼりぼり播くのをよく見かけました。はしたない、と思っていました。ところが、自分も身体中岸くて、特にお尻が岸くて、人前であろうと、所構わず気がつくとお尻をぼりぼり播いています。このとき初めて岸いのが、どれだけ辛抱できないかが分かり、エイズ患者さんたちの洋い辛さが良く理解できました。それにしても、5ヶ月が経っても岸みが治まらず、手の指に出る症状がどう見ても、水虫のようです。水虫はカビの一種ですから、バーンサバイに入寮されている免疫力のない患者さんにカビを移したら、大変です。それで病院に行きました。虫に噛まれたのがきっかけで、全身皮膚疾患になっていました。手は水虫ではありませんでした。先生日く「あなたが患者さんに移す心配より、あなたの身体中の傷からエイズにかかる方が心配です」と言われました。塗り薬を頂いて、時間は掛かりましたが良くなりました。

AIDSをよりよく知るためにその2
日和見感染症
日常生活の中で、私たちの周囲には多くの細菌やウィルスが存在しています。体内にこれらのウイルスが入ってきても、免疫力がある場合は防御できます。しかし免疫力が低下すると、発症してしまいます。こうした感染症を日和見感染症と言います。日和見感染症の主なものは、カリニ肺炎、脳炎、口腔カンジダ症、下堀症、結核症、帯状癒参、リンパ節炎、網膜炎などがあげられます。


この時は皮膚科に行ったのですが、どういう訳か血圧を測られました。上が190ありました。直ぐ内科に行くよう指示され、以後毎日薬を飲んでいます。その頃日本を離れて、10キログラム疲せていました。胃が痛みました。てっきり、癌だと思い込みました。自覚症状が出ているのだから、もう手遅れに違いない、この忙しい時に死ぬわけにはいかない。手術をしなければ2・3年はもつだろう、その間に何が何でも、「バーンサバイ」の基礎を築かなくては応援してくださっている皆さまに申し訳ないと思いました。日本から届けていただいた胃薬品も使い果たし病院に行きました。診察を受けると胃カメラを飲むようにと指示され、覚悟して胃カメラを飲みました。なんとただの胃潰瘍と胃の壁を荒らすピロロ菌でした。抗生物質をはじめ何種類かの薬を暫く飲み続けて、痛みは嘘のように治まりました。馬鹿みたいな話です。
しかし、良い事もありました。この経験を通して患者さんが持っておられる、死に対する思い、しんどい時に、どんなに機嫌が悪くなるかを、良く理解できました。私には貴重な経験です。
もう1つ問題が起こりました。早川さんが会議のため1週間留守していた去年11月乾季の時ですが、週に2回は断水しました。バーンサバイには患者さんと私の2人きりです。比処は古い高床式の木造家屋で、住まいは2階にあります。台所も洋式トイレも2階です。1階に井戸水があるので、生活に必要な水は全てバケツで2階に運びました。その頃から毎朝手が痺れるようになりました。少しパソコンを使っているだけで、肩がパンパンに懲ります。辛くて、感染者の方でマッサージを仕事にしておられる方にマッサージをしていただきました。去年の暮れにバンコクに行く用があり、マッサージ師にマッサージをして頂き判明したのですが、首に故障があるので、すぐ整形外科に行くように、と言われました。レントゲンを撮っていただくと頸椎(けいつい)の5番目と6番目の骨がパカッと口を開いています。交通事故の覚えはありませんから、11月の水汲みしか心当たりが有りません。そのようなわけで、今はむち打ち症の方と同じように首にサポーターをはめています。先生からは決して重いものを持たないように、パソコンを長い時間使わないように、読み書きも出来るだけしないように言われました。そういうわけにもいきませんが、サポーターをしているお陰で、周りの方が労わってくださいます。一番婿しいのは患者さんが労わってくださることです。私自身、血圧は高いし、首にサポーターを歓めているし、すぐ疲れます。思うように動けなくなり、ゆっくりしか動けません。しかしそのお陰でこの常夏の国で無理せず働けるようになりました。ゆっくり、ゆっくり、と生活するのがタイ風なのだなと思います。

今の季節は突然強い風が吹きます。気がついていなかったのですが、庇(ひさし)が白ありに食べられていて、突風で何箇所か飛んでしまいました。今、修理をしていますが、大工さんも来たり来なかったり、ゆっくり、ゆっくりです。わたしはもう雨季が近いので、このままだと雨漏りがすると気が気でありませんが、大家さんに云っても「オンザウエイ」だと英語で返事が返ってきました。何事もゆっくり、ゆっくり、です。

早川さんのお母さんが入院されました
今、早川さんは帰国しています。お母さんが脳血栓で倒れられ、彼女が付き添ってい|ます。このニュースレターの原稿も彼女はお母さんのベッドの側で書きました。4月13日の日曜日早川さんがお母さんに電話をかけたところ、お母さんは手に火傷をしたといわれました。日曜日でしたが、直ぐ病院に連れて行って欲しいと隣家の方に頼みました。とりあえず帰国した方が良いと私も勧めて、彼女は切符を買いました。火傷の方はたいした事は無かったのですが、彼女が家に着いてお母さんと一緒に食事をしている時にお母さんが倒れました。直ぐ病院に連れて行けたので、手当てが早く既にリハビリに入っているとの事です。彼女は電話で「神さまが私を母の側に連れて来てくださった」と言いました。彼女が帰った日には既にRさんが入寮していましたし、その後、女性の患者さんが入ってくることも決まっていました。いつもならいくら勧めても遠慮する彼女が素直に帰国しました。もし、彼女が側にいなければ、1人暮らしのお母さんが、倒れられた時、発見が遅くなり、どんな大事に至ったかもしれません。本当に良かったと神に感謝しました。

Rさんのその後
今号のニュースレターに早川さんが書いているRさんがバーンサバイにやってきた時、ニュースレターを編集してくださっているボランティアの方がチェンマイにいらして、バス停まで迎えに行ってくださいました。Rさんは疲れ果てていました。髪の毛が長く伸び、顔がやせ細り、とても暗い顔をしています。一人では歩けず、皆で支えてやっと二階に上がりました。このニュースレターで原稿を書いてくださっているゴーンさんはカウンセラーでもあります。私のタイ語はまだまだつたないものです。ゴーンさんにお願いして、助けに来て頂きました。ゴーンさんがRさんと良く話し合いました。タイでは政府がHIV感染者とエイズ患者に月500バーツ(1,500円)の支援金を出しています。Rさんはその事を知りませんでした。ゴーンさんの話によると姉妹がたまに200~300バーツを持ってきてくれるらしいのですが、家では塩魚とご飯だけしか食べてなかったと云います。バーンサバイに来て毎日3度の食事を楽しんで食べ、今では5キログラム太りました。Rさんの家には電気は来ていますが、電化製品は何も無く、比処ではテレビやラジオを毎日楽しんでいます。初めのうちは暗い顔をしていましたが、日々元気になってきました。ここで、いろんな情報を得ることができ、診察を受ける見通しもつき、顔が明るくなってきました。・エイズは精神的要素も大きい病気です。
希望をもって前向きになり、しっかりご飯を食べると本当に良くなるのです。2・3日すると下に一人で降りられるようになりました。そして、歩く練習をはじめ、オークカムラン(運動)だと張り切っています。4日目にはゴーンさんが庭の掃除を毎朝してくれるのですか、彼も手伝い始めました。箒が身体を支えるようです。

男児を連れた女性の患者さんが入寮しました
17日からチェンマイ郊外に住んでいる女性の患者さんが13歳の男児と入寮しました。病院がチェンマイ市内にあるので、通院が困難なため、入寮しました。丁度夏休みのため子どもも一緒についてきました。彼女の夫は既にエイズで亡くなっています。幸い子どもは感染していません。2人が入ってきて急に明るく賑やかになりました。いつも笑い声が溢れています。-Rさんはチェンライで一人暮らしでした。ここでの賑やかさがとても婿しそうです。今までは人数の多い時は、階下に大きな机があるのでそこで食べていましたが、今回は二階でテレビを見ながらわいわいがやがや、床にじかに座って、タイスタイルで食事をしました。最近は彼女の足が浮腫んで座り辛くなったため、階下でも二階でも椅子に座って食べています。私も日本では長い間一人暮らしでしたので、久しぶりに家族が沢山出来てとても幸せです。賑やかな娘と静かな息子、そして太陽のように明るい孫に囲まれて楽しくてなりません。この孫は私のタイ語の発音をきちんと訂正してくれます。とても、根気の良い先生で、決して諦めず私が正しく発音するまで、何度も訂正してくれます。今までのどのタイ語の先生より真面目に教えてくれます。
このごろは時々突風が吹きます。たいていはその後大雨が降るのですが、先日もそうでした。孫は私が気づく前に階下に降りて行き、洗濯物を取り入れてくれました。
なかなか器用で、強い風のため半分外れかかっていたバーンサバイの看板を、大工道具をもって修理してくれました。
一番驚かされたのはある日、外から帰って来ると、門の扉が誰も居ないのに、するすると自動的に開いたことでした。叱驚しているとみなが階下に下りていて大声で笑っています。私が狐につままれていると、門を入った横に小屋があって、其処から孫が飛び出してきました。門に紐を通して、細工をし、小屋の中から紐を引っ張っていました。私に客のアポイントの時間を確かめて、小屋で待ち構え、来る人をみな驚かせては、喜んでいます。

Rさんが診察を受けました
娘と孫が入寮した翌日、サナン牧師が車で3人を病院に連れて行ってくださいました。その結果Rさんの目に問題の無いことが分かりました。精神的なものだったのですね。色々検査もして頂き、25日にその結果を聞きに行きました。レントゲンの結果も問題はなく、抗HIV薬を飲むことが決まりました。政府が貧しい患者さんのために医薬品を出していますが、人数に制限があって、なかなか順番が廻ってきません。申請はしたものの、待ってばかりもいられないので、バーンサバイで薬代を出すことにしました。Rさんは見通しがついてとても喜んでいます。しかし何日かして又、何か思い悩んでいるようです。暫く様子を見ていましたが、彼は5月9日と6月30日に診察の予約が既に入っています。ここに入るときバーンサバイには1ヶ月しか居られないと伝えていました。はつと気がついて、6月30日まで比処にいても良いよと伝えますとぱっと顔が明るくなりました。またチェンマイにいる妹さんが訪ねてきて、Rさんに白いスニーカーとショートパンツやTシャツを持ってきてくれました。近くの散髪屋さんにつれて行き、散髪もしました。皆で「ハンサムになったよ」と声をかけると、とてもはにかんでいました。私は内心「長い髪の方が若かったなあ」と思っていました。
Rさんは妹さんにスニーカーを頂いてから、(それまではゾウリしか持っていませんでした)タ方になるとそのスニーカーを履いて、オークカムラン(運動)をします。始めのうちはただ歩く練習だけでしたが、この頃は足を上げたり、身体を曲げたり、色々オカムランの幅が広がってきました。ゆくゆくはバーンサバイにリハビリの道具を置きたいなあと、考えています。

イースター礼拝をしました
孫はクリスチャンです。娘はまだ洗礼は受けていませんが教会に通っています。息子(Rさん)はお隣の方が山岳民族のクリスチャンで、その方から聖書を頂き毎晩読んでいます。その隣人がとても親切な方で彼をいつも助けてくださったそうです(その親切な方は今は何処かに引越しされてしまいました)
娘と孫は「日々の祈り」という小冊子と聖書を持ってきています。ゴーンさんは階下にあるベッドに敷帳を吊り寝ていましたし、彼はクリスチャンでないので、入りませんでしたが、息子と娘と孫、そして私の4人は寝る前に「日々の祈り」に従って礼拝を持ちました。孫がタイ語で祈り、タイ語で聖書も読み、その後私が日本語で祈り、つたないタイ語で少し話します。3人は私のつたないタイ語を良く理解してくれて、目を輝かせて聞いてくれます。そして、ラーティーサウワー(お休みなさい)と言って床につきます。10日間ゴーンさんが助けてくれ、24日からはバンコクより溝口夏奈さんが(創刊号で原稿を書いてくれています)助けに来てくれました。彼女が来てからは寝る前の礼拝が5人になりました。4月20日のイースター(イエス・キリストが復活したことを祝うキリスト教のお祭)ゴーンさんも加わって、5人でイースター礼拝が守れました。孫がタイ語で祈り、聖養式の説明もしてくれて、聖書も読んでくれました。私も短く話しました。「Rさんが来た時は暗い顔をしていたけど、今はいつもにこにこしているね」と言うとRさんは顔を輝かせて、大きくうなずきました。Rさんが1日1日元気になっていく様子を見られるのは仕事冥利に尽きます。この頃は神が自分を愛してくれていると、納得出来たようです。どんな宗教であろうと、また家族とか友人とか誰かが自分をありのまま受け入れてくれ、ありのままで、愛してくれていることが分かると、心に平安が得られ、希望が持てます。全ての問題が解決できなくても、平安な心を持って、希望が持てたら、エイズ患者さんは不思議なほどに良くなります。前向きになって病気と闘う姿勢が何より大切と思いますが、それを得ることが出来ます。

悲しい話がありました
バーンサバイの運営委員をして下さっている川口さんから、「HIVに感染し、夫に逃げられ、赤ちゃんと取り残された女性が入院している。現在の病院を退院しても遠い施設に入るしかないが、本人はチェンマイ在住で、遠くに行きたくないと言っている。現在バーンサバイは満杯のようだが、彼女が退院したら、赤ちやんと一緒に入寮できないか。」と電話がありました。簡易ベッドもあるし、赤ちやんのベッドなら直ぐ何とかできるから、いつでもOKです、と返事しました。ところがその夜亡くなったのです。急に亡くなったことに少し不信なところもあるようです。その方は将来に希望が持てず、暗激たる思いだったに違いありません。もっと早い段階で分かっていたら、「バーンサバイ」で安心して自立できるまで入寮できることを伝えられていたら、と残念でなりません。
「バーンサバイ」のサバイは平安という意味もあります。平安が得られて、病気と戦い自立のための準備をする家として、バーンサバイがあり続けるために、これ以上規模を大きくしたくはありません。大きな施設にすると、家族として、ありのままに自分を現し、お互いが労わりあい、慰めあって、癒されていくと言うことが難しくなり、患者としてしか扱えなくなります。そうはしたくはありません。私は名前を覚えるのが大の苦手ですが、バーンサバイに入寮された人の名前は覚えています。バーンサバイに入った方々の、一人一人が私の家族です。始めに書きましたように、私自身は体がガタガタです。色々欠陥だらけです。バーンサバイに入居する人も、みな問題をたくさん抱えています。悲しみ、辛さ、苦しみ、悩みを、そして喜びを、互いにありのままさらけ出して、希望の内に歩む、家族として「バーンサバイ」があることを願い続けています。(バーンサバイ:スタッフ)

バーンサバイと共に - チュムポン・ジャイノーイ


こんにちは。私の名前は、チュムポン・ジャイノーイといいます。友人たちからは、ゴーンというニックネームで呼ばれています。生まれも育ちもチェンマイです。現在は、ハンディクラフト・ホームというところで働いており、そこでは手工芸関連やいろいろな絵を描く仕事をしています。私自身もバーンサバイの仕事をお手伝いする機会に恵まれた一人です。しかし、なく、バーンサバイのスタッフの方が、何日も他県へ用事で出かけて留守の際に、時々行っているだけです。入寮者のお世話をしたり、話し相手になったり、入寮者が疲れてだるそうにしていると、体のマッサージをしてあげます。クリスマスカードの切手貼りや発送に関するお手伝いや2003年の年賀状の赤いリボン作り(赤いリボンはェイズの象徴です)をお手伝いしたこともあります。スタッフ(文野さんと恵美子さん)のお二人は、毎日バーンサバイで仕事をしており、その疲れを癒すために、最近ではスタッフのマッサージをしに行っています。バーンサバイのスタッフのお二人が、入寮者のケアにあたっていますが、お二人ともエイズという病気に関する知識があり、とても良く理解しています。休養するために訪れた患者さんへのケアは、その人の親戚兄弟と同じような気持ちで、少しの嫌悪感を抱くこともなく、慈悲深く友愛の精神で接しています。最後に、今後もバーンサバイが、HIVウィルスによって問題を抱えている人たちと共に歩んでいくことを願っています。バーンサバイが、家族や社会、友人のもとに戻っていく前の一時的な滞在先として、精神面、健康面で問題を抱えているHIV感染者やェイズ患者の方に利用され、自分を認めることのできない感染者や患者さんが、自分のことをもっと良く理解するための場であることを期待しています。
皆さんの幸運とご健康をお祈りしております。
(バーンサバイ:ボランティアスタッフ)[訳]川口泰広(バーンサバイ運営委員)

AIDSをよりよく知るためにその3
HIV(HumanImmunodeficeincyVirus:ヒト免疫不全ウィルス:)の感染源
感染している人の血液、性液(精液・腔分泌液)、母乳の3つが、主な感染源です。睡液、汗、涙などにもウィルスは含まれていますが、微量であるため問題はありません。握手、軽いキス、風呂の共用、公衆電話の使用、ドアのノブや手すり、電車のつり革、洗濯機、衣類、食器、トイレの共用や岐などからは、感染しません。